2025年11月2日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「公の宣教の締めくくり」 ヨハネ福音書12:27~50 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤玲子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        一粒の麦の話をされたイエスが、一瞬ご自身の死にたじろがれたのか、「この時から救っ 
                         
                        て下さい」と祈られたのは、ゲッセマネの祈りに通じると思われます。しかし直ぐに「私は 
                         
                        この時の為に来たのだ」と、ご自身が世に遣わされた使命を自覚され、「栄光を現し給え」 
                         
                        と祈られました。すると神が「既に現した栄光を再び現そう」と応じられますが(27~28)、 
                         
                        天の声があったことは群衆にも感知されました(雷?天使の声?として)。 
                         
                         
                        「神が栄光を現される」とは、イエスの十字架の死によって世の救いの道が開かれること 
                         
                        であり、同時に世の支配者・サタンが裁かれることでもあります。イエスの復活により罪が 
                         
                        無力とされ、サタンは死の権力を奪われて滅亡に至るのです。 
                         
                         
                        復活のイエスは全ての人に復活の命を与えて、ご自分の民として下さいます。そこには一 
                         
                        粒の麦の話を聴くギリシャ人(異邦人、即ち私たち)も含まれています。ご自分の民とされ 
                         
                        た私たちにイエスは「光の子となるために光を信じ、光に歩め(36)」と諭されました。救 
                         
                        いは歩むこと(信仰的実践)にあるのです、光であるイエスに結ばれる為に。 以上が、イエ 
                         
                        スが公の宣教の締めくくりとして話されたことでした。 
                         
                         
                        ヨハネは福音書前半の要約をイエスが叫ばれたこととして記します(44-50)。イエスは世 
                         
                        を救うために世の光として来た。イエスが来たのは裁くためではないが、イエスの存在は人々 
                         
                        のイエスへの応答によって裁きを呼ぶのである、と。         (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年10月26日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「エルサレム入城」 ヨハネ福音書12:12~26 
                         
                        
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:「永遠の都」 ヨハネの黙示録22:1~8  横山宜和  
                         
                         
                        過越祭が近づいてエルサレムに来られたイエスは、ナツメヤシの枝(永世の象徴)を持つ 
                         
                        人々の歓呼の声で迎えられました。マリアがナルドの香油で「王の葬り」を予表しましたが、 
                         
                        彼らはイエスの「復活」を予表したのです。イエスは子ロバを見つけて乗られますが、それ 
                         
                        は「戦車・軍馬を絶って諸国民に平和を告げる王の到来」の預言(ゼカリヤ9:10)の成就で 
                         
                        した。 
                         
                         
                        イエスはギリシャ人に乞われて、「一粒の麦」の話をされます。― 「自分の命」の維持・ 
                         
                        満足を第一として生きる者はこれを失い、人生は生き詰まる。「自分の命」を憎む者は「永 
                         
                        遠の命=神に与えられる霊的な命」を獲得して、死から復活する恩恵が与えられる。人が 
                         
                        「永遠の命」に至るには、イエスの意思に従わなければならない。イエスの意思は、一粒の 
                         
                        麦となって多くのために死ぬことであるから、イエスに従う者も世の為に命を捨てる者でな 
                         
                        ければならない。十字架の恥辱をイエスと共にするとき、神は我らにイエスと同じく栄光を 
                         
                        与え給う
―、と。 
                         
                         
                        イエスの死はユダヤ人だけでなく、異邦人の中にも多くの実を結ぶべき一粒の麦です。彼 
                         
                        の死後、イエスの福音が新しい革袋に入れられた新しい酒として広く世界に受け入れられま 
                         
                        した。異邦人への使徒であるパウロの出現は、ここでイエスへの面会を求めたギリシャ人の 
                         
                        記事に予見できると言えましょう。イエスは世界万民の救いなのです。「一粒の麦の死」が 
                         
                        ギリシャ人に話された意味は限りなく深いと思います。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年10月19日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「旧約聖書続編の『マナセの祈り』について」 マナセの祈り 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:鎌田良子 
                         
                            
                        マナセの祈りは、旧約聖書続編の中の文書の一つで、全部で15節の短い文章です。紀元 
                         
                        前2世紀頃に書かれたと推測されています。マナセ王は、列王記では悪王として記されてい 
                         
                        ますが、歴代誌には鉤で捕らえられ、青銅の足枷で縛り上げられて連行され苦難の中で悔 
                         
                        い改めたことが記されています。「マナセの祈り」はその祈りの言葉とされています。 
                         
                         
                        冒頭でマナセは主に呼びかけ、父祖の神、天地創造の神、混沌に神のことばと御名によ 
                         
                        って秩序をもたらした神だと語りかけます。続けて、神は峻厳なる義であるのと同時に、 
                         
                        人の災いを悔やまれる(メタノイアする)方であり、約束にもとづく慈愛の神であると述 
                         
                        べられます。マナセは「罪びとの私」にこそメタノイア(悔い改め、赦し)が定められた 
                         
                        と言い、海の砂の数より多い自らの罪を自覚し、鉄の枷の苦しみから、心の膝をかがめて、 
                         
                        主の赦しを願い求めます。メタノイアとは心の向きを変えることです。「マナセの祈り」 
                         
                        では神のメタノイアと人のメタノイアが記されます。 
                         
                         
                        最後に、マナセは神が豊かな慈しみに基づいて、全ての善意を示してくださると確信し、 
                         
                        残りの人生のすべての日々において神を讃美して生きていくことを誓います。メタノイア 
                         
                        した人は、愛のために生きるようになります。これらのことを「マナセの祈り」を通じて 
                         
                        学びました。                      (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2025年10月12日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「ナルドの香油」 ヨハネ福音書12:1-11 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:下田妙子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:横山宜和 黙示録21:9~27「御国が来ますように」 
                         
                         
                        過越祭が近づいてエルサレムに来たイエス一行が定宿していたマルタきょうだいの家での 
                         
                        夕食は、ラザロを甦らせ給うたイエスへの感謝会になったと思われます。その席でマリアが 
                         
                        高価なナルドの香油をイエスに注ぎました。「油注ぎ」はサウル王以来、王の任職でなされ 
                         
                        たこと。マリアはイエスが地上に成る神の国の王となられることを明示したのです。それは 
                         
                        マリアのイエスへの愛と感謝(ラザロのことも)がなしたことでした。 
                         
                         
                        王の任職の油注ぎは頭になされるものですが(マルコ・マタイでも)、マリアはイエスの 
                         
                        足に注ぎました。イエスは過越の食事を始める前に弟子たちの足を洗われて、弟子たちに人 
                         
                        に仕える者であれ、と教えられます(13章)が、マリアはそれを先取りして、イエスの弟子 
                         
                        のあるべき姿を示しました。    
                         
                         
                        弟子の一人ユダは、マリアの行為に敏感に反応します。高価な物を無駄にせず施しを、と 
                         
                        主張してみせますが、彼の自己中心と偽善は彼をサタンの手先にしたのでした。 
                         
                         
                        マリアの油注ぎは、旧約の王のように直ちに王になるというのではなく十字架を指し示す 
                         
                        ものでした。私たちの罪(サタンに捉われていることの表れ)の赦しが「十字架」、神の愛 
                         
                        の中に生かされていることの証拠が「復活」です。復活のイエスが与え給う「永遠の命」を 
                         
                        信じて、み国の完成を望みつつ、人の足を洗う者として明るく毎日を歩みたいと祈ります。 
                         
                                                            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年10月5日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「愛をもって行え」 コリントの信徒への手紙一16章 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門、奏楽:山浦敬子 
                         
                         
                        コリントの信徒への手紙16章は、「エルサレムの信徒のための募金」、「旅行の計画」、 
                         
                        「結びの言葉」の三つの部分に分かれています。当時のエルサレムの教会は、様々な理由 
                         
                        で経済的に困窮している人が多くいました。そのため、パウロは異邦人の教会から献金を 
                         
                        募り、エルサレムの教会へ渡していました。 
                         
                         
                         また、パウロは、コリントの教会へ行く計画を立てていましたが、計画通りには行く 
                         
                        ことが出来ず、予定より1年遅れてコリントへ行くこととなります。
 
                         
                         
                        13、14節がこの手紙の結論で、4つを教えています。 
                         
                         
                        ・目を覚ましていなさい。 ・信仰にしっかりと立ちなさい。 
                         
                         
                        ・雄々しく強くありなさい。・何事も愛をもって行いなさい。 
                         
                         
                        「目を覚ましていなさい。」は、キリストの再臨の日を見逃さないようにとの言葉ととれ 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        「信仰にしっかりと立ちなさい。」とは、キリストへの信仰を日々の生活の土台とするこ 
                         
                        とと考えられます。 
                        「雄々しく強くありなさい。」という言葉は、14章20節の「悪事については幼子となり、 
                         
                        考え方については大人になりなさい。」という言葉を思い起こさせます。 
                         
                         
                        この4つの言葉が、パウロがこの手紙で伝えたかった事ではないかと思います。 
                         
                         
                        
特に、最後の「何事も愛をもって行いなさい。」という言葉は、パウロが 
                         
                        一番伝えたかったことではないでしょうか。     (渕上記) 
                         
                         
                        2025年9月28日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「歴代誌の中のいくつかの祈りについて」 歴代誌上4:9~10、歴代誌下14:10、 
                         
                        同15:1~7、同16:9、同30:18~20、同33:9~13 
                         
                        
                        講話:鎌田厚志、司会:於保さつき 
                         
                         
                        歴代誌は、アダム以来、バビロン捕囚に至るまでの歴史が記されています。今回はそ 
                         
                        の中の、いくつかの祈りやことばに焦点をあてて学びました。 
                         
                         
                        ヤベツの祈りは、神は必ず祈りを聞いてくださり、祝福し、私たちの心の領域を広げ、 
                         
                        悪や災いから守ってくださることを教えてくれます。アサの祈りはどんな苦境でも神が 
                         
                        力を貸してくださり打ち勝てることを、アザルヤのことばは神とつながることの大切さ 
                         
                        を、ハナニのことばは神と心が一つであれば絶大な力が与えられることを、教えてくれ 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        ヒゼキヤについての記述では、律法の規定を守れなくてもその身そのままで神を求め 
                         
                        れば良いことを教えられる一方、恵みに応答することの大切さも教えられます。マナセ 
                         
                        の祈りは、いかに罪を犯しても、悔い改めれば神は赦し、受け入れてくださることを示 
                         
                        しています。 
                        神は恵みと赦しの神であり、人が神に立ち帰り神を求めることを決して無視せず、す 
                         
                        ぐに応答してくださいます。歴代誌は、律法の規定によって救われることは無理である 
                         
                        という旧約の要約を示すのと同時に、神の一方的な恩恵と信仰による救いという新約の 
                         
                        内容を予表し指し示していることを、いくつかの祈りやことばを通じて学びました。 
                         
                                                       (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2025年9月21日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「主イエスの終末についての教え」 ルカによる福音書21:5~36 
                         
                        講話:澤正幸先生(福岡城南教会)、司会:秀村興子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        イエスのエルサレム神殿崩壊の預言(6)を聴いたユダヤ人たちの問は、それがいつ起 
                         
                        こるのか、でした(7)。イエスはエルサレムの崩壊が終わりではなく(9)、より重要 
                         
                        なこととしてイエスの再臨を告げられました。 
                         
                         
                        イエスが再び来られるときには、天と地に「徴(しるし)」が現れる、「そのようなこ 
                         
                        とが起こり始めたら、身を起こして頭を挙げよ(25~28)」、と教えられました。また、 
                         
                        「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない(33)」、即ち、地上のものは過行くが、 
                         
                        その彼方に滅びないものが現れるだろう、とも。 
                         
                         
                        そしてその滅びないものは、既に現れているのです。「過ぎゆかない者(イエス・キリ 
                         
                        スト)」が既にここにおられる、再臨の「人の子」は架空の者ではないのだ、とイエスは 
                         
                        言われます。 
                         
                         
                        イエスは大切なこととして、再臨を迎えるまでの私たちの姿勢を諭されました。「あな 
                         
                        たがたは、人の子の前に立つことが出来るように、いつも目を覚まして祈っていなさい 
                         
                        (36)」、と。実は、イエスはその姿勢のお手本を示して下さいました。最後の晩餐の前 
                         
                        に弟子たちの足を洗われた(ヨハネ13:3~17)ことがそれです。イエスの再臨を待つま 
                         
                        での間の私たちの姿勢を、身をもって教えられたのでした。イエスの十字架によって罪赦 
                         
                        されたことを感謝して生きる私たちも、イエスと隣人に仕える日々を歩む者であらねばな 
                         
                        らないと思います。                        
(秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年9月14日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「ラザロの甦り」 ヨハネ福音書11章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:「千年王国とサタンの滅亡」 ヨハネの黙示録21:1~8  横山宜和 
                         
                         
                        特愛のラザロが重病とのマルタ・マリア姉妹からの緊急情報にも、「この病気は神の 
                         
                        栄光のためである」と言って動かれなかったイエスがラザロの許に着かれたのは、葬ら 
                         
                        れた四日後でした。イエスは神の指示を祈りつつ待っておられたのでしょう。  
                         
                         
                        迎えたマルタにイエスは「ラザロは復活する」と告げ、「私は復活であり、命である。 
                         
                        私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死なない。(25 
                         
                        -26最重要!)」と言われ、マルタは「はい、信じます」と即答しました。 
                         
                         
                        マリアが泣く様子を見られたイエスは憤りを覚えられましたが、イエスの怒りは「死」 
                         
                        に対するものだったのでしょう。「ラザロ、出て来なさい」と叫んでラザロを甦らされ 
                         
                        ました。 
                         
                         
                        「死」は私たちの究極の問題です。神の愛をもって創造された私たちにあってはなら 
                         
                        ない「死」が付着したのは「罪=神への反逆」のなせる業です。イエスの十字架は罪から 
                         
                        私たちを解放するもの、その証拠が「イエスの復活」です。それは、神からの恵みとして 
                         
                        一方的に私たちに与えられているのです。 
                         
                         
                        ラザロの甦りはイエスの復活の「しるし」、即ち神の栄光の顕われです。私たちに求 
                         
                        められていることは、イエスが復活そのものであり、イエスと共にあるとき私たちも復 
                         
                        活の命を戴いていることを信じること。ラザロが甦る前に(見ずして)「信じます」と 
                         
                        言ったマルタに倣う者でありたいと思います。           (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年9月7日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「神の業に励む」 コリントの信徒への手紙一15:35~58 
                         
                        講話:渕上明、司会:白井淳子、奏楽:山浦敬子 
                         
                         
                        コリントの信徒への手紙一15章は復活について詳しく書かれていますが、本日学ぶ 
                         
                        最後の段落では、人がどのような形で復活するのかを述べています。パウロは、植物が 
                         
                        種から発芽して成長する姿を例にとって、神が人それぞれに体を与えられると述べます。 
                         
                        天井の体と地上の体があり、「自然の体で蒔かれ、霊の体に復活する」と語っています。 
                         
                         
                        「最初の人アダムは、生きる者となったが、最後のアダムは命を与える霊となった。」 
                         
                        と述べています。最後のアダムは主イエス・キリストです。 
                         
                         
                        51節で、パウロは「私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、 
                         
                        変えられます。」と述べています。眠りに就くとは死を意味する訳ですが、主イエス・ 
                         
                        キリストを信じる者は朽ちない者に復活し、私たちは変えられると語っています。旧約 
                         
                        聖書の次の言葉が実現するのです。「死は勝利に吞み込まれた。死よ、お前の勝利はど 
                         
                        こにあるのか。死よ、おまえの棘はどこにあるのか。」主イエス・キリストによって、 
                         
                        永遠の命に与れることを強くパウロは訴えています。 
                         
                         
                        最後の58節で、パウロは主の技に励むよう勧めています。この世に労苦があろうとも、 
                         
                        主イエス・キリストの言葉に従って生きることの大切さ、その労苦が必ず報われること 
                         
                        をパウロは語っています。              (渕上記) 
                        
 
                         
                        2025年7月27日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「苦しむ人への良い知らせ-第三イザヤの思想と信仰-」 イザヤ書61:1~4 
                         
                        講話:月本昭男(経堂聖書会)=ZOOM、司会:三苫恵子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        バビロニア捕囚からの解放のおとずれを告げる第二イザヤ(40~55章)に続く第三イザ 
                         
                        ヤ(56~66章)の預言は、ペルシャ王キュロスによるユダヤの民の帰還許可以後の第二神 
                         
                        殿完成時を背景としています。その預言者は「私」とされますが、それが誰なのか、独り 
                         
                        なのか複数の人なのかは不明です。 
                         
                         
                        第三イザヤの思想的特色としては、①ユダヤの民の救いと回復が告げられますが、ダビ 
                         
                        デなどの理想の支配者(メシア)によるのではなく、神による直接的な支配が述べられる 
                         
                        こと。②高き神でありながら自らを低くする神であること。③地上のあらゆる民がヤハウ 
                         
                        ェの神に帰依(諸国民がエルサレムに巡礼)する、即ち世界平和の実現を展望すること、 
                         
                        が挙げられます。 
                         
                         
                        バビロニア捕囚からの帰還民には、異民族との婚姻が問題とされ、律法学者エズラは強 
                         
                        制離婚を命じ、ネヘミヤは異民族との婚姻を禁じました。ところが、第三イザヤは異邦人 
                         
                        も神の民たりうることを告げます。普遍主義的信仰の立場が鮮明です。 
                         
                         
                        第三イザヤ最大の特色は、「新天新地」創造の預言です。新しい天地を創造する神は、 
                         
                        ユダヤ民族主義に結びつくエルサレムに代る「新しいエルサレム」も創造します。普遍主 
                         
                        義がここにも顕れています。「私の民」は異邦の民を含む「ヤハウェの民」だ、と。この 
                         
                        展望から、地上世界から悪の勢力が一掃された後の理想世界がイメージ豊かに描き出され 
                         
                        ています。                         (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年7月20日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「『主の祈り』について」 マタイ6:9~6:13、ルカ11:2~11:4 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                          
                        「主の祈り」は、1、呼びかけ 2、六つの祈り 3、頌栄 の三つの部分に分かれ 
                         
                        ます。「六つの祈り」は、前三つの神に関する祈りと、後三つの人間に関する祈りに分 
                         
                        かれます。 
                         
                         
                        「父よ」(アバ)という呼びかけの中に、福音の全部がこもります。あたたかい父と 
                         
                        子の愛と信頼の関係に、この一言で、私たちは立ち帰ることができます。 
                         
                         
                        前三つの祈りは、神を神とすること、神の包容に気づくこと、神の意志に従い自分の 
                         
                        人生や社会において神の意志を実現することへの祈りと受けとめることができます。 
                         
                         
                        後三つの祈りは、その日その日に物心両面の糧を祈り求め与えられていることに感謝 
                         
                        し、自らの罪の赦しを得て霊的健康を回復し(他人との愛と柔和の関係の回復をはかり)、 
                         
                        悪魔・悪霊からの誘惑を予防するために神に守ってもらうための祈りと言えます。 
                         
                         
                        頌栄は聖書本文にはない後世の付加ですが、「主の祈り」があるところに神の包容と 
                         
                        力と栄光があることをよく表していると思われます。 
                         
                         
                        「主の祈り」の精神を受けとめ、語句にとらわれず自由に祈り、神と共に歩むことを、 
                         
                        塚本虎二の『主の祈りの研究』を主に参照しながら、あらためて学びました。(鎌田記) 
                        
 
                         
                        2025年7月13日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        前講:横山宜和「千年王国とサタンの滅亡」 ヨハネの黙示録20章 
                         
                        
                        生まれながらの盲人の目を開かれたイエスと、それが安息日違反だとするファリサイ派 
                         
                        の人々との論争は決着しません。イエスは「私は良い羊飼いである」と、羊たちとの麗し 
                         
                        い結合関係を言い表わされます。羊のために命を捨てる、と。同時に偽りの羊飼い(盗人、 
                         
                        強盗)についても警告されました。 
                         
                         
                        羊飼いと羊たちが相互に良く知り合っている関係は、父なる神と独り子イエスの関係が 
                         
                        根拠だとイエスは言われます。私たちを熟知しておられるイエスと同じように私たちがイ 
                         
                        エスを知ることが出来るでしょうか?私たちに求められることは、出会って下さっている 
                         
                        復活のイエスを感知する=声を聞き分ける(3)=こと、即ち私たちに備えられている「霊 
                         
                        =Ⅰテサ5:23」の働きにより、イエスの恵みに与る側に所属することです。   
                         
                         
                        ファリサイ派の人々にイエスの教えは「謎」でした。彼らは「自分の名を呼ばれている (3)」 
                         
                        ことに気づきません(否、そもそも聞いていない)。盗人、強盗が自分であることに思い及 
                         
                        ばないのです。イエスに敵対して十字架に付ける側に所属します。問題はどちらの側に所属 
                         
                        するか、それは二者択一なのです。 
                         
                         
                        「盗人、強盗」は福音とこの世の営みとの難しい問題(皇帝に返すもの=マタ22:21)の線引 
                         
                        きに繋がります。人間は栄光を求めて止みません。どこまで神の栄光を求めることに徹するこ 
                         
                        とが出来るか、私たちの祈りの課題と言えましょう。     (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年7月6日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「死者の復活」 コリントの信徒への手紙一15:12~34 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤玲子、奏楽:山浦敬子 
                         
                         
                        15章の1節から11節までは、キリストの死と復活が事実であることをパウロは強く訴 
                         
                        えていました。12節から34節は死者の復活も起こることを説明しています。当時のギリ 
                         
                        シャ社会では、霊魂の不滅を信じる人はいましたが、肉体の復活を信じる人はあまりい 
                         
                        なかったと思われます。キリスト教は、肉体も含めて復活があることを教えています。 
                         
                         
                        キリストが私たちの罪を背負って亡くなられ、その後、肉体も含めて復活され、今も 
                         
                        私たちを見守って下さっていることが何よりも重要なことだからです。 
                         
                         
                        また、13節で、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。」と 
                         
                        パウロは私たちも復活すること出来ることを、この段落の中で語っています。ただ、復 
                         
                        活にも順番があり、最初にキリスト、その後に私たちがキリストに続いて復活すること 
                         
                        が出来るとこの段落の中で述べています。また、22節に「アダムにあってすべての人が 
                         
                        死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。」 
                         
                        とアダムとキリストを対比させています。 
                         
                         
                        24節以下では、キリストの再臨の時のことが語られ、死が無力にされると言っていま 
                         
                        す。また、28節で、パウロは「神がすべてにおいてすべてとなられる」と述べています。 
                         
                         
                        神に絶対的な信頼を置くことの大切さをパウロは述べていると思います。 
                         
                                                (渕上記) 
                         
                         
                        2025年6月29日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「主の祈りを読む」 マタイによる福音書6:7~15 
                         
                        講話:香西信(岡山聖書集会)、司会:於保泰正、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        「主の祈り」としてイエスは「父なる神はあなた方が願う前から、あなた方に必要な 
                         
                        ものを全てご存じなのだから、くどくど祈るな」と教えられました。子供が祈れる短い 
                         
                        ものです。 
                         
                         
                        前半の3つの祈りは、終末に於ける神の救いの完成を祈り求めるものです。最初の 
                         
                        「御名が聖とされるように」との祈りは、神の御名が汚されているこの世の現実(人 
                         
                        間の罪)からの救いを求めるもの、神ご自身のみ業による外ないのです。その一方で 
                         
                        「御国の到来」と「御心が成る」ことを祈ることに、この世での弟子に求められる役 
                         
                        割を教えられます。即ち、「地の塩・世の光」として神の国の現実をこの世において 
                         
                        明らかにすること、イエスによって始められた福音宣教に参加することです。 
                         
                         
                        後半の3つは、「日々の糧」など私たちが生きていくのに欠かすことができない事 
                         
                        柄についての祈りです。私たちの罪(負い目)の赦しを求めるにことには、他者の罪 
                         
                        を赦し合うことが求められています。神との関係は、人との関係と密接に関連してい 
                         
                        るのです(6:14~15にその説明がついています)。 
                         
                         
                        私たちの罪の深さを思うとき、十字架と復活に顕われたイエスの救いの業を感謝せ 
                         
                        ずにおれません。イエスが教えられた「主の祈り」は私たちに神の霊を与えて、悔い 
                         
                        改めに導き給います。2世紀ローマの神学者テルトリアヌスが言った通り、主の祈り 
                         
                        には福音の全体が要約されていると思います。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年6月22日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「生まれつきの盲人の癒し」 ヨハネによる福音書9章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:下田妙子、奏楽:古澤美佳子 
                         
                        
                        前講:横山宜和・ヨハネの黙示録19:12~21「白馬の騎士」 
                         
                         
                        イエスは「因果応報論」に苦しめられていた生まれつきの盲人について、「盲人なの 
                         
                        は誰の罪の故でもない、神の御業が現れるためである」と弟子たちに言い、目を開いて 
                         
                        救い給いました。 
                         
                         
                        ヨハネのこの記事から読み取れるのはイエスの愛です。物乞いしている盲人を放って 
                         
                        おかず「愛なる神から遣わされた使命(4)」として癒されました。その日はイエス殺 
                         
                        害を謀っているファリサイ人にその材料を与える危険な安息日であったことなど問題に 
                         
                        もされずに。また、目に塗られた泥をシロアムの池で洗い落とさせて見えるようにされ 
                         
                        たことにも、救いはイエスへの従順によることを教えられた愛の配慮が感じられます。 
                         
                         
                        この奇跡は、盲人の隣人たちをはじめ、ファリサイ人や両親も加わっての「イエスは 
                         
                        何者か?」を巡る論争を引き起こします。繰り返し尋問される盲人は、「イエスに救わ 
                         
                        れたのは私です、彼は預言者です」と、堂々と証言して破門されてしまいます。 
                         
                         
                        重要なのは、盲人がイエスの名を知って(いつ知ったのか記さないヨハネは、神の選 
                         
                        びによると言いたいのでしょう)、出会いを切望したこと(36)です。彼を探し出され 
                         
                        たイエスに出会うと、即座に「信じます」と言って、ひれ伏しました。 
                         
                         
                        「神のみ業が現れる」とは、医学的に癒されることではありません。闇にいた者が光 
                         
                        であるイエスの愛を信じ、神に選ばれた恵みへの感謝に溢れる者として戴くことなので 
                         
                        す。                               (秀村記) 
                         
                         
                        2025年6月15日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「『ぶどう園の労働者』のたとえ」 マタイによる福音書20:1~16 
                         
                        講話:大園明子、小林典子、白井淳子、長澤玲子、司会:於保泰正、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        19章27節のペトロの質問に対してイエスはこの「ぶどう園の労働者」のたとえ、を 
                         
                        話されました。天の国はある家の主人に似ている。主人はぶどう園で働く労働者を早 
                         
                        朝6時から夕方5時まで5回にわたって雇い入れた。最初の労働者には「1日につき1デ 
                         
                        ナリオン」を支払うとの約束であったが、後からの人には「それなりの賃金を払うか 
                         
                        ら」といわれた。  
                         
                         
                        そして夕方、賃金の支払いは最後に雇い入れた人たちから順に、1デナリオンずつ 
                         
                        支払われました。最初に雇われた人たちが不公平だと不満を言っても「私はこの最後 
                         
                        の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ」と主人は答えられた。このよう 
                         
                        な事情が天国の真理を示しているとイエス様は言われます。そして、19章30節と呼応 
                         
                        するように「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と結ば 
                         
                        れました。この世での前後や上下と、天国でのそれらとは何ら相関関係はなく、神様 
                         
                        の恩恵は、神様の好意ある意志によってのみ与えられるもので(出エ33:19、ローマ 
                         
                        9:15)、最初の者も最後の者も全く同じであると。最初からイエスの弟子として従っ 
                         
                        ていたペトロへの警告とも思われます。信仰に入るとは神様のぶどう園で働くように 
                         
                        召された、とも言えると思います。この最後の者にもいただけた恩恵の大きさを思う 
                         
                        とき、感謝の思いで一杯になります。              (大園記) 
                        
 
                         
                        2025年6月8日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「子羊の婚礼の日」 ヨハネ福音書8:21~59「アブラハム問答」 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:山口洋子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:黙示録19:1~11「子羊の婚礼の日」 横山宜和 
                         
                         
                        仮庵祭の最終日にイエスはユダヤ人と激しく論争され、上(天)に属するイエスと下(こ 
                         
                        の世)に属するユダヤ人との間にある埋めようのない溝を明らかにされます。「罪の奴隷」 
                         
                        であるあなた方には「自由」が無い、「真理があなた方を自由にする」(神のみがお持ちの 
                         
                        自由を戴けない)、と教えられました。 
                         
                         
                        ユダヤ人は、アブラハムを父祖とする神の子だと自信満々、誰の奴隷にもなったことは無 
                         
                        いと豪語します。「罪の奴隷」は眼中に無いのです。イエスは、アブラハムの子孫ならイエ 
                         
                        スを愛する筈、ご自身への殺意を持つ彼らはアブラハムとは血で繋がっているに過ぎず、罪 
                         
                        の故に死ぬと言われます。イエスこそ神の子で、神から派遣されて父の言葉を伝えている、 
                         
                        その言葉を守るなら死ぬことなく「永遠の命」を戴ける、と諭されました。 
                         
                         
                        ユダヤ人が聴く耳を持たないのは悪魔の子だから、とのイエスの言葉に、アブラハムも預 
                         
                        言者も死んだのに「永遠の命」を与えるなどと言うお前こそ悪霊憑きだと彼らは応じます。 
                         
                         
                        アブラハム問答の最後にイエスは、ご自分こそがアブラハムに与えられた約束の成就であ 
                         
                        ることを告げて、イスラエルの希望を確証されましたが、ユダヤ人とは決裂に終わりました。 
                         
                         
                        仮庵祭の最後に人々は篝火の光を喜んだのでした。しかし真に私たちに喜びをもたらすの 
                         
                        は、この論争の初めに宣言された「世の光イエス!」による罪からの救いなのです。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年6月1日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「イエスの復活」 コリントの信徒への手紙一15:1~11 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子、奏楽:山浦敬子 
                         
                         
                        15章は「キリストの復活」、「死者の復活」、「復活の体」の三つの部分からなりま 
                         
                        すが、最初の「キリストの復活」では、復活したキリストについて証言できる人が多数 
                         
                        いることをパウロは強く語っています。キリストの復活が事実であることを、事例を挙 
                         
                        げて説明し、キリストの復活の重要性を訴えています。 
                         
                         
                        3~4節で「キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、 
                         
                        葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、そ 
                         
                        れから十二人に現れたこと」このことを信じることの大切さを訴えています。 
                         
                         
                        イザヤ書53章でキリストの出現が預言されていますが、そのことが実現したことをパ 
                         
                        ウロは述べています。 
                         
                         
                        復活のイエスは、最初にペトロの許に来られました。死に向かわれるイエスにどこまで 
                         
                        もついて行くと言った後、イエスの弟子ではないかと問われ、三度もイエスの弟子である 
                         
                        ことを否定した弱い人間の許に来られたことには意味があり、そうした弱い人を救われる 
                         
                        存在が、キリストであることを示しています。 
                         
                         
                        また、パウロは自らを「使徒たちの中では最も小さな者」と語っており、多くの働きを 
                         
                        行ったことに対しても、「働いたのは、私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」と 
                         
                        謙遜した態度で述べています。 
                         
                         
                        
キリストは私たちの罪を背負って亡くなり、復活し今も私たちを見守って 
                         
                        おられることは何よりの喜びです。 (渕上記)  
                         
                        2025年5月25日(日) (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「救済の風景」 創世記3:8~9 
                         
                        講話:小林幸吉(今井館教友会監事・文芸評論家)、司会:鎌田良子 
                         
                         
                        私たちはこの戦争の世紀の終末的困難の中を生きています。罪と悪に染まり、懐疑の 
                         
                        森を彷徨う人は、いかにして生命の森に至るのでしょうか。人はどこから来てどこへ行 
                         
                        くのか。私たちの道は罪の道に繋がっていると思いますが、内村鑑三は「罪の道」は「救 
                         
                        済の道」であると言います。 
                         
                         
                        「罪人の首(かしら)である私を救い得る愛は、どんな罪人をも救い得てなお余りがあ 
                         
                        る。私は私を救い給うた神の愛をもってすれば、救い得ない罪人を思い描くことは出来ない。 
                         
                        神が私に先んじて私を救い給うたのは、私をして万民に神の救済の約束を伝えさせる為だと 
                         
                        しか考えられない(現代文にしました)」と述べて、万民救済の希望を語っています。この 
                         
                        生死、救済の問題をプロテスタントの作家・椎名麟三は40歳でもった復活信仰により、死と 
                         
                        悪魔から自由にされたと言います。また、ドストエフスキーも「悪霊」などで愛と更生を物 
                         
                        語りました。 
                         
                         
                        神の命に背いたアダムとエバは身を隠しますが、神は「あなたはどこにいるのか」と呼び 
                         
                        かけられました(創世記3:8~9)。神は罪人を愛し給うお方であることが顕れています。 
                         
                        エデンの園には四つの川の源流である一つの川が流れていますが、その川は旧約から新約を経 
                         
                        て、黙示録に記される新天新地を流れる「いのちの水の川」(黙示22:1-5)に至るのです。晩 
                         
                        年の内村は再臨信仰を重んじましたが、再び来たり給うイエスによって万人に与えられる「命 
                         
                        の水」こそ私たちの希望です。                  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年5月18日(日) (ZOOM同時配信) 
                         
                        「世の光イエス」 ヨハネによる福音書8:1~20 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:於保さつき 
                         
                        前講:黙示録18:14~24「はかなき大国の滅亡」 横山宜和 
                         
                        
                        早朝イエスの許に姦淫の現場で捕まった女が連行されます。宗教指導者達がイエスか 
                         
                        ら律法違反の言質を取ろうと罠を仕掛けたのです。「罪の無い者が石を投げよ」と言わ 
                         
                        れたイエスは地面に何ごとかを書き続け、神が宗教指導者達の良心を呼び覚まされるこ 
                         
                        とを信じて、裁きを神に委ねられたのでした。 
                         
                         
                        イエスは「私は世の光である」と説かれました。仮庵祭での敵対者達の反論に応じる 
                         
                        イエスは受け身でしたが(7章)、祭の最終日は論争の主導権を握り、ご自身の主張を 
                         
                        大胆率直に表明されます(8章)。「世の光イエス」は世に来て世を照らす命の光、即 
                         
                        ち生と死を分かつ存在であり、罪と死の「闇」から生命へと導きだす「光」なのです。 
                         
                        イエスは神(父)と共におられ、裁きをも全て父に委ねている、と述べられます(14~ 
                         
                        18)。「私は誰をも裁かない(15)」と言われるイエスの父への従順、謙遜が、無言の 
                         
                        内に姦淫の女を護られたイエスの姿に顕れています。 
                         
                         
                        
世の「闇」は人間の罪が生み出したものであり、そこから私たちを救い出 
                         
                        すために神によって派遣されたイエス・キリストによって暴かれます。神 
                         
                        は闇を歩む私たちを救うためにイエスの十字架と復活という驚くべき道を 
                         
                        開かれました。イエスは「世の光」として私たちを闇から命へと導き、 
                         
                        「光に歩め」と招いておられることが、「行きなさい。もう罪を犯しては 
                         
                        いけない(11)」との姦淫の女への言葉に顕れています。 (秀村記) 
                         
                         
                        2025年5月11日(日) (ZOOM同時配信) 
                         
                        「預言と秩序」 コリントの信徒への手紙 一14章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤澄子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        コリントの信徒への手紙 一14章は、二つの部分に分かれています。前半は異言と 
                         
                        預言について語っています。異言は、そのままでは理解できず、解き明かす人が必 
                         
                        要となります。一方、預言は理性によって語るもので、そのままで理解されるものと 
                         
                        なります。そのため、預言の優位性をパウロは述べています。しかし、異言が有用で 
                         
                        あることも語っています。 
                         
                         
                        当時の教会は、現在の教会とは違ってもっと自由なものでした。現在の教会はプロ 
                         
                        グラムが定められており、それに従って礼拝が進められていきますが、当時の教会は 
                         
                        集会に集まった者が、自由に異言や預言を行うことが出来ました。そうした中で、教 
                         
                        会の中で混乱があったものと思われます。その混乱についての質問に答えたのがこの 
                         
                        14章であろうと思われます。 
                         
                         
                        後半パウロは集会での秩序について語っています。集会は「ほめ歌を歌い、教えを 
                         
                        説き、啓示を語り、異言を語り、それを解き明かしますが、すべては教会を造り上げ 
                         
                        るためにすべきです」、と。また、34節では、「女は、教会では黙っていなさい。」 
                         
                        とありますが、これは11章5節の記述とは矛盾するように思われます。当時の習慣と 
                         
                        して女性が集会の中で質問することをよしとしなかったのであろうと思われます。 
                         
                         
                        何れにせよ、神の愛によって集会が成立するものと思います。 
                         
                         
                        そのことに思いをはせながら、改めてキリストの死と復活が一方的な神の愛によるもの 
                         
                        であることを感じます。                    (渕上記) 
                        
 
                         
                        2025年5月4日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「仮庵祭での論争」 ヨハネによる福音書7章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:白井淳子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        イエスは兄弟達との仮庵祭への同行を「私の時は来ていない」と拒まれました。 
                         
                        それは悪魔の誘惑(都の高所から飛び降りてみよ)と同じく人間からの栄誉を得よ 
                         
                        うというもの。今や上京は十字架の時と決意されているイエスは、その時を定めら 
                         
                        れる神への従順を貫かれます。独り密かに神殿に向かわれました。 
                         
                         
                        群衆は仮庵祭半ばに登場されたイエスの教えに驚きます。「傍観者」である彼ら 
                         
                        のイエスに対する評判は分裂し、信仰には至りません。そして彼らは、宗教指導者 
                         
                        が発する悪魔のメッセージ(自分の栄誉を求める)に追従することになります。 
                         
                        (今日全世界を覆う傍観者の群れはどこへ向かうのでしょうか?) 
                         
                         
                        その暗雲低迷の中にあって、独り光を浴びて立ち給うたのはイエス。大声で自分が 
                         
                        神から遣わされた者であることと、渇く者はイエスに来て、「生ける水」を飲むべき、 
                         
                        と叫ばれました。 
                         
                         
                        
祭最後の大祭の日の「渇く者は私の所に来て飲め。私を信じる者は、 
                         
                        その腹から清水が川となって流れ出るであろう」とのイエスの宣言は、 
                         
                        五千人の供食で示された「命のパン」に続くものであり、イエスを信 
                         
                        じる者に(終末時だけでなく今日も)与えられる「永遠の命」を指し 
                         
                        示しています。更にイエスは、信じる者に湧き出る「生ける水」によ 
                         
                        って、彼は周囲の人をも潤して「祝福の基」になる、と説かれました。 
                         
                        イエスは命の水を与え得る唯一の人であり、今日も復活のイエス(聖 
                         
                        霊)が私たちに「生ける水」を飲ませ給うているのです。(秀村記)  
                         
                         
                        2025年4月27日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「命のパン」 ヨハネによる福音書6章 
                         
                        
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:横山宜和 「人のいのち」 黙示録18:1-13 
                         
                         
                        「五千人の供食」のテーマは、共観福音書では神の国の到来(困窮に苦しむ民に対 
                         
                        する救い)ですが、ヨハネ福音書では3章から採り上げている「永遠の命」です。群衆 
                         
                        に与えられるパンは、全ての人に与えようとされるイエスの命の象徴なのです。 
                         
                         
                        群衆の要求は、モーセによって荒野で恵まれたマナと同様の日毎のパンでした。王 
                         
                        にされかねないと身を隠されたイエスを探す群衆はただ満腹したいだけ。イエスは 
                         
                        「朽ちる食べ物」でなく「飢えることの無い命のパン」を求めよ、と諭され、「私が 
                         
                        『命のパン』である(35)」と明言されました。 
                         
                         
                        イエスは十字架上に死なれましたが復活され、死に勝利されます。そこで獲得され 
                         
                        た命は「復活の命」であり、永遠に生き続けられる神がお持ちの命、即ち「永遠の命」 
                         
                        です。神の子が地上への派遣前からお持ちであった「神の命」を私たちに捧げられ、 
                         
                        且つ回復されたのでした。 
                         
                         
                        愛である神の御心は、全ての人を復活させ、永遠の命を与えることである、 
                         
                        とイエスは教えられます(40)。私たちはどうすればそれを戴けるのか? 
                         
                         答えは、イエスが「アーメン、アーメン、私は言う」と繰り返し教えら 
                         
                        れたこと、即ち「命のパン」を与えるというイエスの約束を「信じること 
                         
                        (47)」なのです。「永遠の命」は私たちの頭で「分かる」ことではなく、 
                         
                        「信じる」こと。信じ得る「根拠」が五千人の供食なのです。(秀村記)  
                         
                         
                        2025年4月20日(日)イ―スター集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        1年半ぶりに横川知親先生(日比聖書教会)をお迎えしてイースター集会をもちま 
                         
                        した。初めて幸子夫人とご長男・愛作兄も迎えて、集会後にはランチをご一緒しました。 
                         
                         
                        聖書の学びは「主は甦られた」の題で、マタイ28:1~6と、ラザロの復活でイエス 
                         
                        が告げられた「信じる者は神の栄光を見る(ヨハネ11:40)」を学びました。 
                         
                        お話の要旨は次の通り。 
                         
                         
                        フィリピン伝道は45年目になりましたが、特に日本人には信じることが出来ない「復 
                         
                        活」の事実に何度か出会いました。私が教会(中津扇状教会=母教会)に行き始めた頃、 
                         
                        信者の婦人が出産した娘が亡くなったと大泣きしていました。ところが、不思議にもそ 
                         
                        の娘さんは生き返ったのです。21歳の私には鮮烈な復活の経験でした。その一家はキリ 
                         
                        スト者になりました。また、家内(幸子夫人)も沖縄で直腸癌のため入院手術した折に 
                         
                        死んだことがあるのです。医師が死亡診断書をくれたのですが、甦りました。タンザニ 
                         
                        アの教会でガジマ牧師が「甦った者は出てこい」と言ったら500人もの人が出てきて、 
                         
                        驚きました。死んだ少女が歩き出したりも。20万人の教会に成長しています。 
                         
                         
                        大切なのは精神的な復活です。先日は静岡の教会を訪問して、軍人として行ったフィリ 
                         
                        ピンで悪の限りを尽くして、戦後帰国してストレス障害に苦しみましたが、聖書を読んで 
                         
                        キリストの罪の赦しを受けたという老人に会いました。 
                         
                         
                        フィリピンに派遣される時に、自分は「良いサマリア人」になる積りで出かけましたが、 
                         
                        それはフィリピンの人々でした。彼らに助けられて今日の私たちがあります。 
                         
                        感謝です。                            (秀村記)  
                        
 
                         
                        2025年4月13日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「二人の病人の癒し」ヨハネ福音書4:43~5:47 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤玲子、奏楽:山浦敬子 
                         
                         
                        神は、見えないが故に私たちが信じられない神を「見える化」して下さいました。 
                         
                        それがイエス・キリスト。数々の業や教えでご自身が神と一体であることを顕わさ 
                         
                        れます。瀕死の役人の息子を遠隔治療されてその家族を信仰に導き、べトサダに38 
                         
                        年横たわっていた病人を癒して「永遠の命」に招かれました。 
                         
                         
                        しかし、べトサダでの治癒が安息日であった上に、「父が働いておられるのだか 
                         
                        ら安息日に働くのは当然だ」と言われるイエスは神を冒涜した、とユダヤ人宗教指 
                         
                        導者たちはイエスに敵対、殺意を抱くに至ります。彼らとイエスとの問答をヨハネ 
                         
                        はイエスの長い講話として纏めました。講話の内容は二つです。 
                         
                         
                        第一に父(神)と子(イエス)の関係について。父のなさることは子に示され、 
                         
                        子もその通りにすると言われます。父が死者を復活させて「命」を与えるように、 
                         
                        子も死の世界にいる者を命の世界に「生きる」ように変えられる、と。それは「裁 
                         
                        き」についても同様で、人に「永遠の命」と「滅亡」のどちらを与えるかは、父か 
                         
                        ら子に委ねられている、とされます。しかも「永遠の命」は終わりの日を待つまで 
                         
                        も無く、この世において、今与えられる(それは復活のイエスがお持ちの命)、と 
                         
                        の言葉には驚きます。第二には、イエスは信じるに足るお方であることの「証人」 
                         
                        として、洗礼者ヨハネやモーセも挙げられますが、神ご自身であり聖書である、と 
                         
                        言われたのでした。  
                         
                         
                        愛がこの講話の基盤であることを読み取りたいと思います。 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年4月6日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「愛の賛歌」 コリントの信徒への手紙 一13章 
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        13章は愛の賛歌と呼ばれたり愛の章と呼ばれたりしている大変有名な章ですが、 
                         
                        愛について特別に書かれており、元々はこの手紙の中ではなく別の文書をここに 
                         
                        入れたのではないかとの解釈もあります。12章と14章が、霊の賜物について書か 
                         
                        れており、13章はその中にあって愛に特化して書かれているからです。この章で 
                         
                        パウロは愛について熱く語っています。 
                         
                         
                        ギリシア語でアガぺーと言われる愛ですが、アガぺーは神から与えられる無償 
                         
                        の愛のことを指しています。肉感的な愛であるエロスとは違ったものですが、パ 
                         
                        ウロの言う愛は、このアガぺーとも違っているのではないかとの解釈もあります。 
                         
                        1~7の「愛」という言葉を「イエス・キリスト」に置き換えると「神から与え 
                         
                        られる無償の愛」以上のものが感じられます。 
                         
                         
                        8節では預言や知識は廃れても愛は決して滅びないと述べています。カール・ 
                         
                        バルトは、キリストの出現により永遠が始まったと述べていますが、キリスト 
                         
                        の愛は永遠に続くのです。 
                         
                         
                        12節では、当時の青銅で出来た鏡で見るようにぼんやりとした姿しか見えず、 
                         
                        神との対話は不十分ですが、キリストの再臨の日には顔と顔を合わせて見ること 
                         
                        になると述べています。 
                         
                         
                        最後に、信仰と希望と愛の三つをいつまでも残るものとし、最も大なるものを 
                         
                        愛としています。ここでいう「愛」は、無償の愛以上のものであり、主イエスを 
                         
                        自らの身体の中に取り入れることによって得られる「愛」ではないかと思います。 
                         
                                                     (渕上記) 
                        
 
                         
                        2025年3月30日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「ニコデモとサマリアの女」 ヨハネによる福音書3:1~21、4:1~42 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:下田妙子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:横山宜和 「子羊の勝利」ヨハネの黙示録12:10~18 
                         
                         
                        ユダヤ人の長老で最高法院議員であるニコデモがイエスを訪ねて来ます。彼はイエ 
                         
                        スを「神の許から来た教師」と呼び、奇跡をなさるのは神が共におられるからだ、と 
                         
                        言います。しかし、それは人々の前での証言ではなく、密かにイエスを訪ねての夜の 
                         
                        言葉でした。イエスは「人は新たに(=上から)生まれなければ神の国を見ることは 
                         
                        出来ない」と言われます。ニコデモは「新たに」を「再び」と解して戸惑うだけ、イ 
                         
                        エスとの会話でこの世のことしか考えていないことが暴露されました。 
                         
                         
                        井戸端で休憩中のイエスがサマリアの女に水を所望されたことを端緒に、女が「生 
                         
                        ける水=永遠の命」をイエスに求めます。イエスに心を開き、イエスとの会話に前向 
                         
                        きな彼女は、驚きと抵抗をもってイエスに接しただけのニコデモとは対照的です。全 
                         
                        てを見通されるイエスに「夫を呼びなさい」と話題を変えられ、自分のあるがままを 
                         
                        肯定して下さっていることにイエスの愛を見出した彼女は、イエスがメシアであるこ 
                         
                        とを信じます。彼女の証言はサマリアの人々を信仰に導きました。 
                         
                         
                        ニコデモは自分に自信があり(自分が神)、イエスの愛を感知することなく闇に消 
                         
                        えました。律法の定め(レビラート婚)に従い何人もの夫を失って苦しんでいたサマ 
                         
                        リアの女に寄り添われたイエスの愛を真正面から受け止めた彼女は、如何にしてイエ 
                         
                        スに出会うかを私たちに教えてくれます。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年3月23日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「受難節の黙想」 マタイによる福音書25:31~46 
                         
                        講話:高橋三郎先生(2006.4.30 録音)司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子、山浦敬子 
                         
                        
                        今日の箇所は最後の審判についてのイエスの説話ですが、神が困窮者を救い給う憐れ 
                         
                        みの神であることが記されています。聖書は神の支配の歴史を示しますが、それはこの 
                         
                        世に権力を振るう者から神が救い出されることの積み重ねなのです。 
                         
                         
                        始まりはエジプト王の抑圧からの救出ですが、モーセに十戒を与えられたことは憐れ 
                         
                        みの神の支配の宣言でした。自由を、また人権を擁護されたのがその内容です。ところ 
                         
                        がイスラエルの民は「王」を求め、エジプト時代に戻ることを選びました。そして神殿 
                         
                        が王の権威を支えるという機能を持つに至り、憐れみの支配を排除したのでした。それと 
                         
                        闘ったのが預言者達です。 
                         
                         
                        イエスは、世の王や神殿に抑圧される困窮者を「深く哀れまれる」ご生涯を送られま 
                         
                        した。「決然と」エルサレムに向かわれますが、それは死を覚悟した闘いが不可避であ 
                         
                        ったからです。大祭司以下のユダヤ教指導者のみならず群衆までもがイエス殺害に狂奔 
                         
                        したのは、私たちの罪の顕われに外なりません。イエスを十字架に追い詰めたのは私たち。 
                         
                        大祭司以下の姿を取ってイエスに襲いかかったのです。決して神が私たちの身代わりに 
                         
                        イエスを断罪された(刑罰代受説)のではでありません。 
                         
                         
                        罪の処分は人間の論理では捉えきれません。神の論理は憐れみです。イエスの復活は 
                         
                        神の憐れみの勝利を示しており、私たちには最終的な神の救い(再臨)が約束されてい 
                         
                        ます。                          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年3月16日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「イエスの栄光」 ヨハネによる福音書2章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:山口洋子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        感話:横山宜和 = 黙示録17:1~9「大国の崩壊」 
                         
                             
                        カナの婚宴でイエスは、古い律法遵守のための道具(水がめ)を用いて新しい酒によ 
                         
                        る喜びを与えられました。それは決して石をパンにされた(悪魔の誘惑)のでないこと 
                         
                        は、母マリアの訴えを拒絶されたことに示されています。困窮を助け、恵みを与え給う 
                         
                        「神の子羊」の栄光なのです。その栄光は、原始の初めから今日までイエスの居られる 
                         
                        所に不断に顕わされます。 
                         
                         
                        ヨハネはイエスの「神殿粛清」をここに続けて、彼が宮を清める権威をお持ちである 
                         
                        「しるし」は、神殿を三日で建て直すことに顕れる、との彼の言葉を記します。それが 
                         
                        「十字架と復活」を指すとは誰にも分かりませんでした。地上の活動で顕わし給うイエ 
                         
                        スの栄光の、究極の栄光が十字架と復活なのです。 
                         
                         
                        ユダヤ人たちはイエスが神の子であることの「しるし」を求めましたが、それはヨハ 
                         
                        ネ共同体(読者)の姿であり、私たちの姿です。復活のイエスが私たちの眼前に出会っ 
                         
                        て下さっています(聖書を読むとはそういうこと!)イエスを知ることによって神を知 
                         
                        ることが出来るのに、「しるし=自分にご利益になること」を求めて止まない私たち。 
                         
                        十字架を仰いで、そこに私たちの罪を見出すか否かが決定的な問題です。その罪を神が 
                         
                        赦し給うたことを、復活のイエスが身をもって示されたのです。 
                         
                         
                        私たちにはイエスの栄光(十字架と復活)を仰ぎ、神の義と愛を証する者として生き 
                         
                        ることが求められています。                   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年3月9日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「イェスは 道、真理、命」 ヨハネによる福音書14章1~14 
                         
                        講話:三苫恵子、宮崎禎子、赤塚久仁子、鎌田良子、秀村興子 
                         
                        司会:村上思門、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        14章でイエスは弟子たちの落胆・恐怖を和らげ、真の希望を持たせるために、神の道 
                         
                        ・神の国について視野を広げようとなさっていると思います。「どこへ行かれるのです 
                         
                        か」と問う弟子たちに、「神を信じ、私を信じなさい」と言われます。また「あなた方 
                         
                        のために場所を用意しに行く、場所を用意したら、戻ってきて、あなた方を迎える」つ 
                         
                        まり、イエスは死んでこの世からいなくなるけれど、復活して共にいてくださるという 
                         
                        ことです。 
                         
                         
                        そして、「私は道であり、真理であり、命である。」と言われました。弟子たちが分 
                         
                        からないと正直に言うことで、また新たな重大な神の国の真理が導き出されたのが分か 
                         
                        ります。ここではイエスが「真理」そのものであることが新しい。弟子たちに、必死で 
                         
                        神の国の福音が自分の十字架の死と直結しているのだという事を、理解させようとして 
                         
                        おられるイエスの尊い姿、言葉を信じられないなら業を思い出して信じなさいとまで言 
                         
                        われています。 
                         
                         
                        私たちも、単純に素直にイエス・キリストを信じ従う者にされたい。イエス様をどう 
                         
                        とらえているかが問われる聖書の箇所でした。常にイエス様が共にいて下さいますこと 
                         
                        を信じ、感謝して、み心を求めて歩みたいと思わされました。    (三苫記) 
                        
 
                         
                        2025年3月2日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「霊の働き」 コリントの信徒への手紙 一12章 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        コリントの信徒への手紙一第12章は、二つの部分に分かれています。前半は聖霊の 
                         
                        働きについて書かれており、後半は信者たちをキリストの体に例え、一人一人がキリス 
                         
                        トの体の一部分であるとの趣旨が書かれています。 
                         
                         
                        3節で、「聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできません。」 
                         
                        とパウロは述べています。聖霊によらなければ真の信仰に至らないと述べているととも 
                         
                        に、4節から7節にかけては、三位一体について語っているように思われます。 
                         
                         
                        後半では、23節で「体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見出します。」 
                         
                        と述べ、私たち一人一人をキリストの体の一部とみなし、その部分部分には優劣はな 
                         
                        いと語っています。また、26節では「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦 
                         
                        しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」とキリスト者の 
                         
                        一体性を述べています。28節以下で、使徒、預言者、教師など様々な人々がいるこ 
                         
                        とを述べた後、最後の31節でパウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を熱心に 
                         
                        求めなさい。」と語っています。もっと大きな賜物とは何だろうかと思わされますが、 
                         
                        この言葉は第14章の初めの言葉「愛を求めなさい。」に繋がって行くのではないで 
                         
                        しょうか。 
                         
                         
                        パウロは、何よりも愛の重要性をここでも結論に置いているのではな 
                         
                        いかと思います。          (渕上記) 
                         
                         
                        2025年2月23日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ルツ記④ 「小さな物語」 ルツ記4章の重要性」 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:於保さつき、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ルツ記4章では、まず町の門(公の場)で、ボアズが自分よりもエリメレクの近親者 
                         
                        で財産を購入する権利がある人物と交渉する様子が描かれます。その近親者は、当初は 
                         
                        購入の意志を示しますが、ルツとの結婚や亡くなったエリメレクら「故人の名を興す」 
                         
                        ことが伴うと聞くと嫌がり、ボアズに権利を譲ります。ボアズは正式な手続きを踏み、 
                         
                        町の長老や多くの人々を証人とし、エリメレクの土地を購入し、ルツと結婚し、町の人 
                         
                        々から祝福されます。結婚後、ルツとボアズの間にはオベドが生まれます。ナオミは、 
                         
                        直接は血のつながらないオベドを心から愛し養育します。町の女性たちはルツを七人の 
                         
                        息子にまさる嫁だと褒めます。オベドが、ダビデの祖父となり、イエスの系図へとつな 
                         
                        がっていきました。 
                         
                         
                        この平凡な家庭の素朴な「小さな物語」が伝わったのは、たまたまダビデが王になり、 
                         
                        ルツ記がその系図を伝えるものとして記録されたからかもしれません。しかし、ダビデ 
                         
                        が王になるほどの人物になった背景には、この「小さな物語」にこめられた、どんな人 
                         
                        生の背後にも神の御手があり、信仰をもって踏み出す時に神が助けてくださる、という 
                         
                        家族の体験と信仰があったからだと思われます。一人一人の名前と人生を記憶し故人の 
                         
                        名を興す「小さな物語」こそ信仰の根であり、重要であることをルツ記4章から学びま 
                         
                        した。 (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2025年2月16日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「続・神の愛、神の義」 ローマの信徒への手紙12:15 
                         
                        講話:矢田部千佳子(テコア聖書集会):司会:長澤澄子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        内村鑑三がその一生をかけて証した神の愛、神の義について学びたいと思います。 
                         
                        彼は妻との度重なる離別、不敬事件、渡米しての罪の悩みなど、多くの困難や挫折を 
                         
                        経験しましたが、その折にひたすら聖書に寄り頼んで生き続けました。神のみ言葉を 
                         
                        食べて生涯を送ったと言えるでしょう。イエスの生き様に出会って、神の愛は同時に 
                         
                        義であることを知ったのでした。驚くことに、「愛の90%は義である」とさえ述べて 
                         
                        います。 
                         
                         
                        最愛の娘ルツ子の死を通して苦難の果てに神の愛を知った彼は絶叫を遺しています。 
                         
                        「人生に悲痛多し、然れども神は愛なり、すべての生命は死を以て終る、然れども神 
                         
                        は愛なり、神は小女の綻(ほころ)びんとする蕾の生命をさえ取去り給ふ、然れども 
                         
                        神は愛なり、神は愛なり、然り、神は愛なり、世は廃れ、地は壊れ、愛する者は悉く 
                         
                        失するとも神は愛なり‼」、と。 
                         
                         
                        パウロは愛の実践形態として「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け(ローマ12:15)」 
                         
                        と言いましたが、この言葉はキリスト者同士だけに限らず、非キリスト者に対しても 
                         
                        向けられるべきでしょう。内村は次の聖句を引用して、毎朝目覚めての最初のときを 
                         
                        大切にすることを勧めています。「主の慈しみは絶えることがない。/その憐れみは 
                         
                        尽きることがない。/それは朝ごとに新しい。/あなたの真実は尽きることがない。 
                         
                        (哀歌3:22~23)」 
                         
                         
                        イエスと共に神の愛と神の義に歩みたいと思います。      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年2月9日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の子羊」 ヨハネによる福音書1:19-2:12 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:白井淳子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        感話:横山宜和:「最後の災い」 ヨハネの黙示録16:12-21 
                         
                         
                        洗礼者ヨハネはイエスについて「神の子羊」であると証言しました。「神の子羊」は、 
                         
                        世の桎梏からの解放を齎し、私たちの「罪」を担って十字架に死に給うお方です。ヨハ 
                         
                        ネはユダヤの民に「救い主」を迎えるために必要な悔い改めを求めました。罪を自覚す 
                         
                        る民はヨハネの洗礼を受けましたが、救い主が「神の子羊」であることは遂に分かりま 
                         
                        せんでした。 
                         
                         
                        ヨハネ福音書はイエスによる弟子の召命が間接的(人を介して)だったと述べています。 
                         
                        福音書記者は、読者(ヨハネ共同体)も自身もイエス死後60年余経っていることを踏まえ 
                         
                        て、イエスの福音を直接 肉のイエスから受け取る必要は無いと述べているのです。生ける 
                         
                        復活のイエスは2千年経った今も、私たちを等しく弟子となし給うています。そこで問われ 
                         
                        ることは、イエスに従う時、イエスに何を求めているのか、です。 
                         
                         
                        カナの婚姻で顕わされたイエスの「栄光」は原始の初めからお持ちの栄光で、イエスの 
                         
                        生涯の中で不断に顕わされます。 
                         
                         
                        「きよめ」という古い律法遵守のための道具(水がめ)を用いて、新しい酒による喜びを 
                         
                        与え給いました。それは決して石をパンに(悪魔の誘惑)されたのではないことは、母マ 
                         
                        リアの訴えを拒絶されたことが示しています。困窮に仕えるという「神の子羊」の栄光な 
                         
                        のです。
私たちにはそのイエスの栄光を証する者として生きることが求められています。 
                         
                                                        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年2月2日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「主の晩餐」 コリントの信徒への手紙 一11章 
                         
                        講話:渕上明、司会:松尾晴之、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        11章は、聖餐式について。無教会では聖餐式をすることはありませんが、カトリック 
                         
                        教会やプロテスタント教会では今も行われています。最初の女性のかぶり物について書 
                         
                        かれた所では、パウロは創世記の内容を引用して9節で、「女は男のために造られた」と 
                         
                        述べていますが、12節では「女が男から出たように、男も女から生まれたからです。そ 
                         
                        して、すべてのものは神から出たのです。」と対等な関係を示唆しています。また、当 
                         
                        時のコリントの信者たちの中でも、貧富の差が生じており、主の晩餐の際、豪華な食事 
                         
                        をし、酒を飲んだ後に、参加する者もいれば、生活に余裕がなく空腹なまま参加する者 
                         
                        もいました。 
                         
                         
                        今の聖餐式は、聖餐式を終わってから、皆で食事をとるような形が多いと思われますが、 
                         
                        当時のコリントの教会では聖餐式も食事も一緒に行われていたものと考えられます。弁当 
                         
                        を持ち寄るような形ではなかったかと思われますが、豪華な弁当を食べるものもいれば、 
                         
                        弁当を用意できない者もいたと思われます。弁当を用意出来ない人を見ても平然と豪華な 
                         
                        弁当を食べる人を見て、その思いやりのなさをパウロは非難しています。23~26節には、 
                         
                        聖餐式のやり方を伝えています。この文書は聖餐式について、最初に書かれた文書だと言 
                         
                        われています。 
                         
                         
                        また、33節では聖餐式に集まるときは、互いに待ち合わせるようにと指示しています。 
                         
                        パウロは聖餐式に関して、互いの思いやりを求めているように思われます。 (渕上記) 
                        
 
                         
                        2025年1月26日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「申命記 序論」 申命記1:1~8 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:長澤玲子 
                         
                        
                        新しい年を迎えて「申命記」の学びを始めたく思います。申命記は「第二の律法」と 
                         
                        いう意味です。モーセを通してシナイ山で神から「律法」を授けされたイスラエルの民が、 
                         
                        40年に及ぶ荒野の彷徨を終えて愈々ヨルダン川を渡って約束の地に入る前に、神がモーセ 
                         
                        を通して「重ねて語られた律法」なのです。モーセはヨルダン川を渡ることなくピスガの 
                         
                        山頂で死にますが、死の直前に語られたモーセの遺言であり、約束の地に入ろうとする民 
                         
                        に対して与えた訓戒と激励が骨格をなしています。 
                         
                         
                        申命記の構成は ①過去への回顧(1:1-4:40)②現在=律法の本体(4:44-28:68)③未来 
                         
                        への展望(28:69-30:20)④結び=別れの歌など(31:1-32:47)ですが、イスラエルの民に 
                         
                        「神」が示されるのは、「律法」の示しを通してなされます。イスラエルの民の歴史を通 
                         
                        して、そのことが明らかにされます。イスラエルの民の存在が、神がおられることの証明 
                         
                        といわれる所以です。 
                         
                         
                        申命記はB.C.650年頃ユダの王マナセの暗黒時代に、その粛清を志す無名の改革者によ 
                         
                        って起草された、理想国家再建の新憲章でした。B.C.621年ヨシュ王が行った宗教改革は、 
                         
                        死蔵されていたものが再発見された申命記の精神によるものでした。 
                         
                         
                        福音書やロマ書を始め新約聖書に280箇所の申命記からの引用があり、特にイエスが 
                         
                        「荒野の試み」に於いて申命記からの3箇所を用いてサタンの誘惑を退けられたことに、 
                         
                        新約聖書がいかに申命記を重視していたかが示されています。    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年1月19日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ロゴス賛歌」 ヨハネによる福音書1:1-18 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        感話:黙示録16:1-11「最後の七つの災害」 横山宜和 
                         
                        
                        ヨハネはイエス・キリストが何者なのか、誰なのか?(キリスト論)を福音書として 
                         
                        物語りますが、それが序文(プロローグ)に於いて印象的に示されています。神の意志 
                         
                        や真実を人間に伝える(啓示)者としてイエスを「言」と表現し、その「言」は万物創 
                         
                        造の前から「光」として「先在」し、神と共に万物を創造した、といいます。創造され 
                         
                        た「世」には「闇」が生じますが、「光」である「言」は人間として(受肉)、「世」 
                         
                        に到来します。地上のイエスの活動は光と闇の分裂を齎しますが、闇は究極にまで深ま 
                         
                        って、イエスの十字架に至ったのでした。 
                         
                         
                        ヨハネは「光は闇の中で輝いている(5)」と現在形で記します。イエスの十字架に及 
                         
                        んだ出来事を想起しつつ、ヨハネは彼の現在、彼の「今」にまで継続している事実を述べ 
                         
                        ているのです。即ち、福音書の読者の「今」も「光は闇の中で輝いている」、今日の私た 
                         
                        ちの外の世界は闇ですが、今こそ「光」は輝いている!と。ヨハネは、福音書の中で語ら 
                         
                        れるイエスの「今」は、二千年前の過去のことではない、と言うのです。何故なら、イエ 
                         
                        スは復活されて「今」生きておられるのですから。 
                         
                         
                        この序文は「頌栄(キリスト讃歌)」です。苦難の中にいる読者(ヨハネの共同体の人 
                         
                        々であり、同時に今日の私たち)に、復活のイエスが日々出会い、共に歩んで下さってい 
                         
                        ることを感謝し、賛美に生きるべきことを教えられます。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2025年1月12日(日)新年集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「神の守りと栄光」 コリントの信徒への手紙一10章 
                         
                        講話:渕上明、司会:下田妙子、奏楽は山浦敬子 
                         
                         
                        8章に続いて偶像礼拝について語っている10章は二つの段落に分かれていますが、前半 
                         
                        は二つの部分に分けることができます。最初の部分では、出エジプト記に書かれた記述を 
                         
                        元に語り、後半は偶像礼拝を避けるよう語っています。また、二つ目の段落では、神の栄 
                         
                        光について語っています。 
                         
                         
                        「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、 
                         
                        試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」という13節で、 
                         
                        神はいつも私たちを守って下さるということをパウロは伝えています。14節以下では聖餐 
                         
                        式を例に挙げて偶像礼拝を戒めています。 
                         
                         
                        24節で「誰でも、自分の利益ではなく、他人の利益を求めなさい。」との言葉があります。 
                         
                        この言葉は、31節の「食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すために 
                         
                        しなさい。」という言葉に繋がって行きます。25節以下では、何でも食べて良いが、食事の 
                         
                        際にそこにある肉が神殿に捧げられた肉であると知らされた場合は、他人の良心のため食べ 
                         
                        てはいけないとパウロは述べています。他人とは、キリスト者となって間もない「弱い人」 
                         
                        のことを指すのだと思われます。 
                         
                         
                        10章では、神は耐えられないような試練は与えられないこと、それゆえ偶像礼拝に陥って 
                         
                        はならないこと、何をするにも自分の利益ではなく、他人の利益を求め、神の栄光を現すよ 
                         
                        うにとパウロは語っています。                  (渕上記) 
                         
                         
                        2024年12月22日(日) クリスマス祝会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「クリスマスの感謝」 ローマの信徒への手紙5:6~11 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和、奏楽:山浦敬子 
                         
                        そして10人が感話や讃美で続き、昼食会ももちました。 
                         
                        
                        ユダヤ教徒サウロは、正義感に燃えてキリスト信徒迫害に狂奔していましたが、ダマスコ 
                         
                        途上で復活のイエスに出会って打ち倒されてしまいました。そして自分の熱心は、実は神に 
                         
                        敵対していたのだという事実に目が開かれます。しかも、神はイエスの十字架に於いて彼の 
                         
                        敵意を受け止め、赦しの恵みの中に彼の全存在を受容して下さっているという、思いもかけ 
                         
                        ぬ事実に直面したのです。古いサウロは死んで新しくキリストの使徒パウロとして蘇り、以 
                         
                        後異邦人伝道者とされたのでした。  
                         
                         
                        彼はこの驚くべき大転換を「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させてい 
                         
                        ただいた(ローマ5:10)」と告白しています。それは「わたしたちがまだ罪人であったとき、 
                         
                        キリストが私たちのために死んでくださった」神の愛の故でした。 
                         
                         
                        クリスマスを迎えて、私たちは2つのことを心に刻みたいと思います。①私たちは心に 
                         
                        「敵」を持っている。それは神に対する敵対心である。②その敵対心を持っている状態の時、 
                         
                        既に神は私たちを赦し、和解して下さっている、ということ。神の子イエスが、十字架と復 
                         
                        活に神の愛を示して下さいました。  
                         
                         
                        クリスマスで記念すべきは、イエスの誕生と共に、最後の晩餐のパンと葡萄酒です。パンは 
                         
                        イエスがいつも共にいて下さること、葡萄酒は十字架と復活の新しい契約を意味します。喜 
                         
                        びと賛美をもって祝いましょう、Merry Christmas !         (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年12月15日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「イエスの昇天」 ルカ福音書24:50~53 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        前講:「神の怒りここに極まれり」 黙示録15:1~8 横山宜和 
                         
                         
                        復活のイエスは、弟子たちに福音を全世界に宣べ伝えさせる為に必要な準備の時をもた 
                         
                        れました。必要な弟子たちに「聖霊」の賜物を受ける備えをされたのです。使徒言行録や 
                         
                        パウロの手紙に500人以上の人にご自身を現わされたと記されています。それが復活され 
                         
                        たイエスが40日の間に為されたことでした。 
                         
                         
                        準備を終えられたイエスは神の許に帰還されます。イエスは生きておられ、いつも共に 
                         
                        いて下さることを信じた彼らは、別れを嘆き悲しむことは全く無く、喜びに溢れてイエス 
                         
                        を見送りました。そして指示された通りエルサレム神殿などで聖霊降臨の時を信じて待ちま 
                         
                        した。地上にイエスの姿は無くとも、聖霊として生けるイエスが共におられる時代に入った 
                         
                        のです。「聖霊」と「復活のイエス」は一体。三位一体論(使徒信条)にもある通り、神と 
                         
                        イエスと聖霊は三つにして一つなのです。 
                         
                         
                        地上のイエスの姿は消えましたが、約束通り聖霊が降り、イエスの活動は終わることなく 
                         
                        前進を続けています。弟子たちはイエスの前進に結び付いているが故に、喜びに溢れるので 
                         
                        す。救済史を主導されるのは復活のイエス。地上を歩ませて戴く間、私たちも小さくとも救 
                         
                        済史の前進に与からせていただけます。  
                         
                         
                        信じる者には復活の希望が約束されます。イエスの復活と昇天は私たちの死生観を根本的 
                         
                        に変えてしまいました。歓喜と賛美をもってルカ福音書の学びを閉じたいと思います。 
                         
                                                           (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年12月8日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ルツ記③ 麦打ち場にて」 ルツ記3章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        最初に徳島の中川陽子姉(家の教会マンナ・ミルトス)から「わたしを愛しているか」 
                         
                        と題して、復活のイエスとペトロの応答(ヨハネ21:15~17))についての感話を伺いま 
                         
                        した。 
                         
                         
                        ルツ記3章では、ルツに対するボアズの誠実な応答が描かれます。ナオミはルツに「あ 
                         
                        なたが幸せになれるような安らぎの場」としてボアズとの結婚を勧めます。ルツはその勧 
                         
                        めに従い、麦打ち場で寝ているボアズの足元に赴き、ボアズの衣の裾で身を覆って横にな 
                         
                        ります。 
                         
                         
                        当時のなんらかの慣習が前提にあったと仮定しても、ルツのボアズへの求愛・求婚の行 
                         
                        動は、場合によっては危険を伴う行動だったと思われます。しかし、ボアズはルツの人格 
                         
                        を尊重し、ルツの好意に感謝した上で、法律上のきちんとした手続きを踏んだ上で公に認 
                         
                        められる形で結婚する意思を伝え、ルツに大麦六セアを持たせて帰します。戻ってきたルツ 
                         
                        に、ナオミはしばらく事の次第を待つように助言します。 
                         
                         
                        聖書では、相互の人格への尊重や信頼にもとづいた、思いやりのある愛を肯定的に描い 
                         
                        ています。また、ボアズはルツにとって「贖う者」であると記されますが、万人にとって 
                         
                        ボアズ以上の誠実な贖い主であるイエス・キリストについて、ルツ記よりもずっとのちの 
                         
                        時代の新約聖書では告げられます。誠実な愛や、真の贖い主イエス・キリストに出会えた 
                         
                        ことのありがたさについて、ルツ記3章から学びました。    (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2024年12月1日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「キリスト者の自由」 コリントの信徒への手紙 一 9章 
                         
                        講話:渕上明、司会:山口洋子 
                         
                        
                        第9章で、パウロは最初に自身の権利について語っています。教会で熱心に福音を語 
                         
                        っていたパウロでしたが、教会から金銭的な援助を受けたことはありませんでした。教 
                         
                        会からの報酬を受けても少しもおかしい事でありませんが、パウロは「福音を告げ知ら 
                         
                        せるときに無償で提供し、宣教者としての私の権利を用いないこと」が自分の報酬だと 
                         
                        述べています。 
                         
                         
                        また、自分は誰に対しても自由な者だが、すべての人の奴隷となったと言っています。 
                         
                        ユダヤ人に福音を伝えるためにはユダヤ人のようになり、律法の下にある人には律法の 
                         
                        下にある人のようになり、弱い人には弱い人になったと述べています。いずれも、その 
                         
                        人たちを得るためでした。 
                         
                         
                        イエスは、弟子たちとの別れが近づいたと分かった際、夕食時に、弟子たちの足を洗わ 
                         
                        れ、互いに身を低くして生きて行くことを教えられました。(ヨハネ福音書13章) 
                         
                         
                        パウロも、同じように「すべての人の奴隷」となったと述べています。「すべての人に、 
                         
                        すべてのものとなりました。」「何人かでも救うためです。」と語り、「福音のために、 
                         
                        私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです。」と強い決意 
                         
                        を示しています。キリスト者は、キリストの福音により自由の身である訳ですが、この 
                         
                        章の最後に書かれているように、朽ちない冠を受けるために自制し弱い立場にいる人に 
                         
                        寄り添っていくことが必要ではないかと思います。       (渕上記) 
                        
 
                         
                        2024年11月24日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「パウロの個人的な挨拶」 ローマの信徒への手紙16:1~16 
                         
                        講話:市村昭三先生(天神聖書集会)、司会:三苫恵子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        まだ行ったことが無いローマ教会の人々にあてた手紙の最後に、パウロは個人的な挨拶 
                         
                        の言葉を書き連ねています(16章)。それは手紙の本文では分からない初期の教会の様子 
                         
                        を明らかにしてくれる貴重な資料となっています。書かれている人々の名は、ユダヤ人キ 
                         
                        リスト者と異邦人キリスト者の混成からなる教会の多様性を示しており、社会層としては 
                         
                        圧倒的に下層の人々(奴隷と思われる多くの人々など)です。最後(14~15節)に列挙さ 
                         
                        れる名前は家の教会の代表的人物たちで、当時の教会が家庭教会であったことが分かりま 
                         
                        す。 
                         
                         
                        冒頭に記されているフェベという女性は富裕な商人で、パウロを援助したらしく、ケン 
                         
                        クレアイ(コリント近くの港町)からローマにまでこの手紙を持って行ったようです。次 
                         
                        いでプリスカ(夫アキラと共にパウロを助けたテント商人)の名前が書かれているなど、 
                         
                        初期の教会では女性が大きな働きをしていたことが分かります。また、イエスに代わって 
                         
                        十字架を担がされたキレネ人シモンの子の名(ルフォス=マル15:21)もあり、初代教会の 
                         
                        人々の出自に興味を掻き立てられます。 
                         
                         
                        当時のキリスト者たちが信徒同士の愛の交わりに熱心で、信仰を強め合い、助け合うこ 
                         
                        とを大切にしていたことは、パウロの一人一人への愛の配慮と併せて、私たちも学ばなけ 
                         
                        ればならないことだと思わされます。        (秀村記) 
                         
                         
                        2024年11月17日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の愛、神の義」 ヨハネによる福音書3:16~17 
                         
                        講話:長澤玲子、白井淳子、大園明子、小林典子、司会:村上思門 
                         
                        
                        「使徒信条」は、キリスト教信仰にとって普遍的な信仰の真理が、わかりやすくシンプ 
                         
                        ルにまとめられています。 
                         
                         
                        今回、選ばせていただいたヨハネによる福音書3章16節には「神は、そのひとり子をお 
                         
                        与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が1人も滅びないで、永遠の命を得 
                         
                        るためである。」とあります。神様から見ると私達は全員が罪人であり、裁かれる運命で 
                         
                        す。しかし神の愛は御子を信じる者に分け隔てなく永遠の命を得られるようにしてくださ 
                         
                        いました。それほどまでに世を愛されました。これが聖書の中心なので、この16節は「聖 
                         
                        書の中の聖書」とも言われます。ここに「神の愛」があります。しかしそれと同時に義な 
                         
                        る方でもあるので、罪は必ず裁かれます。 
                         
                         
                        ローマの信徒への手紙では「それで今や、私達はキリストの血によって義とされたので 
                         
                        すから、キリストによって、神の怒りから救われるのは、なおさらのことです(5:9)」と書 
                         
                        いてあります。ヨハネの黙示録には神の怒りによって裁かれる恐ろしい光景が描かれてい 
                         
                        ます。聖霊によって御子イエス・キリストを受け入れ、この想像するだに恐ろしい「神の 
                         
                        怒り」から解放していただき、永遠のいのちを与えられていることに心から感謝し、どん 
                         
                        な事があっても、どんな試みにあっても贖い主イエス・キリストから離れないようにした 
                         
                        いと願います。                         (長澤玲子記) 
                        
 
                         
                        2024年11月10日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「復活のイエスと弟子たち」 ルカ福音書24:36~49 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:於保さつき、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:「刈取りの時」ヨハネの黙示録14:13~20 横山宜和 
                         
                         エマオでの復活のイエスについての報告を聞いていた弟子たちの真ん中に突然イエス 
                         
                        が顕現されたものですから、一同は幽霊ではないかと怯えました。釘の傷跡がある手足 
                         
                        を見せ、触らせ、魚を食べて見せて復活を信じさせようと、生前にも増して弟子たちに 
                         
                        仕えられます。イエスの愛は復活後も変わりません。復活を信じた弟子たちは歓喜に溢 
                         
                        れて、別人になりました。 
                         
                         
                        弟子たちが生まれ変わったのは、メシア理解の大転換に依ります。地上の王だと考え 
                         
                        ていたメシアは、十字架と復活を通して罪を赦し給う神の子である、ということを遂に 
                         
                        信じるに至ったのでした。エマオでと同様、旧約聖書は十字架と復活を指し示している 
                         
                        ことを教えられ、また耳にタコが出来る程イエスから聞かされていた受難と復活の意味 
                         
                        が清かになったのです。  
                         
                         
                        そのような弟子たちにイエスは「復活の証人」になるという使命を与えられます。意 
                         
                        気消沈していた弟子たちは勇躍その使命に邁進する者となりました。(十字架と)復活 
                         
                        が意味する「罪の赦し」は神の万物創造を完成します。人間の罪によって万物を覆って 
                         
                        いる暗黒が、イエス再臨の時に神の愛(罪の赦し)に満たされ、全ての人が復活させて 
                         
                        戴くことが約束されています。 
                         
                         
                        私たちにも日々与えられている「父が約束されたもの(49)」=聖霊=「復活のイエ 
                         
                        ス」と共にある生き方をもって、「証人」の役割を果たさせて戴くことを祈りたく思い 
                         
                        ます。                              (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年11月3日(日) 集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「愛は人を造り上げる」 コリントの信徒への手紙一8章 
                         
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤澄子、奏楽:山浦敬子 
                         
                         
                        8章は、コリントの信徒からの質問に答えるものとなっています。今回の質問は、偶像 
                         
                        に捧げられた肉をキリスト者が食べて良いものだろうかというものでした。当時のコリン 
                         
                        トでは、神々の祭壇に捧げられた動物の肉が市場に売りに出されていました。そうした異 
                         
                        教の神に捧げられた肉をキリスト者が食べることについて論議があったものと思われます。 
                         
                         
                        キリストの教えを学んだ人の中には、偶像として崇拝される神は真実の神ではないのだ 
                         
                        から問題はないと主張する人々がいました。パウロもその主張の正しさは認めますが、一 
                         
                        方でそこまで割り切って考えることが出来ない人々へも配慮をするよう述べています。最 
                         
                        初に、パウロは「知識は人を高ぶらせるのに対して、愛は人を造り上げる」と言っていま 
                         
                        す。また、2節で「ある人が、何かを知っていると思っているなら、その人は、知らねば 
                         
                        ならないように知ってはいないのです」と信仰については謙虚さが大切であり、迷いがあ 
                         
                        る人への配慮が必要だと述べています。 
                         
                         
                        また、3節で「神を愛する人がいるなら、その人は神に知られています」と語っていま 
                         
                        す。自らの思いのみで信仰に至るのではなく、神によって導かれることを述べています。 
                         
                         
                        6節にあるように、全てのことは唯一の主、イエス・キリストを通して行われるもので 
                         
                        あり、主イエス・キリストに繋がっていることの大切さを改めて認識させられます。 
                         
                                                          (渕上記) 
                        
 
                         
                        2024年10月27日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ルツ記② 落ち穂拾い―ルツとボアズの出会い」 ルツ記2章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:白井淳子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        ルツ記2章では、ルツが落穂拾いを始め、ボアズと出会ったことが記されます。落穂 
                         
                        拾いは、収穫後に畑にまだ残っているものを所有者以外が拾い集めるのを許した慣行で 
                         
                        す。レビ記や申命記に貧者保護のために規定されていました。 
                         
                         
                        ルツは自らの意志で落穂拾いを始めました。自分から一歩踏み出す時に、神様は助け 
                         
                        てくださいます。「天の恵みは坐して待つべからず。希望は労働にのみ存す。」(内村 
                         
                        鑑三) 
                         
                         
                        ボアズは、ルツに親切に接し、落穂拾いをしやすいようにはからいます。モアブ人の 
                         
                        ルツに対するボアズの優しさの背景には、ボアズの母がカナン人だったことに由来する 
                         
                        のかもしれません(マタイ1:5)。ルツは、安心して落穂拾いができるようになりまし 
                         
                        た。 
                         
                         
                        二人の出会いは偶然でしたが、背後には神のはからいがあり、二人は縁が結ばれてい 
                         
                        きます。ナオミはルツからボアズの親切を伝え聞いて、「主は、生きている者にも死ん 
                         
                        だ者にも、慈しみを惜しみませんでした」(ルツ2:20)と神を讃えます。 
                         
                         
                        今日の世界では食料の約四割が廃棄され、その一方で人類の9%は飢餓状態にありま 
                         
                        す。私たちも神の慈しみに倣い、落穂拾いの慣行のように、貧者への配慮を忘れず、神 
                         
                        の恵みを無駄にせずに生かしていきたいと思います。それらのことを、ルツ記の第二章 
                         
                        から学びました。             (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2024年10月20日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「平安の根拠」 イザヤ書46章、エフェソの信徒への手紙2章 
                         
                        講話:木村護郎クリストフ先生(無教会・自由が丘集会))、司会:長澤玲子 
                         
                        
                        聖書の注解は色々ありますが、最良の注解書は聖書自身です。私が愛読している 
                         
                        「ローズンゲン(ドイツ敬虔派が始めた聖書の日課)」はその日の聖書の言葉を選 
                         
                        び、その言葉が新約なら対応する旧約の言葉も選ばれ、短い感想が述べられます。 
                         
                        今日はイザヤ書46章を選び、それを注解するものとしてエフェソ2章を選びました。 
                         
                        この二つの対応箇所を考えてみましょう。 
                         
                         
                        「あなたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私は担おう。私が背負っ 
                         
                        て救い出そう。(イザ46:4)」と「あなたがたは…救われたのです。…私たちは… 
                         
                        キリストイエスにあって造られたのです。(エフェ2:8~10)」が対応しています。 
                         
                        創造と救済は不可分であり、密接に繋がっています。また、イザヤでは「造った」 
                         
                        「救い出そう」と神が主語での能動態であり、エフェソでは「造られた」「救われた」 
                         
                        と受動態の動詞が使われています。旧約・イザヤの「救い出そう」は預言、新約・エ 
                         
                        フェソの「救われた」は預言の実現が述べられているのです。 
                         
                         
                        創造が救済の元であり、造られた方が責任をもって救い給います(イザヤ)。ここ 
                         
                        に救いの確かさがあります。そして創造の目的は私たちが良い行いもって神の道を歩 
                         
                        むためであることが明示されています(エフェソ)。神に創造された私たちは罪を犯 
                         
                        しますが、神は悔い改めに導いて新たな者に造り直して下さる、即ち創造→救済→創 
                         
                        造を辿って救い給うのです。                  (秀村記) 
                         
                         
                        2024年10月13日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「エマオでの復活のイエス」 ルカ福音書24:13~35 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:ヨハネ黙示録14:1~12 横山宜和 
                         
                         
                        イエスが復活された日曜日の午後、エマオに向かっていた二人の弟子たち(クレオパ 
                         
                        親子?)に復活のイエスが追い付いて共に歩まれますが、二人の目は眩まされていて、 
                         
                        それがイエスだと分かりませんでした。三人はエマオで夕食を共にしますが、イエスが 
                         
                        パンを裂かれた瞬間に、二人はそれがイエスであることに目を開かれます。同時にイエ 
                         
                        スの姿は消え去りました。 
                         
                         
                        私たちにも、復活のイエスが近づき給うたのに気が付かないことがある、と教えられ 
                         
                        ます。霊の眼が開かれないと、復活のイエス(ただの人として会い給う)に会うことが 
                         
                        出来ません。道中イエスは二人の霊の眼を開く備えとして、聖書の全体を説き明かされ、 
                         
                        彼らの心が燃えた(32)のでした。霊のイエスとの出会いには、聖書を読むことの大切 
                         
                        さを学びます。 
                         
                         
                         イエスは弟子たちの前でしばしばパンを裂かれました(五千人への供食など)。最後の 
                         
                        晩餐での、裂かれたパンを「これは私の体である」と弟子たちに渡されたことを想起します。 
                         
                        それは、食事の度毎に「私がいつもあなたと共にいる」ことを憶えよ、との遺言でした。 
                         
                        エマオの晩餐は私達へのその念押しでした。 
                         
                         
                         二人はイエスに出会った喜びを伝えに夜道をエルサレムに急ぎます。復活のメッセージこ 
                         
                        そが、消滅した(弟子の逃亡!)かに見えた福音が拡がる発火点となりました。無からキリ 
                         
                        スト教を起こされた神のみ業を賛美したいと思います。       (秀村記) 
                         
                         
                        2024年10月6日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の賜物」 コリントの信徒への手紙 一 7章 
                         
                        講話:渕上明、司会:松尾晴之、奏楽:山浦敬子 
                         
                        感話:「カザフスタン・アラル海周辺領域に住む人々の暮らしと食文化」下田妙子 
                         
                        コリントの信徒への手紙第7章は、コリントの信徒達から送られてきた質問への回答が 
                         
                        書かれています。主に結婚について語っています。ここでのパウロはとても温厚に答え 
                         
                        ています。精神的な面だけではなく、肉体的な欲求についても述べています。パウロが 
                         
                        結婚歴があったのかどうかははっきりしませんが、結婚についてこれだけ深く話が出来 
                         
                        ることから、結婚歴があったのではという見解もあります。 
                         
                        
                        パウロは、結婚せずに神と共に生きて行くことを勧めてはいますが、結婚を拒否して 
                         
                        いる訳ではありません。7節で「人はそれぞれ神から賜物をいただいているので、人に 
                         
                        よって生き方が違います。」と述べています。また、パウロの考えとして、夫婦のどち 
                         
                        らかが信者であれば、相手も聖なる者とされると述べています。 
                         
                         
                        17節では「神に召されたときのままの状態で歩みなさい。」と述べています。たと 
                         
                        え奴隷であっても、キリストの奴隷になるのであれば、それは大きな喜びをもたらします。 
                         
                         
                        26節で「現在迫っている危機」と述べていますがこれは最後の審判が近いと感じて 
                         
                        いたからだと思われます。パウロの言うように、私たちは神の賜物に応じて主イエス・ 
                         
                        キリストと共に生きて行くことが大切なのだと思います。  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2024年9月29日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ローマ旅行およびエルサレム経由の理由」 ローマの信徒への手紙15:22~33 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        パウロが世界にイエスの福音を広めるという展望に於いて最も重視したのが当時の 
                         
                        世界の中心地ローマでした。ローマの東地区(パレスチナを含むアジアやギリシャ) 
                         
                        での宣教をひとまず終えたと考えた彼は、漸くローマ訪問のときが来た、と述べてい 
                         
                        ます(22~24)。東方の次に赴くべき宣教地として彼は西の果てイスパニア(スペ 
                         
                        イン)までを視野に納めています。ローマ経由で、イスパニアに足を延ばしたいとい 
                         
                        うのです。 
                         
                         
                        彼はコリントでこの手紙を書いていますが、ローマ訪問の前にエルサレムの聖徒た 
                         
                        ちに異邦人教会で集めた献金を届けなければならぬと述べます(25~27)。パウロが 
                         
                        開拓した異邦人教会がエルサレム教会とに繋がることを重視したからですが、それな 
                         
                        くしては異邦人教会の信仰は地中海世界の神秘主義に埋没したに違いありません(M.ウ 
                         
                        エーバー『古代ユダヤ教』)。この献金は彼の伝道活動の総仕上げであり、世界の福 
                         
                        音として実を結ぶために不可欠でした。パウロの慧眼と命がけの活動によって、私た 
                         
                        ちにまでキリストの福音が伝わったのです。 
                         
                         
                        この遠大な計画は神の祝福の充満であり、ローマを訪ねる時には、溢れる祝福を携え 
                         
                        て行くだろう、と述べています(29)。未知のローマの信徒たちへの愛が読み取れます。 
                         
                        その「愛」は「霊」が与えて下さるものです(30)。私たちの愛も自分の力で獲得する 
                         
                        のではないことを心に刻みたいと思います。        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年9月22日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ルツ記① モアブからの帰還」 ルツ記1章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:於保さつき、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        ルツ記は短い物語です。預言者や王は現れず、ごく普通の庶民の話です。そこには超 
                         
                        自然的な奇跡もなく、戦争や迫害といった民族の危機も描かれません。しかし、ある家 
                         
                        族の「小さな物語」を通じて、神の御手が描かれます。 
                         
                         
                        第一章では、飢饉を逃れモアブに移住したナオミの夫と息子二人が死んだことが記さ 
                         
                        れます。ナオミは息子たちの嫁だったモアブ出身のオルパとルツに実家に帰るように勧 
                         
                        めます。 
                         
                         
                        ナオミは二人の自由を尊重し、また嫁の良いところを見出して感謝していました。ル 
                         
                        ツは、ナオミの慈しみの奥底にある主なる神への信仰を受け入れ、ナオミとともにどこ 
                         
                        までも一緒に生きる決意を述べます。真実の神への愛に生きる人は、素晴らしい家庭愛 
                         
                        を築くことができます。 
                         
                         
                        ナオミはベツレヘムにルツを伴って帰りますが、己の不運を嘆き、神に率直にその嘆 
                         
                        きを訴えます。率直に神に思いを述べることができるのは、真実の神を深く信じている 
                         
                        からこそです。神との生き生きとした対話のある「我と汝」の関係こそ聖書の特徴です。 
                         
                        この信仰は、ルツの子孫のダビデや、さらにはイエスにつながっていくものでした。 
                         
                         
                        人は時に、家族や愛する者の死がきっかけで、神のもとへと立ち帰り、神との間に真 
                         
                        の生きた関係を築きます。それらのことを、ルツ記の第一章から学びました。(鎌田記) 
                        
 
                         
                        2024年9月15日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「空の墓」 ルカによる福音書24:1~12 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子、奏楽:古澤美佳子 
                         
                        前講:「二頭の獣との戦い その2」 ヨハネの黙示録13:11~18  横山宜和 
                         
                        
                        イエス埋葬後の日曜日早朝に女性たちが墓を訪れますが、墓にはイエスの遺体が無 
                         
                        く、二人の天使から「復活されたのだ」と告げられます。それを聞かされた弟子達は 
                         
                        信じませんでした。 
                         
                         
                        イエスは「わたしは復活であり、命である(ヨハネ11:23)」と言われましたが、永 
                         
                        遠に死なない命をお持ちであるが故に、死んで復活されたのでした。そしてイエスを 
                         
                        信じる者にも、同じく永遠の生命が与えられ、終わりの日には復活させられるのです。 
                         
                        科学的思考が染み着いている私たちには容易に信じることが困難なメッセージですが、 
                         
                        これが福音の要石なのです。 
                         
                         
                        実はパウロが伝道したことの中心は復活でした。彼は復活は信じるべきことだ、と 
                         
                        復活のイエスに出会った500人以上の証言者(存命者もいる)について、また、神の宇 
                         
                        宙創造の目的達成のためには、人類が罪から救い出されねばならず、その為に十字架と 
                         
                        復活は必須なのだ(Ⅰコリ15章)、と述べています。 
                         
                         
                        当時のギリシャを始め広く信じられる霊魂不滅説(人間の救済は、永遠に価値ある霊 
                         
                        魂が賤しい牢獄である体から解放されることにある)に対して、パウロは「私たちは皆、 
                         
                        変えられます(同15:51)」と、私たちの肉の体が霊なる復活体をとって復活すると述 
                         
                        べます。復活のイエスが遺体を墓に残すことなく、霊の体で弟子達に出会って下さった 
                         
                        ように。私達にも個性をもった霊の復活体が約束されていることは喜びです。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年9月8日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の栄光を現す」 コリントの信徒への手紙6章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        6章前半でパウロは裁判について述べます。コリントの信徒の間で起こったもめ事を信 
                         
                        徒達で解決出来ず、キリスト者ではない人々が裁く裁判の場に持ち込んだことを厳しく 
                         
                        叱責しています。おそらく金銭をめぐる争いだったと思われますが、そのこと自体が主 
                         
                        イエス・キリストの教えに反することでした。7節では不正を甘んじて受けるようにと 
                         
                        語っています。 
                         
                         
                        後半は性に関する問題を採り上げます。性に関しては、パウロの時代は現代に比し世間 
                         
                        一般の考えは大きく異なっています。また、当時のギリシャ世界では、霊魂と肉体は別な 
                         
                        ものであり、肉体が滅亡しても霊魂は救われることが出来ると考える人が多くいたようです。 
                         
                        パウロは、13節で「体は淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにお 
                         
                        られるのです」と述べています。また、「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部 
                         
                        だとは知らないのですか」とも言っています。キリストの体の一部となったにも関わらず、 
                         
                        娼婦と関係を持つことは許されないことであり、そうではなく主と交わり、主と一つの霊 
                         
                        となるよう勧めています。19節では、「あなたがたの身体は神からいただいた聖霊が宿って 
                         
                        くださる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです」と述べています。 
                         
                         
                        キリストを信じる者は、自身の体を、それぞれに与えられた場所で神の栄光を現すよう努 
                         
                        力していくことが必要とされているのではないかと思います。       (渕上記) 
                        
 
                         
                        2024年9月1日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「イエスの埋葬」 ルカによる福音書23:50~56 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:山口洋子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:「二頭の獣との戦い」 ヨハネの黙示録13:1~10  横山宜和 
                         
                        
                        呪われた者として十字架上に晒されるイエスの遺骸は処刑者たちと共に棄てられて 
                         
                        腐敗する運命にありました。ローマでは遺族などでも処刑者の死体引き取りは許され 
                         
                        ませんでした。 
                         
                         
                        ところが思いがけずもアリマタヤのヨセフが突然現れて、ピラトの許可を得てイエ 
                         
                        スを埋葬しました。ヨセフは、イエスの処刑を訴えた最高法院の議員でしたから、死 
                         
                        体を引き渡しても殉教者に仕立てられる心配が無く、ピラトがOKしたのです。遺体 
                         
                        は亜麻布にくるまれ、岩に掘ったヨセフの新しい墓に安置されて大石で封じられます。 
                         
                        埋葬は安息日に入る日没前に完了し、女性たちによって見届けられました。完璧な埋 
                         
                        葬でした。 
                         
                         
                        そこにイエスに救われた多くの人々や弟子達の姿はなく、「その墓は神に逆らう者 
                         
                        と共にされた(イザヤ53:9)」との預言通りの見栄えない葬りは、イエスに相応しい 
                         
                        葬儀でした。 
                         
                         
                        それは神が進められたものであることが、イエスの復活によって明らかとなります。 
                         
                        信じることが容易ではない復活には、その証言者(複数)が不可欠です。イエスの死 
                         
                        が事実であり(マル15:45)、遺体は完璧に埋葬され(ヨセフとニコデモによって=ヨ 
                         
                        ハネ19:39)、それは(女性たちに)見届けられました。 
                         
                         
                        神は唯一イエスの遺体引き取りが可能であったヨセフの信仰を奮い立たされ、ここ 
                         
                        に登場する人々をイエス復活の証言者として、キリスト教の誕生に用いられたのです。 
                         
                                                      (秀村記) 
                         
                         
                        2024年7月28日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「宣教者パウロの使命」 ローマの信徒への手紙15:14~21 
                         
                        講話:市村昭三、司会:長澤澄子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        ローマの教会は当時最大の中心的教会でしたが、パウロとは無縁でした。彼がその 
                         
                        教会に手紙を書いた理由の一つは、異邦人伝道のリーダーとして自認する彼のヴィジ 
                         
                        ョンに全世界をキリストの福音で満たしたいとの思いがあり、その東半分(エルサレ 
                         
                        ムからイリリコン(19)には伝え終えた、残りの西半分(ローマからイスパニアま 
                         
                        で)を次の課題の地域と見据えていたからでした(イスパニアに送り出して貰いたい 
                         
                        (24)、と)。 
                         
                         
                        彼はこの手紙について、「善意に溢れて知識も豊富なあなた方に今更自分が助言す 
                         
                        るようなことは無いのだが、ここまで相当思い切ったことを書いて来た」、と述べて 
                         
                        います。それは自分が、「異邦人の為の祭司の役割」を務めているからだと言います。 
                         
                        「祭司の役割」とは、異邦人が聖なる者とされ、神のみ心にかなう供え物となるよう 
                         
                        に努めること(16)であり、それが異邦人に福音を伝える宣教者とされた自分の使命 
                         
                        だと言うのです。そして、神からその使命を授けられたことを誇りに思っている(17)、 
                         
                        と明言しています。しかし、パウロは自分を誇ることはしません。異邦人を従順にする 
                         
                        ためにキリストが働き給うたことのほかは、あえて何も語ることをしない、と述べてい 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        この箇所から、全世界にキリストを伝えたいとの彼の熱意が伝わってきます。彼のヴ 
                         
                        ィジョンが実を結び、私たちもその恩恵に浴していることを憶えて感謝したいと思います。 
                         
                                                       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年7月21日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「第二イザヤと苦難の僕の詩」 イザヤ書53章 
                         
                        講話:月本昭男先生(経堂聖書会)、司会:下田妙子 
                         
                         
                        バビロン捕囚からの解放・イスラエル帰還時の喜ばしい預言が、イザヤ書40~55章 
                         
                        の第二イザヤ書に纏められています。これには4つの「僕の詩」が織り込まれています 
                         
                        が、特に重要なのが、印象的に紡ぎ出された「苦難の僕」の詩(53章)です。 
                         
                         
                        第二イザヤは「贖う」という言葉を多用します。「贖う」とは、債務ゆえに売った 
                         
                        土地家屋(奴隷となった親族)を買い戻す(身請けする)ことですが、第二イザヤは 
                         
                        捕囚からの解放を、「贖い」と考えたのです。捕囚からの解放は、①新しい出エジプト、 
                         
                        ②罪(バビロニア捕囚の原因であったイスラエルの神に対する背きの罪)の赦しと理解 
                         
                        され、更に③「贖い」の法的慣習を念頭に置いて、「罪の赦免」を「負債解消」と理解 
                         
                        したのです。 
                         
                         
                        しかし、「負債としての罪の赦免」という理解には難題が控えていました。解放され 
                         
                        る自分たちの罪は赦されても、捕囚地で死んだ先輩は彼らの罪のために罰せられたのか 
                         
                        という、信仰上の難問です。「苦難の僕」の詩は、この難問の中から紡ぎ出された信仰 
                         
                        上の洞察の実りではないかと思われます。 
                         
                         
                        捕囚地で死んだ彼らの苦難は、「われら」の背き(咎)の故であり、「われら」の罪 
                         
                        は彼らによって背負われ、それによって「われらに平和が齎された」と悟ったのではな 
                         
                        いでしょうか。同胞たちの無残な生涯が「苦難の僕」として一人の人物に造形化され、 
                         
                        「われらの罪からの解放」と結びつけられたと思われます。  
                         
                         
                        初代のキリスト信徒は「苦難の僕」に人類の罪を贖い給うたイエス・キリストの十字 
                         
                        架の意味を見出したのでした。            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年7月14日(日)集会 (ZOOM 同時配信) 
                         
                        「霊の救い」 コリントの信徒への手紙一1:13~21 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        第5章は、コリントの信徒たちの倫的な乱れをパウロが指摘するところから始まりま 
                         
                        す。モーセ五書には、厳しい規定が定められていたにもかかわらず、コリントという場 
                         
                        所がそうさせたのかも知れませんが、倫理的な乱れがはびこっていました。 
                         
                         
                        パウロは、罪を犯すものを信徒の間から排除するようにと言っています。5節には、 
                         
                        「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは、主 
                         
                        の日に彼の霊が救われるためです」と書かれています。解釈に困るような文章ですが、 
                         
                        肉体は滅んでも霊は残り、その霊が審判の日に救われるようにと祈っていることが読み 
                         
                        取れます。 
                         
                         
                        7節では悪意と邪悪に満ちた「古いパン種」で作られたコリントの信徒たちに、その 
                         
                        古いパン種をきれいに取り除き、新しい生地となるよう命じています。また、イエス・ 
                         
                        キリストを過ぎ越しの日に屠られた小羊にたとえ、イエス・キリストが人の罪を背負っ 
                         
                        て小羊と同じように屠られ、信徒たちの身をきれいにされたことを伝えています。 
                         
                         
                        9節では、現在は紛失している以前書いた手紙を読んで、罪を犯す人たちとの交際を 
                         
                        一切止めることが正しいと思った人々に、そうした人々は、神の裁きに任せるよう述べ 
                         
                        ています。 
                         
                         
                        この章で書かれていることは、肉体はなくなっても霊は救われていること、神は人の 
                         
                        霊の救済をいつも考えておられるということではないでしょうか。     (渕上記) 
                        
 
                         
                        2024年7月7日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「イエスの死」 ルカによる福音書23:44~49 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:白井淳子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:横山宜和 「子羊の血による勝利者」 ヨハネの黙示録12:10~18 
                         
                        
                        二千年前のイエスの死と私達はどう関係するのでしょうか?聖書は、十字架上にイ 
                         
                        エスは私達の罪を担い給い、私達は永遠の滅亡から贖い出された、と言います。私達 
                         
                        は神の愛からさまよい出た(罪)存在です。そのような私達を、私達の知らない所で、 
                         
                        神の懐に取り返して戴いたということ、それがイエスの十字架です。求められるのは 
                         
                        感謝を捧げることのみです。  
                         
                         
                        マルコ・マタイの福音書が、「エロイ、エロイ、…」と自分を見棄て給うた神にそ 
                         
                        の訳を問い、なお神に縋られるイエスの悲痛・凄惨な叫びを伝えるのに比して、ルカ 
                         
                        の伝えるイエスの最期は、ご自分を殺害しようとする者の「赦し」を神に祈り、十字 
                         
                        架を共にする犯罪人に楽園を約束し、最後の祈りは「私の霊を御手に委ねます」です。 
                         
                        何と平穏な最期でしょうか。神に従順・謙遜なイエスの全生涯に相応しい姿と思わず 
                         
                        におれません。そして、死の直前の祈りで神に全てを委ねられたことは(ステファノも。 
                         
                        使徒7:30)、私達へのお手本ではないでしょうか。 
                         
                         
                        イエスの死に際して太陽が光を失ったのは、宇宙的な闇のしるしでした。イエスは 
                         
                        次の「太陽と月と星に現れるしるし」を予告されています(21:25)。来るべきキリス 
                         
                        ト再臨のしるしです。その日に愛なる神の創造のみ業が完成される、との約束は私達 
                         
                        の最終的希望です。このことを信じて、闇の世を生けるイエスと共に賛美の毎日を送 
                         
                        りたいと思います。   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年6月30日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「十字架上の二人の犯罪人」 ルカによる福音書23:39~43 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長沢玲子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        前講:横山宜和 「悪魔と教会の対決」 ヨハネ黙示録12:1~9 
                              
                        イエスは弱く貧しい人に福音を告げてこられましたが、今彼と共に十字架に付けられ 
                         
                        ている最も惨めな一人に祝福を約束して、宣教を終わられます。イザヤが「犯罪人の一 
                         
                        人に数えられた(53:12)」と預言した贖い主の務めを果たされたのでした。 
                         
                         
                        左右に二人の犯罪人がいましたが、一人はイエスを罵り、一人はイエスがメシアであ 
                         
                        ることを信じてイエスと共にパラダイスに入ることを約束されました。重大な区別が生 
                         
                        じましたが、それは「罪の認識」の有無によると思われます。罪の赦しこそが救いであ 
                         
                        ることが十字架上のイエスの言葉「父よ、彼らを赦してください(23:37)」に明示され 
                         
                        ていました。 
                         
                         
                        確実なことは、十字架上で悔い改めた犯罪人が示す通り、イエスを信じて受け容れ、 
                         
                        交わりに入れていただくとき、パラダイスは開かれている、ということです。イエスと 
                         
                        共にあるとき、罪はもはや存在しませんから。そして驚くべきことに、イエスは復活さ 
                         
                        れて、いつも私たちの傍らに来てくださっています。そのことに眼を開かれて、日々生 
                         
                        けるイエスを心の中心にお迎えすることが求められています。 
                         
                         
                        もう一人の犯罪人はどうなったでしょう、そして私たちは?死んだ後の処遇は神のみ 
                         
                        手の中に秘められていますが、聖書に記される神の愛を学ぶとき、十字架のイエスに顕 
                         
                        われた救いに漏れる人は一人もいないと信じることが出来ます。 (秀村記) 
                         
                         
                        2024年6月23日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「パウロの回心」 使徒言行録9:1~19a 
                         
                        講話:秀村興子ほか婦人会メンバー(宮崎、長澤澄、三苫、長澤玲、赤塚、鎌田良、 
                         
                           日比、大園、小林)、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        サウロはシリヤ地方に新しく生まれたキリスト教団の人々の宣教の内容を知って 
                         
                        驚きと激しい怒りに捕らえられた。これらのキリスト教徒の唱えている自由な律法 
                         
                        理解がパウロの持つ厳格なパリサイ派的な律法理解と正面衝突し、サウロはキリス 
                         
                        ト教徒に対する烈しい迫害者となった。サウロは大祭司からの権能の委託を受けて 
                         
                        キリストの道に従う人々を捕まえようと護衛を従えて旅立った。ダマスコに近づい 
                         
                        た時に突然天から光が彼の周りを照らし「サウルサウル、なぜ私を迫害するのか」 
                         
                        というイエスの声を聞いた。地に倒れ目が見えなくなっていた。サウロはキリスト 
                         
                        教徒たちが言っていた、十字架にかかって死んだイエスが復活して神の子と定めら 
                         
                        れたということを思い出し、復活のイエスであると直感した。それと同時に自分の 
                         
                        信仰の視野の限界に気づかされた。イエスの道こそが真理であると、パウロはその 
                         
                        生涯において、初めて真に仕えるべき方に出会いその事実に圧倒されていた。 
                         
                         
「異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために私が選んだ 
                         
                        器である。」と、イエスキリストの名を異邦人に伝えるために、キリストが自らサ 
                         
                        ウロをご自分の使徒に召された出来事であった。自分の果たすべき使命を与えられ 
                         
                        てサウロは無条件に従う。伝道者パウロの誕生である。  (秀村興子記) 
 
                         
                        2024年6月16日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「十字架のイエス」 ルカによる福音書23:33~38 
                         
                        講話:秀村弦一郎(ゴルゴダの地等の写真:於保泰正) 
                         
                        司会:小林典子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        自分の幸せを求めるとき、人は神から離れます。受難物語に繰り返される「侮辱」 
                         
                        (民衆も、ローマとユダヤの支配者も、一緒に十字架につけられた犯罪人も)がそれ 
                         
                        を示していますが、イエスを侮辱しているこの場面の人々と私たちは無関係ではあ 
                         
                        りません。神を知らぬ者も知る者も、神を侮って神の戒めを守りません。どんな小さ 
                         
                        な神への背きも神は全てをご存じの方、恐ろしいことです。神の前に立たされるとき、 
                         
                        私たちはイエスを十字架につける者の一人であることを突き付けられます。 
                         
                         
十字架上でイエスは私たちの罪を赦し給いました。「赦し」を与えられた私たちは、 
                         
                        死(裁きの実)から解放されます。それは命が救われること。即ち十字架に於いて私 
                         
                        たちの罪は、イエスの命と交換されるのです。イエスは復活されて、本来お持ちの永 
                         
                        遠の命を回復されました。そして私たちが復活のイエスと共に生きるとき、交換され 
                         
                        たことによる新しい命としてイエスの永遠の命を生きることが許されます。ここに、 
                         
                        神の創造の業の完成が先取りされます。生けるイエスを心に迎えて歩むとき、私たち 
                         
                        は終末時の喜びの前味を味わわせていただくのです。その完成はイエス再臨の時ですが…。 
                         
                         
聖書が終末時に為されるという神の裁き(マタイ25:21以下など)を怖れねばならな 
                         
                        い私たちに、イエスが十字架上で告げられた「赦し」は大いなる希望であり、感謝です。  
                         
                        (秀村記) 
 
                         
                        2024年6月9日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「イエスは違った仕方で見給う―バルト神学が拓く信仰の世界」 
                         
                                         ヨハネ福音書9:1~3 
                         
                        講話:寺園喜基先生(西南大学前理事長)、司会:三苫恵子、奏楽:山浦敬子 
                         
                         
イエスの弟子たちが、盲人の不幸についてイエスに因果応報論で質問しますが、 
                         
                        イエスは彼が盲人なのは「神の業がこの人に現れるためである」と言われて、癒し 
                         
                        の業を現わされされました。この盲人は二千年前にイエスの前に座っていたのです 
                         
                        が、この人に於いて全人類が、従って私自身が含まれているのです。私たちは見え 
                         
                        ていると思っていますが、本当に見るべきものが見えていないのではないでしょう 
                         
                        か。罪の本姓の故に、心が盲目になっているのです。この私たちに恵みと光である 
                         
                        イエスが声をかけ、出会って下さるのです。私たちが求める前に、イエスの方から 
                         
                        先に、声をかけて下さるのです。私たちに求められていることはこの声を聴き、応 
                         
                        答することであります。イエスは他の人々とは違った仕方で他の人々よりも先に、 
                         
                        私たちを見ておられ、私たちの中に神の祝福を見ておられるのです。 
                         
                         
このようにイエスのメッセージを聴きましたが、私は聖書の読み方をK・バルト 
                         
                        から学びました。バルトはその主著『教会教義学』を「神、語り給う」から始めて 
                         
                        いますが、バルトの思考の方向は「神が問い、人間が答える」という方向です。宗 
                         
                        教は「人間が問い、神が答える」という方向で考えます。困難にあって人間は神に 
                         
                        問い助けを求めますが、バルトは困窮の中でどう祈っていいか分からない私たちに、 
                         
                        神が語り掛け給うと言います。「私はここにいる、あなたと共にいる」と。(秀村記) 
 
                         
                        2024年6月2日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の力」 コリントの信徒への手紙 一4章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子、奏楽:山浦敬子 
                         
                        
                        コリントの信徒への手紙一の4章は、前章までと違って、コリントの信徒たち 
                         
                        を強く戒める内容になっています。 
                         
                         
                        最初に、パウロたちはキリストに仕える者、神の秘儀の管理者であると述べて 
                         
                        います。それは、自分たちが、身を低くして福音をありのままに伝える存在であ 
                         
                        ることを示したものでした。しかし、コリントの信徒たちは、派閥を作って争っ 
                         
                        ていました。それぞれが、他方に対して高ぶっていました。そのことについて、 
                         
                        パウロは皮肉を込めて述べています。7節から8節にかけては、あなたがたは王に 
                         
                        なっていると痛烈にコリントの信徒たちを批判しています。 
                         
                         
                        14節以下では、諭す口調に変わっています。コリントの指導者たちを養育係 
                         
                        と呼び、パウロは自身を父親としています。そして、16節では、「私に倣う者 
                         
                        となりなさい。」と述べています。一見、パウロの傲慢な言葉のように思われま 
                         
                        すが、パウロたちが、身を低くして伝道する姿に倣ってほしいとの願いから出た 
                         
                        言葉でした。テモテをコリントの信徒の元に派遣したのも、テモテの主にあって 
                         
                        忠実な姿を見て、キリスト・イエスにあるパウロの生き方を思い起こさせるため 
                         
                        でした。
 
                         
                         
                        1章18節に、「十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かなものですが、私たち 
                         
                        救われる者には神の力です。」という言葉があります。私たちは、キリストの死と 
                         
                        復活による力によって救われているのです。              (渕上記) 
                        
 
                         
                        2024年5月26日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「聖霊による望み」 ローマの信徒への手紙15:1~13 
                         
                        講話:市村昭三、司会:於保さつき 
                         
                        
                        パウロは、強い者は強くない者の弱さを担うべきだ、そして皆が一致するように、 
                         
                        と言いますが、その強い者、弱い者は健康や知力などの強弱をいうに限らず、罪の 
                         
                        問題も考えていると思われます。神に敵対する者の罪をイエスが担われて、皆がお 
                         
                        互いに良い交わりをもてるようにされたことに倣うように、と勧めています。パウ 
                         
                        ロはイエスの十字架による和解を指し示しながら、多様な人がいるローマの信徒た 
                         
                        ちの和解と一致を祈っているのです。 
                         
                         
                        ローマの信徒たち内部でのこの問題は、イエスによる救いがこの世に到来したと信 
                         
                        じる私たちキリスト者が、それを信じないこの世の人々と生きていく時に問われる問 
                         
                        題でもあります。 
                         
                         
                        パウロの心を占めているのは、9~11章で述べた「ユダヤ人の救い」でありました。 
                         
                        先立って異邦人が救われて、次にユダヤ人も救われるとし、かくて全人類が救われる、 
                         
                        と考えました。信仰の強者と弱者の一致を祈り勧めつつ、パウロはここに旧約聖書を引 
                         
                        用して、異邦人とユダヤ人の救いを再び採り上げます。イエスがユダヤ人として誕生さ 
                         
                        れ、異邦人に神を賛美することを教え、やがて異邦人がイエスに希望を置くようになる、 
                         
                        と。 
                         
                         
                        ローマの信徒たちの一致という日常的、具体的問題を念頭にもちながら、パウロは宇 
                         
                        宙的規模の壮大な喜びと平和をを祈ります。最後に、霊によって万物の希望が満ち溢れ 
                         
                        るように、との祝祷をもって結びとしています。      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年5月19日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「ヴィア・ドロローサ」 ルカ福音書23:26~32 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:山口洋子 
                         
                        前講:横山宜和「主の御怒りの日=ヨハネ黙示録11:14~19」 
                         
                         
前日から一睡も出来ぬまま憔悴されている上に鞭打ち迄受けられたイエスは、刑 
                         
                        場まで十字架を運ぶことが出来ません。代わりに「十字架を負ってイエスに従う者」 
                         
                        の幸いに恵まれたのは、偶々そこを通りかかったキレネ人シモンでした。受難予告 
                         
                        も聞かされ、師に従う覚悟をあれ程強弁していたペトロ以下の弟子の姿はありません。 
                         
                        主が用い給うのは人間的に頑張る強者ではなく、ローマ兵に徴用された“ただの人” 
                         
                        でした。神は私たちをも、そのような形で召されるようです。「主がお入り用なので 
                         
                        す」とされる子ロバ(19:31)は、素直に主のお召しに従えば良いのです。(シモン一 
                         
                        家は後にキリスト者になりました。) 
                         
                         
ヴィア・ドロローサ(苦難の道)を大勢の女たちが嘆き悲しんでイエスに従いました。 
                         
                        エルサレムの崩壊を見据えておられるイエスは、振り向いて「私のために泣くな、自分 
                         
                        と子供のために泣け」と言われます。当時蔑まれていた彼女たちを襲うであろう苦難は、 
                         
                        宗教的・政治的強者の罪によるもの。イエスは彼らの罪、また自らの罪にも苦しむ女性 
                         
                        達に寄り添われました。 
                         
                         
全ての人が神から与えられた「義と愛」を拒み、神の許に立ち帰ることが出来ません。 
                         
                        しかし、イエスはそのような罪の塊である私たちよりも更に低いどん底で私たちを支え 
                         
                        て下さっています、それが十字架。全ての人の罪をイエスは十字架上に引き受け、担い 
                         
                        給いました。十字架のイエスを仰ぐことによってのみ、私たちは神に立ち返ることが出 
                         
                        来るのです。                     (秀村記) 
 
                         
                        2024年5月12日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ガリラヤでお会いしよう」 マルコ16:1~8 
                         
                        講話:養光博先生(日本基督教団)、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        十字架で亡くなったイエスの遺体への塗油に来た女性達に天使が告げたのは 
                         
                        「ここにイエスはおられない、ガリラヤで会える」という生前イエスが言われ 
                         
                        た言葉でした。イエスが生前群がる弱者に寄り添われたのがガリラヤです。私 
                         
                        達にとって、復活のイエスに出会えるガリラヤはどこなのでしょうか? 
                         
                         
「犬養にとっては筑豊がガリラヤだ」と書いてくれた牧師がいます。学生時 
                         
                        代に、無知だった筑豊に子供たちへの活動に参加したのが契機となったのです 
                         
                        が、最も深く影響を受けた一人が上野英信先生です。2冊の岩波新書(『追わ 
                         
                        れゆく坑夫たち』、『地の底の笑い話』)に先生が如何に筑豊の人々の魂に迫 
                         
                        られたかが表れています。「生まれ変わるとしたら、坑道で石炭を運ぶ馬車馬 
                         
                        に生まれたい」と言った老婆。最も重い差別を受けた人間ならではの、棄てら 
                         
                        れた坑夫達への連帯意識に衝撃を受けられたこと等。晩年の先生は「これから 
                         
                        どういう仕事をしたいですか?」とのインタビューに「これからは死ぬための 
                         
                        仕事がしたい、それは蚕が繭を作るような仕事」と答えられています。筑豊の 
                         
                        人々の魂に触れることを通して、これからの希望である「光」に、そして「永 
                         
                        遠」に触れておられたのだと思います。「筑豊よ、日本を根底から変革するる 
                         
                        つぼであれ、火の粉であれ」が先生の遺言です。先生にとってのガリラヤは筑 
                         
                        豊でした。 
                         
                         
私のガリラヤの拠点(福吉伝道所)に集まった人々がイエスを連れて来て下 
                         
                        さったことを憶えて感謝に満たされます。これからも繭を作り続けさせて戴く 
                         
                        ことを祈っています。              (秀村記) 
 
                         
                        2024年5月5日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神に仕える」 コリントの信徒への手紙 一 3章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        3章の冒頭で、パウロはコリントの信徒達に、幼子に対するように語った 
                         
                        と述べています。それは、彼らがまだ肉の人であり、真理を理解出来ないと 
                         
                        考えたからでした。派閥を作って争いをするようでは、神の霊を受けること 
                         
                        が出来ず、神の恵みを理解することが出来ないからです。 
                         
                         
パウロは農業を譬えに出し、パウロもアポロも、神に仕える者として、植え、 
                         
                        水を注いだだけで、成長させてくださったのは神であると述べています。パ 
                         
                        ウロやアポロは、神の協力者であり、コリントの信徒達は神の畑、神の建物 
                         
                        と言っています。 
                         
                         
また、パウロは神の恵みにより賢い建築家のように土台を据えたと述べていま 
                         
                        す。それは、イエス・キリストという土台であり、その土台の上にどのような 
                         
                        家を建てるかは各人に任されており、審判の日に火によって試されるとしてい 
                         
                        ます。ただ、火の中にあったとしても、審判はその仕事に対してなされます。 
                         
                        ですから、イエス・キリストを信じる人は、火の中をくぐるように救われると 
                         
                        述べています。人は、神の神殿であり、神の霊が人の内に住んでいるとも語っ 
                         
                        ています。 
                         
                         
ヨブ記や詩編の一節を譬えに出し、人間を誇ってはならないこと、この世の 
                         
                        ものは神によって与えられたものであり、すべての人はキリストのものであり、 
                         
                        キリストは神のものであると述べています。わたし達は、イエス・キリストに 
                         
                        結び付くことによって、神と結びつくことが出来るのです。     (渕上記) 
 
                         
                        2024年4月28日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「死刑の判決」 ルカによる福音書23:12~25   
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:下田妙子 
                         
                        
                        イエスの裁判でローマ総督ピラトは、3度迄もイエスの無罪を明言しますが、ユダヤ人 
                         
                        宗教家たちに扇動された民衆の圧力に屈して、遂に死刑の判決を下します。実質的にイエ 
                         
                        スの殺害を決めたのはピラトではなく、最高法院のユダヤ人宗教家たちと、1週間も経た 
                         
                        ぬ前にイエスを歓呼して迎えていながら豹変した民衆でした。特赦を受ける者として、イ 
                         
                        エスでなく犯罪人バラバを選んだのは常軌を逸しています。神から贈られた神の子を殺害 
                         
                        するというユダヤ人の罪が、ここに暴露されました。 
                         
                         
                        この場面に登場する全ての人(自己保身のためにイエスの招きに背を向けて敵視する宗 
                         
                        教指導者たち、扇動者に惑わされる民衆、責任逃れのために手を洗うピラト)の姿に、私た 
                         
                        ちは自分自身の姿を見ます。私たちは同じ罪の子であるバラバの末裔の命乞いをしながら、 
                         
                        イエスを十字架につけつつあるのです。 
                         
                         
                        怒号が飛び交い収拾がつかぬようにみえるこの場面を支配しておられるのは、実は沈黙 
                         
                        を貫かれたイエスです。この場を覆っているのは神の人類救済の意志、即ち神の愛に他な 
                         
                        りません。人間の罪が暴かれ、神の赦しがイエスの沈黙に顕れています(イザヤ53章の 
                         
                        「苦難の僕」の成就)。私たちは、今日も沈黙されている神の愛を聴き取っているか、が 
                         
                        問われます。 
                         
                         
                        イエスがこの世から絶たれたのは「私たちの背き」のため。私達に代って打たれたイエ 
                         
                        スの傷によって私達は癒されるのです。神の救いのみ業(十字架)に縋りたく思います。 
                         
                                                          (秀村記)) 
                        
 
                         
                        2024年4月21日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「見よ、この人だ」 ヨハネ福音書19:1~16 
                         
                        講話:婦人会メンバー(小林典子、宮崎禎子、赤塚久仁子、鎌田良子、三苫恵子、 
                         
                                   長澤玲子、秀村興子)   司会:村上思門 
                         
                        
                        「見よ、この人だ」ピラトがイエス様への蔑みを込めて言ったこの言葉は、今、全く違った 
                         
                        意味で私達の心に響いています。この御方こそ、真の光だという事です。どんな、闇の中で 
                         
                        も輝いている十字架の光です。また、ピラトは言います。「おまえはどこから来たのか。」 
                         
                        ヨハネ1章1節「世の初めにすでに言葉(ロゴス)はおられた、言葉「ロゴス」は神と共にお 
                         
                        られた。一切のものはこの方によってできた。出来たもので、この方によらずに出来たもの 
                         
                        は、ただの一つもない」 
                         
                         
                        「そして、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を(神の子であることを)信じた人 
                         
                        には一人残らず、神の子となる資格をお授けになった。」という約束が与えられています。 
                         
                        私達はどんな闇の中に居る時でもイエス・キリスト様の十字架の輝く光を見、約束を信じて 
                         
                        歩んで行きたいです。 
                         
                         
                        また、この御方イエス・キリスト様を信頼して祈る時、その人の願いは最終的には解決して 
                         
                        くださるということも教えられました。 
                         
                         
                        久しぶりに婦人会のメンバーの方達と共に、ヨハネ福音書を学ぶことが出来感謝です。 
                         
                         
                        今回から新しい方が二人婦人会に参加されました、また次回から、もう一人の方も参加され 
                         
                        る予定です。                      (小林典子記) 
                        
 
                         
                        2024年4月14日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ピラトとヘロデの尋問」 ルカによる福音書23:1~12 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:白井淳子 
                         
                        前講:「ヨハネの黙示録10章-神の秘儀が成就する」横山宜和 
                         
                        
                        最高法院のメンバーたちはイエスを反ローマ闘争の首謀者(政治犯)として、死刑の権限 
                         
                        を持つローマ総督ピラトに訴えました。イエスは自分がメシア(ユダヤ人が待望する地上の 
                         
                        王)だと僭称して民を惑わしている、と。ピラトの尋問「お前はユダヤ人の王なのか」に 
                         
                        対するイエスの応答は「ご意見に任せる」でした。不当な訴えと感知したピラトは無罪を明 
                         
                         
                        言します。 
                         
                         
ピラトは裁判をイエスの出身地ガリラヤ領主・ヘロデに回します。かねてイエスに興味 
                         
                        を持っていたヘロデは喜んで尋問しますが、イエスは無言を貫かれました(イザヤ53:7の 
                         
                        苦難の僕を想起)。それを侮辱ととったヘロデも、兵士たちとイエスを侮辱しました。王 
                         
                        服を着せられたイエスはピラトの許に戻されます。嘲りの王服は、ヘロデも無罪宣告をし 
                         
                        たしるしです。 
                         
                         
ルカは詩編2編がこの場面を予表したと記しています(使徒4:27~28)。神は全地の 
                         
                        支配を油注がれた者(メシア)に委ねられるというこの詩の主張が、イエスの到来によっ 
                         
                        て実現しました。イエスは、人々が期待した力ある王としてではなく、十字架に死に給う 
                         
                        苦難の僕としてのメシア(罪からの贖い主)なのです。復活されたイエスは聖霊として私 
                         
                        たちを支え、共に歩んで下さっています。この場面と同じく暗黒の世に生きる私たちも 
                         
                        「光の子」として、希望に生きたいと思います。            (秀村記) 
 
                         
                        2024年4月7日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の霊」 コリントの信徒への手紙 一2章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤玲子 
                         
                        
                        コリント信徒への手紙一第2章は、1節から5節までの部分と6節から16節ま 
                         
                        での部分の2つの段落に分かれています。 
                         
                         
前半では、コリントへの伝道の際に、雄弁さや人間的な知恵を用いなかったとパ 
                         
                        ウロは述べています。十字架につけられたキリストによる福音以外は何も語らなか 
                         
                        ったからです。コリントに行った時には、衰弱して不安な状態でしたが、人の知恵 
                         
                        に頼らずに、神の力により行うことが出来ました。 
                         
                         
後半では、神の霊について語っています。信仰的に成熟した人たち、神の霊を与 
                         
                        えられた人たちは、神の知恵を知ることが出来ること、この世の支配者たちは、こ 
                         
                        の知恵を理解出来なかったことを述べています。また、イザヤ書を引用して、見た 
                         
                        ことも聞いたこともない、思いもしなかったことを、神は私たちのために準備され 
                         
                        たと語っています。 
                         
                         
                        神は、霊を通して神の知恵を示されます。霊は、あらゆることを、神の 
                         
                        御心の深いところまでも見抜くのです。生まれながらの人間は、神の霊を 
                         
                        持たず神のことを理解することが出来ません。反対に、神の霊を持つ人は 
                         
                        すべてのことが判断出来るようになるとパウロは述べています。そのこと 
                         
                        により、神の思いを知ることが出来るのです。真に神の思いを知るには、 
                         
                        神の霊が与えられることが必要となります。キリストを信じる者は、キリ 
                         
                        ストの霊を持ち、その心を持つことが出来ます。そのことにより、神の思 
                         
                        いを知ることが出来るのです。      (渕上記) 
                         
                         
                        2024年3月31日(日)イースター集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「パウロのキリスト論」  ガラテヤ人への手紙3:1~14 
                         
                        講話:香西信氏(岡山聖書集会)、司会:松尾晴之 
                         
                         
                        信仰だけではなく律法も必要だ、と変節したガラテヤの信徒達にパウロは「馬鹿 
                         
                        者!」と叱っています。アブラハムを見よ、彼が義とされたのは、神を信じたから 
                         
                        (創世15:6)であって、律法を守ったからではないではないか、と。ではパウロが 
                         
                        「呪い」とまで言って攻撃する律法とは何でしょうか?  
                         
                         
                        イスラエルの民は、神の導きと約束に信頼する信仰に基盤を起きましたが、信仰 
                         
                        とは、「神の戒めを忠実に守ることだ」と考えました。信仰を業績ととる(信仰と 
                         
                        いう業=わざ=ととる)のです。パウロは、そうではない、信仰は「キリストを通 
                         
                        して神から一方的に与えられる恵み」である、と諭します。 
                         
                         
                        熱心なユダヤ教徒で、キリスト教徒を迫害していたパウロは、復活のイエスとの 
                         
                        出会いによって、律法が神への反逆(罪)の拠点となることに目を開かれたのです。 
                         
                        彼が知ったことは、全人類が捕われているその「呪い」を、イエスが引き受けてく 
                         
                        ださった(贖いの死)こと、従って律法は不要、十字架のイエスによって与えられ 
                         
                        た恩恵を信じるだけで良い、ということでした。ここに、異邦人も罪から救われる 
                         
                        道が開かれ、新しいときが到来したのです。 
                         
                         
                        私達に求められることは、あるがままで(律法不要)イエスを信じ、その招きに 
                         
                        従うことです。罪の苦しみ、悩みから解放して下さるイエスを仰ぎつつ歩みたいと 
                         
                        思います。 
                         
                         
                        集会後、希望者で香西氏とランチを共にしました。    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年3月24日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「『強い人たち』への勧告 ― 兄弟を罪に誘ってはならない」 
                                   ローマの信徒への手紙14:13~23 
                         
                        講話:市村昭三先生(天神聖書集会)、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        神の裁きがあることを述べたパウロは、相手を裁くのをやめなさいとの勧めから 
                         
                        一歩進めて、相手に対して思いやりの心をもつように、と積極的な指示に移り、信 
                         
                        仰の「強い人」は信仰の「弱い人」に対して思いやりの心を持つように勧告します。 
                         
                         
                        彼にとって「食の問題」は大きな問題でした。回心後間もない時に、アンティオ 
                         
                        キアで誕生したばかりのキリスト教会の指導者ペトロたちと袂を分かつ原因となった 
                         
                        のが、偶像に捧げられた肉を食べて良いかという「食の問題」でした。イエスに倣っ 
                         
                        て何でも食べて良いとする「強いパウロ」は、古い律法に囚われているペトロ達を 
                         
                        「弱い」となじったのでした。 
                         
                         
                        しかし、成熟したパウロは、「何でも食べて良いという自由な態度」が、弱い人を罪 
                         
                        に誘うことのないように気をつけなさい、と諭します。強い人たちに対して、福音の自 
                         
                        由(信仰の真理)は愛として現わされなければならない、と警告するのです。ある食物 
                         
                        が汚れていると判断する「弱い人」に「強い人」が、汚れていないのだから食べるよう 
                         
                        に、と強要するのは愛に従って歩んでいるとは言えない、思いやりを持ちなさい、と諭 
                         
                        します。 
                         
                         
                        同じキリスト信徒の間においてすら、信じる教義や宗派の違いの故に席を共に出来ない、 
                         
                        という例は今も絶えることがありません。生けるキリストの許での一致、罪の赦しと神の 
                         
                        救いを告げ合い、祝福を祈り合うことが大切なのです。            (秀村記) 
                         
                         
                        2024年3月17日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「雅歌8 何よりも強い愛」 雅歌8章 
                         
                        
                        講話:鎌田厚志、司会:山口洋子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        雅歌第八章の最初の箇所は、受肉した神への愛と信頼を述べていると受けとめるこ 
                         
                        とができます。キリストの福音を母国の文化にしっかりと受け入れ、しっかりと神に 
                         
                        支えられて生きていく生き方が示されます。また、愛は自発的なものであるべきこと 
                         
                        が、雅歌中三度目に繰り返されて伝えられます。 
                         
                         
                        キリストを信じる人は、キリストに寄りかかり、死から生へ、罪から自由に移ります。 
                         
                        この地球の生命の歴史(進化系統樹)の中に、神が受肉して救いをもたらしてくださっ 
                         
                        たこと。このような神の真実の愛を受け入れた時に、印章が浮かび上がるように、私た 
                         
                        ちの心には信仰が起こります。また、私たちは生命の書に自らの名前が記されることを 
                         
                        願って生きていきます。 
                         
                         
                        死はあらゆる人に臨む最強のものですが、この死と同じく強く、死に打ち克つ唯一 
                         
                        の力が愛であることを雅歌は告げます。神の熱情・愛の炎は、冷淡や虚無に打ち克ち、 
                         
                        私たちの心を燃え立たせて、愛に生きる真の生き方に目覚めさせます。このようなキ 
                         
                        リストの愛を土台とする人は、決して人生の困難の大波にも流されず、しっかり生き 
                         
                        ることができます。 
                         
                         
                        愛は金では手に入れることができません。私たちは神や隣人との愛の交わりという 
                         
                        真の豊かさに招かれています。信仰者は、愛によって、神や人から求められる以上の 
                         
                        働きを自発的に行い、再臨の希望に生きていくことができます。このようなキリスト 
                         
                        教信仰の真髄を、雅歌八章を通じて学びました。        (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2024年3月10日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「ヨハネの黙示録10章-神の秘儀が成就する」 横山宜和兄による感話 
                         
                        「侮辱と最高法院の取調べ」 ルカによる福音書22:63~71 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        夜が明けて最高法院のメンバーはイエスの取調べを始めます。彼らはイエスを政治 
                         
                        犯(メシアを名乗る反ローマ革命のリーダー)としてローマの官憲に告発しようと企 
                         
                        みます。イエスに自分が「メシア」であると言わせようとして失敗、「神の子」であ 
                         
                        るとの言質を引き出し、それで十分だとしました。彼らの告発の根拠が極めて弱く、 
                         
                        虚偽であることは明らかです。 
                         
                         
                        宗教指導者ともあろう者が、何故イエスの自己啓示(神の子である)を受け容れない 
                         
                        のでしょうか?ここに彼らの「闇の心」が暴露されます。罪からの救出のため独り子を 
                         
                        送り給うた神の愛を拒絶することに、罪の極みが表れています。 
                         
                         
                        イエスはご自分に敵対する者たちの為に、命を棄てられるでしょう。しかし神は、イ 
                         
                        エスに敵対する自由を彼らから奪われることはありません。取調べ前の深夜に、大祭司 
                         
                        の手下どもから侮辱されたイエスこそ、実は「神の右に座る方」なのです。 
                         
                         
                        黙って侮辱に耐えられるイエスの姿に、私たちの神が如何なるお方であるかが表れて 
                         
                        います。高みにあって私たちを見下ろす近寄り難い君主ではなく、最も低い所で苦しむ 
                         
                        私たちに寄り添い、支え給うお方です。「貧しい人、悲しむ人、へりくだった人は幸い 
                         
                        だ。私のために罵られ、迫害され、悪口を浴びせられるとき、喜べ」と教えられたイエ 
                         
                        スの父なのです。                       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年3月3日(日)集会(ZOOM同j配信) 
                         
                        「主を誇れ」 コリントの信徒への手紙 一 1章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                             
                        コリントの信徒への手紙一は、16章からなっており、コリントの教会の分裂、疑問点 
                         
                        への回答、死者の復活について書かれています。また、13章には、有名な愛の賛歌があ 
                         
                        ります。 
                        1章では最初にイエス・キリストへの感謝の言葉が述べられます。3節では神とイエ 
                         
                        ス・キリストから恵みが与えられ、それによって平和があるようにパウロは祈ります。 
                         
                        また、7節ではキリストの再臨を待ち望んでいると語っています。10節以下で、コリント 
                         
                        の教会内部での争いがあることに言及し、仲たがいせず、心を一つにし、思いを一つにす 
                         
                        るよう諭しています。 
                         
                         
                        当時コリントの教会内では、パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派などの派閥に 
                         
                        分かれて争っていました。これに対して、パウロはキリストの名によって一つになるよう 
                         
                        命じています。キリストの十字架も洗礼もキリストの名のもとに行われたことに意味があ 
                         
                        るのであり、個々人の価値を論じ合うことは意味のないことだと語っています。また、パ 
                         
                        ウロは洗礼をするためではなく、福音を延べ伝えるためキリストによって遣わされたのだ 
                         
                        と述べています。18節以下では、イザヤ書の言葉を引用し、世の知恵ではなく、神からの 
                         
                        恵みによって十字架のキリストが理解できることを伝えています。最後に、神が召される 
                         
                        のは、弱い者、世の取るに足りない者、軽んじられている者であり、それは神の前で自分 
                         
                        を誇らず、神を誇ることこそが大切であるからだとパウロは述べています。
     (渕上記) 
                        
 
                         
                        2024年2月25日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「ペトロの否認とイエスの眼差し」 ルカによる福音書22:54~62 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:於保さつき 
                         
                         
                        イエスを捕縛した宗教指導者たちは、イエスを亡き者とすべく最高法院の審判を意 
                         
                        図します。生死の係る事案の審議は日中との決まりでしたので、夜明けまでイエスは 
                         
                        大祭司の家に拘留されました。ペトロは遠くからイエス一行に付いて行きます。最後 
                         
                        の晩餐の席上での、イエスと共に死をも覚悟するとの約束を守ろうとしていますが、 
                         
                        思いがけない事が起こりました。 
                         
                         
                        ペトロが大祭司邸の中庭で人々と焚火に当たっている時、召使の女にイエスと一緒に 
                         
                        いたと言われ、咄嗟の自己保身から否定します。なんとそれが3度に及びました。あれ 
                         
                        ほど何度もイエスに従うと決意表明していたのに。「私を否む者を、私も神の前で否認 
                         
                        する(10:33)」とイエスに言われていたことをやってしまったのです。イエスの予言 
                         
                        通り、3度目の否認と同時に鶏が鳴くと、イエスは振り返ってペトロを凝視されます。 
                         
                        我に返ったペトロは外に出て激しく泣くしかありませんでした。 
                         
                         
                        復活後イエスは、挫折に終わったペトロを執り成されています。イエスの「あなたは 
                         
                        私を愛するか」に始まるペトロとの3度繰り返される問答です(ヨハネ21:15~19)。 
                         
                        そしてペトロに「私の羊を飼いなさい」と、イエスを継ぐ福音宣教のリーダーを託された 
                         
                        のでした。イエスの祈り(22:32)通り、ペトロはパウロと共に伝道活動に邁進する者 
                         
                        となりました。 
                         
                         
                        イエスの「最も重要な掟」の教え「心を尽くし、…あなたの神を愛しな 
                         
                        さい」を改めて心に刻みたいと思います。(秀村記) 
                         
                         
                        2024年2月18日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「雅歌7 私を求める神」 雅歌7章 
                         
                        
                        講話:鎌田厚志、司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                              
                        雅歌第七章冒頭では、第六章の内容を受けて、おとめたち(世の人々)が、「戻れ」 
                         
                        とおとめ(信仰者・エクレシア)を引き止めようとします。信仰者は世俗の誘惑や試み 
                         
                        に遭いますが、神への愛によってそれらを乗り越えていくことができます。 
                         
                         
                        続いて、若者(神)は信仰者を讃える愛の言葉を語ります。数々の褒め言葉は、神へ 
                         
                        の信仰により神の生命が満ち満ちた信仰者を、神は喜び愛してくださっていることを象 
                         
                        徴的に語っているものと受けとめることができます。私たちは一人一人が神の作品であ 
                         
                        り、かけがえのない尊さを持っている存在です。 
                         
                         
                        さらに、信仰者の側が、自分は神のものであり、神が自分を求めているという自覚を 
                         
                        語ります。聖書の神は、信仰者一人一人を求める神です。それぞれが、その人にとって 
                         
                        固有の道のりによって、神へと導かれ、神を愛する信仰を賜り、神と共に歩むようにな 
                         
                        ります。信仰者は、この自覚に立つ時、広々とした野原を歩む自由を得ることができます。 
                         
                         
                        最後に「新しい実と古い実」について語られますが、これは新約と旧約の聖書の御言 
                         
                        葉と受けとめることができます。あるいは、各民族固有の歴史が古い実で、聖書という 
                         
                        新しい実とともに、自国の古典や歴史を魂の糧とすることだと思われます。 
                         
                         
                        雅歌七章を通じて、神が信仰者一人一人の、他ならぬこの私の、愛を求め、導いてく 
                         
                        ださっているということを学びました。         (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2024年2月11日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                         「イエスの捕縛」 ルカによる福音書22:47~53 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        まず、横山宜和兄により「ヨハネの黙示録9:12~21-巨大なる災い」を学びました。 
                         
                         イエス捕縛の表の主役はユダであり、隠れた主役は大祭司です。そして裏でサタンが 
                         
                        彼らを操っています。イエスの逮捕は、オリーブ山の祈りで確定した路線(神の救済計 
                         
                        画)が前進する第一歩ですが、その路線は十字架の死に向かうのです。 
                         
                         
                        ユダは愛と敬意の表現である接吻をもって、イエスを売り渡しました。サタンに入ら 
                         
                        れた(22:3)ユダの罪の醜悪さ!しかしイエスはユダに憐れみの言葉をかけられたの 
                         
                        でした(48)。ユダの罪を思う時、我が事としてイエスに縋るほかありません。 
                         
                         
                        イエスはサンヘドリン・メンバーの企みによって、危険人物として捕縛されました。 
                         
                        大祭司以下の支配者は神から与えられたこの世の権威をわが物とし、サタンの手先とな 
                         
                        ってイエス逮捕の黒幕となったのです。支配(政治的・宗教的)の地位にある者がサタ 
                         
                        ンの手に落ちぬよう、私達は祈らねばなりません。 
                         
                         
                        荒野でサタンの誘惑を退けられたイエスが、この場面ではサタンに身を任せられたと 
                         
                        は、驚くべきことです。サタンの「飛び降りてみよ」を荒野の誘惑では拒否されました 
                         
                        が、十字架に飛び降りられました。「御心のままに」と祈られたイエスは、サタンが荒 
                         
                        野で用いた聖書の言葉「天使達に命じてあなたを守らせる」を信じ抜かれたのです。オ 
                         
                        リーブ山の祈りの深さを思うと共に、苦難の十字架をもって私たちを救い給うたイエス 
                         
                        への感謝を新たにしたく思います。             (秀村記) 
                         
                         
                        2024年2月4日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「キリストの再臨」 テサロニケの信徒への手紙 一4~5章 
                         
                        講話:渕上明、司会:下田妙子 
                         
                        
                        テサロニケの信徒への手紙一の4章前半では、自分の体を聖なるものとして尊く保つ 
                         
                        よう語られます。また、兄弟愛についてもいっそう励むよう勧めています。4章の後半 
                         
                        では、キリストの再臨について語られています。 
                         
                         
                        パウロはテサロニケでの宣教において十分な時間がなく、キリストの再臨について詳 
                         
                        しく話すことが出来ませんでした。そのためテサロニケの信徒の間で、キリストの再臨 
                         
                        の際すでに亡くなっている人々は主の救いにあずかれないのではないかとの疑念があり 
                         
                        ました。それに対し、キリストの再臨の際は、キリストを信じて亡くなった人々がまず 
                         
                        復活し、続いて生きている人々が復活した人々と共に天に上げられると語っています。 
                         
                         
                        また、再臨の日は突然にやってくると述べています。しかし、イエスを信じて生きる 
                         
                        人々は、皆「光の子」「昼の子」であり、「夜や闇に属している人」とは違っており、 
                         
                        主イエス・キリストによって救いを得るように定められていると語っています。 
                         
                         
                        結びの言葉で、パウロは人々を戒める人を愛すること、平和に過ごすこと、秩序を乱さ 
                         
                        ないこと、気落ちしている者を励ますこと、弱い者を助けること、寛大であること、悪を 
                         
                        もって悪に報いるようなことがないこと、いつも善を行うよう努めることを勧めています。 
                         
                        これらの言葉を日常の生活の中で実践し、主イエス・キリストを信じる人は、キリストの 
                         
                        再臨の際にも天上に引き上げられるのです。          (渕上記) 
                        
 
                         
                        2024年1月28日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「兄弟を裁いてはならない」 ローマの信徒への手紙14:1~12 
                         
                        講話:市村昭三先生(天神聖書集会)、司会:於保泰正、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        イエスは何を食べて良いと教えられましたから、パウロも何でも食べました。そして、 
                         
                        掟で禁じられているもの(豚や異教の祭壇に捧げられた肉など)を食べないキリスト信 
                         
                        徒を古い掟に縛られた「信仰の弱い者」と言い、自身は掟から自由な「信仰の強い者」 
                         
                        であるとしました。しかし、掟から自由であっても、弱い人への思いやりを大切にせよ、 
                         
                        と教えています。 
                         
                         
                        初期のパウロはそうではありませんでした。アンテオキア教会にいたペトロが、エルサ 
                         
                        レムから掟も重視する信徒たちが来たとき、彼らに気兼ねしてペトロは異邦人との食事を 
                         
                        避けたのです。パウロはそのようなペトロ(信仰の弱い者)を許しませんでした(ガラテ 
                         
                        ヤ2:11~13)。その時は原理主義的な厳しいパウロでしたが、この手紙を書いている晩 
                         
                        年のパウロは、信仰の弱い者を受け容れる愛と寛容の人に成長していたのです。   
                         
                         
                        信仰が弱かろうと強かろうと、問題は神が受け入れて下さっているか否かです。その最 
                         
                        終的判断は神がなさること、その信徒を裁かれるのは神であり、周囲の者は全てを神にお 
                         
                        任せすればよいのです。ここにクリスチャンの自由があります。 
                         
                         
                        私たちにも周囲の人々との様々な問題に悩むことがあります。パウロがここで教えてく 
                         
                        れているように、他人を裁くことをせず、お互いを認め合う者でありたい、晩年のパウロ 
                         
                        に倣って日々生けるイエスと共に歩みたいと願います。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2024年1月21日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「雅歌⑥ 唯一の存在としての愛」 雅歌 6章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:長澤玲子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                              
                        雅歌第六章では、第五章の内容を受けて、おとめたち(世の人々)が、若者(神・キ 
                         
                        リスト)はどこにいるのか?とおとめ(信仰者・エクレシア)に尋ねます。おとめは、 
                         
                        若者は園で羊を飼っていると答えた上で、自分と若者は一つだと言います。雅歌2章で 
                         
                        すでに若者とおとめは一つだと述べられていますが、私たちは人生の上で再三再四、神 
                         
                        から離れてはまた神に立ち返り、神と一つになることを繰り返していくのだと思います。 
                         
                         
                        また、続く箇所で、神は信仰者をエルサレムにたとえ、キリストの旗のもとにある信 
                         
                        仰者のことを驚くべき感動するものであると言います。さらには、信仰者一人一人を神 
                         
                        が唯一無二の存在として愛し、母が一人子を愛するように愛していることが告げられま 
                         
                        す。信仰者は暁の光、月、太陽とまで述べられ、そのつぼみや花が見守られます。神の 
                         
                        愛に触れる時、私たちは神を唯一のよりどころとして愛するようになり、神の光を反射 
                         
                        して、世の光となり、実を結ぶことができるのだと思われます。 
                         
                         
                        最後に、信仰者は知らぬ間に「アミナディブ」(高貴な私の民の車)に乗っていると 
                         
                        語られます。私たちは神の導きにより、一人一人気づかぬうちに、エクレシアという車 
                         
                        に乗せられています。この世には多くの困難がありますが、神の愛に触れる時、人は大 
                         
                        きな安心や導きや支えを得ます。これらのことを雅歌六章を通じて学びました。(鎌田記) 
                         
                         
                        2024年1月14日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                         「オリーブ山の祈り」 ルカによる福音書22:39~46 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        本日はまず横山宜和兄による感話「ヨハネ黙示録9章-ばったの襲来」を学びました。 
                         
                        最後の晩餐を終えたイエスは弟子たちを伴ってオリーブ山に向かわれます。重要な局面で 
                         
                        イエスは祈りを欠かされませんが、ここでの祈りは、目前に迫る十字架の為の戦闘準備、 
                         
                        否、闘いそのもの、その勝敗で彼の一生が決する山場でした。 
                         
                         
                        
 
                        かねて彼は受難を覚悟し、弟子たちに予告もしておられましたが、十字架の直前で苦し 
                         
                        まれます。私たちも死を前に苦しみますが、それは自己愛から来るもの。イエスの問題は 
                         
                        神の国建設を巡るものでした。地上に遣わされた彼の後を託すべき弟子たちに全く備えが 
                         
                        出来ていません。愛する民を霊的破滅状態に棄ておくことが本当に神の決断なのか、を疑 
                         
                        われたのでしょう。 
                         
                         
                        
 
                        荒野の誘惑に失敗して姿を消していたサタンが、ユダの裏切りを用いて再登場しましたが、 
                         
                        ここでのイエスの戦いは荒野の誘惑の再現、サタンとの闘いです。イエスの力で神の国を建 
                         
                        てるのか、神を信じて委ねるのか、が問題なのです。そこに、エデンの園で人間が絡み取ら 
                         
                        れた罪(自己神化)からの神の救済(罪からの解放)が成るか否かが懸っています。「御心の 
                         
                        ままに行って下さい」との最後の祈りが、この戦いの勝利宣言でした。 
                         
                         
                        
 
                        この祈りは弟子たちへの祈りについての教え「誘惑に陥らぬよう祈りなさい」に繋がりま 
                         
                        す。愛である神は、最終的には弱い私たちをサタンの誘惑から救い出して下さいます。この 
                         
                        場面に見る弱いイエスが、共に祈って下さるのですから。         (秀村記) 
                         
                         
                        2024年1月7日(日)新年集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「神への感謝」 テサロニケの信徒への手紙一1~3章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        この手紙はパウロの書簡の中で最初に書かれたもので、新約聖書の中で最初に書かれた 
                         
                        文書ではないかと言われています。使徒言行録17章にあるように、パウロたちはテサロニ 
                         
                        ケで十分な宣教が出来ませんでした。そのことが、この手紙を書いた理由の一つとなって 
                         
                        います。 
                         
                         
                        この手紙は、大きく分けると1~3章と4~5章の2つの部分に分かれています。1~3章で、 
                         
                        パウロはテサロニケの信徒たちに深い感謝の気持ちを述べています。2章では、手紙の読者 
                         
                        たちに,彼らの中でのパウロの愛に満ちた宣教を思い起こさせ,彼らの忠実さに対する喜び 
                         
                        を表します。3章では、お互いへの愛と全ての人への愛を深めるようテサロニケの信徒たち 
                         
                        のために祈ります。この前半の1~3章は、テサロニケの信徒たちへの励ましの言葉になって 
                         
                        います。 
                         
                         
                        2章13節で、パウロは神への感謝の言葉を述べています。14節では「きょうだいたち、あな 
                         
                        たがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣うものとなりました。彼らがユダ 
                         
                        ヤ人たちから受けたと同じ苦しみを、あなたがたもまた同胞から受けたからです。」と述べ、 
                         
                        イエスを受け入れないユダヤ人よりも、キリスト・イエスを信じる異邦人を称えています。  
                         
                         
                        このようにして、福音が述べ伝えられことを心から喜びたいと思います。   (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年12月24日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「クリスマス・メッセージ」 ルカによる福音書 2:1~11、15:11~32 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                              
                        今年も戦火の下でのクリスマスを迎えます。創世記に人類最初の殺人(カインとアベ 
                         
                        ル)が記されています。それは神に似せて作られた人間が自由意思の用い方を誤ったた 
                         
                        めでした。アダムとエバが禁断の木の実を食べて神に背いた「罪」が、その発端です。 
                         
                        人は皆「小さな神」になりたい、その罪が戦争の根本原因です。地上に拡がったカインの 
                         
                        末裔が紡いだ歴史は戦争の歴史でした。人間には「罪」から救う力はありませんから。 
                         
                         
                        イエスの誕生は、人類を罪から救い出す為の神の切り札、天使が「地に平和」を歌いま 
                         
                        した。イエスの到来によって「神の国」が到来し、救いと平和が出現しました。そのこと 
                         
                        をイエスが分かり易く教えられたのが「父親と二人の息子の譬」です。 
                         
                         
                        放蕩息子の帰還を待ち侘びていた父はなりふり構わず走り寄って無条件に赦し、祝宴を 
                         
                        始めます。自分の許に帰ってくれることだけで喜びを爆発させる父が、私たちの神が如何 
                         
                        なるお方かを表しています。救いは悔い改め(私たちの業)によるのではなく、神の赦し 
                         
                        が先行するのです。みっともない姿で走り寄る姿に、十字架が表れています。神に従順な 
                         
                        イエスが十字架に架かって救いを齎してくださいました。どん底まで下られるイエスを、 
                         
                        飼い葉桶に寝かされた赤児が象徴しています。 
                         
                         
                        クリスマスはイエスが約束された再臨を信じるとき。旧約で約束されたメシア到来の実 
                         
                        現は、その根拠です。                      (秀村記) 
                        
 
                        子どもクリスマス会ももちました。 
                         
                         
                        2023年12月17日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「雅歌⑤ 中間の時代における神への愛」 雅歌5章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:三笘恵子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        雅歌第五章では、若者(神、キリスト)が、おとめ(信仰者、エクレシア)の園(魂) 
                         
                        に至り来たったことが冒頭で告げられます。そして、若者は扉を叩き、おとめは扉を開き 
                         
                        ますが、若者は姿を消し、おとめは探しますが夜警たちに打ち叩かれます。 
                         
                         
                        これは、神が長い間、人の魂の扉を叩き続け(黙示録3:20)、隙間から手を差し伸べ、 
                         
                        寒い外で待ち続けたこと、やっと人が気づき、心を開いて神を迎え入れること、しかし、 
                         
                        神は姿を消してしまったことを表していると思われます。 
                         
                         
                        受肉したキリストは十字架上で死に、復活したあとに昇天しました。今はキリストの初臨 
                         
                        の後の、再臨を待つ、中間の時代です。この中間の時代において、多くの先人たちが迫害と 
                         
                        試練に遭いました。 
                         
                         
                        しかし、おとめは若者の姿をはっきり思い描き、熱烈に愛し、若者を「私の友人」とはっ 
                         
                        きり述べます。私たちもまた、中間の時代においても、キリストの姿に神がいかなる方かを 
                         
                        見ることができ(コロサイ1:15)、神の友として生きていくことができます(ヨハネ15: 
                         
                        14-15)。 
                         
                         
                        若者が常に手と胸にかんらん石とラピスラズリを身につけたように、キリストは常に神と 
                         
                        人を愛しました。私たちもまたキリストに倣い、神を愛し人を愛し神の友として生きたいと 
                         
                        思います。これらのことを雅歌五章を通じて学びました。      (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2023年12月10日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「二振りの剣」 ルカによる福音書22:35~38 
                         
                        講話:秀村弦一郎、感話:横山宜和、司会:山口洋子 
                         
                        
                        イエスは最後の晩餐での遺訓として、宣教に派遣される弟子たちに財布や袋をもって行 
                         
                        け、と言われました。以前には空手でも何一つ不足は無かったにも拘らず。驚くことには 
                         
                        「剣も」、とまで言われます。間近に迫るイエスの処刑によって弟子たちを取り巻く環境 
                         
                        は一変し、弟子たちには新たな闘いが生じるのです。剣で守るのは自分の命だと考えたか 
                         
                        もしれませんが。 
                         
                         
                        「剣も」と言われた弟子たちの「ここに二振りあります」との答に、イエスは「それで 
                         
                        よい」と応じられました。これは何を意味するのでしょうか?この箇所の難問です。 
                         
                         
                        イエスは、剣も備えよと言う理由としてイザヤ書53章を挙げられました。この預言は、 
                         
                        イエスは神が定め給うた多くの人の罪を担って死ぬ「苦難の僕」である、と十字架を指 
                         
                        し示しています。今や、イエスの罪との闘いが絶頂を迎えるのです。 
                         
                         
                        私たちがこのイエスの訓戒で守るべきと考えるのは自分でしょう。それは自分を神と 
                         
                        する罪に外なりません。イエスの十字架はその罪を担い給うことであり、闘いの相手は 
                         
                        人間の罪。弟子たちが戦う敵も、イエスに倣って罪になります。そこに鉄の剣は役に立 
                         
                        ちません。持つべきは「霊の剣、すなわち神の言葉(エフェソ6:17)」、守るべきは 
                         
                        「神の義と愛」なのです。 
                         
                        イエスの復活後弟子たちは福音伝道者とされ、殆どが殉教の死を遂げました。この時に 
                         
                        は分からなかった「それでよい」と言われた剣が、霊の剣であることを実証しました。 
                         
                                                       (秀村記) 
                         
                         
                        2023年12月3日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「新しい契約」 エレミヤ書52章 
                         
                        講話:渕上秋田、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        エレミヤ書最後の52章には、エレミヤの言葉はありません。歴史的な事実を淡々と述 
                         
                        べているに過ぎません。また、内容は、列王記下24、25章の内容と同じものです。後代 
                         
                        の人が付け加えたと思われますが、恐らくエレミヤの預言が月日の流れた後、実現した 
                         
                        ことを知らせようとしたのではないかと思われます。 
                         
                         
                        28~30節には捕囚となった人々の数が総数4600人と、列王記に記された数よりも少な 
                         
                        く描かれています。 
                         
                         
                        また31~34節には、ヨヤキン王が捕囚となって37年目に牢獄から解放され、バビロン 
                         
                        の王と食事を共にしたと書かれています。ヨヤキン王は、「主の目に悪とされることを 
                         
                        ことごとく行った。」(列王記下24:9)と書かれており、積極的に主に従った王ではあ 
                         
                        りませんでしたが、バビロンと戦うことなく捕囚になっています。結果的に主の言葉に従 
                         
                        ったことになり、エレミヤの言葉が成就したとも考えられるため、最後に置かれたのでは 
                         
                        ないかと考えられます。 
                         
                         
                        エレミヤ書全体を見渡してみると、31章の「新しい契約」の部分が、エレミヤ書の頂点 
                         
                        にあるように思われます。 
                         その他にも、23章の「正しい若枝」の記述も後のイエス・キリストの出現を予告して 
                         
                        いるようにも思えます。 
                         
                         
                        エレミヤは、苦しい人生歩んだ預言者でしたが、1章8節にある「この私があなたと共 
                         
                        にいて、救い出すからだ。」との言葉どおり、神が共にいる人生であったのだと思います。 
                         
                                                          (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年11月26日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「隣人愛の勧め」 ローマの信徒への手紙13:8~14 
                         
                        講話:市村昭三、司会:於保さつき 
                         
                        
                        前段で納税義務を果たす(借りを作らない)ことを勧めたパウロは、「互いに愛し合う 
                         
                        ことのほかに、誰に対しても借りがあってはならない(8)」と述べます。彼はクリスチ 
                         
                        ャン同士の愛を超えて、全ての人々との交わりに於ける愛を考えています。 
                         
                         
                        隣人愛は、神からの賜物によって押し出されるのです。自分自身が空っぽになって、神 
                         
                        の愛に満たされて初めて、隣人へと神の愛が押し出されていくのですが、私たちは、自分 
                         
                        を空っぽにすることが出来ません。自分を空っぽにするとは、自分に死ぬことに外なりま 
                         
                        せんから。日毎にイエスの死に合わせられて復活の命に与るとき、イエスの愛を受けるこ 
                         
                        とが出来るのです。 
                         
                         
                        パウロは隣人愛によってこそ、十戒に代表される「律法」を全うすることが出来る、と 
                         
                        言います。全ての戒めは「隣人を自分のように愛せ(9)」に要約される、と。「自分を 
                         
                        愛するように」とは最も自然なことで、自覚さえしません。そのような愛を神から戴いた 
                         
                        者が他の人々に愛を注ぐのは、最も自然なことです。 
                         
                         
                        そしてパウロはキリストの再臨に言及します(11~14)。キリスト者は古い世(アイ 
                         
                        オーン)に生きていますが、同時にキリストの十字架の贖いと復活の命に生かされていま 
                         
                        す。古い世に生きつつ、新しい世(アイオーン)に生きているのです。その新しい世が完 
                         
                        成するのはキリスト再臨の時です。その日を仰ぎつつ、キリストを着ることによって日常 
                         
                        生活を愛による品格をもって生きることを、パウロは勧めています。   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年11月19日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「雅歌④ 神の愛の言葉」 雅歌4章 
                         
                        
                        講話:鎌田厚志、司会:長澤澄子、奏楽:遠山博、鎌田加奈子 
                         
                         
                        雅歌第四章では、若者(神、キリスト)が、おとめ(信仰者、エクレシア)をあるが 
                         
                        ままに愛して「なんと美しい」と褒めたたえます。さまざまな美しい譬えを通して、神 
                         
                        は愛の言葉を紡ぎ、人の愛に心がときめくとまでおっしゃってくださいます。 
                         
                         
                        神は本来すべてを善きものとして創造しました(創世記1:31)。しかし、アダムと 
                         
                        イブは神に背き楽園を追われ、それ以来人類は原罪を抱え、多くの罪を犯し傷ついてき 
                         
                        ました。しかし、キリストの十字架の贖いを信じれば、人は義とされ神の子となり、再 
                         
                        び神との愛の関係に入ります。 
                         
                         
                        「私の恋人よ、あなたのすべては美しく/あなたには何の傷もない」(雅歌4:7)と 
                         
                        神ははっきり告げます。キリストを信じる者は、すでに罪を赦されているのです。神は、 
                         
                        人の魂の奥底を見て愛し、生き生きとした命に満ちていることを喜び、愛の実を結ぶ人 
                         
                        生となることを願ってくださいます。 
                         
                         
                        神に愛された者は、大切に聖別された園であり、香り高い人生を送り、キリストという 
                         
                        命の水の泉によって自らも人を潤す存在となります。そして、人生の逆境も順境も受け入れ、 
                         
                        それらを目覚めのきっかけとし、キリストの香りを世にもたらし、神に愛の実を捧げる人 
                         
                        生となることが記されます。 
                         
                         
                        戦争や悲惨さが横行するこの世界だからこそ、雅歌の美しいみやびな言葉の数々は稀有 
                         
                        なものだと思います。神の限りない愛を、雅歌四章を通じて学びました。       (鎌田記) 
                         
                         
                        2023年11月12日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        前講 「十四万四千人の民族」 ヨハネの黙示録7章  横山宜和 
                         
                        「ペトロの躓きの予告」 ルカによる福音書22:31~34 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        弟子たちの皆がサタンの試練に会わせられるとのイエスの予告に対して、ペトロが自分 
                         
                        は死をも覚悟してイエスに従うと言います。イエスは彼に3度の裏切りを予告されました。 
                         
                         
                        何故神は、私たちを試練に会わせることをサタンに許しておられるのでしょうか。そこ 
                         
                        から世の悲惨、苦難、暗黒が生じます。ウクライナやガザの阿鼻叫喚を止めて下さらない 
                         
                        のか?それは、神が人間を始め万物に自由を与えられていることによるのでしょう。人を 
                         
                        神の似姿に造られたとある通りに。 
                         
                         
                        しかし、その神はインマヌエル(神共に居ます)の神なのです。一羽の雀が地に落ちる 
                         
                        時、共に落ち給う神なのです(マタ10:29=「許しが無ければ」は誤訳)。ウクライナ 
                         
                        やガザの泣き叫ぶ幼児と共に泣き給う(インマヌエルの)神です。そのことが見えない私 
                         
                        たちは、神を信じられないと思いかねません。イエスはその試練の中にある私たちのため 
                         
                        に、信仰を失わないように祈っている、と言われています(32)。 
                         
                         
                        ペトロが3度の裏切りで大泣きすることをイエスは見通しておられ、しかしそこから立 
                         
                        ち返って他の弟子たちを不信から救い出すことを託されます。彼はイエスの復活後、その 
                         
                        通り弟子たちのリーダーになりました。イエスが祈りの対象にされたのがペトロ一人であ 
                         
                        ることに神の救済法が顕れています。神は十把一絡げに救われることはされません。私た 
                         
                        ちにもペトロの役割が期待されていると思います。         
(秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年11月5日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の言葉の成就」 エレミヤ書51章 
                         
                        
                        聖書講話:渕上明、司会:下田妙子、奏楽:松田美佳子 
                         
                         
                                 
                        51章は50章に続いてバビロンの滅亡について書かれています。その中で目に付くの 
                         
                        は「バビロン滅亡の巻物」の部分(59節以下)です。この話はエレミヤ書の中では51章 
                         
                        にしか出てきません。この記述が歴史的に正しいものであるかどうかは分かりませんが、 
                         
                        ここでは神の言葉は必ず成就するということが主題になっています。 
                         
                         
                        ネリヤの子セラヤがゼデキヤ王と共にバビロンに行く際、エレミヤはバビロンについ 
                         
                        て書かれた巻物をセラヤに託します。恐らくセラヤの兄弟であるバルクが書いたもので 
                         
                        しょう。セラヤはエレミヤに言われたとおり、巻物を朗読し巻物に石を結び付け、ユー 
                         
                        フラテス川に投げ込んだものと思われます。 
                         
                         
                        どのような状況でセラヤが読み上げたのかは分かりません。周りに人のいない状態だ 
                         
                        ったかもしれません。神の言葉が読み上げられる時、その言葉が真に神のものであれば 
                         
                        必ず成就するとの考えがあったのだと思わされます。 
                         
                         
                        新約聖書の時代に生きる私たちにとっては、イエス・キリストによって、赦しと恵み 
                         
                        が用意されています。 
                         
                         
                        苦しみの多い、この時代ですが、聖書にある主イエス・キリストの言葉に従って生き 
                         
                        ること。そこに救いがあるのだと思います。             (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年10月29日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「旧約聖書の理解に寄せて」 エレミヤ書31:31~34 
                         
                        講話:大川四郎兄(新大阪聖書集会)、司会:小林典子 
                         
                        旧約聖書の時代は大きく6つに分けられます。 
                         
                        ①創世時代:創世記が語る天地創造からバベルの塔に至る神話の時代。 
                         
                        ②家族共同体の時代:アブラハムは旧約聖書の重要な人物。彼の神を信頼する生き方は 
                         
                        イサク奉献やソドム・ゴモラへの執り成しに顕れており、イエスの自己犠牲や十字架の 
                         
                        執り成しを指し示しています。 
                         
                        ③部族共同体の時代:シナイ山で神からモーセに与えられた十戒(シナイ契約)のうち、 
                         
                        第1戒(神は唯一)と第2戒(偶像禁止)が大切です。大きな出来事は出エジプト、ヘブ 
                         
                        ル人が誕生しました。 
                         
                        ④部族連合共同体の時代:カナンの地に定住したイスラエルは、ヨシュアによって12部族 
                         
                        連合が構成されます。 
                         
                        ⑤国家共同体の時代:ダビデ王国が出来て、神は彼による国家の存続を約束されました 
                         
                        (ダビデ契約)。そして神殿が神信仰の拠点となりますが、政治の腐敗もあって預言者が 
                         
                        神意を指し示しました。 
                         
                        ⑥宗教共同体の時代:バビロン捕囚時に神殿が崩壊し、神信仰の根拠は律法に移り、預言 
                         
                        が絶えて黙示思想が登場します。 
                         
                         
                        イエスの到来を機に新約の時代となります。イエスは律法主義を批判しましたが、同時 
                         
                        に新しい戒めを教えられました。正しく(神と隣人を)愛することが、律法を正しく守る 
                         
                        事である、と。このように、三千年余に亘って神はユダヤ民族を選んでご自分を顕わされ、 
                         
                        人間が引き起こす様々な危機にも拘らず全人類を救うべく導いておられるのです。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年10月22日(日)集会(YouTube同時配信) 
                         
                        前講:横山宜和兄による「第五、第六の封印が解かれるとき」ヨハネ黙示録6:9~17 
                         
                        「誰がいちばん偉いか」 ルカによる福音書22:24~30 
                         
                        講話秀村弦一郎、司会:長澤玲子 
                        、 
                        
                        最後の晩餐でイエスが神の国で共に食事をすることを約束された為、愈々メシアの王国 
                         
                        が近いと察した弟子たちは、食事中にその王国での弟子たちの席次争いを始めました。イ 
                         
                        エスは「あなたたちは仕える者のようになりなさい(26)」と諭されます。「わたしがそ 
                         
                        うしているように」、と。神の国では「一番偉い者が一番若い者に」なる逆転が起こるの 
                         
                        です。 
                         
                         
                        弟子たちがイエスと共にユダヤの人々の不信による試練に耐えてきたことをイエスは労 
                         
                        われ、来たるべき神の国でのイエスの業を弟子たちも共に担う者とされることを約束され 
                         
                        ます。「神が王権をわたしに委ねられたように、わたしもあなた達にそれを委ねる(29)」、 
                         
                        と。イエスに倣って弟子たちが為す業は、イエスと同じく愛の業となり、愛による裁きの 
                         
                        権限も委ねられる(30)とは、驚くべき約束の言葉です。私たちにそれが可能になるのは、 
                         
                        パンを裂いて教えられたこと(神共にいます=インマヌエル)によるのです。 
                         
                         
                        葡萄酒で教えられたこと(イエスによる新しい契約=神を愛し隣人を愛せ=に生きよ) 
                         
                        を聞いた直後の弟子達が席次を争ったとは、何たる醜態でしょうか。神に従わず、自分中 
                         
                        心に生きようとする私たちの「罪」が暴露された出来事でした。 
                         
                         
                        私達の罪を担って就き給う十字架の直前に、イエスが残された訓戒と約束の言葉を心に 
                         
                        刻みたいと思います。                   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年10月15日(日)集会 
                         
                        「雅歌③ 夜に神を求めること」 雅歌3章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        雅歌第三章は二つの部分に分かれます。前半はおとめが夜に愛する人を町中で探し 
                         
                        求め、後半はソロモン王が輿に乗ってやってきます。これらは人と神の関係の象徴と 
                         
                        読めます。 
                         
                         
                        聖書では昼と夜は「光と闇」を象徴します。光は神がいる時、闇は神が見えない時 
                         
                        です。神を見出だせない時、絶望や死の縁にいる「夜」の時にこそ、人は真剣に神を 
                         
                        求めます。 
                         
                         
                        おとめは夜警に愛する人の所在を尋ね、すぐに見つけます。夜警とは、夜の時にお 
                         
                        いても目覚めている人、つまり信仰の道における先行者・先達の象徴と思われます。 
                         
                        無教会は、内村鑑三や塚本虎二らの多くの先達に恵まれていると思います。 
                         
                         
                        おとめは愛する人を見出すと、二度と見失わないようにしっかりと抱きます。私た 
                         
                        ちもまた、真の神と聖書をしっかりと心に留め、離れないようにしたいと思います。 
                         
                         
                        ソロモン王が輿に乗ってやってくるということは、王であるキリスト、神の到来を 
                         
                        象徴しています。神は、人が神を自ら求めて愛するようになるまで待ち、決して強制 
                         
                        しません。愛は人の自由と自発性を尊重します。そのうえで、もし人が神を愛し求め 
                         
                        るならば、神はそのことを何よりも喜んでくださいます。 
                         
                         
                        「夜」の時においても、神を求めれば、必ず神を見出し、神が来てくださり、喜び 
                         
                        と希望を持って生きることができる。このことを、雅歌三章を通じて学びました。 
                         
                        
                                                (鎌田記) 
                         
                        2023年10月8日(日)集会 
                         
                        「最後の晩餐」 ルカによる福音書22:14~23 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        イエスが各地を巡回して民衆に告げられたことは「神の国の到来」でした。闇の中に 
                         
                        苦しむ民に齎される、光と喜びの「大逆転」を指し示されました。荒れ地や茨の中に種 
                         
                        を蒔いて大失敗と思いきや、良い地に撒かれた種が百倍の実りを齎した!大成功だった! 
                         
                        との大逆転の譬話然り。嫌われ者の徴税人ザアカイが回心した大逆転然り。イエスの教 
                         
                        えも行動も、神の国の齎す歓喜の大逆転を伝えます。 
                         
                         
                        宴会が大好きだったイエスは、宴会での大逆転の譬も話されましたが、彼自身、貧しい 
                         
                        人、障がい者、罪人達との食事会を喜ばれました。受難の前に切望された弟子たちとの 
                         
                        「最後の晩餐」もそのような食事会-食事の前に弟子達の足を洗われたという大逆転(ヨ 
                         
                        ハネ13章)―だったと思われます。 
                         
                         
                        種まきの譬について初期の教会はイエスの意図と異なる教えとしました。世の誘惑に負 
                         
                        けずキリスト者らしく生きよ、と。「最後の晩餐」もパンと葡萄酒が十字架のイエスの救 
                         
                        いを表すと聖餐式の儀式になっています。教会の教えも大切ですが、イエスが生涯を挙げ 
                         
                        て伝えられた「神の国」に生きること、即ちイエスと共に歩むことが、より大切なことです。 
                         
                         
                        イエスのパンと葡萄酒についての言葉「パンはいつもあなたと共にいる私である」、「モ 
                         
                        ーセが血を振りかけて固めた契約(=十戒。出エジプト24:8)に代る、私の流す血による 
                         
                        新しい契約に生きよ」を心に刻みたいと思います。            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年10月1日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「試練にあったら喜ぶ」 ヤコブ書1:2~8 
                         
                        講話:横川知親先生(日比聖書集会)、司会:三苫恵子 
                         
                        コロナ禍のため4年半ぶりに横川先生(帰国中で中津在住)を迎えました。 
                         
                        
                        27歳から夫婦で始めて42年になるフィリピンでの宣教の「証」を話します。日本人は 
                         
                        忘れていますが、日本軍は中国や朝鮮半島と同じくフィリピンで大きな罪を犯しました。 
                         
                        日本人に敵意を持っているフィリピンの人々は、宣教開始時は誰も寄り付きませんでした。 
                         
                        私は手品や腹話術で彼らの心を開いてもらうことが出来ました。手品に加えてイエスのな 
                         
                        さったことの素晴らしさをそのまま伝えることによって、小さくスタートした教会がどん 
                         
                        どん成長しました。人は楽しい所に集まります。イエスの福音は誰もが喜ぶものなのです。 
                         
                         
                        世界3位の危険国といわれ、劣悪な衛生状態のフィリピンに生きることは試練の連続です。 
                         
                        42歳で直腸癌になったのを皮切りに、今日まで結核、赤痢、膠原病など次々に病を得ました。 
                         
                        死亡証明書が出たこともありましたが、不思議に重病が癒されました。もっと主イエスを伝 
                         
                        えさせてください、との祈りを神は聴いて下さったのです。「あんたたちの神は凄い、祈っ 
                         
                        てくれ」と言われます。試練を逃げずにチャレンジすること、それが喜びをもたらすのがク 
                         
                        リスチャンの生き方です。 
                         
                         
                        貧しく、しかし底抜けに明るいフィリピンの皆さんに多くを学びます。ある方が「イエスよ、 
                         
                        先生の癌を私に下さい」と祈ってくれました。こんな人は日本にはいません。この祈りは十字 
                         
                        架のイエスを指し示していると思います。               (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年9月24日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「上に立つ権威への服従」 ローマの信徒への手紙13:1~7 
                         
                        講話:市村昭三、司会:小林典子 
                         
                        
                        「人は皆、上に立つ権威に従うべき」との言葉はキリスト者にしばしば難しい問題を突き付 
                         
                        けて来ました。信仰的判断において、地上の権力者との衝突は避け難い面がありますから。 
                         
                         
                        ローマの官憲は、ユダヤ教を公認しましたが、初期のキリスト信徒はユダヤ教の分派とし 
                         
                        て敵対視しました。そのような状況下にあってパウロがこの言葉を残した意図は、今一つは 
                         
                        っきりしません。手紙の宛先・ローマの信徒グループに反国家的動きがあり、無謀な活動に走 
                         
                        るのを宥めようとした? キリスト再臨が近いと信じて、現実の政治的矛盾も終末における神 
                         
                        の審判に任せようとした? などが考えられます。 
                         
                         
                        パウロの基本的な考えは、「権力は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なので 
                         
                        す(4)」に表れています。権力、即ち上に立つ者は、更に上に立つ者(神)の御用に立つべ 
                         
                        く任務を与えられており、人は「良心のためにも従うべきである(5)」というのです。とい 
                         
                        うことは、良心に照らして反抗することもありうる、と読むべきでしょう(関根正雄)。 
                         
                         
                        ヨハネ黙示録のように、ローマ帝国を終わりの日に地獄の火に焼かれるサタンとし、その暴 
                         
                        虐への抵抗を励ますような文書があるにも拘らず、キリスト信徒はローマ帝国の敵になりませ 
                         
                        んでした。パウロの「(良心に従う)権力への服従」の精神は、300年に及ぶ迫害を乗り越え 
                         
                        てキリスト教がローマ帝国に受容されることに寄与したと言えましょう。(秀村記) 
                         
                         
                        2023年9月17日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「ユダの反逆と過越の準備」 ルカによる福音書22:1~13 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        22章から受難物語です。イエスは示すべき業を悉く示し、語るべき教えを全て語られま 
                         
                        した。後世に偉大な事業を残されたことで、宗教家・伝道者としての生涯は終わっても充 
                         
                        分なところですが、イエスの場合真の伝道はこれからなのです 
                         
                         
                        荒野の誘惑を終えて姿を消していたサタンが、イエスの傍に現れます。サタンの行動を 
                         
                        支配できるのは神のみ、人間には出来ません。神がここからイエスに対するサタンの活動 
                         
                        を許されたのです。イエスの殺害を企む宗教指導者たちの前に、サタンに捉えられたユダ 
                         
                        が顕れて、イエスを引き渡そうとの闇取引を提案します。彼らにとっては願ってもないこと、 
                         
                        ユダに金を払うことにしますが、それは奴隷の値段でした。 
                         
                         
                        翌日は子羊を屠って過越の食事の準備をする日でした。エルサレム市内に食事の場所を 
                         
                        用意しなければならないのですが、使いに出された弟子たちはイエスの予告通りに事を運 
                         
                        ぶことが出来ました。全てはイエスの手の内にありました。宗教指導者たちは全世界から 
                         
                        の巡礼者で賑わう過越祭の前にイエスを処分しようと企みましたが、ユダとの取引の結果、 
                         
                        イエスの十字架は全世界の人々に公示されることになります。 
                         
                         
                        サタンに操られる邪悪な人間の陰謀をも利用して、神は十字架と復活という全人類を罪 
                         
                        から救い給うみ業を成し遂げられます。受難物語は、着々と進められる神のご計画に従順 
                         
                        に従われるイエスに担われて、幕が開くのです。       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年9月10日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「『いちじくの木』の譬」 ルカによる福音書21:29~38  
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:山口洋子  
                         
                        最初に「ヨハネの黙示録6章から」と題する横山宜和兄の講話がありました。 
                         
                         
                        イエスは、エルサレム神殿での再臨を巡る教えの最後に譬話をされます。「いちじくの葉 
                         
                        が出始めると夏の近いのが分かるように、終わりの日の到来の予兆も感知せよ」、と。その 
                         
                        予兆は、天変地異、異邦の帝国的支配の崩壊や信徒への迫害であったりしますが、再臨のキ 
                         
                        リスト到来は、それらの全てが起こった後だ、と直ぐにも再臨が実現すると信じた熱狂的な 
                         
                        人々を諭されました。 
                         
                         
                        しかし、必ず再臨されることもイエスは強調されます。「私の言葉は決して滅びない」、と。 
                         
                        終わりの日に万物を創造された神の愛が完成すること、その約束は微動だにしないのです。 
                         
                        イエスは復活されて、信仰の弱い私たちに再臨の確かさを示して下さっています。いつも私 
                         
                        たちと共に居て下さる、と。  
                         
                         
                        イエスは前兆について教えられただけで、再臨の時期を明示されませんでした(マルコ 
                         
                        13:32)。イエスもご存じではなかったのでしょう。このことを示されなかったのは、私た 
                         
                        ちに幸いでした。もし知らされていたら、信仰は失せて打算と恐怖に堕したでしょう。ここ 
                         
                        にも神の愛が顕れています。 
                         
                         
                        イエスの死から再臨の時まで、信仰の弱い私たちの為すべきことは、「目を覚まして祈っ 
                         
                        ていること」とイエスは教えられました。私たちを放っておかれないイエスは、いつも共に 
                         
                        祈って下さっていることを憶えたいと思います。       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年9月3日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の計画」 エレミヤ書50章 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        エレミヤ書50章は51章と共にバビロンへの預言が記されています。諸国民への預言の中 
                         
                        で最も長く、最後に置かれています。内容はバビロンの滅亡とイスラエルやユダの回復が 
                         
                        書かれています。書かれている時代背景からエレミヤの存命中ではなく、エレミヤの死後 
                         
                        書かれたものと言われています。 
                         
                         
                        エレミヤは、ユダ王国の滅亡を預言しましたが、ユダを滅ぼしたバビロンも、やがてそ 
                         
                        の高慢さや異教の神を信仰したことにより、滅亡に至ることを後代の人が伝えたかったの 
                         
                        だと思われます。 
                         
                         
                        この章で、どの部分に着目するかは人によって違うかもしれませんが、「その日、その 
                         
                        時には、イスラエルの過ちを探しても、もうない――主の仰せ。ユダの罪も見いだされな 
                         
                        い。私が生き残らせた人々を赦すからである。」との20節の言葉が心に残ります。エレミ 
                         
                        ヤの偉大なところは、神との新しい契約を預言したところです。エレミヤ書31章31節以下で、 
                         
                        「私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。」「私は彼らの過ちを赦し、 
                         
                        もはや彼らの罪を思い起すことはない。」との言葉があります。 
                         
                         
                        その言葉は、主イエス・キリストによって実現されますが、そこには神の一方的な愛が 
                         
                        あります。現代の私たちは、主イエス・キリストと共にいることにより、真の救いにあず 
                         
                        かれるのです。
                                         (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年8月6日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「エルサレムの崩壊と人の子の来臨」  ルカによる福音書21:20~28 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:於保さつき  
                         
                         
                        イエスは、父なる神が神の国を完成して人類を救済し給う「終りの日」の到来を予告 
                         
                        されました。「終りの日」は、「人の子」イエスが救済者として再び来たり給い、この 
                         
                        世が終わって新しい世が始まる時です。その時、神に背くものは全て滅ぼされて、愛な 
                         
                        る神に従う新たな世界とされますが、その時がいつなのかについては、イエスは語られ 
                         
                        ません。 
                         
                         
                        イエスは、神に背いているエルサレムの滅亡を予告されました。イザヤやエレミヤな 
                         
                        どの預言者が告げた警告が実現することを語られますが、それは40年後には「ユダヤ戦 
                         
                        争」として悲惨な形で結実したのでした。ユダヤ人たちは異邦人の支配下に置かれる、 
                         
                        と言われましたが、それは同時にイエスの福音が異邦人世界に伝えられ、大きく花開く 
                         
                        時なのです。そして“時が満ち”たら、イエスの再臨が実現します。 
                         
                         
                        今日の世界が苦難に満ちているのは、イエスがここで「異邦人支配の時=福音宣教の時」 
                         
                        といわれている時代だからです。やがてその時が満ちると、イエスが再臨されて新しい世 
                         
                        を迎えます。イエスは艱難を超えて、その彼方に希望を語られています。「身を起こし、 
                         
                        頭を上げなさい(21:23)」、と。 
                         
                         
                        この励ましの言葉は死んで消滅した人の言葉ではなく、今生きて私たちと共におられる 
                         
                        復活のイエスの言葉です。初代のキリスト者たちが信じたように、私たちもイエス再臨の 
                         
                        約束を信じて、希望と喜びに生きたいと思います。  (秀村記) 
                         
                         
                        2023年7月30日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「預言者イザヤと政治」 イザヤ書31:1~3 
                         
                        講話:1年ぶりに月本昭男先生(経堂聖書会)からZOOMで。司会:秀村興子 
                         
                        
                        預言者イザヤが活動したB.C.7世紀の南ユダのアハズ王は、北の大国アッシリアに頼る 
                         
                        政策をとりました。イザヤはアッシリアを怖れることなくヤハヴェの神に従うべきだ、 
                         
                        と主張します。アハズの跡を継いだヒゼキヤ王の時代に北王国は滅ぼされ、ヒゼキヤ 
                         
                        は一転して南の大国エジプトを頼ります。そして、アッシリア王センナケリブによるユ 
                         
                        ダ侵攻があり、エルサレムは包囲されて風前の灯火となりますが、ヒゼキア王はアッシ 
                         
                        リアに朝貢することによって王国は滅亡を免れました。ところが、アッシリアがバビロ 
                         
                        ニアに代わった途端、ヒゼキア王は踵を返してバビロニアと同盟を結んだのです。節操 
                         
                        もなく周囲の大国と結ぶ優柔不断の王に対して、イザヤは神の審判を預言します。ダビデ 
                         
                        王国は神に棄てられる、と。 
                         
                         
                         イザヤは神の審判だけでなく、救済も語りました。審きを超えて、神はイスラエルの 
                         
                        民を救い給う、という希望を。それは「万国平和(2:2~5)」、「インマヌエル(7: 
                         
                        10~7)」、「一人のみどり児(8:23~9:6)」と「エッサイの株から(11:1~6」の 
                         
                        素晴らしい預言です。軍事力でなく真実と公儀を尽くして支配するメシア(救い主)の 
                         
                        到来を述べました。 
                         
                        現実のダビデ王朝への絶望の彼方に、なお希望を繋ぐイザヤの信仰が現れています。そ 
                         
                        れはイエス・キリストの到来を指し示すものとして、新約の福音に繋がったのです。  
                         
                        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年7月23日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「キリスト者の生活指針=召命としてのアガペー」 ローマの信徒への手紙12:9~21 
                         
                        講話:市村昭三先生(天神聖書集会)、司会:村上思門 
                         
                        
                        パウロはキリスト者の日常生活上の指針として、「愛」に生きよ、それがエクレシア 
                         
                        の一致に繋がるのだ、と教えます。「愛には偽りがない(9)」と言いますが、その「愛」 
                         
                        はアガペー。十字架に示された無償の神の愛であり、生来の人間には無く、ただイエス 
                         
                        に於いてだけ現実となったものです。  
                         
                         
                        「互いに相手を尊敬せよ(10)」は、他者の生涯に関心を持って、主の導きを祈れ、と 
                         
                        いうこと。「苦難の中に希望を持て(12)」は、神から臨む約束の言葉に対する信頼が、 
                         
                        艱難に耐える力を生み出す、というのです。「あなた方を迫害する者を祝福せよ(14)」 
                         
                        というハードルの高い教えは、イエスの死によって私たちを愛し、神が私たちをご自身 
                         
                        と和解させて下さったことから可能となりました。「喜ぶ者と共に喜べ(15)」も難し 
                         
                        いことです(私たちは人の喜びを妬む)が、非キリスト者にも向けられるべき教えです。 
                         
                        また「互いに思いを一つにし…(16)」は、多様な意見の持ち主がいる集会の兄弟姉妹を 
                         
                        念頭に置いた教え、終わりの日の救いの完成に向かって共に進むという点で、思いが一 
                         
                        つになるのです。そして、「自分で復讐せず、神の怒りに任せよ(19)」との勧めをも 
                         
                        って、パウロは神の賜物としての愛の勝利の道を指し示しています。 
                         
                         
                        私たちはキリストの愛を着せられた者(コロ3:14)として、アガペーの愛に生きるこ 
                         
                        とが赦されています。                        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年7月16日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「生命の水の河」 ヨハネの黙示録22:1~5 
                         
                        講話:小林孝吉(文芸評論家・今井館教友会監事)、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        旧約「創世記」から新約「ヨハネ黙示録」までを辿るとき、そこにはエデンの園に発 
                         
                        した一本の河が原始の楽園を潤しつつ4つの支流の源流をなし、旧新約聖書を一条の希 
                         
                        望の水脈として底流し、「ヨハネ黙示録」では都の大通りの中央を流れる生命の水の河 
                         
                        となって、新しい楽園の風景とともに顕われます。その河の両側にはいのちの木が繁り、 
                         
                        12種の実を結び、諸国民を医すその木々の葉は風に揺れています。(黙22:2) 
                         
                         
                        内村鑑三は「聖書は約束の書であり、旧約はキリスト「降臨」、新約はキリスト「再 
                         
                        臨」の約束である」と述べています(『神の約束としての基督教』)。日露戦争後、非 
                         
                        戦論を貫いた内村が第一次大戦を時代背景として、その信仰の後半生に立ち至った聖書 
                         
                        の奥義としての「再臨信仰」は、楽園喪失―楽園回復―宇宙完成の神の約束として現在 
                         
                        へと続いています。 
                         
                         
                        それは、アダムとエバの堕罪による楽園喪失と同時に、イエス・キリスト生誕への楽 
                         
                        園回復の途がはじまり、再臨のキリストによって万物復興が約束されている、そんな神 
                         
                        の福音宇宙なのです。再臨(信仰)の徴としての「臨(きた)りつつあるイエス」は、 
                         
                        この困難に満ちた戦争の新世紀において、聖書に約束された希望(=光)ではないでし 
                         
                        ょうか。「夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない」(黙示22:5)。 
                         
                         
                        私達の前には渇いた者が口をつけれる「生命の水の河」が聖なる水音の響きと共に流 
                         
                        れているのです。                      (小林孝吉記) 
                        
 
                         
                        2023年7月9日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「 神殿の崩壊と来たるべき迫害
」 ルカによる福音書 21:5~19 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤玲子 
                         
                        最初に、於保さつき姉の感話「スクールソーシアルワーカーとして」を伺いました。 
                         
                        イエスは、人々が心奪われている壮麗な神殿の崩壊を預言されました。神殿を根拠と 
                         
                        する宗教指導者たちがイエスの殺害を図ろうとしている今や、神殿は神不在の虚飾に過 
                         
                        ぎません。イエスは神が審きの鉄槌を下されると警告されたのです。  
                         
                         
                        それを妄言としか思えない人々は、イエスに「それはいつ起こるのか」と問いましたが、 
                         
                        イエスは神殿崩壊に加えて数々の審きを告げられます。偽預言者の出現と、それが齎す戦 
                         
                        争と動乱。そして「惑わされるな」と諭されました。神を固く信じて、イエスに揺らぐこ 
                         
                        となく従うことを。天変地異や疫病に加えて、キリスト信徒が被る苦難(迫害など)も避 
                         
                        けがたいこととして予告されますが、信徒に対する神の護りは万全であるから恐れるな、 
                         
                        と励まされました。 
                         
                         
                        イエスの予告通りユダヤ戦争が起こり(A.D.70年)、エルサレムは壊滅し神殿も消失し 
                         
                        ます。信徒の迫害も続きました。   
                         
                         
                        神の審きは暗黒の現代にも進行していると思えます(戦争、疫病、自然災害)。全地に苦 
                         
                        しんでいる人々が溢れており、特に弱者の苦難に神の正義を疑いたくもなります。しかし 
                         
                        イエスは苦難の彼方にキリストの再臨と、神の国の完成を約束されました(「いつ起こる 
                         
                        のか」への最終回答を指し示す)。 
                         
                         
                        ここに神の義があります。苦難の彼方に万人に対する神の愛が成就する「再臨への希望」 
                         
                        に生きたく思います。                    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年7月2日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「謙遜」 エレミヤ書49章 
                         
                        講話:渕上明、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        エレミヤ書49章には前章に続き、諸国民への預言が書かれています。ここでは、 
                         
                        アンモン、エドム、ダマスコ、ケダル及びハツォルの諸王国、エラムについて預言 
                         
                        がなされます。 
アンモン人、エドム人は、創世記によればイスラエルの民と親戚関係になります。 
                         
                        4節に「背信の娘よ。なぜ、谷を、水の流れるあなたの谷を誇るのか。あなたは自 
                         
                        分の宝に頼り、『誰が私に攻めてこれよう』と言っている。」とあるようにアンモ 
                         
                        ン人は自分の宝に頼り、自信を持っていました。 
                         
                         
エドム人も16節に「あなたの脅かしも傲慢な心もあなたを欺いた。岩の裂け目に 
                         
                        住む者よ。丘の頂を占める者よ。あなたが鷲のように自分の巣を高くしても、私は 
                         
                        そこからあなたを引きずり降ろす。」とあるように、エサウを父祖に持つ高慢な心 
                         
                        を持つ者として破滅に導かれました。 
                         
                         
エラム人は弓術に長けた人々でしたが、35節に「私は、エラムの弓を、彼らの力 
                         
                        の源を折る。」とのエレミヤの預言があります。いずれの民も、その高慢さのため 
                         
                        に滅亡します。 
                         
                         
この章から何を学ぶかは、人それぞれに違うかもしれませんが、この章の中に出 
                         
                        てくる諸国民は、それぞれおごり高ぶりがあり、主に対する謙遜を失っていました。 
                         
                        その結果として民族の滅亡を招いたのではないかと考えられます。 
                         
                         
神に対する謙遜が信仰にとって真に大切なことだと思わされます。  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年6月25日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ダビでの子にしてダビデの主」 ルカ福音書20:41~22:4 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:下田妙子 
                         
                        
                        イエスは神殿で、詩編110編を引用して、「メシアはダビデの子ではなく、ダビデ 
                         
                        の主である」と教えられました。 
                         
                         
                        ユダヤの民衆はイエスに伝統的メシア期待(ローマの圧政からの脱却をもたらす強 
                         
                        いユダヤ人の王)を抱いて「ダビデの子」と呼びました。イエスは系図では「ダビデ 
                         
                        の子」ですが、彼らが求めるメシアではありません。しかも、「ダビデ」が象徴する 
                         
                        ユダヤのみならず、全人類の救い主なのです。 
                         
                         
                        「ダビデの主」である意味は、「罪人ダビデ」の主であること、罪を赦すことが出 
                         
                        来る「神の子」であることにあります。全人類を罪と死から贖い出し給う「救い主」 
                         
                        なのです。イエスは程なくして十字架上に死を迎えられ、復活されます。私たちが自 
                         
                        分では始末できない、生まれながら私たちに染み着いている罪を担って下さり、神の 
                         
                        前に私たちの罪の赦しを成し遂げて下さいました。「罪人ダビデの子」である私たち 
                         
                        が主(救い主)と仰がせていただけるのです。 
                         
                         
                        イエスは貧しい寡婦がレプトン銅貨(最低額面)2枚を献金するのを見られて、「誰 
                         
                        よりも沢山入れた。皆は有り余る中から入れたが、乏しい中から生活費を全部入れた」 
                         
                        と絶賛されました。身の保全を考えることなく、自分の全てを捧げたのは、神への愛と 
                         
                        信頼が為さしめたこと、真の捧げものは愛にあります。私たちも2レプトンを、即ち、 
                         
                        心にありったけの愛をあるがままに、神に捧げたく思います。 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年6月18日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「『実のならないいちじくの木』のたとえ」 ルカによる福音書13:6~9 
                         
                        講話:鎌田良子ほか婦人会メンバー、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ルカ13章の「実のならないいちじくの木」のたとえ話は、ルカ福音書だけにある 
                         
                        短い話です。ある人が葡萄畑に一本のいちじくの木を植えていたが、3年経っても実 
                         
                        がならない。もう切るようにと作男に命じます。すると、その作男は「もう1年この 
                         
                        ままにしてください、木の周りを掘って肥やしをやってみますから」と頼みます。 
                         
                         
                        この話の意味については諸説あります。矢内原忠雄は、葡萄園は選ばれた民の世界 
                         
                        ・神の国であるとし、その中に植えられたいちじくの木をユダヤ人と見ています。光 
                         
                        野儀は、さまざまな解釈を示した上で、以下のように述べます。 
                         
                         
                        この話は一見、神が長い間大事に育ててきたにもかかわらず悔い改めないイスラエ 
                         
                        ルに対し、滅ぼすまでの猶予を与えるという話である。しかし、この話の本当の真意 
                         
                        は、単にイスラエルの運命の話ではなく、聖書に接するすべての人に神の愛の本質を 
                         
                        伝えてくれているところにある。3年たっても実のならないいちじくの木を、それで 
                         
                        も待ってくれた主人のように、神は忍耐に忍耐をもって待ってくださっている。この 
                         
                        神の義と愛の御心を、この短いたとえ話は見事に巧みに表現している、と。 
                         
                        この神の愛こそ、イエスが生涯をかけて万人に知らしめようとされた福音であるこ 
                         
                        とを学びました。                   (鎌田良子記) 
                        
 
                         
                        2023年6月11日(日集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「復活についての問答」 ルカによる福音書20:27~40 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        復活は無いというサドカイ派の人々が、復活を信じるファリサイ派を困らせていた 
                         
                        問題を突き付けて、イエスを貶めようとします。夫と死別した子の無い妻に、夫の兄 
                         
                        弟との再婚が義務付けられている律法を盾に、次々に死んだ7人兄弟と結婚した妻は復 
                         
                        活時に誰の妻になるのか、と。 
                         
                         
                        まずイエスは、死んだ者は復活後に天使のようになるから結婚することはない、と 
                         
                        質問の前提を否定され、更に復活がある証拠を述べられます。神が「私はアブラハム 
                         
                        の神、イサクの神、ヤコブの神」と言われるのは、神とアブラハム達は永遠の愛で結 
                         
                        ばれているから、と。永遠に生き給う神と永遠の愛で結ばれている人も死滅すること 
                         
                        はない、即ちアブラハム達は復活しているのだ、と驚くべきことを教えられました。 
                         
                         
                        この教えは、イエスの「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生 
                         
                        きる(ヨハネ11:25)」に通じます。即ち、神と共に永遠に生きているアブラハムた 
                         
                        ちと同じく、私たちも復活された神の子イエスと共にあるとき、永遠の命に生きる者 
                         
                        とされるのです。復活を信じて生きる者は、“死”という人生最大の問題を克服させ 
                         
                        て戴けます。 
                         
                         
                        イエスの復活を信じる事がその基盤ですが、イエス死後の逃亡先から勇躍伝道に立 
                         
                        ち上がった弟子たちがイエス復活の証人です。彼らと同様、私たちも復活のイエスを 
                         
                        日々心にお迎えして、明るく希望に生きたく思います。 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年6月4日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神への高ぶり」 エレミヤ書47~48章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        エレミヤ書47章はペリシテ人の滅亡、48章はモアブの滅亡が語られます。特に、 
                         
                        モアブについての記述は長く、後代にかなり加筆されたものと思われます。また、 
                         
                        イザヤ書からの引用と思われる部分も見られます。 
                         
                         
                        ここでのテーマは、高ぶり、それも神への高ぶりを戒めることにあると思われま 
                         
                        す。 モアブは、7節にあるとおり豊かな土地や自然のもたらす頑強な砦のおかげ 
                         
                        で、自力で安穏な暮らしを送っていました。また、11節にあるとおり軍用の大きな 
                         
                        道路から離れているという地理のため、西の諸国に比べて、世界政治の変動に巻き 
                         
                        込まれることも少なく、アッシリアの圧力下にあった時も、捕囚に遭うことはあり 
                         
                        ませんでした。 そのため、自らの力を過信し、真の神に近づくことはありません 
                         
                        でした。彼らは、自らの力ですべてのことが解決できると考えていました。そうで 
                         
                        はなく、神の力に頼ることが大切なことであることをこの章は教えていると思います。 
                         
                        パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、霊によって歩むことを勧めています。 
                         
                        「キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。 
                         
                        私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。 
                         
                        思い上がって、互いに挑み合ったり、妬みあったりするのはやめましょう。」(ガラ 
                         
                        テヤの信徒への手紙5:16~26)、と。           (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年5月28日8日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「キリスト者の新しい生活」 ローマの信徒への手紙12:1~8 
                         
                        講話:市村昭三、司会:山口洋子 
                         
                        
                        ローマ書第1部「個人の救済」、第2部「イスラエル(全人類)の救い」に続き、 
                         
                        12章から第3部「実際問題」に入ります。パウロは、1~2部(神の子とされること) 
                         
                        と3部(キリスト者が如何に生きるべきか)は一つの問題だと言います。  
                         
                         
                        私たちの地上における日常生活の全体を、神に喜ばれる聖なる供え物として捧げな 
                         
                        さい(1)、とパウロは説きます。その「聖」とは、私たちが立派な行いによって聖と 
                         
                        なるのではなく、立派な行いが出来ないが故に、キリストが十字架にかかって罪の贖い 
                         
                        をして下さって、神に属する者とされたこと、それを「聖」というのだ、と。私たちの 
                         
                        日常生活が汚れたままで、キリストにあって「聖なる者」と見做されるのです。 
                         
                         
                        そして一人残らず「異なった賜物(カリスマ)」が与えられている、と述べています 
                         
                        (6)。どんなに弱い人も、キリストの体であるエクレシア(集会)において、その人に 
                         
                        しかない召命の場が与えられているのです。なぜなら、それぞれの人の存在そのものが、 
                         
                        十字架を指し示していますから。パウロのこの理解は、福音の素晴らしさを示してくれ 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        キリスト者は誰しもカリスマ(賜物)を持っています。つまり、皆キリストの恵みを 
                         
                        戴いているのです。そしてその恵みを生かすカリスマも持っています。特別な人だけが 
                         
                        カリスマの所有者ではありません。それぞれ与えられたもので感謝し、力一杯励みなさ 
                         
                        い、とパウロは言っています。               (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年5月21日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の国はからし種のようなものである」 マルコによる福音書4:26~32 
                         
                        聖書講話:犬養光博先生(日本基督教団)、司会:秀村興子 
                         
                        
                        福吉伝道所での私の45年の活動は、日本が立国の基盤を農業から工業に移したこと 
                         
                        に伴って日本人の多くが「農業的発想」が出来なくなり、「工業的発想」へと移らさ 
                         
                        れたことを巡るものでした。「工業的発想」とは、素材と結果が揃うときに素晴らし 
                         
                        いものが出来る、ということです。例えば部品(素材)を組み合わせて、時計や電子 
                         
                        機器を作ることが出来ます。「農業的発想」では素材と結果は異なったものになるこ 
                         
                        とにあります。からし種一粒が、人間が知らないうちに変化して実りを結びます。種 
                         
                        が葉になり花になり果実になりますが、種(素材)は無くなります。私たちも新しい 
                         
                        ことを知る時、堅固な自分の「枠」が壊されます。古い自分が死ぬときに新しい命に 
                         
                        生きるものとされるのです。イエスがからし種を神の国に譬えられたのも「農業的発 
                         
                        想」と申せましょう。 
                         
                         
                        筑豊に生きられた上野英信氏が最後に言われた言葉は「これから蚕が繭を作るよう 
                         
                        な仕事をしたい。」でした。蚕は繭を作って死にますが、繭は貴重な美しい絹になる 
                         
                        のです。カネミ問題を闘われた紙野柳蔵氏は、被害者が「元の体を、元の家庭を返せ」 
                         
                        と叫ぶ中、元の体・家庭を返せと言うことを止められました。それは罪であったから、 
                         
                        と。「悔い改め」こそ為すべきこと、このことを教えてくれた油症になって良かった、 
                         
                        と言われたことを心に刻みたいと思います。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年5月14日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神のものは神に」 ルカによる福音書20:20~26 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ファリサイ派のスパイがイエスの許に来て、皇帝への納税が律法に反するか否かを 
                         
                        問います。それは、イエスが納税拒否と言えば反ローマの首謀者としてローマ総督に 
                         
                        訴えることが出来、納税OKと言えばローマの支配を嫌うユダヤの民衆の支持を失うこ 
                         
                        とになる、という罠でした。答えは納税拒否か容認かの二者択一、イエスは進退窮ま 
                         
                        るかに見えました。  
                         
                         
                        イエスに言われてデナリオン銀貨を見せたスパイは、そこに刻まれた像は「皇帝の 
                         
                        ものです」と答えます。そこでイエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返し 
                         
                        なさい」と言われました。二者択一の落とし穴作戦は失敗したのでした。 
                         
                         
                        イエスは納税を通して皇帝の主権を認めることは、ヤハゥエのみを唯一の神とする 
                         
                        信仰に抵触することは無い、とされました。神の支配は、皇帝の支配を内に包括する 
                         
                        ものであって、現実にはいかなる不法が横行していようとも、神の支配はそれを内包 
                         
                        しつつ、根底において全てを支えているのです。  
                         
                         
                        私たちは日常生活での「皇帝のもの」と「神のもの」の切り分けに悩まされます。 
                         
                        神社参拝や葬儀での作法など…天皇制をどう考えるかも重い問題ではあります。何よ 
                         
                        りも神のものを自分のものにしていることを反省させられます。それは自己中心の罪 
                         
                        に外なりません。その罪の赦しの為にイエスは十字架に死に給いました。返すべき神 
                         
                        のものを私たちに代わって返して下さったのです。ただ感謝あるのみです。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年5月7日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「あなたと共にある」 エレミヤ書 45~46章 
                         
                        聖書講話:渕上明、司会:於保さつき 
                         
                        
                        45章はエレミヤの書記バルクについて述べられています。バルクはエレミヤと共に 
                         
                        危険な場面にも遭遇しましたが、「あなたがどこへ行っても、あなたの命を戦利品と 
                         
                        してあなたに与える(5)」とあるように、身の安全を主より約束されます。 
                         
                         
                        46章から諸国民への預言が記されています。46章ではエジプトに関する預言が書か 
                         
                        れています。 
                        エジプトはバビロンによる攻撃によって、世界でのその地位を大きく下落させますが、 
                         
                        それは神によってなされたものでした。27~28節が中心で、主の言葉としてイスラエル 
                         
                        の民を捕囚から救い出すことが、再度約束されます。 
                         
                         
                        28節では「私があなたと共にいるからだ」と主がイスラエルの民と共におられること 
                         
                        を示されています。 
                        また、エジプトやバビロンのようなイスラエルの民に苦しみを齎した国も、神によっ 
                         
                        て滅ぼされることが告げられます。 
                         
                         
                        それでも、「私はあなたを正しく懲らしめる。あなたを罰せずにおくことは決してな 
                         
                        い」との言葉で46章は終わっています。 
                         
                         
                        神は私たちの傍に共にいて見守っておられ、救いの手を差し伸べて下さいますが、罰 
                         
                        をも与えられます。 
                         
                         
                        人が本質的に持っている罪の赦しについては、主イエス・キリストが誕生し、その贖い 
                         
                        と復活による赦しを待たなければならなかったのです。       (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年4月30日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「子羊による巻物の受領」 ヨハネの黙示録5:1~14 
                         
                        講話:香西信(岡山聖書集会)、司会:三苫恵子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        ヨハネ黙示録は1世紀末のドミティアヌス皇帝迫害下の信徒たちに、忍耐して終わり 
                         
                        の日まで信仰を守り通すよう励まし、慰めを与えた書物です。「黙示」とは神が隠され 
                         
                        ていた真理や神意を見せるという意味、様々な苦難の中にある私たちも、この書に希望 
                         
                        と勇気を読み取ることが出来ると思います。 
                         
                         
                        著者ヨハネは霊的状態になって天上の幻を見ます。玉座におられる方(神)がお持ち 
                         
                        の巻物(神の歴史計画)は7つの封印によって開くことは不可能、唯一開くことが出来 
                         
                        るのは屠られた子羊(イエス)で、巻物を受け取って一つずつ開封し、終末までの歴史 
                         
                        をヨハネは見せて貰うことになります。 
                         
                         
                        香の鉢を持つ二十四人の長老が子羊にひれ伏しますが、香は信徒たちの祈りだ、とあ 
                         
                        ります。地上での私たちの祈りはいつも天上でイエスの届けられているのです。そして 
                         
                        全人類が救い出されて、神の国の住人になる、という賛美が捧げられています。黙示録 
                         
                        で強調されるのは、十字架上に屠られた子羊は勝利者である、ということ、イエスは全 
                         
                        ての人を罪から贖い出して、地を愛によって支配する者となし給うのです。 
                         
                         
                        天地創造に始まる神の歴史は、審判を経てイエスによって示された義と愛の支配する 
                         
                        神の国の完成に至るのです。私たちの希望はここにあります。この希望に生きることが 
                         
                        許されて喜びの日々を歩めることは、何にも勝る感謝です。    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年4月23日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「『ぶどう園と農夫』の譬」 ルカ20:9~19 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        ぶどう園(イスラエル)を農夫たち(宗教指導者たち)に貸していた主人(神)が、 
                         
                        収穫の成果を納めさせるために繰り返し派遣した僕(預言者)たちは袋叩きにあって 
                         
                        追い返され、最後に派遣した息子(イエス)は殺されてしまう、というイエスの譬話 
                         
                        は、神の子イエスを拒んで殺そうと諮る大祭司以下の宗教指導者たちの運命を預言さ 
                         
                        れたものでした。 
                         
                         
                        ユダヤ民族4千年の歴史は、このままに事実です。そして、2千年のキリスト教会は 
                         
                        委託されたぶどう園(新しいイスラエル)の管理を、神の望まれるように果たしている 
                         
                        とは言い難いでしょう。正義と公平は疎かにされて戦火は止みません。私たち信徒は悪 
                         
                        しき農夫になっていないか?が問われます。 
                         
                         
                        イエスは「隅の親石」の譬で結ばれます。宗教家たちに棄てられた隅の親石・イエス 
                         
                        は軟弱な石ではなく、堅くて鋭いダイヤモンドです。泥まみれで見栄えは良くありませ 
                         
                        んが実は美しく、侮ってはなりません。この石に躓いて倒れる者、下敷きになる者は砕 
                         
                        かれ、この石を土台として自らを建てる者は永遠の命に生きて倒れることは無いのです。 
                         
                         
                        イエスは私たち ぶどうの枝は ぶどうの木・イエスに繋がっていれば必ず実を結ぶ、 
                         
                        と言われす(ヨハネ15:5)。私たち枝は、木から流れてくる樹液(聖霊)をいつも受 
                         
                        け取って、イエスの命に生かされる者でありたいと思います。   
                         
                         
                        なお、本日は聖書講話の前に、於保泰正兄の感話「イスラエル研修旅行の写真」で、ベツ 
                         
                        レヘムやクムランなどを旅行された体験談を伺いました。        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年4月16日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「権威についての問答」 ルカによる福音書20:1~8 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:長澤玲子 
                         
                        
                        ユダヤ教のリーダーたち(祭司、律法学者や長老たち)とイエスの対立は、イエス 
                         
                        の神殿粛清で決定的になります。「何の権威でそんなことをするのか」との問いはイ 
                         
                        エスに、ローマ政府がイエスを犯罪人(反逆者)とするのを促すような、或いは民衆 
                         
                        の信用を失わせるような発言をさせようとする罠でした。イエスはその問いには答え 
                         
                        られず、ヨハネの洗礼の権威(淵源)を逆に問い返されます。咄嗟の鋭い反撃でした。 
                         
                        神殿中心の堕落したユダヤ教を批判したヨハネを、民衆は信じていましたから、天か 
                         
                        らの権威(であれば信じるべき)とも人からとも答えられず(民衆と対立する)、彼 
                         
                        らは進退窮まったのです。「わからない」との答えは、神殿(壮麗な建物)を権威と 
                         
                        する彼らの内実が空虚であることを暴露しました。 
                         
                         
                        宗教家たちは律法を管理し、神殿を拠点とすることによって、神を手中に掴み取っ 
                         
                        て自ら神の地位に立っていました。アダムとエバの堕罪物語に於いて「あなたは神の 
                         
                        如くになる」という蛇の誘惑の言葉が現実のものとなっていたのです。罪とは、人間 
                         
                        の分を超えて神の如き存在として自己主張すること。罪からの解放にイエスは十字架 
                         
                        への道を進み行かれます。  
                         
                         
                        パウロも彼の権威を問題にされましたが、彼は答えます、「人からでなく、イエス 
                         
                        ・キリストと神とによって使徒とされた(ガラ1:1)」、と。私たちも、クリスチャ 
                         
                        ンとして存在する淵源が天からなのか、人からかが問われます。   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年4月9日(日)イースター集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「神殿粛清」 ルカによる福音書19:45~48 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:下田妙子 
                         
                        
                        エルサレムに到着されたイエスは神殿に入られます。神の子イエスにとって神殿 
                         
                        (神の家)は我が家のようなもの、喜んで犠牲を捧げ、祈られるかと思いきや、い 
                         
                        きなり境内で商いをしている人々を追い出されました。「祈りの家を強盗の巣窟に 
                         
                        している(46)」、と。平和と謙虚の象徴ともいえる子ロバに乗られたイエスが暴力を 
                         
                        振るわれたのですから、驚きです。 
                         
                         
                        犠牲の動物の商いや、神殿税納付のための両替という利便のためでしたが、神殿に 
                         
                        癒着する祭司たちが莫大な利益を上げていたのです。それも怒られたのですが、それ 
                         
                        だけではありません。イエスのこの行為は、神の国の到来を実現する、というイエス 
                         
                        の使命に関わることでした。神に背を向けて自己中心に生きている人々の心を神に向き 
                         
                        変えさせようとされました。神殿は心を神に向ける拠点であらねばなりません。私たち 
                         
                        はこの出来事に、イエスの本質を知らされます。 
                         
                         
                        イエスは「この神殿を壊せ、三日で立て直してみせる」と言われました(ヨハネ2:19)。 
                         
                        神が十字架を通して私たちに与え給う救いがイエスの復活によって明らかになりました。 
                         
                        ユダヤ戦争によって神殿は壊滅しましたが、復活のイエスこそが新しい神殿です。そし 
                         
                        てパウロは「あなた方が神殿である」といいます(Ⅰコリ3:16)。神殿粛清が必要な 
                         
                        のは私たち、強盗の巣にならないように、いつもイエスを心の真ん中にお迎えして、日々 
                         
                        を歩みたいと思います。                 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年4月2日(日)集会(ZOOM同時配信) 
                         
                        「エレミヤの最後の言葉」 エレミヤ書44章 
                         
                        聖書講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                        
                        44章は、エレミヤ最後の預言です。この後、エレミヤがどんな運命を辿ったかは分か 
                         
                        りません。ユダの民によって殺されたとの伝説もあります。この章は書記バルクによっ 
                         
                        て記されたと思われますが、エレミヤの苦しみが描かれています。神への立ち返りを求 
                         
                        めてエレミヤは預言者としての活動を続けて来ましたが、最後の預言に対して、ユダの 
                         
                        民は偶像崇拝をしていた頃の方が、良かったとまで述べます(17:1~7)。 
                         
                         
                        これは1章にあるエレミヤが神によって与えられた使命を想起させます。これだけを見 
                         
                        るとエレミヤがこれまでに行って来たことが全て無駄なようにも思われます。しかし神の 
                         
                        言葉を信じ、何度ユダの民に裏切られても神の預言を伝え、正しい道に民を導こうとする 
                         
                        姿勢は変わることはありません。 
                         
                        1章のエレミヤの召命の場面では、「私は、私の言葉を実現するために見張っている(1:12)」 
                         
                        という主の言葉があり、また、44章にも「私は彼らを見張っている。」という言葉があり 
                         
                        ます(27節)。慰めの書と呼ばれる31章には、「建て、植えるために彼らを見張る」と書 
                         
                        かれています。罰するだけでなく、救うためにも見張られているのです。また、「彼らはあ 
                         
                        なたに戦いを挑むが、あなたに勝つことはできない。私があなたと共にいて、救い出すから 
                         
                        だ(1:19)」との言葉には力づけられます。神を信じ、ついて行くことの大切さを教えら 
                         
                        れる言葉です。                       (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年3月26日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「イスラエルの再興、全人類の救い」 ローマの信徒への手紙11:25~36 
                         
                        聖書講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:横山宜和 
                         
                        ユダヤ人が神に背いたのは、救いが異邦人に向かう為であったと述べたパウロは、異 
                         
                        邦人の救いはユダヤ人に妬みを起こさせて、ユダヤ人も救いに至り、かくて全人類が 
                         
                        救いに与るのである、と言います。先に異邦人が救われて後にユダヤ人(イスラエル) 
                         
                        が再興されるという神の秘儀のために、ユダヤ人である自分は異邦人伝道に努めてい 
                         
                        る、というのです。 
                         
                        
                        パウロは「神の選び(28)」「神の賜物(29)」という言葉を使って、救いは私た 
                         
                        ちの信仰、敬虔、祈りの側にあるのではなく、神の恵み、神の選びの側にある、と述べ 
                         
                        ています、「信仰とは選ばれていることを知ることである」とブルンナーが言うように。 
                         
                        もし、立派な信仰によって救われるなら、十字架は要らなくなってしまいます。 
                         
                         
                        万人救済論(全人類が救いに与る)には困った問題が起こります。①全ての人が救わ 
                         
                        れるなら、神を怖れて救いの達成のための努力は不要になる ②どんな悪人でも救われ 
                         
                        るのであれば、善悪を区別する必要が無くなる など。内村鑑三も神の審きを重視しま 
                         
                        すが、「罪人の頭」である自分が救われるからには、万人救済論を信じざるをえない、 
                         
                        と言います。K.バルトがこの難しい問題について、「私は所謂万人救済論を信じません。 
                         
                        しかし、万人救済者であるイエス・キリストを信じます」と言っているのは、至言だと 
                         
                        思います。                          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年3月19日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「エルサレム入城」 ルカによる福音書19:28~44 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        古来エルサレムにアレキサンダー大王など多くの王・支配者が武力を誇示して、軍 
                         
                        馬に乗って入城してきました。エルサレムに入られるイエスを、群衆はローマ帝国の 
                         
                        圧政から解放してくれるそのような王として、歓呼して迎えます。しかしイエスが乗 
                         
                        られたのは、借り物の子ろば(ゼカリヤ9:9)でした。それは、弱者の友として無限 
                         
                        の神の愛をもって支配されることにイエスの王たる所以があることの象徴でした。 
                         
                         
                        ファリサイ派の人が、群衆の「主の名によって来られる王(38)」という賛美にクレー 
                         
                        ムをつけますが、エルサレムの群衆も1週間後には豹変して「十字架につけよ」と叫ぶ 
                         
                        ことになります。そのことをわきまえておられたイエスは、エルサレムが視野に入った 
                         
                        ときに号泣されました。敵対する者は抹殺するのが王であるのに
… 驚くべきことです。 
                         
                        イエスの福音を信じ受けない者が審かれること(やがてエルサレムは灰燼に帰す)に耐 
                         
                        えられないイエスの愛が、涙に表れています。 
                         
                         
                        万人の罪を赦し給う十字架と復活を経て天に帰られたイエスによって「天に平和、神 
                         
                        に栄光(38」」が実現しました。イエスの誕生によって「地に平和(2:14)」が到来 
                         
                        しましたが、その完成はイエスの再臨によることが暗示されます(神の愛が全地に平和 
                         
                        を齎す)。その時は明示されていませんが、復活のイエスが今この時も私たちと共に歩 
                         
                        んで下さっていることが、約束の信じるに値することを示しています。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年3月12日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「ムナの譬」 ルカによる福音書19:11~27 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        一泊されたザアカイの家で、イエスは人々に「ムナの譬」を話されます。託された 
                         
                        1ムナ(100万円)を主人不在の間に増やした僕は、王となって帰還した主人に褒美を貰 
                         
                        いますが、ただ保管していた僕は断罪される、と。ここに、受難後天に帰られるイエ 
                         
                        スが王として再臨される迄の間の、イエスから託された福音に対する信徒の姿勢が問 
                         
                        われています。  
                         
                         
                        十人の僕たちが等しく1ムナを託されることに、神が私たちを差別なく恵み給うこ 
                         
                        とが表されています。能力や環境に不平を呟きがちですが、むしろ貧しく弱い所に神 
                         
                        の恵みが力を発揮するのであり、それを言い表すことが求められます。この世での小さ 
                         
                        な働きが、神の国では大なるものとされ、逆に神を怖れて働かない者は、見棄てられる 
                         
                        と言われます。 
                         
                         
                        切迫する十字架に無理解な人々を前に、ご自身が死んで天に帰られた後、再臨の時ま 
                         
                        での神の国の行く末を思いつつこの譬を話されるイエスの胸中を察すると、胸を突かれ 
                         
                        ます。この譬には、主人が王になることに反対する者たちが滅ぼされるという話が織り 
                         
                        込まれていますが、イエスが王となることに敵対するサタンの滅亡も描かれているのです。 
                         
                         
                        イエスの勝利は確定していますが、サタンの支配は続くでしょう。神の国の完成には 
                         
                        イエスの再臨を待たねばなりませんが、私たちの救いは復活のイエスが共にい給うことで 
                         
                        あり、その証し人として生きることが求められています。    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年3月5日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「恐れと畏れ」 エレミヤ書43章 
                         
                        聖書講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        エレミヤ書43章には、エレミヤのユダの民への最後の預言が書き記されています。 
                         
                        42章では、エレミヤの預言に必ず従いますと述べたヨハナンをはじめとする残され 
                         
                        たユダの人々でしたが、エジプト行きを否定する預言がなされると、アザルヤやヨハ 
                         
                        ナンおよび傲慢な人々は、エレミヤの預言は偽りであると言い出します。傲慢な人々 
                         
                        とは、自分たちの考えにそぐわない預言は信じない人々です。結果として、4節にあ 
                         
                        るように、主の声に従いませんでした。 
                         
                         
                        もう一つの面として、アザルヤやヨハナンは、バビロンの王によって任命された総 
                         
                        督ゲダルヤをイシュマエルが殺害したため、バビロンの王を恐れていました。自らが 
                         
                        殺害した訳ではなかったのですが、恐怖心には勝てなかったのではないかと思われま 
                         
                        す。今の私たちに置き換えても、そうした恐怖心に襲われることはあるのではないで 
                         
                        しょうか。 
                         
                         
                        そこにあるのは、神への畏れよりも強い人間に対する恐怖心だと思えます。神の言葉 
                         
                        は、時に人の理解を越えたものであると感じることがあります。 
                         
                         
                        新約聖書においても、イエス・キリストの言葉にすべて従って生きることは不可能の 
                         
                        ようにも思われます。そこに私たちの内在する罪があります(ローマ7章)。その罪を 
                         
                        癒して下さるのがイエス・キリストであり、それはイエス・キリストへの祈りによって 
                         
                        なされるのではないでしょうか。           (渕上記) 
                        
 
                         
                        2023年2月26日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「エリコの盲人とザアカイ」 ルカ福音書18:35~19:10 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:於保泰正 
                         
                           
                        物乞いの盲人は通りかかられたイエスに救いを求め続けました。イエスは彼の熱心を 
                         
                        良しとして癒され、「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、信仰には恵み 
                         
                        が先行していることをこの記事が明示しています。イエスに近くを通らせ、イエスの癒し 
                         
                        の力を信じさせ、叫ばせ給うた神の恵み無くして「信仰」は生まれません。信仰は私た 
                         
                        ちの力で獲得するのではなく、恵みとして与えられるのです。 
                         
                         
                        世の富に対する欲の塊であった徴税人の頭ザアカイは、通りかかられたイエスが「ど 
                         
                        んな人か見たい」と思います。それは心に空虚を抱えていた彼の、イエスへの好奇心だ 
                         
                        ったのでしょう。金持ちの小男が走って木に登り、葉陰から見ようとしたのは尋常では 
                         
                        ありません。イエスが名を呼んで彼の家に泊まるという更に尋常でないことが起こりま 
                         
                        した。イエスの愛に触れて罪を意識した彼の心のうちに尊いものが芽生えます。あれほ 
                         
                        ど大事だった財産を施すと宣言しました。イエスの愛が新しい人間
―「アブラハムの子」 
                         
                        即ち「神の国」を継ぐ者- を生んだのです。卑しい職業人のあるがままで。 
                         
                         
                         十字架が迫っているエリコでの重大な時に、イエスは他を措いて二人 
                         
                        の「迷える羊」の救いのために力を注がれました。ここに神の子の姿を 
                         
                        見ます。今、この時も私たちの前を通りかかっておられる復活のイエス 
                         
                        に会うべく、恥も外聞もなく走って木に登る者でありたいと思います。 
                         
                                               (秀村記) 
                         
                         
                        2023年2月19日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「祈るときには」 マタイによる福音書6:5~15 
                         
                        聖書講話:大園明子、鎌田良子、原サイ子、日比和子、赤塚久仁子、 
                         
                              秀村興子、小林典子、司会:山口洋子 
                         
                        
                        以下「主の祈り」の要約 (9~13節)。イエスはこう祈りなさいと教えられました。 
                         
                         
                        「天にいます我らの父よ」この美しい呼びかけはイエスが初めて人類に教えられた 
                         
                        言葉。我らの父よ、と呼びかけて祈ることが、信ずる者とキリストと父とが一つであ 
                         
                        るという社会的概念で、祈るときは常に神の国の民としての立場で祈る。天にいます、 
                         
                        は世の偶像神と本質的に異なる至高の真神の意。 
                         
                         
                        「御名の崇められんことを」子として父の名が崇められるにまさる願いはない。いまだ 
                         
                        多くの人がこの御名を知らない。 
                         
                         
                        「御国の来たらんことを」神の国の地上に成らんことをの意。 
                         
                         
                        「御意の天のごとく、地にも行われんことを」神の喜ばれる聖く高き道徳律がそのまま 
                         
                        地上生活の現実となるように。 
                         
                         
                        「我らの日用の糧を今日も与え給え」人間の地上生活の必要。 
                         
                         
                        「我らに負債ある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免したまえ」人と和らいだ心 
                         
                        でなければ神の前には立てない。 
                         
                         
                        「我らを試みに遭わせず悪より救い出し給え」悪魔(サタン)の誘惑に捕らえられません 
                         
                        ように。 
                         
                         
                        大なる神を崇めたてまつる祈三箇条、弱き人間の生活に対する祈三箇条、合わせて六箇 
                         
                        条はイエスの教えた祈の公式である。祈の態度は率直なる心を以て神の前に立つことである。 
                         
                         
                         矢内原忠雄著『聖書講義Ⅰ・山上の垂訓』より           (大園記) 
                         
                         
                        2023年2月12日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の国に入るには」 ルカによる福音書18:15~34 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        祝福を求めて乳飲み子を連れてくるのを叱った弟子たちに、イエスは「子供のよう 
                         
                        に神の国を受け入れる者しかそこに入れない」と諭されました。与えられるものを喜 
                         
                        んで素直に受け取る子供の姿勢を、神の国に相応しいとされたのです。  
                         
                         
                        他方で、永遠の命を受け継ぐ条件を訊いてきた金持ちの議員に、イエスは十戒を示し、 
                         
                        更に財産の放棄までも要求されます。貧しい人に施せ(愛の実行)、と。自分の富を 
                         
                        信頼する金持ちには不可能でした。イエスは「金持ちが神の国に入るよりもらくだが 
                         
                        針の穴を通る方が易しい」と嘆かれました。 
                         
                         
                        私たちは究極のところ、地上の富(物質的、精神的、知的、霊的な富)が頼りであり、 
                         
                        全力でその獲得に努めています、神の国、永遠の命に優先して。そしてイエスの要求に 
                         
                        従うとすれば、利益追求に過ぎません。ペトロの応答(18:28)がそれを暴露していま 
                         
                        す。結局は自分が神なのです。 
                         
                         
                        私たちは自身が金持ちの議員であり、弟子たちであり、針の穴を通れないらくだである、 
                         
                        と突き付けられます。幼児にはなれません。ここにイエスは十字架を見据えられます(三 
                         
                        度目の受難予告=31~34)。イエスはらくだである私たちに血の衣を着せて下さり、その 
                         
                        衣の故に、神は私たちをらくだのままで幼児として見て下さいます。復活のイエスと共に 
                         
                        歩ませて戴ける私たちは神の国の消息を知り、永遠の命の希望、喜びと感謝を、恵みとし 
                         
                        て与えられるのです。                     (秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年2月5日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「恵み」 エレミヤ書42章 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        バビロン捕囚の後ユダの地に残された人々が、今後どうすべきかエレミヤに神に祈 
                         
                        って答えを示してもらうよう願います。ユダの民はエレミヤに対して「あなたの神で 
                         
                        ある主に祈って下さい。」(2節)と願います。エレミヤは、「あなたがたの神であ 
                         
                        る主に、今、私は祈ります。」(4節)と答えます。神は、エレミヤだけの神ではな 
                         
                        くユダの民すべての神である筈ですが、ユダの民はそうした意識が薄れていたのです。 
                         
                        神の答えは、ユダの地に留まるようにとのことでした。しかし彼らは神の言葉に従わ 
                         
                        ず、自らの知恵に頼る道を選びました。 
                         
                         
                        エレミヤ書全体に書かれていることですが、神は「私はあなたがたに憐れみを与え 
                         
                        る」(12節)と言われます。また、「私はあなたがたに下した災いを悔いているから 
                         
                        ある」(10節)とまで言われています。神は何度ユダの人々に裏切られても何とか救 
                         
                        済したいとの思いを強く持っておられるのです。 
                         
                         
                        その姿は、新約聖書のイエス・キリストの姿に繋がります。イエス・キリストは父 
                         
                        なる神の言葉に忠実に生きられた存在でした。弟子たちを含め、周囲の無理解に遭った 
                         
                        時、静かな場所に行かれ祈られました。祈りの大切さと何とかして人を助けたいという 
                         
                        思いが伝わってきます。 
                         
                         
                        42章で学ぶべきことは、神の憐れみはあるということ、人が神の思いに応えることが 
                         
                        出来なくとも、神は決して見捨てられないということではないでしょうか。 (渕上記) 
                         
                         
                        
 
                        2023年1月29日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「ユダヤ人と異邦人キリスト者」 ローマの信徒への手紙11:11~24 
                         
                        講話:市村昭三、司会:長澤玲子 
                         
                         
                        ユダヤ人が福音を拒絶して神に逆らっているのは、神が全人類を救うという目的の 
                         
                        ためなのだ、とパウロは言います。 
                         
                         
                        ユダヤ人は今神に背いているが、このままに終わることはない、ユダヤ人は、異邦人 
                         
                        が救われるのを妬んで、神に対する信仰を取り戻すことになる、と。彼はそのことを 
                         
                        確信して揺らぐことがありませんでした。自分が異邦人の救いのために働いているの 
                         
                        は、その彼方にユダヤ人の救い、延いては全人類の救いを仰いでいたからだったのです。 
                         
                         
                        ユダヤ人も救いに至るという確信の理由の一つは、神に背いていた彼が復活のイエ 
                         
                        スに出会って回心したという自身の体験でした。もう一つの理由を“接ぎ木”の譬で 
                         
                        述べます。 
                         
                         
                        「ユダヤ人というオリブの木が折られて、異邦人という枝が接ぎ木される。そこに 
                         
                        実る果実は根(ユダヤ人)に支えられているのであって、思い上がってはならない。 
                         
                        また、折られた枝が再度接ぎ木されることは容易なことである」、と。不信仰の枝を 
                         
                        折り取る神の“厳しさ”と、接ぎ木の枝をも恵み給う神の“慈しみ”を考えなさい、 
                         
                        とパウロは諭します。ユダヤ人と異邦人の救いのプロセスに、神の愛と義を示します。 
                         
                         
                        私たちは神の愛に甘えがちですが、神には厳しさがあることを忘れてはなりません。 
                         
                        信仰は安心に転化しやすいという面があります。神に抱かれて平安である中、絶えず 
                         
                        目覚めていることが大切だと教えられます。    (秀村記) 
                         
                         
                        2023年1月22日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「祈りについての二つの譬」 ルカによる福音書18:1~14 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        「やもめと裁判官」の譬の裁判官は、弱者を保護せよとの律法にも動じない不埒な 
                         
                        人物でした。やもめは彼を動かす賄賂にも人脈にも事欠いていましたので、粘り強く 
                         
                        執拗に訴え続けるほか手立てがありませんが、その熱心が奏功しました。  
                         
                         
                        神は公平・公正な裁判官であり、困窮者を擁護されます。ご自身に祈り求めるもの 
                         
                        を良くご存知で、最善の解決を与えて下さる信頼できるお方です。イエスは、不埒な 
                         
                        裁判官をも動かせる熱心さが神に対しても有効である、と教えられました。小さな者 
                         
                        に寄り添い給うイエスの愛が溢れています。 
                         
                         
                        「ファリサイ派の人と徴税人」の神殿での祈りは対照的です。ファリサイ派の人は 
                         
                        神の前にも人の前にも自分を義しいと考え、徴税人は自分を罪人と考えました。前者 
                         
                        は得意満面で自己宣伝の祈りを捧げ、後者は神の前に身も心も投げ出して、ただ救い 
                         
                        を求めました。イエスは、後者の祈りを神は喜ばれると言われ、後者の方が「信仰的」 
                         
                        とされたのでした。 
                         
                         
                        イエスはご自身の再臨の時に、地上に「信仰」が見られるだろうか(8)、と言われ 
                         
                        ましたが、徴税人の姿勢に信仰を見られたのです。彼は自身の罪の姿に真っ直ぐに立 
                         
                        ち向かい、自らを神の憐れみに向かって投げ出しました。私たちは再臨の日まで様々 
                         
                        な世の困難を前にして、自力で問題解決してはならないのです。共にいて下さる復活 
                         
                        のイエスを信頼して、祈りを忘れずに歩み続ける者でありたく思います。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2023年1月15日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神の思いと人の思い」 エレミヤ書41章 
                         
                        講話:渕上明、司会:下田妙子 
                         
                        
                        41章はゲダルヤ暗殺とその後の南ユダ王国の様子が書かれており、エレミヤについ 
                         
                        ての記述や神の預言はありません。 
                         
                         
                        イシュマエルはゲダルヤを暗殺した後も多くの民を惨殺しました。ユダヤの民を連 
                         
                        れてアンモンに行こうとしましたが、ヨハナンが軍勢を引き連れてやってくるとユダ 
                         
                        ヤの民は皆ヨハナンの許に行ってしまいます。イシュマエルは8人の部下を連れてアン 
                         
                        モンに行くことになります。イシュマエルは、ユダヤやバビロンの軍人だけでなく、 
                         
                        巡礼に来た元の北イスラエル王国の民をも惨殺しています。なぜ、その様なことをした 
                         
                        のか、理由ははっきりしません。ヨハナンは、その後、エジプトへ向かおうとします。 
                         
                        その理由は、イシュマエルがバビロンによって総督に任じられていたゲダルヤを暗殺し、 
                         
                        また、バビロンの軍人を殺したことから、自分たちがバビロンに行けば、自分たちが罪 
                         
                        に問われると思ったからでした。 
                         
                         
                        42章でエレミヤは、エジプトではなく、この地に留まるようにとの神の預言を伝える 
                         
                        ことになりますが、ヨハナンも民も神の言葉に従いません。エレミヤは又も民に裏切ら 
                         
                        れます。 
                         
                         
                        神の判断は、時に人の知恵を超えたところでなされます。自分自身で最善と考えたこ 
                         
                        とが、必ずしも最善でないことはよくあることです。私たちは、聖書の言葉を心に刻ん 
                         
                        で、主イエス・キリストにならって生きて行くことが大切なのではないでしょうか。 
                         
                                                       (渕上記) 
                         
                        2023年1月8日(日)新年集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「使徒ヤコブのお墓」 使徒言行録12~3 
                         
                        講話:片山寛先生(西南学院大・神学部)、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        マドリードのプラド美術館でゴヤの『1805年5月3日』に再会しました。スペイン王国 
                         
                        がナポレオン軍に敗北した時に抵抗した市民が銃殺される光景を描いたもの。白い服の男 
                         
                        は両手のひらに釘傷があることからキリストを描いたものとされています。ウクライナで 
                         
                        も起こっている国家権力によって民衆が殺害されるその現場にイエスが共におられて、今 
                         
                        も民衆と共に苦しんでおられることを表しています。 
                         
                         
                        サンチアゴ巡礼では115kmを歩きました。巡礼とは何だろうか、と思います。ある人々 
                         
                        は人生の修養だと言います。しかし私は、巡礼は人生の重荷を少しでも下ろすためにする 
                         
                        のだと思います。そして、人生は神の道しるべを回って歩むようなものだと思います。そ 
                         
                        の道しるべは「聖書」朝に聖書を開き、昼は休み、午後は生を楽しむ、日曜日は集会へ。 
                         
                        そのような日々を送りたいと思います。             (秀村記) 
                         
                         
                        2022年12月25日(日)クリスマス集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「エッサイの株から」 イザヤ書10:33~11:10 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        クリスマスに祝うイエス・キリストの誕生を約700年前に預言したのが、最大の預言 
                         
                        者と言われるイザヤです。彼はアハズ、ヒゼキヤといった南ユダ王国の王たちが神を無 
                         
                        視して、強国アッシリアやエジプトに頼り、偶像崇拝に陥って真実と正義を蔑ろにする 
                         
                        ことを批判します。その行き着くところはダビデ王朝の滅亡だ、と神の審判を預言した 
                         
                        のでした。 
                         
                         
                        しかし、一方で彼は希望の灯をともします。神に背いている王国は裁きを受けるが、 
                         
                        その後にメシア(救い主)が到来して、正義と真実の支配を回復する時が来る、神が約 
                         
                        束されたダビデ王朝は滅びることはない、と。「エッサイの株から」と始まる預言は、 
                         
                        理想のメシア(エッサイはダビデの父)と神の国の到来に希望を託すものだったのです。 
                         
                         
                        イエスはダビデ王朝を復興することなく、十字架上に処刑されました。しかしその死 
                         
                        が、全人類を罪から救い出す贖いの死であったことを、弟子たちはイエスの復活によっ 
                         
                        て知りました。イザヤの預言(メシアと神の国の到来)が、イエスの到来によって実現 
                         
                        したことが明らかになったのです。 
                         
                         
                        クリスマスは神の約束は必ず実現するということを確認する時です。もうひとつの約束、 
                         
                        キリスト再臨の約束も破られることはありません。完全な平和と和解が成就するというそ 
                         
                        の日を信じて、希望と喜びに歩みたいと思います。  
                         
                        引き続き「中高生クリスマス会」をもちました。     (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年12月18日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「平安は聖書を読むことによって」 ヨハネによる福音書14:27 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:於保さつき、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        聖書における「平和」という言葉は、ギリシャ語の「エイレーネー」とヘブライ語 
                         
                        の「シャーローム」の翻訳です。「平安」とも訳されます。聖書においては、平和・ 
                         
                        平安が旧約新約を貫いて大きなテーマとなっています。 
                         
                         
                        それでは、内面における平安と外的な平和の関係はどう考えるべきでしょうか?塚 
                         
                        本虎二は「平安から平和が生まれる。その反対ではない」と言っています(著作集続 
                         
                        五巻28-29頁)。私もそのとおりだと思います。 
                         
                         
                        現代には特有の生きづらさがあり、自己責任論が蔓延しています。しかし、神は 
                         
                        「私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」(イザヤ書43章4節)と 
                         
                        おっしゃってくださいます。人生は主の配慮のもとにあり、神の包容の中にあります。 
                         
                        私は、聖書の言葉を読み、このことを聞き、知る時に、そのつど平安を得ています。 
                         
                         
                        人類の歴史においては、宗教がかえって特定の思考の枠組みを増幅させてきたことも 
                         
                        ありますが、無教会はあらゆる枠組みから自由になることを目指すものではないかと思 
                         
                        われます。ただ信仰のみで、神の包容に気づき、イエスのような枠にとらわれない自由 
                         
                        と共感と愛をめざして歩み始めることができます。私は無教会のおかげで、こうした道 
                         
                        を指し示してくれる聖書に出会えたことに感謝しています。    (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2022年12月11日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        
                        「神の国の到来と人の子の再臨」 ルカによる福音書17:20~37 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:秀村興子 
                         
                         
                        イエスは、地上の王国としての「神の国」を期待していたファリサイ派の人々に対 
                         
                        して、神の子イエスと共にある所に「神の国」はあると説かれました。イエスの死後 
                         
                        に生きる者も、復活のイエス(聖霊)と共にあるとき、永遠の命を与えられて、生け 
                         
                        るイエスと共に生きる者とされます。そこに「神の国」があるのです。この教えは未 
                         
                        信者向けと申せましょう。  
                         
                         
                        イエスは、弟子(イエスを信じる者)には自らの「再臨」を教えられました。弟子 
                         
                        はまず、イエスの受難を、そしてイエスに従う者も苦難に遭うことを覚悟せよ、と言 
                         
                        われます。再臨は最後の審判のときであり、あっという間に起こる、洪水から救われ 
                         
                        たノアや滅亡の町を逃れたロト同様の事態になる、と。そして、偽預言者に惑わされ 
                         
                        るなとも諭されました。 
                         
                         
                        一読すると終末の恐怖が述べられているように感じます。人を恐怖に陥れて宗教に引 
                         
                        きずり込むのはカルト宗教の手口ですが、ここはそうではありません。イエスが語りか 
                         
                        けておられるのは、イエスに従って十字架を負い、苦難の中にある者たちに対してです。 
                         
                        再臨の時はサタンが裁かれて神の義と愛が完成するときであり、喜びの到来を約束して 
                         
                        下さっている、私たちへの慰め、励ましの言葉なのです。 
                         
                         
                        再臨に予兆が無いとすれば、私たちの日常が問題です。いつイエスが来られても良い 
                         
                        ように、日常生活での神への義務を忠実に果たしながら生きよ、と教えられたのです。 
                         
                                                        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年12月4日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「神に委ねる」 エレミヤ書40章 
                         
                        講話:渕上 明、司会:山口洋子 
                         
                        
                        エレミヤ書40章は歴史的な流れを淡々と記述しています。エレミヤについて触れら 
                         
                        れているのは1~6節だけで、39章で書かれていたエレミヤの釈放について詳しく記 
                         
                        されます。エレミヤを釈放した親衛隊長はエレミヤを丁重に扱い、食料まで与えて自 
                         
                        由の身とします。前節で語られているように、エレミヤはおそらく良い待遇を与えら 
                         
                        れるであろうバビロンに行くのではなく、ユダの地に残された民の中に留まります。 
                         
                         
                        その後は、エレミヤが身を寄せたゲダルヤについて書かれています。ゲダルヤは、 
                         
                        バビロンの王によってユダの地の監督を委ねられた人物ですが、エレミヤの預言を信 
                         
                        じた人でした。ゲダルヤは、人徳のある人物であったと思われます。残された貧しい 
                         
                        者たちの監督をバビロンの王より委ねられたと聞き、多くの人が彼の許に集まって来 
                         
                        ました。 
                         
                         
                        エレミヤもゲダルヤの許で、それまでの生活に比べ安心した生活を送ることが出来 
                         
                        ていたものと思われます。しかし、それも長くは続かないことなります。ユダの王の 
                         
                        血筋をひくイシュマエルが、ゲダルヤの暗殺を企てていたからです。 
                         
                         
                        この章で考えることは、エレミヤの貧しい人々に寄り添う姿とゲダルヤの懸命に貧 
                         
                        しい人々を救おうとする姿です。エレミヤは、この後も預言を続けますが、最後まで 
                         
                        ユダの民はその言葉に従うことはありませんでした。真の救済は、主イエス・キリス 
                         
                        トを待たねばならなかったのです。           (渕上記) 
                        
 
                         
                        2022年11月27日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「イスラエルの残りの者」 ローマの信徒への手紙11:1~10 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:小林典子 
                         
                        
                        パウロは、ユダヤ人がキリストを拒絶して滅びに転落しつつあることに「神はご自 
                         
                        分の民を捨てられたのか?」との疑問を抱きますが、「決してそうではない」と断言 
                         
                        します(1)。その証拠に、生粋のユダヤ人である自分が救われた、と述べます。神 
                         
                        に反抗していた彼が体験した回心がその根拠でした。  
                         
                         
                        多くの預言者が殺された中で一人生き残ったエリヤに、神はご自分のために7千人 
                         
                        を残した、と言われました(列王上19:18)。パウロはイエスの到来によってその希 
                         
                        望の言葉が実現している、自分も含む「残りの者」の存在は、神からの一方的な「恵 
                         
                        みの事態」であると言うのです(5)。 
                         
                         
                        神の恵みは、イエス・キリストの福音の中に明示されました。人間の自然な考えでは、 
                         
                        私たちの側から神を獲得しようとしますが、「恵み」はその逆で、神の側に主導権があ 
                         
                        って、私たちは完全にそれに服するのです。このことを受け取ることこそ「信仰」にほ 
                         
                        かなりません。 
                         
                         
                        パウロは救いの対象をユダヤ人に限定せず、全人類に拡げて考えますが、内村鑑三も 
                         
                        キリストを受け容れない日本の民はキリストの救いから外されてはいない、救うために 
                         
                        神は私たち少数の信徒を「残りの者」として遣わされている、と言います。イエスが神 
                         
                        無き者のために神となられたこと、十字架上での赦しの祈りが、私達の唯一の希望です。 
                         
                        「残りの者」として、恵みを単純に信じる者でありたく思います。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年11月20日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「信仰とは」 ルカによる福音書17:1~19 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        イエスは弟子たちの集まり(エクレシア)を大切にされ、信徒たち同士の「信仰の 
                         
                        あり方」について教えられました。 
                         
                         
                        まず、イエスを信じる「小さな者」を躓かせてはならない、躓かせる者は首に石臼を 
                         
                        かけられて海に沈められる方が幸いだと、愛による細心の注意と努力を求められました。 
                         
                        次に、赦し合うことについて。あなたに罪を犯す者が悔い改めたら、一日に何回まで等 
                         
                        とは言わず、無限に赦せ、と言われます。 
                         
                         
                        これらの要求は、私たちには厳しすぎて不可能とも思えますから、もっと立派な信仰 
                         
                        を持たねばならないと考えます。しかしイエスは、あなたにはからし種一粒ほどの信仰 
                         
                        も無い、と断じられます。信仰だと思っているのは自分の知恵や力に過ぎない、と。信 
                         
                        仰は神から戴くものであって、それがあればどんなに小さくとも偉大な力を発揮する、 
                         
                        と説かれました。 
                         
                         
                        そして譬を話されます。神と私たちは、主人と奴隷の関係であって、奴隷には働く義 
                         
                        務があるだけである、どんなに神のために善い業をしても神から感謝されることは無い、 
                         
                        と。  
                         
                         
                        感謝を忘れてならないのは私たちの方です。イエスに癒された十人の病人(規定の病の) 
                         
                        のうち、戻ってきてイエスに感謝したのは、一人サマリア人(異教徒)だけでした。イエ 
                         
                        ス(神)への感謝は「賛美」にほかなりません。私たちが溢れるほど戴いている恵みを感 
                         
                        謝し、賛美することに「信仰」の頂点があります。恩恵泥棒にならぬように!(秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年11月13日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「『金持ちとラザロ』の譬」 ルカによる福音書16:14~31 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        この譬話の前半は、贅沢に暮らしていた金持ちが死んで陰府で苦しみ、貧しいラ 
                         
                        ザロが死んだ後は幸福の極みにいるという「逆転」が語られ、後半は、死後に悲惨 
                         
                        な目に合わない為には、生前に「変わることの無い」聖書の教えを守るべきことが 
                         
                        語られます。前半で教えられる「逆転」と、後半で教えられる「不変」は、何を意 
                         
                        味しているのでしょうか? 
                         
                         
                        神は天地を創造されましたが完成には至っていません。被造物は神に与えられた 
                         
                        自由を濫用しています。その最たるものが人間で、サタンに拐かされて神に背いて 
                         
                        います。全地は神の愛から離れて罪の状態にあります。しかし、神は万物を完成に 
                         
                        至らされます。それは終末の時、キリスト再臨の時です。天地創造から終末までの間、 
                         
                        変わらないのは神の愛です。 
                         
                         
                        サタンが支配している地上では、神に背く者が幸福であるように見えます。しかし、 
                         
                        終末時にはサタンは裁かれて神の支配が完成され、支配に逆転が起こるのです。イ 
                         
                        エスはこの譬で、神の愛の「不変」と「逆転」を示されたのでした。 
                         
                         
                        暗黒のこの世を生きる私達に、イエスは最後に「復活」と「悔い改め」を述べられ 
                         
                        ました。イエスの到来によって「神の国」が地上に齎されましたが、「復活」のイエ 
                         
                        ス(聖霊)と共に歩む者には、終末を待たず「神の国」に生きることが許される、と。 
                         
                        私達を神に立ち返らせて下さり(悔い改め)、私達の心に住み給うて、愛の業に導い 
                         
                        て下さるのです。                       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年11月6日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「信じて命を得る」 エレミヤ書39章 
                         
                        講話:渕上明、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        エレミヤ書39章はエルサレム陥落を淡々と綴っています。その内容は、列王記下 
                         
                        25章の内容と同じものです。 
                         
                         
                        エルサレムは1年半のバビロン軍の包囲の後、城壁を破られ陥落します、ゼデキ 
                         
                        ヤ王は、民を見捨てて逃げ出しますが捕えられ、子どもたちを惨殺された後、両目 
                         
                        を潰されバビロンに連行されます。 
                         
                         
                        39章の中心は、14節の「エレミヤは民の中にとどまった。」という部分です。多 
                         
                        くの人々がバビロンの捕囚となり、ユダの地に残されたのは何も持たない貧しい人 
                         
                        々でした。エレミヤは以前からバビロンへの降伏を呼び掛けており、バビロンの王 
                         
                        ネブカドレツァルもそのことを知っており、「彼を連れ出し、世話をせよ。いかな 
                         
                        る害も加えるな。彼が求めることは、何でもかなえてやれ(11)」と述べています。 
                         
                        エレミヤはバビロンに行けば、おそらく優遇されたでしょう。しかし、エレミヤは 
                         
                        貧しい民と共にユダの地に残りました。 
                         
                         
                        また、エレミヤを助けたクシュ人エベド・メレクには神の救いの約束がなされ、そ 
                         
                        れが実現します。 
                         
                         
                        エレミヤが、貧しい人々と残ったことは、イエス・キリストの姿と重なります。主 
                         
                        イエス・キリストは、常に貧しいもの、小さなものに寄り添っておられました。内村 
                         
                        鑑三が「旧約の人物にして新約のイエスに最も近きものはエレミヤであった。」(エ 
                         
                        レミヤ伝研究)と言っているとおりです。           (渕上記) 
                        
 
                         
                        2022年10月30日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「『不正な管理人』の譬」 ルカによる福音書16:1~13  
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤玲子 
                         
                        
                        イエスが弟子たちに話された「不正な管理人の譬」は新約聖書中で最も難解な 
                         
                        記事だと言われています。主人から財産管理と会計を任されていた管理人が不正 
                         
                        をしたことがバレて、保身のために更に不正を働きます。管理人の権限をもって 
                         
                        いる内に、主人に負債のある者達の負債を減額してやって恩を売り、失職後の働 
                         
                        き口を確保したというのです。主人は、管理人の賢いやり方を褒めた、といいま 
                         
                        すから無茶苦茶です。 
                         
                         
                        管理人の不正は道徳的には許されないことですが、主人が褒めたのは、管理人 
                         
                        が先を読んでタイミングを逃すことなく、機敏に手配をした、その姿勢と行動力 
                         
                        に感じ入ったからです。イエスの譬にお馴染みの「大逆転」は、「神の国」を指 
                         
                        し示します。イエスが語りかけられたのは、近づいている「神の国」の到来とい 
                         
                        う最も大切なことに全身全霊を持って備えよ、ということでした。弟子たちにも 
                         
                        この不正な管理人と同様、切迫した状況に追い込まれていることを悟らせて、 
                         
                        「神の支配」の到来は恩恵であるという消息を伝えようとされたのでした。 
                          
                        これは私たちへのイエスの語りかけであり、励まし慰めにほかなりません。私た 
                         
                        ちイエスの弟子の日々が、神の国に入る準備になっているか、本国が天にあること 
                         
                        を忘れて、この世のことに熱心な毎日を送っているのではないか、が問われます。 
                         
                        イエスと共にあること、祈ること、聖書を読むときを確保することの大切さを思わ 
                         
                        されます。                          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年10月23日(日) (ZOOM同時配信) 
                         
                        「『放蕩息子とその兄』の譬」 ルカによる福音書15章
 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        父から財産を分けて貰った弟息子は放蕩の限りを尽くして困窮し、豚の餌を 
                         
                        食べるまでに落ちぶれます。そのどん底で生き延びる為の活路として父を思い 
                         
                        出し、帰還を決心します。自業自得だと譴責されるのを覚悟の上で父の許に帰 
                         
                        りました。  
                         
                         
                        ところが弟の姿を見て断腸の思いに駆られた父は、駆け寄って接吻します。 
                         
                        父にとって息子の帰還はこれ以上ない喜びでした。溢れる父の愛が示されたの 
                         
                        です。弟は準備していた父への謝罪の言葉を言いますが、父の愛に触れて初め 
                         
                        て、それは悔い改めの言葉となったと思われます。父は僕に祝宴の用意を命じ 
                         
                        ます。この譬話のピークは弟の決心にではなく、父の出迎えにあったことが明 
                         
                        らかです。救いは人間の功績によるのではなく、神の側からの一方的な恩恵に 
                         
                        よるのです。これほど明快に神の愛を教える譬話はイエスならではです。  
                         
                         
                        父は、畑から帰ってきた兄息子も祝宴に招いて共に祝うことを願います。兄は 
                         
                        真面目な正しい人ですが、その故に父の招きに応じることが出来ません。因果応 
                         
                        報の考え(義人が報いられず、悪人が栄えるのは理不尽という)が、この喜びの 
                         
                        場に飛び込ませないなのです。ここに神の愛を拒否する私たちの持つ自己中心性 
                         
                        (自分を義とする罪)が現れています。 
                         
                         
                        私達を罪から救い出す為の神の切り札が十字架でした。この譬に十字架は語られ 
                         
                        ませんが、私達の抱える問題を暗示する兄の存在が、十字架を指し示していると思 
                         
                        います。                           (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年10月16日(日) (ZZOM同時配信) 
                         
                        「 エマオで現れる 」 ルカによる福音書24:13 ~ 35 
                         
                        講話:小林典子、感話:婦人会メンバー(大園明子、鎌田良子、日比和子、赤塚久仁子) 
                         
                        司会:下田妙子 
                         
                        
                        エルサレムからエマオへ向かって歩いていた二人の弟子にイエス様は話しかけ 
                         
                        られます。すると二人は暗い顔をして立ち止まったのです。二人の弟子は十字架 
                         
                        に掛かったイエスが普通の人間に過ぎないと、もう、生き返る希望もないと、こ 
                         
                        の世は悪に支配されていると、絶望していたわけですが、今もイエス様は絶望し、 
                         
                        悲しんでいる人に話しかけられるんですね。もう死んだら終わりだと、自分に絶 
                         
                        望し、悲しむ者に「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」と 
                         
                        宣言されます。 
                         
                         
                        驚くべき逆転がそこには起こります。もう神の国は既に来ている、死は滅ぼさ 
                         
                        れた、だから暗い顔しないで喜べ!と。 
                         
                         
                        喜べ、喜べと主であるイエス様は私たちを励ましてくださるのです。 
                         
                         
                        [ 婦人会について ] 
                         
                         
                        婦人会は7~8名の女性が月一回水曜日に集まって聖書の学びをして来ました。 
                         
                        その月の担当の者が聖書箇所を決めて、各々がその個所を学んで持ち寄り、発表す 
                         
                        るという方式で、長年(70年余)にわたり続けてこられたのです。 
                         
                         
                        コロナウイルス感染拡大の為、2年半お休みせざるを得ませんでしたが、久しぶ 
                         
                        りに婦人会メンバーでの学びを発表することが出来て、一同喜んでいます。(小林記) 
                        
 
                         
                        2022年10月9日(日) (ZOOM同時配信) 
                         
                        「迷いと信仰」 エレミヤ書 38章 
                         
                        講話:渕上明、司会:横山宜和 
                         
                        
                        エレミヤ書38章で目に付くのは、ゼデキヤ王の右往左往する姿です。ゼデキヤ王 
                         
                        にはエレミヤが真の預言者であることが分かっていました。ゼデキヤ王はエレミヤ 
                         
                        の預言が変わっているのではないかと期待して、エレミヤをこっそり神殿に呼び寄 
                         
                        せます。しかし、エレミヤの神の預言は一貫して変わらず、エレミヤはバビロニア 
                         
                        への降伏を勧めます。ゼデキヤ王は、徹底抗戦を訴える高官達にエレミヤを引き渡 
                         
                        したり(5節)、エレミヤを助けるように命じたり(10節)、一貫した行動を行え 
                         
                        ていません。しかし、エレミヤの預言が最も正しい預言であることは分かっていま 
                         
                        した。ゼデキヤ王にとっては、自分の命が助かる道はないのか、自分自身の身の安 
                         
                        全が第一でした。神の言葉を誠実に伝え続けたエレミヤとは大きく違っていました。 
                         
                         
                        しかし、ゼデキヤ王のような弱さは、現代の私たちも心の奥底には持っていると 
                         
                        思います。人生の様々な場面で、ゼデキヤ王のように迷うことは多々あると思います。 
                         
                        何が正しい判断か分からなくなるのは、私たちの弱さから来るのかも知れません。 
                         
                         
                        そうした場面で、私たちが主イエス・キリストの贖いと復活によって支えられてい 
                         
                        ることに思いを寄せることが大切なことではないかと思います。  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2022年10月2日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「弟子の条件」 ルカによる福音書14:25~35 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        付いてくる大勢の群衆にイエスは、ご自分の弟子になる条件として、家族を、また 
                         
                        自分の命さえ憎むこと、更には十字架を負って従う覚悟を求められました。なんと厳 
                         
                        しいことか、と思いますが、それはイエスが死の切迫を深刻に受け止められていたか 
                         
                        らでした。イエスの死後、弟子たる者はその後継者として福音を伝える任務を果たさ 
                         
                        ねばならず、イエスと同じ道を歩まねばならないからです。イエスが負われる十字架 
                         
                        を負う者とならざるを得ません。自分の利益を得ようという安易に魂胆では、イエス 
                         
                        の弟子にはなれないのです。 
                         
                         
                        実は十二弟子たちもこの弟子の条件には落第であったことが、イエスの死と共に暴 
                         
                        露されます。ペトロは三度イエスを否認し、他も全員逃げ去りました。しかし、彼ら 
                         
                        には驚くべきことが起こります。復活のイエスに出会い聖霊を受けて十字架の意味を 
                         
                        悟り、この条件をクリアする者とされたのでした。罪の何たるかを明らかにされ、十 
                         
                        字架は罪の赦しであることを。そして新しい命を受け取り、文字通り十字架を負うも 
                         
                        のとなって、勇躍 福音の伝道者になりました。 
                         
                         
                        自分の十字架を負うことは、自己否定ですが、人は自分の力で自己を否定すること 
                         
                        は出来ません。自分の力を超えた力による絶対的肯定によって、恵みとして与えられ 
                         
                        るのです。  
                         
                         
                        私たちを一人残らず招き給うイエスに素直に従うとき、世の何物にも勝る希望と喜び 
                         
                        に生きる者とされます。                     (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年9月25日集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「福音はすべての人に伝えられている」 ローマの信徒への手紙10:14~21 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:山口洋子 
                         
                        
                        パウロは復活のイエスに出会って救われ、福音(良い知らせ)をすべての人に伝え 
                         
                        るという使命を与えられました。その福音とは、十字架上のイエスに示されているも 
                         
                        のです。罪の無いイエスが、罪ある私たちが受けるべき罪の裁きを、身代わりに受け 
                         
                        られました。そして新しい命(復活の命)が与えられていることは驚くべきこと、 
                         
                        「最後的なこと」なのです。  
                         
                         
                        イエスの到来によって救いが成就したのですが、全てが完成されたわけではありま 
                         
                        せん。それはイエス再臨の時、終末の問題です。しかし、将来の完成を望みつつも、 
                         
                        私たちが既に救いに入らせていただいていることについて、“なんと麗しいことか(15)” 
                         
                        とパウロは述べています。 
                         
                         
                        それなのに“すべての人が福音を信じたのではありません(16)”と言って、パウ 
                         
                        ロは同胞のユダヤ人がイエスに反逆していることに心を痛めています。神はユダヤ人 
                         
                        にも福音を伝えておられるのに、ユダヤ人が不信なのは不可解な事だ、神の救済の歴史 
                         
                        の秘密を認識しなかったからだ(19)、と。そして、ユダヤ人の救いについては11章以 
                         
                        下で論述します。 
                         
                         
                        神は最終的に全ての人を見放してはおられません。不敬虔な者、反抗する者の救いが、 
                         
                        イエスの十字架によって達成されました。イエスは十字架上から、いつも手を差し伸べ 
                         
                        て下さっています。それが私たちの信仰の拠り所です。      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年9月11日(日)ZOOM集会 (台風14号の為アクロスでの集会はは止め) 
                         
                        「狭い戸口」 ルカによる福音書13:22~35 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:於保さつき 
                         
                        
                        イエスは「救われる者は少ないのか(12:23)」という問いに対して、「神の国に 
                         
                        入る戸口は狭い」と言われます。戸口が開いている間に無理やりにでもすぐ入りなさい、 
                         
                        何故なら、入りたいと思いながら入れない者が多いから(24)、と。 
                         
                         
                        決定的なことは、イエスの到来によって神の国は現在しており、その戸口は今開かれ 
                         
                        ている、ということです。その戸口に入る人が多かろうと少なかろうと、自分が入れな 
                         
                        ければ問題になりません。イエスは、あなたは今すぐその戸口に入る気があるのか?を 
                         
                        問われています。私たちの心の扉を叩いて、開けている戸口から入りなさい、と復活の 
                         
                        イエスが招いておられるのです。 
                         
                         
                        しかし、もっと神の国に相応しい者になってからとか、聖書知識を増やしてから、等 
                         
                        々自分に囚われて、イエスの招きに応じないばかりか、自分中心が嵩じるとイエスに反 
                         
                        逆するに至ります。神がユダヤの民を救おうとして送られた預言者達は、反逆する民に 
                         
                        殺されました。エルサレムを救おうとされるイエスの努力(34)も水泡に帰すのでしょ 
                         
                        うか。 
                         
                         
                        否、イエスに反逆した者も含めて、全ての人が「主の名によって来られる方に祝福あ 
                         
                        れ(35)」と喜んでイエスを迎える日が来る、とイエスは約束されます。それはイエス 
                         
                        再臨の日。私たちに与えられているこの希望の下、あるがままでイエスに心を開き、従 
                         
                        う者でありたいと思います。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年9月4日(日)集会 (ZOOM同時配信) 
                         
                        「主への信頼」 エレミヤ書37章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        エレミヤ書37章で目を引くのは、3節でゼデキヤ王がエレミヤのもとに人を遣わして、 
                         
                        「どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい。」と述べるところです。ゼデ 
                         
                        キヤ王は信仰深い人ではありませんでしたが、ヒゼキヤ王が預言者イザヤの祈りによっ 
                         
                        てアッシリアから救われたこと(イザヤ書37章)を思い出し、エレミヤに祈りを願う使者 
                         
                        を送ったものと思われます。 
                         
                         
                        しかし、ヒゼキヤ王とゼデキヤ王では信仰の中身が全く違っていました。ヒゼキヤ王 
                         
                        は衣を引き裂き、粗布をまとって主の神殿に行ったのに対し、ゼデキヤ王はいつも迷い 
                         
                        の中にいました。ただ、ゼデキヤ王はエレミヤの預言にも耳を傾けてはいました。エレ 
                         
                        ミヤの預言が正しいかも知れないとの思いは持っていたと思われます。それは、この後 
                         
                        の38章でエレミヤと内密に会ったことや、エレミヤの命を守ろうとしたことに示されて 
                         
                        います。 
                         
                         
                        ゼデキヤ王はエレミヤのように最終的には神に従う従順さや信仰の深さを持っていま 
                         
                        せんでした。バビロニアにつくべきかエジプトに頼るべきか最後まで決断出来なかった 
                         
                        のです。 
                         
                         
                        神は時に苦しい場面を人生にもたらされます。しかし、神は最終的な救いを持ってお 
                         
                        られるのです。この章は、神を信頼し、苦難の場所に置かれても、神の言葉に従って生 
                         
                        きることの大切さを教えてくれます。       (渕上記) 
                        
 
                         
                        2022年7月31日(日) NET集会 
                         
                        「信仰の言葉」 ローマの信徒へ手紙10:1~13 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        パウロは同胞であるユダヤ人の救いを心から祈っていると言います。ユダヤ人はモ 
                         
                        ーセによって与えられた律法を守ることによって救われるとされていましたが、「神 
                         
                        の義」を知らず、「自分の義」を求めるという倒錯に陥っていました。それはパウロ 
                         
                        自身がキリスト教徒迫害で体験していたことでした。 
                         
                         
                        「神の義」は、キリストの十字架と復活による罪の贖いによって明らかにされまし 
                         
                        た。それは神からの恵みとして一方的に与えられるもので、自分の力で獲得するもの 
                         
                        ではありません。キリストは「律法の終わり」となられた、即ち律法の行いは不要、 
                         
                        キリストを信じることだけで救われるのです。 
                         
                         
                        パウロは申命記を引用して、「誰が底なしの淵に下るだろうか(7)」と言います。 
                         
                        「底なしの淵」はイエスが十字架について陰府にまで降られ、救いを完全に成し遂げ 
                         
                        られたことを示します。キリストが陰府のどん底に迄降られたから、私たちは信仰の 
                         
                        一番低いところに立たされる時にも、キリストに救われるのです。これはどんなに深 
                         
                        い慰めになることでしょうか。そしてこの信仰を共有するところがエクレシアです。 
                         
                         
                        「主の名を呼び求める者は皆、救われる(13)」の「皆」について塚本虎二は、これ 
                         
                        無くして私は救われない。救いから最も遠い最後の人物が私であり、ここに自分の救 
                         
                        いがかかっている、と言いました。主の十字架を仰ぐことこそ、人類の全てに与えら 
                         
                        れた救いであり、「神の義」なのです。         (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年7月24日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        感話「フィンチ・黒田とボーイズたち」 海野涼子 
                         
                        「腰の曲がった女の癒し」 ルカによる福音書13:10~21 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        私たちは様々な束縛の下にあります。病気、経済的不安、人間関係、差別、罪に 
                         
                        よる苦しみなど。政治的な束縛を受けるケースもあるでしょう。それらからの解放 
                         
                        は切実な祈りとなります。祈りの課題の無い人は一人もいません。 
                         
                         
                        イエスが安息日に18年間も腰の曲がった女性を癒されたことに会堂長がクレーム 
                         
                        をつけます。命の危険がある場合を除いて、安息日の癒しは律法で禁じられていた 
                         
                        からです。イエスは「安息日でも水を飲ませるために家畜を繋がれている小屋から 
                         
                        解いてやるではないか、“アブラハムの娘”を悪霊(病)による束縛から解放する 
                         
                        のは当然だ」と憤られました。 
                         
                         
                        安息日は労働などの全ての束縛から解放される日ですから、悪霊からの解放に最も相 
                         
                        応しい日です。神の子イエスが、アブラハムの娘、即ち“神を信じる者”を、彼女の 
                         
                        祈り通りに束縛(病)から解放するのは必然なのです。  
                         
                         イエスは神の国をからし種とパン種に譬えられます(18~21)。イエスと弟子たちに 
                         
                        よって小さくスタートした神の国は全世界に拡がって成長し、キリスト再臨の日には 
                         
                        完成するのです。キリスト再臨のとき、私たちは全ての束縛から完全に自由にされます。 
                         
                        その日まで、私たちは暗黒の世にありながら復活のイエスと共に歩ませて戴けます。完 
                         
                        成する神の国の前味を味わいつつ…             (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年7月17日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        感話「恵みに生かされて」 長澤澄子 
                         
                        「悔い改めなければ滅びる」 ルカによる福音書12:54~13:9 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:光石佐与 
                         
                        
                        イエスは4つのエピソードで再臨について警告されました。①天気のことは分かる 
                         
                        のに、神の裁きが迫っているのが分からないのか ②裁かれて有罪になる前に神と和 
                         
                        解すべきだ ③理不尽な目に遭う不幸な人々を通して神は私たちに警告を与えておら 
                         
                        れる ④実をつけるまでイチジクの伐採を待ってくれる主人(神)の譬。イエス再臨 
                         
                        時の審きに備えるように諭されたのです。目を覚まして悔い改めなければ滅びる、と。 
                         
                         
                        神の創造の手になる万物(人間も)は未完成で、何故か神に背く部分が残っていま 
                         
                        す。特に罪にまみれた人間の行状は目を覆うばかり、憎み争い、戦争が絶えることが 
                         
                        ありません。自然も神の意のままにならないようです。艱難に満ちた終末に向かう中 
                         
                        を生きる私達に希望はあるのでしょうか? 
                         
                         
                        “終末”は破滅ではなく、暗闇の彼方からイエスが再び来たり給うて“神の国”が 
                         
                        完成される時です。神の義と愛で満たされた喜びと平和の世界になるのです。 
                         
                         
                        イエスによる再臨の約束は、2000年経ちましたが揺らぐことはありません。4つの 
                         
                        エピソードで教えられた通り、神は私たちの悔い改め(神に立ち返る)を待って下さ 
                         
                        っています。復活のイエスと共にあるとき、既に私たちは神の国に生きることを味合 
                         
                        わせて戴いています。再臨の約束を信じて、イエスに従って悔い改めの日々を歩みた 
                         
                        いと思います。                        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年7月10日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「夜回りが朝を待つ」 詩編130編 
                         
                        片山寛先生(西南学院大学神学部)、司会:小林典子 
                         
                        この詩が含まれている詩編120~134編は「都に上る歌」で、エルサレムへの“巡礼” 
                         
                        の旅人がその途上に歌ったものです。巡礼者は病気や死など様々な苦難の中にあって、 
                         
                        その深淵から神に叫んで慰められたのです。深淵からの罪の赦しを祈るこの詩編は、 
                         
                        中世には葬儀で朗読されまれましたが、巡礼者はこの詩に故人への思いを深めました。 
                         
                        
                        詩人は“主が来られるのを待ち望む”と繰り返し歌います。その為に私は創られた、 
                         
                        主の到来を待つことが最大の仕事だ、と言うのです。この詩で印象深いのは、“夜回 
                         
                        りが朝を待つのにも増して”主を待ち望む、と歌っていることです。当時は小さな町 
                         
                        にも夜回りがいました。周辺からの盗賊や遊牧民などの危害から人々を守る責任が重 
                         
                        い仕事を交代で担当しました。夜回りの朝を待つ思いは一入だったのです。 
                         
                         
                        この思いは終末論に繋がります。今は暗くとも、その向こうから主が来て下さり、 
                         
                        明るい朝が来るのです。終末論というと何やら恐ろしい暗黒の到来を考えがちですが、 
                         
                        決してそうではありません。愛であるイエス・キリストが来給うのであって、明るい 
                         
                        未来を望むのです。そして、イエスの到来をただ待つのでなく、私たちもその時に向 
                         
                        かって前進する(巡礼する)のです。復活のイエスがエマオを旅されましたが(ルカ 
                         
                        24章)、私たちは、今も旅をしておられるイエスに出会う巡礼の日々を歩んでいるの 
                         
                        です。                           (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年7月3日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「神の忍耐」 エレミヤ書36章 
                         
                        講話:渕上明、司会:下田妙子 
                         
                        
                        ヨヤキム王の治世4年に、エレミヤは神にこれまでの預言を巻物に記すよう命じら 
                         
                        れます。その当時、エレミヤは26章にある神殿での説教が多くの人の反発を招いた 
                         
                        ためか、自ら説教をすることを止められ、神殿に入ることも出来ませんでした。その 
                         
                        ため、この巻物は、口述筆記した書記官バルクによって読み聞かせられます。 
                         
                         
                        その内容は、現在残っているエレミヤ書とほぼ同じユダの民の罪を叱責する言葉が 
                         
                        主なものであったと思われます。しかし、神はユダの民を見捨てられることはありま 
                         
                        せんでした。3節に「ユダの家は、私が彼らに下そう考えているすべての災いを聞いて、 
                         
                        それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、私は彼らの過ちと罪を赦す」 
                         
                        との神の言葉があります。ここに、「かもしれない」との言葉があります。おそらく 
                         
                        ユダの民は聞き従わないだろうとの思いがありながら、それでも一部の望みとして、 
                         
                        神は救いの道を残されるのです。 
                         
                         
                        エレミヤの預言の巻物がヨヤキム王によって燃やされた後も、神はもう一度巻物を記 
                         
                        すように命じられます。それが今残っているエレミヤ書になる訳ですが、再度書き残す 
                         
                        ように命じられたことにも、神の救済の意思が感じられます。 
                         
                         
                        この神の思いが、31章の新しい契約に繋がって行き、やがてメシアである主イエス・ 
                         
                        キリストに繋がって行くことになるのです。                              (渕上記)) 
                         
                         
                        2022年6月26日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        感話「復讐はわたしのすること」 柳 謙一 
                         
                        「目を覚ましている僕」 ルカによる福音書12:35~53  
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        イエスは「再臨」について、三つの譬を話されました。①宴会から帰ってくる主人 
                         
                        を待つ僕、②盗人の来る時を知っている主人、③任務に忠実な管理人。いずれもイエ 
                         
                        スは思いがけない時に来るから目を覚ましていよ、との警告です。目前の十字架につ 
                         
                        いても弟子達に覚悟を求められたのでした。 
                         
                         
                        再臨は、十字架、復活と並ぶキリスト教の大切な要点です。万物は神に創造されま 
                         
                        したが、完璧ではありません。この世の全てが肯定されるのは、神の言葉によって宇 
                         
                        宙の完成が約束されているからです。その言葉が、キリストの再臨なのです。イエス・ 
                         
                        キリストが再びこの世に来たり給い、最後の裁きを行って、この世界を神の義と愛が 
                         
                        支配する全く新しい世界に作り変えられること、これこそが被造物全ての救いであり、 
                         
                        宇宙の完成です。再臨は神の言葉の頂点なのです。 
                         
                         
                        再臨は、信じられない者にとっては夢物語に過ぎないでしょう。しかし、信じる者 
                         
                        には希望を与え、この世の全てを肯定出来る力を与えます。但し、現実から逃避したり、 
                         
                        狂信思想に陥ることのないよう、気をつけねばなりません。 
                         
                         
                        イエスの到来によって、暗黒の世に神の国は突入しました。神の国の何たるかをイエ 
                         
                        スは明示されました。そして復活のイエスは私たちの心に住んで下さいます。ここに未 
                         
                        完成ながら神の国は実現しています。その完成の約束を信じる時、私達はこの世に絶望 
                         
                        せずに生きていけるでしょう。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年6月19日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「ただ、神の国を求めなさい」 ルカによる福音書12:13~34 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        イエスが財産について二つのことを諭されました。一つは「愚かな金持ちの譬」 
                         
                        で、豊かな財産を持っている者が陥る「貪欲」について。倉を拡張して豊作の収 
                         
                        穫物を全部収めて、将来の安心を図った金持ちの男に、神は死を宣告されます。 
                         
                        財産で命の保証は得られないぞ、と。また、貧しい者が苦しむ原因は豊かな者の 
                         
                        貪欲にあることを忘れてはなりません。  
                         
                         
                        一切を捨ててイエスに従った弟子たち(貧しい者)には、衣食についての「思 
                         
                        い煩い」が要らないことを教えられました。烏は種も蒔かず、刈り入れもしない 
                         
                        のに神は養って下さる、明日にも枯れる野の花をも、神はソロモンに勝る栄華で 
                         
                        装って下さるではないか、と。私たちに生活上不可欠なものは物質的な糧ですが、 
                         
                        それ以上に必要なのは、心の糧、霊の糧です。烏や野の花を配慮される神のみ力 
                         
                        を信頼せよ、私たちが思い悩んでも、寿命を1分も伸ばすことすら出来ないのだか 
                         
                        ら、とイエスは諭されます。求めるべきは「永遠の命」。 
                         
                         
                        私たちには思い煩いが絶えませんが、イエスは「ただ、神の国を求めよ、それら 
                         
                        のものは添えて与えられる」と言われます。衣食よりも大切とイエスが言われる 
                         
                        「命」は、「永遠の命」なのです。私たちを愛しておられる神が、求めるものには 
                         
                        「神の国」、即ち「永遠の命」を「喜んで下さる」とありますが、生けるイエスを 
                         
                        心にお迎えしているとき、私達は地上にあって神の国に居させて戴いているのです。 
                         
                                                   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年6月12日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「新しい葡萄酒は新しい皮袋に」 マルコによる福音書2:22 
                         
                        犬養光博先生(日本基督教団)、司会:横山宜和 
                         
                        
                        イエスは彼の告げる福音を新しい葡萄酒と言われ、自分の枠組みを大事にし 
                         
                        ているファリサイ派の人々に、「新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れよ。古い皮 
                         
                        袋に入れると、発酵して破ってしまい、葡萄酒も皮袋も駄目にする」と教えら 
                         
                        れました。 
                         
                         
                        障害を持つ子を迎えて歩んでいる友人の牧師就任に当たって説教をすること 
                         
                        になりました。しかし、新しい問題に立ち向かっている彼の生き方が、古い体 
                         
                        質の教会の中でやって行けるかという問題を感じています。部落問題でも経験 
                         
                        したことですが、様々な差別を抱えていながら、それを意識せずに、ただ「罪 
                         
                        赦されている」ということで片付けていないか、教会(宗教)に新しい皮袋で 
                         
                        の対応が求められます。 
                         
                         
                        高谷清著『異質の光』に記されている、知的障害児の福祉と教育に生涯を捧 
                         
                        げた糸賀一雄の、「この子達に世の光を、でなくこの子達を世の光に」という 
                         
                        言葉が心に残っています。私たちの持っている光を与えるというのでなく、私 
                         
                        たちが拒否している人たちこそが光を持っていて(その光を異質の光だと糸賀 
                         
                        は言う)、その光の中に私たちが入らせて貰うとき、私たちも周囲に光を輝か 
                         
                        せることが出来るでしょう。 
                         
                         
                        福音によって新しくされたところには戦いが生まれます。新しい葡萄酒を戴 
                         
                        いて新しくされた私たちは、どんな新しい皮袋に生きているかが問われるのです。 
                         
                                                     (秀村記) 
                         
                         
                        2022年6月5日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「神に従う」 エレミヤ書35章 
                         
                        聖書講話:渕上明、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        エレミヤ書35章は、34章より前の時代、ヨヤキム王の時代の話となっています。 
                         
                        次の36章がヨヤキム王の時代の話ですので、その前に置かれたと思われます。 
                         
                         
                        神は、エレミヤにレカブ人の許に行ってぶどう酒を飲ませるように命じられます。 
                         
                        エレミヤは、神殿にレカブ人たちを連れて行き、ぶどう酒を満たした壺と杯を出し、 
                         
                        ぶどう酒を飲むように勧めます。しかし、レカブ人たちは断ります。彼らは、父祖 
                         
                        ヨナダブが命じた「ぶどう酒」を飲んではならないという言葉を200年にわたって 
                         
                        守っていたからです。それだけではなく、天幕に住まなければならないというヨナ 
                         
                        ダブの言葉を守って遊牧の民として過ごしていました。 
                         
                         
                        このレカブ人たちに比較して、ユダやエルサレムの人々は、神の言葉を守らず、 
                         
                        他の神々に仕えるなど堕落した生活を送っていました。そのため、ユダやエルサレ 
                         
                        ムの人々へは、神からの厳しい言葉が述べられます。これに対して、レカブ人たち 
                         
                        には「私の前に立つ者がいつまでも絶えることがない。」と称賛されます。 
                         
                         
                        このことを通して、私たちと主イエス・キリストとの関係を考える時、レカブ人が 
                         
                        守ったことと私たちが守らなければならないことの内容は違っていますが、主イエス・ 
                         
                        キリストの言葉に従順に従って行くことが何よりも大切であり、神の恵みに与る道に 
                         
                        至ることが出来るのだと思います。            (渕上記) 
                        
 
                         
                        2022年5月29日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「生きるはキリストである」 フィリピの信徒への手紙1:12~26 
                         
                        講話:香西信氏(岡山聖書集会、京都聖書集会)、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        エフェソの獄中にあってパウロは、彼を愛してくれているフィリピの信徒たちの 
                         
                        信仰に彼の投獄がプラスになっていることを聞いて喜びます。パウロは福音が前進 
                         
                        した、と書き送りました。彼の苦難を知った信徒たちの心が鼓舞され、新たな信徒 
                         
                        も増えたこと、自分が福音の証人として用いられていることを、死の恐怖の中にあ 
                         
                        りながら喜ぶのです。(12~18) 
                         
                         
                        パウロは自分自身の救いは、信徒が福音の前進を祈ってくれることと、イエスの 
                         
                        霊によって実現すると述べます。救いは、彼の献身によってきリストが栄光を受け 
                         
                        ることである、と。そして、「生きることは、キリストである(19)」と言います。 
                         
                        それは、キリストのみが、「まことの生」を生きる根拠を与える唯一の存在である 
                         
                        ことを言い表しています。即ち、「キリストが私の内に生きておられる(ガラ2: 
                         
                        20)」、と。 
                         
                         
                        パウロが「殉教の死」と「福音宣教」のどちらを選ぶべきか、と迷っている(21 
                         
                        ~22)のは驚きです。しかし、生も死も自分のものではなく、神が何を望んでおられ 
                         
                        るかが問題、神の意思に従って生きることを決断した、と述べています。  
                         
                         
                        信仰に不可欠なものとして、真の信仰に伴う「喜び」をパウロは繰り返し述べます 
                         
                        が、それは過去を省みての喜びではなく、キリスト再臨時の「救いの完成の約束」が 
                         
                        与えられていることを喜ぶ
喜びなのです。        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年5月22日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「神の怒りと憐れみ」 ローマの信徒への手紙9:19~33 
                         
                        講話:市村昭三、司会:於保さつき 
                         
                        
                        人間は神の意図通りに作られている(能力、外見など)とすれば、人間の出る幕は 
                         
                        ないではないか、という疑問が生まれます。パウロはこのような態度を、陶工の譬え 
                         
                        を用いて全面的に否定します。人間は陶工の手中にある陶土以外の何者でもなく、 
                         
                        「高価な器」にも「不浄の器」にもされます。神は人間を頑なにし、滅びに委ねるこ 
                         
                        ともされるのです。 
                         
                         
                        パウロの心には、頑なにされている例として、キリストの福音に反抗している同胞 
                         
                        ユダヤの民があります。モーセの律法を与えられ、神に選ばれたユダヤの民が、何故 
                         
                        「滅びの器」になっているのか?パウロにとって大きな問題でした。  
                         
                         
                        そして彼は「滅びの器」は「高価な器」のネガ(陰画)として神の力を表す道具に 
                         
                        されていると考えました。人間の頑なさに対する神の怒りは、神の義を表す為であり、 
                         
                        人が神に立ち返るのを、忍耐して待っておられる、と言います。それは、福音に反抗 
                         
                        しているユダヤ人についても当てはまる、と。 
                         
                         
                        尊い器に作られようが、卑しい器に作られようが、神によって作られた点では同じ 
                         
                        です。イエスのタラントの譬え(マタイ15:14~30)にあるように、託されたタラン 
                         
                        トが10でも、5でも、1でも、神との関係においては全く同じです。その人に託された 
                         
                        タラントを100%用いれば良い、与えられた場において全力を尽くせば良いのです。神 
                         
                        の憐れみがそこに示されています。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年5月15日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        
                        「恐れることはない」 ルカによる福音書12:1~12 
                         
                        講話:秀村弦一郎、感話:長澤玲子、司会:山口洋子 
                         
                         
                        ルカ福音書が書かれたのはA.D.90年頃。ローマ皇帝ドミティアヌスの迫害のときで、 
                         
                        イエスの福音に従う人々は様々な苦難の中にありました。ルカは生前のイエスの言葉 
                         
                        によって信徒たちを励ますメッセージを書き記したのです。それは神の子ならではの 
                         
                        驚くべき言葉の数々でした。 
                         
                         
                        イエスは弟子たちに、誰を恐れ、誰を恐れるべきでないかを教えられました。恐れ 
                         
                        るべきは“体を殺しても、それ以上のことは出来ない(4)”地上の審判者ではなく、 
                         
                        "地獄に投げ込む権威をお持ち(5)“の永遠の審判者である、と。究極の恐れは死では 
                         
                        ない、永遠の問題が残っている、そしてその最後の審判の行方は、イエスに今信頼する 
                         
                        か否かに係っている、と言われます。弟子たちには、神(イエス)を公然と「主である」 
                         
                        と告白することが求められています(8~9)。 
                         
                         
                        私たちは、死んだら天国のイエスの許に行かせて戴くから安心だ、と考えます。しかし、 
                         
                        聖書は終わりの日に審判があることを明記しています。自分が罪人であることを思うとき、 
                         
                        これは恐るべきことです。しかし、恐れることはない(7)とイエスは言われます。何故 
                         
                        なら、「神は愛」でありますから。   
                         
                         
                        神は、私たちの髪の毛一筋をも知り尽くしておられ(7)、罪をも赦し給うお方なのです。 
                         
                        「恐れるな。私があなたを贖った(イザヤ43:1)」と言われる愛なる神は、イエスの十字 
                         
                        架の故に私たちの罪を赦して下さるでしょう。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年5月8日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「神は愛する者を鍛える」 エレミヤ書34章  
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        エレミヤ書34章は、エルサレムがバビロニアに包囲されていた時期のエレミヤの 
                         
                        預言です。最初の「ゼデキヤ王への警告」には、ゼデキヤ王に対する神の言葉とし 
                         
                        て、「あなたは平和のうち死ぬ(5)」と書かれています。39章にあるように、結 
                         
                        局、そうはなりませんでしたが。 
                         
                         
                        ゼデキヤ王は、出エジプト記や申命記にある「ヘブライ人の奴隷は6年間仕えれ 
                         
                        ば7年目には自由の身となる」という律法を守ることを宣言します。このことは、 
                         
                        エジプト軍がエルサレムに上って来て、一時的にバビロニアの軍隊がエルサレムか 
                         
                        ら撤退した時に行われました。神は、「私の目に適う正しいことを行って、おのお 
                         
                        の、隣人に解放を宣言した(15)」と言われます。ゼデキヤ王も、一旦はエレミヤの 
                         
                        言葉によって律法を守ろうとしたのだと思われます。しかし、それは長続きせず、 
                         
                        状況が変わったためか、自由の身にした奴隷を連れ戻してしまいます。この奴隷に 
                         
                        関する律法は、これまでも守られたことのないものでした。ゼデキヤ王も、同様に 
                         
                        守ることが出来ず、神の怒りを買うことになります。 
                         
                         
                        34章では神の絶対的な強さが示されますが、神を恐れるだけではなく、神への畏 
                         
                        敬の念の大切さが語られています。今、私たちは困難な時代に生きていると思いま 
                         
                        すが、困難な場にあっても、神はその先のことを考えて下さっていると信じること 
                         
                        が大切なことではないでしょうか。              (渕上記) 
                         
                         
                        2022年5月1日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「律法の問題」 ルカ福音書11:37~54 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:光石佐与 
                         
                        
                        イエスを食事に招待したファリサイ派の人は、当時の規則であった手洗いをし 
                         
                        ないイエスに驚きますが、イエスは外側は清めるが内側(心)は汚れている、と 
                         
                        言われました。 
                         
                         
                        そしてファリサイ派の人々の宗教的敬虔に隠された偽善を①捧げ物には熱心だ 
                         
                        が公正と神の愛はないがしろにしている、②世間の賞賛を得ること(上席など) 
                         
                        に愛着する、③隠された堕落、の3つを挙げて警告されます。更に律法の専門家 
                         
                        にも、①民衆に律法の重荷を担がせて、自分は律法を守っていない、②先祖がし 
                         
                        たように、預言者を迫害する、③人々を天国に入らせない、と同じく3つを挙げ 
                         
                        て攻撃されました。 
                         
                         
                        これらのイエスの言葉は、当時の常識に対する型破りの正論です。何者も恐れ 
                         
                        ない神の子の権威に満ちたイエスの姿を心に刻みたいと思います。そして、偽り 
                         
                        の敬虔に陥るな、との警告を私たちへの言葉として受け取らねばなりません。 
                         
                         
                        
ファリサイ派の人々は、律法を護ることに熱心のあまり、本来神に 
                         
                        従うための手段である律法遵守を目的にしました。即ち、律法を護 
                         
                        る自分を神にする、という恐るべき倒錯に陥ったのです。一番大事 
                         
                        なものは自分自身、私たちは容易に自分を神にします。それが「罪」、 
                         
                        自分を護るためなら神の子をも殺します。その罪から私たちを救い 
                         
                        出して下さった神の非常手段が、イエスの「十字架と復活」でした。 
                         
                        救いに必要なのは、その一方的な恵みを信じることだけなのです。 
                         
                                                 (秀村記) 
                         
                         
                        2022年4月24日(日)集会 (NET集会 併設)    
                         
                        「目は体の灯」 ルカ福音書11:27~36 
                         
                        講話:秀村弦一郎、感話:松尾晴之、司会:下田妙子 
                         
                        
                        イエスの堂々たる態度と神々しい姿を見て感激した女が、「イエスの母は幸いだ」 
                         
                        と叫びます。イエスは「幸いなのは、神の言葉を聴いて守る者である」と諭されま 
                         
                        した。 
                         
                         
                        イエスの権威を証明する天からの「しるし」を求める者に対して「歪んだ時代の 
                         
                        者はしるしを求めるが与えられない。否、しるしは既に与えられている。ヨナやソ 
                         
                        ロモンよりも偉大なしるしが、あなたがたの面前にあるではないか」とイエスは言 
                         
                        われました。「しるし」は神のわざをいいますが、暗黒の世に光として来られたイ 
                         
                        エスの存在そのものが「神のわざ」です。イエスと共に「神の国」が人々の眼前に 
                         
                        到来していること、これ以上の「しるし」はありません。そして、イエスが「しる 
                         
                        し」である最大の所以は、十字架と復活です。人の知恵では不可能な罪の赦しは、 
                         
                        神の知恵によるものです。 
                         
                         
                        その「しるし」が見えないのは見る人の目が見えていないからです。「目は体の 
                         
                        灯」というイエスの教えは分かりにくく思いますが、目は私たちに備えられている 
                         
                        「霊」、灯は「イエス」と読めばいいでしょう(灯=イエス=は燭台の上に置くべ 
                         
                        き)。光であるイエスをアンテナである霊(即ち目)が認識しないと、イエスを心 
                         
                        に迎え入れることが出来ないのです。心に光であるイエスを迎えていれば、全身が輝 
                         
                        いて周囲の人を明るく照らすことが出来ます。私たちを招いておられるイエスを、 
                         
                        心の扉を開いてお迎えしたいと思います。       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年4月17日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        
                        「エゼキエル預言に見る審判と救済」 エゼキエル書 
                         
                        講話:月本昭男(経堂聖書会)、司会:小林典子 
                         
                         本日は、エゼキエル書の時代背景、エゼキエルの人物と活動、エゼキエル預言 
                         
                        の思想的特色などエゼキエル書の概要を学びました。  
                         
                         
                        エゼキエル書はバビロニア捕囚(B.C.587)の際にユダヤの民と共に連行された 
                         
                        エゼキエルが、バビロンで捕囚のユダヤ人たちに向かって20年に亘って語った言 
                         
                        葉の記録です。 
                         
                         
                        預言の内容は他の預言書と同様、三部構成です。①ユダヤ、エルサレムへの審 
                         
                        判預言。偶像崇拝に満ちた神殿は堕落し、エルサレムの指導者達の不法・暴虐、 
                         
                        また外交政策の変節に神の裁きは避けられない、と言います。②諸国民に対する 
                         
                        審判。バビロニア王国から滅ぼされるユダに許しがたい報復行為をする周辺諸国、 
                         
                        富と権力により高ぶる国々に対して神は裁き給う③イスラエルの回復預言。神が 
                         
                        ご自分の民を捜して、立ち返らせ給う(新しい契約)、との希望を預言します。  
                         
                         
                        エゼキエルは「お前たちは知るであろう、わたしがヤハウェであると」と繰り 
                         
                        返し告げました。罪に汚れたイスラエルに下される審判は、ひとえに神ご自身の意 
                         
                        思に基づく、また、イスラエルの回復も民の立ち返りによるのではなく、神の「聖 
                         
                        なる名のゆえ」に実現する、と言います。 
                         
                         
                        エゼキエルは、第二の出エジプトということを述べ、新しいイスラエルの姿(神 
                         
                        殿も)を構想しました。「新しい契約(16:60)」「新しい心と新しい霊(11:19)」 
                         
                        の預言はイエス・キリストの福音を指し示しています。   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年4月10日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「理解を超えたこと」 エレミヤ書33章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        新型コロナウィルスの流行は収まらず、ウクライナへのロシアの侵攻が続く中で、 
                         
                        エレミヤ書を学ぶのは大変苦しい思いがしますが、エレミヤ書33章は「慰めの書」 
                         
                        と呼ばれる部分の最後の章になるまとめの言葉となっています。 
                         
                         
                        3節で神は「私を呼べ。」と言われます。それは神を呼べば必ず答えてくださること 
                         
                         
                        を意味しています。それに続く神の言葉が、「隠された大いなることを告げ知らせる。」 
                         
                        とあります。「隠された大いなること」とは何でしょうか。それは、神には人間の知 
                         
                        性だけでは分からないお考えがあり、大いなることとはユダ王国が滅亡しても、その 
                         
                        後にイスラエル民族の回復があり、神の恵みと平和がもたらされることを示しています。 
                         
                        
                        15節には、「私はダビデのために正義の若枝を出させる。」との神の言葉があります。 
                         
                        この「若枝」とはイエス・キリストを指すものと考えられます。主イエス・キリストの 
                         
                        死と復活により、8節にある「私に対して犯したすべての過ちから彼らを清め、彼らが 
                         
                        私に対して犯し、背いた過ちのすべてを赦す。」という神の言葉が実現するのです。  
                         
                                                     (渕上記) 
                        
 
                         
                        2022年4月3日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「ベルゼブル論争」 ルカによる福音書11:14~26 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤玲子 
                         
                        
                        イエスが悪霊を追い出して、口の利けない人を癒されたのを見て群衆は驚 
                         
                        きましたが、「イエスの悪霊追放は、悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだ」と 
                         
                        いう人もいました。イエスは「内輪で争えば、その国は立ち行かない」と、サ 
                         
                        タンによってサタンを追い出しているという批判に反論されました。 
                         
                         
                        イエスは、“武装して自分の財産を守っている”と、“強い”サタンがこ 
                         
                        の世を支配している模様を描かれます。しかし、“より強い”者が来て、 
                         
                        “強い”者を打ち破って財産を分捕る、と言われました。そのサタンより強 
                         
                        い者はイエスご自身のことなのです。本来神のものであるこの世を隠然と支 
                         
                        配している闇の勢力の中に、光であるイエスが来られました。闇は光に勝つ 
                         
                        ことが出来ません。私たちは闇に付くか、光に付くかの二者択一を迫られます。 
                         
                        “どっち付かず”は無いのです。 
                         
                         
                        そしてイエスは「悪霊が戻ってくる」という譬を話されました(24~26)。 
                         
                        人を支配していた悪霊が追放された後は無防備な真空状態 ―恐るべき危険な 
                         
                        状態になります。そこにどういうご主人を迎えるか?が問題です。それは「古 
                         
                        い自己の死」に他なりません。イエスを「我が主」として心の内に迎え、住み 
                         
                        続けて戴くことが決定的に大事なことになります。 
                         
                         
                        
強いサタンに、より強いイエスは勝利されましたが、その勝利 
                         
                        の道は、敗北を通過するものでした。十字架と復活によって、 
                         
                        私たちは罪と死から救い出されたのです。(秀村記) 
                         
                         
                        2022年3月27日(日) 集会(NET集会併設) 
                         
                        「イスラエルの選び」 ローマの信徒への手紙9:1~18 
                         
                        講話:市村昭三、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        ローマ書9~11章では、ユダヤ人の救い、異邦人の救い、全人類の救いという 
                         
                        大きな問題が採り上げられ、そこに歴史上において神の義が貫徹されていること 
                         
                        が述べられています。 
                         
                         
                        ユダヤ人であるパウロにとって、神に選ばれたイスラエルが何故神に背いてい 
                         
                        るのか?は、心が痛む大きな問題でした。パウロがそうであったように、個人と 
                         
                        しての救いに安住することなく、救いは、神の義、即ち「公の問題」として受け 
                         
                        取らなければ、私たちの本当の救いにはならないのです。 
                         
                         
                        イスラエルが福音を受け容れないことは、アブラハムの子孫の例によって説明 
                         
                        されます。アブラハムの奴隷女の子イシュマエルでなく正妻の子イサクが選ばれ 
                         
                        たことは納得できますが、兄エサウではなく弟ヤコブが選ばれた理由は謎です。 
                         
                        ヤコブには選ばれる理由はありません。神の一方的な選びでした。私たちは自分 
                         
                        がイシュマエルでなくイサクであり、エサウでなくヤコブである、と断言できる 
                         
                        でしょうか? 
                         
                         
                        イスラエルの歴史に於いて、イエス以外に真のイスラエルと言える人物はいま 
                         
                        せん。イエスこそ、選ばれたヤコブでありつつ同時に捨てられたエサウであるこ 
                         
                        とを、その身に引き受けられたのです。私たちには、ある者を選びある者を捨て 
                         
                        られるという不条理にしか見えない「神の自由」とは、神が人となって十字架の 
                         
                        呪いの死をお引き受けになって、私たちの救いとなられたことに、顕れています。 
                         
                                                    (秀村記) 
                         
                         
                        2022年3月20日(日) 集会(NET集会併設) 
                         
                        「主の祈り」 ルカによる福音書11:1~13 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        弟子たちの要望に応えてイエスが教えられた祈りは、当時のユダヤ人に定めら 
                         
                        れた冗長な祈りとは違って、5ケ条の簡潔なものでした。この祈りは「全福音の 
                         
                        要約」とされます。  
                         
                         
                        まず、親しみの籠る「父よ」という呼びかけ。世界はサタンの支配下にあるや 
                         
                        に思えますが、実は「父の愛」が私たちを包んでいるのです。これほどの幸い、 
                         
                        平安はありません。 
                         
                         
                        祈りというと自分の願い事を神の前に持ち出すのが常套ですが、まず神につい 
                         
                        ての2つの祈りを教えられます(革新的)。①“神の御名が聖とされるように” 
                         
                        とは、人の罪によって汚されている神が、神本来の聖なるものと認められるよう 
                         
                        に、との意です。②“御国が来ますように”とは、イエスが来られて到来した神 
                         
                        の支配が、全地に及ぶようにとの願いです。イエスの再臨による救いの完成を祈 
                         
                        るものでもあります。 
                         
                         
                        続く3つは、私たちが生きていく上で欠くことの出来ない事項についての祈り 
                         
                        です。③“日ごとの糧をその日その日に祈り求めよ”と、私たちを養うことを望 
                         
                        んでおられる神に寄り縋って生きることを、④“罪の赦し”も日毎に祈り求めね 
                         
                        ばならない、⑤サタンの“試みに遭わない”よう護っていただくこと。いずれも 
                         
                        先行する神の恵みを信じて祈るのです。 
                         
                         
                        「求めなさい、与えられる(9)」とイエスは教えられました。特に、求める者に 
                         
                        は“聖霊”を与える、即ち活けるイエスが共にいて下さることが約束されています。 
                         
                                                      (秀村記) 
                         
                         
                        2022年3月13日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「マルタとマリア」 ルカによる福音書 10:38~42 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        最初に梅木龍男兄(別府聖研)の感話「み言葉に導かれて」を伺いました。 
                         
                        
                        イエスを家に迎えたマルタは、女主人として接待に天手古舞いしていました。 
                         
                        妹のマリアがイエスの足元に座って、イエスの話に聴き入っているのを見かねた 
                         
                        マルタはイエスに、マリアに手伝わせるよう言って欲しい、と願います。しかし 
                         
                        イエスは、「あなたは色々気を使って思い煩っているが、必要なことは一つだけ 
                         
                        である。マリアは善い分け前を選んだ。それを取り上げてはならない。(41~42)」 
                         
                        と諭されました。  
                         
                         
古来、マルタの示す行動的生き方よりマリアの瞑想的生き方の方が、キリスト 
                         
                        教的に高尚な生き方だとされてきました。  
                         
                         
しかし、ここのマリアは決して瞑想的とばかりは言えません。当時の女性がラ 
                         
                        ビ(ユダヤ教の先生)から直接話しを聞くのは非常識なこと、マリアは革新的な 
                         
                        ことをしていたのです。それは、イエスとの出会いがもたらしたものでした。マ 
                         
                        リアはイエスに対しては、その言葉に耳を傾けることしかあり得ない、それこそ 
                         
                        がイエスへの最高のもてなし(ご馳走)だ、と直感したのでしょう。他方マルタ 
                         
                        も、イエスの諭しを受けて、自分に囚われていたことから解放されたでしょう。 
                         
                        マルタはイエスとの本当の出会いを経験したと思われます。 
                         
                         
私たちにとって無くてはならないただ一つのものは、“生けるイエスとの出会 
                         
                        い”にほかなりません。そしてマリアでありつつ、マルタとして歩ませていただ 
                         
                        くのです。                      (秀村記) 
 
                         
                        2022年2月27日(日) NET集会 
                         
                        「雅歌② 百合の花とりんごの木」 雅 歌 2章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:於保さつき、賛美:鎌田加奈子 
                         
                        
                        雅歌第2章は「私はシャロンのばら、谷間の百合」という言葉で始まります。 
                         
                        パレスチナの地域ではばらや百合は平凡な花だったようです。なので、これは 
                         
                        乙女の謙遜の言葉とも受けとめることができます。 
                         
                         
しかし、イエスはソロモンの栄華よりも野の花を美しいと言われました(マ 
                         
                        タイ6:29)。神との愛の関係に入った者を、神はあざみ(=罪のままの人間 
                         
                        (創世記3:18))ではなく、百合の花とし(=義認)、愛してくださいます。 
                         
                         
そして、神との愛の関係に入った者は、イエスを「森の木々に囲まれたりん 
                         
                        ごの木」と認識します。実のならない他の木々と異なり、いのちの実を結ぶ木 
                         
                        だと知り、愛します。 
                         
                         
このように神を愛する者にとっては「旗印は愛」です。キリスト者の人生の 
                         
                        目的と目印は愛です。内村鑑三たちもまた、一生を非戦と愛で貫きました。 
                         
                         
このような神への愛を、イエスは決して人に強制せず、自由な意志によって 
                         
                        起こるまで待ちます。繰り返し私たちの心の扉を叩き、働きかけてくださいま 
                         
                        す。たとえ世界に暴力や病が吹き荒れ、ジャッカルがぶどう園を荒らしていて 
                         
                        も、キリストの旗印のもとに生きる者には希望と愛が常にあります。試練の冬 
                         
                        はいつか必ず去り、いのちに溢れた春が来ることを、雅歌二章を通じて学びま 
                         
                        した。                         (鎌田記) 
 
                         
                        2022年2月13日(日) NET集会 (福岡聖書研究会90周年記念集会) 
                         
                        感話「聖書との出会い」 鎌田良子姉 
                         
                        「七十二人の帰還」 ルカによる福音書10:17~24 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之、賛美:鎌田加奈子 
                         
                        
                        訓練も不十分な72人の弟子たちが福音伝道に派遣されて、イエスの権威によ 
                         
                        って悪霊を服従させた、と成果を報告しました。イエスは、サタンが天から稲 
                         
                        妻のように落ちるのを見ていた(10:18)、と言われます。そして、悪霊に打 
                         
                        ち勝つことよりも「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい 
                         
                        (20)」と言われたのでした。 
                         
                         
“天に名が記されている”とは、神の子とされて永遠の命を与えられている 
                         
                        ということ。人間は神から与えられた自由を誤り用いて、神に背く者(罪)と 
                         
                        なりました。神はイエスに全権を託して人間を罪から救い出すことにされます。 
                         
                        十字架に人間の罪が残すところなく暴露され、イエスは十字架上から罪を赦され 
                         
                        ました。そして、イエスの罪の赦しを良しとされた神は、イエスに霊の体を与え 
                         
                        られました(復活)。更には、イエスを信じて歩む者にも霊が、即ち永遠の命が 
                         
                        与えられるのです。これに勝るイエスのプレゼントはありません。 
                         
                         
イエスの喜びは、私たちが生けるイエスを知ることによって、神を知ること 
                         
                        ―神の創造の目的―にある、と言われます。貧しい私たちですが、恵みの中に生 
                         
                        かされていることを信じて、福音を伝える者でありたく思います。それをイエスは 
                         
                        “溢れる喜び”で、喜び給うのでありますから。      (秀村記) 
 
                         
                        2022年2月6日(日)NET集会 
                         
                        
                        「新しい契約」 エレミヤ書31章 
                         
                        講話:渕上明、司会:吉本朋彦、賛美:吉本朋彦、渕上吉子 
                         
                         
エレミヤ書の中でも31章は一つの頂点をなす重要な部分です。中心になるの 
                         
                        は新しい神との契約を結ぶ日が来ることが示される箇所です(31~34)。その契 
                         
                        約はイエス・キリストの生誕まで待たねばなりませんでしたが、イエス・キリ 
                         
                        ストの贖いによって私たちは罪から救われることとなったのです。 
                         
                         
モーセ五書で示された律法をイスラエルの民は守ることが出来ませんでした。 
                         
                        しかし、それでも神は新しい契約を結ぶことによって、イスラエルの民を救お 
                         
                        うとされました。「エフライムは私の大事な子でないのか。~彼のために私の 
                         
                        はらわたはもだえ、彼を憐れまずにはいられない。」との神の言葉があります 
                         
                        (20)。モーセの十戒は石板に記されましたが、「私は、私の律法を彼らの胸 
                         
                        の中に授け、彼らの心に書き記す。」との言葉(33)があるとおり、新しい契 
                         
                        約は心に書き記されることになります。 
                         
                         
「私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。」との 
                         
                        言葉(34)があります。これは、神からの一方的な恵みです。しかし、イエス 
                         
                        ・キリストの言葉にあるとおり、行動での罪のみではなく、心の中の罪をも深 
                         
                        く追求されるものとなりました。 
                         
                         
信じることを通して、その心の中の罪をも赦して下さると主イエス・キリス 
                         
                        トは言われています。このことを心より感謝したいと思います。 (渕上記) 
 
                         
                        2022年1月30日(日) NET集会 
                         
                        
                        「神の愛」 ローマの信徒への手紙8:31~39 
                         
                        講話:市村昭三、司会:光石佐与、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        パウロは伝道活動で遭遇した多くの苦難から神が護り、支え、庇い給うた 
                         
                        ことを経験しました。その体験から、「神が味方なら、誰が私たちに敵対で 
                         
                        きますか」と述べています(8:31)。私たちも内的な、また外的な苦難に 
                         
                        遭わされ、日夜死に晒されています(36)が、神はその艱難から私たちを救 
                         
                        い出すために、御子イエスを惜しみなく与えて下さったのです。 
                         
                         
                        罪からの救いは、罪が無くなることによってではありません。罪あるままの 
                         
                        私たちを、イエス・キリストが神に執り成して下さることによって無罪とされ 
                         
                        る、それが十字架の赦しです。そして、罪から救い出して下さるキリストの愛 
                         
                        は、クリスチャンだけにというのではなく、全ての人が対象です。 
                         
                         
                        パウロはどんな霊的な力にも勝ち得て余りある(37)、と十字架の凄さを述 
                         
                        べ、神のみ心に生きることが自分の全てだ、と言います。私たちは富・名誉・ 
                         
                        イデオロギー、更には災害やコロナの脅威といった諸勢力(霊力)に呪縛され 
                         
                        て病んでいますが、キリストは病める者の友となって救い出して下さいます。 
                         
                        私たちは苦難に遭いますが、イエスの十字架の苦難以上のものではあり得ません。 
                         
                        私たちはただ“十字架に縋って”苦難を乗り越えることができる(内村鑑三)の 
                         
                        です。 
                         
                         
                        神の愛はキリストに表れており、私たちが神の愛から引き離されることのない 
                         
                        よう、日々私たちと共に歩んで下さる“生けるキリスト”に護られていることは、 
                         
                        感謝です。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2022年1月23日(日) NET集会 
                         
                        「雅歌① 神と人との愛」 雅 歌 1章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        「雅歌」は聖書中、古来より最も多くの論争や解釈の対象となってきました。 
                         
                        成立年代はソロモンの時代(紀元前10世紀頃)とも、南北分裂王国時代(紀 
                         
                        元前10~6世紀)とも、ヘレニズム時代(紀元前3世紀頃)とも言われます。 
                         
                         
                        一見すると単なる恋愛詩ですが、伝統的には神とイスラエル、あるいは神と 
                         
                        教会の関係を喩えていると解釈されてきました。また、結婚儀礼の歌や戯曲と 
                         
                        いう解釈もあります。最近では、知恵文学の一種として読む解釈も提起されて 
                         
                        います。 
                         
                         
                        さまざまな解釈はありますが、キリストと自分との愛の関係の書として読む 
                         
                        時に、最もその深い意味が味わわれると思われます。神は人を創造する時に命 
                         
                        の息を吹きこみましたが(創世記2:7)、雅歌の一章では、人が神に口づけを願 
                         
                        い、つまり神に愛という生命を吹きこんでくださることを願い、神が聖霊(香 
                         
                        油)をそそぎ、神と人との生命の交流がなされることが記されます。神は外見 
                         
                        ではなく、その人の存在をそのままに愛し、美しいものとして愛でて讃えてく 
                         
                        ださいます。 
                         
                         
                        今回は雅歌の解釈の歴史や一章を学びました。内村鑑三は「『雅歌』は旧約 
                         
                        聖書中意味の最も深い書であると思う。その点においてはたぶんヨブ記以上で 
                         
                        あろう。信仰の奥殿に入った者にあらざればこの書はわからないであろう」と 
                         
                        述べました(全集35巻191頁)。これから少しずつ雅歌を通じて神の愛や信仰 
                         
                        について学びんでいきたいと思います。      (鎌田記) 
                         
                         
                        2022年1月16日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        
                        「七十二人の派遣」 ルカによる福音書10:1~16 
                         
                        講話:秀村弦一郎、感話:小林典子、司会:下田妙子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        イエスはエルサレムへ旅立たれますが、旅先の準備のために72人の弟子達 
                         
                        を派遣されました。以前にイエスは12弟子を派遣されたことがありますが、 
                         
                        単なる繰り返しではありません。この72という数は、全世界(創世記10章・ 
                         
                        ノアの子孫の系図に72とある)と共に、弟子全員という意味が込められてい 
                         
                        ます。私たちイエスの弟子とされた者挙げて、全世界にイエスの福音を宣べ 
                         
                        伝えよ、というメッセージなのです。 
                         
                         
                        「収穫は多いが、働き人は少ない」から、とイエスは言われます(2)。困 
                         
                        窮して救いを求めている人々に、イエスがガリラヤでなさった業と教えを、 
                         
                        弟子たちは引き継がなければなりません。それは今日コロナ下にあって喫緊 
                         
                        の課題です。 
                         
                         
                        弟子の派遣は「狼の中に子羊を送り込むようなものだ」とイエスは言われ 
                         
                        ます(3)。宣教活動はピンチに陥るかもしれません。敵対する勢力は強いの 
                         
                        ですから。「子羊」が危険を免れる手段は無抵抗・非暴力であり、清廉と誠実。 
                         
                        そしてどんな相手にも、その家に「平和=シャローム」を祈れ、と教えられま 
                         
                        した。相手が平和の子であれば平和が受け止められ、そうでなければ平和は自 
                         
                        分に戻ってくるから、と。 
                         
                         
                        「収穫の主(2)」である神は、働き人(弟子達)の労苦に配慮して下さい 
                         
                        ます、神は愛でありますから。神による派遣者は案ずることはないのです。私 
                         
                        たちも各自のタラントを活かして、生けるイエスを宣べ伝えたいと思います。 
                         
                                                   (秀村記) 
                         
                         
                        2022年1月9日(日)新年集会(NET集会併設) 
                         
                        「救いの約束」 エレミヤ書30章 
                         
                        講話:渕上明、司会:三苫恵子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        エレミヤ書30~33章は一般的に「慰めの書」と呼ばれます。そこにはイス 
                         
                        ラエルの回復が約束されているからです。
  
                         
                         
                        30章はその序文ともいえる部分ですが、エレミヤの言葉をそのまま記述した 
                         
                        ものではなく、後日編集されたものと思われます。3節では「私は、わが民、 
                         
                        イスラエルとユダの繁栄を回復する」と述べられています。これはユダ王国だ 
                         
                        けではなく、全イスラエルの救いを神が考えておられることを示しています。 
                         
                        イスラエルとユダは神を裏切って生活して来ました。それでも、神は最終的に 
                         
                        は救いの手を伸べられるのです。
  
                         
                         
                        11節では「私があなたと共にいて救い出す」との神の言葉があります。神は 
                         
                        罪あるものを罰することもなさいますが、神は罰を与えられても、必ず救いの 
                         
                        道を考えられています。 
                         
                         
                        21節では「力ある者が彼らから起こり、治める者が彼らの中から出る。私が 
                         
                        彼を近づけるので、彼は私に近づく。彼のほかに、一体誰が命を懸けて、私に 
                         
                        近づくであろうか」と述べられています。この言葉は、イエス・キリストの到 
                         
                        来を予測させます。ひどい嵐の中にあっても、やがて回復の日を迎えることを 
                         
                        約束されています。  
                         
                         
                        今は新型コロナウィルスのため、世界中が苦しい状況におかれていますが、 
                         
                        神は必ず回復させる意思を持っておられ、それは主イエス・キリストをこの世 
                         
                        に送られたことが証明しています。            (渕上記) 
                        
 
                         
                        2021年12月26日(日)クリスマス祝会(NET集会併設) 
                         
                        
                        礼拝 :「見ないで信じる」 ルカ福音書7:1~10 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤玲子 
                         
                         
                        イエスの生誕について記述があるのは、マタイとルカによる福音書のみで、 
                         
                        マルコとヨハネには、その記述がありません。マルコは最初に書かれた福音 
                         
                        書と言われていますが、イエスの死と復活がテーマになっており、最後に書 
                         
                        かれたヨハネでは、キリスト教の解釈が中心にあるからだと思われます。 
                         
                         
                        福音書の中で、今、一番、私の心に思い浮かぶのは、「百人隊長」の話です。 
                         
                        マタイ、ルカ、ヨハネの3福音書に記述がありますが、内容は少しずつ違って 
                         
                        います。共通するのは、イエスの言葉があれば、それは必ずかなうという百人 
                         
                        隊長の確信です。病人を癒して欲しいとの申し出に、イエスが出かけて行こう 
                         
                        とされた際、「ただお言葉をください。そうすれば私の子は癒されます」(マ 
                         
                        タイ8:8)と百人隊長は答えます。  
                         
                         
                        それまでにイエスは様々な奇跡を行って来ました。その奇跡を見て信じた人も 
                         
                        いたでしょう。しかし百人隊長はイエスの言葉だけで奇跡が起こることを確信し 
                         
                        ていました。子どものように単純率直にイエスを信じた百人隊長について、「言 
                         
                        っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」(ルカ 
                         
                        7:9)とイエスは絶賛されました。  
                         
                         
                        百人隊長は異邦人です。すべての人々は、イエスを信じれは救われることを示 
                         
                        しています。そのイエス・キリストの誕生を心から祝いたいと思います。 
                         
                         
                        引き続きこども会のクリスマスをもちました。          (渕上記) 
                        
 
                         
                        2021年12月19日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        感 話 : 「出会い」   於保泰正 
                         
                        「私に従いなさい」 ルカによる福音書9:51~62 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        ここからルカ福音書の第2部「旅行記」に入ります。イエスのエルサレムへの 
                         
                        旅は十字架を目指すものとなりますから、イエスに従う弟子達にはそれなりの覚 
                         
                        悟が要求されます。 
                         
                         
                        イエスは当時ユダヤ人と仲が悪かったサマリヤ地方を通ることにされました。 
                         
                        すると早速宿を断られてしまいます。弟子たちが、預言者エリヤに倣って不届き 
                         
                        者たちに天から火を下しましょう、といきりたちますが、イエスは彼らを叱られ 
                         
                        て争われず、次の村に行かれました。また、弟子の志願者には、「狐には穴があ 
                         
                        り鳥には巣があるが、枕する所が無い」イエスと同じ境遇に耐えねばならないこ 
                         
                        とを示されました。 
                         
                         
                        イエスに従うにあたって、その前に父親を葬ることも、エリヤが弟子エリシャ 
                         
                        に容認した家族に別れを告げることも許されません。塚本虎二が「キリスト教は 
                         
                        神の子の宗教である。ただ神に生きる覚悟を持つ人だけがこれに耐える」と述べ 
                         
                        ているように、十字架への道を共に歩む弟子の道は甘いものではありません。し 
                         
                        かし、罪の赦し(十字架)と永遠の命(復活の命)に生きる者とされることは、 
                         
                        他に代え難いものです。  
                         
                         
                        そして、その喜びと希望の福音を人々に伝えるというイエスのみ業に参与させ 
                         
                        て戴けるというのです。いつも「私に従いなさい」と心の扉を叩いて下さってい 
                         
                        るイエスのお招きに、素直に応じる者でありたく思います。   (秀村記) 
                        
 
                         
                         
                        2021年12月12日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「トビト記 神の恵みと導き」 トビト記 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:於保さつき、奏楽:遠山博、鎌田加奈子 
                         
                        
                        旧約聖書続編は、紀元前3~2世紀に成立したギリシャ語の『七十人訳聖書』に 
                         
                        収録された文書中、ヘブライ語原文が存在しないために紀元後1世紀のユダヤ教の 
                         
                        ヤムニア決定によって正典から外されたものです。カトリックでは正典ですが、プ 
                         
                        ロテスタントは外典・続編としています。トビト記はこの旧約聖書続編です。霊的 
                         
                        な内容を象徴的に表現しており、レンブラントらの多くの画家が絵画にもしています。 
                         
                         
失明したトビトは、友人のもとに預けていた大金(今の金額で6億円相当)を受け 
                         
                        取るための旅に息子トビアを送り出します。天使ラファエルが人間に姿を変え犬とと 
                         
                        もにトビアの旅に同行します。婚約者を七回悪魔によって殺されたサラと出会い、ト 
                         
                        ビアは「魚」の心臓・肝臓の香りで悪魔を撃退し、無事に結婚します。大金も無事に 
                         
                        受け取り帰還し、、「魚」の胆嚢を塗ってトビトの目は癒され、トビトは神を讃えます。 
                         
                         
「魚」(イクチュス)は初期教会でキリストを表すシンボルでした。キリストの心を 
                         
                        心として歩み、キリストの香りを放つ時、私たちは悪魔を退散し、人生のパターンを変 
                         
                        えることができます。トビトやサラは欠点のある人間でしたが、神はその祈りを聞き、 
                         
                        天使ラファエルを通じて導き、一方的な恵みを与えました。この神の愛に応答するには、 
                         
                        ただ讃美あるのみであることを、トビト記を通じて学びました。   (鎌田記) 
 
                         
                        2021年12月5日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「『創世記に学ぶ(下)』紹介(3=最終回)」 創世記39~50章(ヨセフ物語) 
                         
                        講話:加納貞彦先生(国立聖書研究会)、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        ヨセフは兄たちに売られてエジプトに行くことになったり、そこで仕えること 
                         
                        になった親衛隊長の妻の恨みを買って牢獄に入れられたりしますが、どんな酷い 
                         
                        境遇に置かれても、不平不満を言わずに誠実に勤めを果たすことが出来たのは、 
                         
                        その場所において主が共におられることを信じたからでした。カトリックのシス 
                         
                        ター・渡辺和子が言った「置かれた場所で咲きなさい」を実行することが大切だ、 
                         
                        と学びます(39章)。 
                         
                         
獄中で献酌官や料理長の夢の意味を解いたことから、ヨセフはエジプト王の見 
                         
                        た夢解きに呼び出されました。そしてエジプトの魔術師が出来なかった夢解きに 
                         
                        成功しますが、魔術師との違いは、ヨセフは「解き明かすのは神による(41:16) 
                         
                        と、栄光を神に帰していることです。自分は神の言葉を預かって伝えるチャンネ 
                         
                        ルに過ぎない、と。彼は預言者でした。 
                         
                         
王から信頼を得たヨセフを頼って、飢饉の困窮に陥った兄たちが来ますが、弟だ 
                         
                        と気づかない兄たちに身を隠してヨセフは兄たちを窮地に陥れます(42~46章)。 
                         
                        それは兄たちに悔い改めの心を持たせるためと共に、兄弟たちの間に愛の一致を固 
                         
                        くさせるためでした。ヨセフの愛に満ちた配慮によって兄弟たちの間に、父ヤコブ 
                         
                        も含めて平和が成ったのでした。  
                         
                         
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと続く族長たちは、信仰が練り清められ、人 
                         
                        間的にも成長したのです。                   (秀村記) 
 
                         
                        2021年11月28日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「将来の栄光」 ローマの信徒への手紙8:18~30 
                         
                        講話:市村昭三、司会:山口洋子(中津市) 
                         
                        
                        私たちに苦難が絶えることはありません。時には耐え難い苦しみに会いますが、 
                         
                        パウロは「将来私たちに与えられる栄光に比べると取るに足りない(18)」と言 
                         
                        います。無数の苦難を経験した彼が強調することですから、説得力があります。  
                         
                         
                        問題は人間の苦しみだけではない、パウロは被造物全てが呻いており、その原因 
                         
                        として人間の罪を指摘します。聖書は、万物は人間のために作られたとしており、 
                         
                        人間の過ちによって万物が苦しむとします。被造物が切望しているのは「神の子」 
                         
                        とされること、そして私たちも「神の子」として「体の贖われること」を待ち望ん 
                         
                        でいるのだ(23)、と述べます。  
                         
                         
                        「人と天然とが共に救われることこそが、福音的救済である」と内村鑑三が述べ 
                         
                        ていますが、神に遠い私たちが救われることは、自然万物の救いに繋がること、万 
                         
                        物の救いの為にキリスト者の役割は重大ですが、少なくとも神の与え給う救済への 
                         
                        希望に目を向けて、それを目指さねばなりません。 
                         
                         
                        見えない神が、受肉されたイエス・キリストにおいて完全に現れ給いました。悲 
                         
                        惨の極みである十字架において、神が究極の「かたち(像)」をとって現れ給うた 
                         
                        のです。キリストの苦難(十字架)は、万物の救いのため、即ち神の栄光を現すも 
                         
                        のでしたが、私たちの苦難も、その栄光に与るためなのです。神は私たちを選び出 
                         
                        して、「神の子」と認めて下さり、栄光を与えて下さいます、イエスの十字架のゆ 
                         
                        えに。                            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年11月21日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        感話「私の出会った人々」  横山宜和 
                         
                        ルカによる福音書9:43b~50 「子どもを受け入れる者」 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        イエスの数々の奇跡や教えに驚嘆した弟子たちに、イエスが「良く聞け」といって 
                         
                        口にされたのは再度の受難予告でした。弟子たちは何のことか、理解できません。彼 
                         
                        らはイエスにこの世の力ある支配者を期待していましたから。イエスは一人一人の悩 
                         
                        み・苦しみに寄り添われるお方であり、根源にある「罪」の問題を解決するには十字架 
                         
                        しかないのです。  
                         
                         
                        弟子達は「誰が一番偉いか」を論じていました。人は皆、他人との比較を意識し、名 
                         
                        誉欲、支配欲に生きていますが、イエスは一番偉い者として子ども(幼児=無力、柔和、 
                         
                        謙遜な者)を示されます。「この子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのだ(48)」、 
                         
                        と。私たちの支配欲、名誉欲からの解放は、イエスを信じて従うことによってのみ、可能 
                         
                        なのです。 
                         
                         
                        弟子達の支配欲は、自分達以外の者が許可無く悪霊を追い出すことを禁じました。しか 
                         
                        しイエスは、「あなた方に逆らわない者は、あなた方の味方なのだ(50)」と弟子達を諫 
                         
                        められます。神の「愛」は「寛容」。イエスの愛に倣って、寛容の精神をもって全ての人 
                         
                        に対応することが求められます。 
                         
                         
                        イエスは周囲の小さな存在を受け入れることを望まれます。その小さな存在は「私なの 
                         
                        だ」、と。戴いた恩恵を、困難の中にある方々と分かち合う者とされたく祈ります。 
                         
                                                       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年11月14日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        エレミヤ書29章 「平和への祈り」 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        29章は、第一次捕囚でバビロンへ連れていかれた人々へのエレミヤの手紙が中心 
                         
                        になっています。この手紙には、新約聖書のイエス・キリストに結びつく言葉がい 
                         
                        くつも記されています。「私が、あなたがたを捕囚として送った町の平安を求め、 
                         
                        その町のために主に祈りなさい」との神の言葉が書かれています(7)。この言葉は、 
                         
                        マタイ福音書5章のイエスの言葉に繋がります。また、「私を捜し求めるならば見い 
                         
                        だし、心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる。」との言葉もあり 
                         
                        ます(13)。これは、マタイ福音書7章にあるイエスの言葉と同じ内容を示しています。 
                         
                        また、ここでの祈りは、エルサレム神殿から遠く離れた場所での祈りになりますが、 
                         
                        神に祈る場所は神殿でなくとも良いことは、イエスが述べておられます(ヨハネ福 
                         
                        音書4章20節以下)。 
                         
                         
                        
                        ユダ王国の人々は70年の間異国の地で捕囚の身となって過ごしますが、神はその 
                         
                        後のことをいつも考えられていたのです。エレミヤのこの手紙は、捕囚となった人々 
                         
                        のことを神がいつも考えておられ、すべてが神のご計画によってなされていること、 
                         
                        神の恵みが必ずあることを伝えています。 
                         
                         
                        
                        私たちは、主イエス・キリストの言葉によって生きていくことが何より大切なこと 
                         
                        を知っていますが、難しい面もあります。それでも、心を尽くして祈ることによって 
                         
                        救われるのです。                  (渕上記) 
                         
                         
                        2021年11月7日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「『創世記に学ぶ(下)-族長たちの人間的成熟』の紹介(2)」創世記29~38章 
                         
                        講話:加納貞彦先生(国立聖書研究会)、司会:秀村興子      
                         
                        
                        欠点も多い唯の人であった族長たちが、後に神によってつくり変えられ、神の栄 
                         
                        光を顕すようになったことを示すのが、この族長たち(今回はヤコブとヨセフ)の 
                         
                        物語です。 
                         
                         
                        ヤコブは伯父ラバンのもとから4人の妻、13人の子供を連れて故郷に帰りますが、 
                         
                        神の導きでベテルに立ち寄ります。ベテルは彼がかつて夢の梯子を見た所、信仰の原 
                         
                        点と言える場所です。ヤコブは全員に異国の神々の偶像を捨てさせます。一族の神は 
                         
                        ヤハヴェの神であることを鮮明にした宗教改革でした。そして彼は、その一族が信仰 
                         
                        をもって生き続けることを祈りましたが、神はその祈りを聴いて下さったのでした。 
                         
                         
                        ヨセフはヤコブの最愛の妻ラケルの子でしたので、父にえこひいきされた息子でし 
                         
                        た。彼の麦の束に兄弟たちの麦の束がひれ伏したという夢の話をしたりして兄弟たち 
                         
                        に憎まれ、エジプトに売られて行くことになります。ヨセフも最初は兄弟たちを恨ん 
                         
                        だり絶望の底に沈んだりしたことでしょうが、やがて父ヤコブが信じていた主なる神 
                         
                        に依り頼むしかないことを悟り、信仰を持ったと考えられます。 
                         
                         
                        それは、ファラオの親衛隊長・ポティファルに売られた後、「主がヨセフと共にお 
                         
                        られたので」と書かれているところから推測されます。頼って来たヨセフを、神はお 
                         
                        守り下さいました。ヤコブの祈りをお忘れにはならないのです。    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年10月31日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        
                        「悪霊に憑かれた子供の癒し」 ルカによる福音書9:37~43a 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                         
                        変貌の山から下りられたイエスは、悪霊に憑かれた一人息子をもつ父親に子供の 
                         
                        癒しを懇願されます。弟子たちに癒しを願ったがダメだった、と。イエス不在の間、 
                         
                        山の麓では弟子たちと律法学者が、苦しむ子供をそっちのけにして議論をしていた 
                         
                        のです(マルコ9:14~18)。弟子たちを叱責した父親も含め、群衆の皆が神を見 
                         
                        失った状態に陥っていました。 
                         
                         
                        神が語りかけられた山上に比べて、神不在の(自らを神とする)一同にイエスは 
                         
                        憤り、悲しまれます。それは、神から十戒を授かってシナイ山から下りてきた時、 
                         
                        金の子牛を拝んでいた群衆を見出して憤ったモーセと同じでした。 
                         
                         
                        背く民を罰して滅ぼすと言われる神をモーセは宥めて、民のために執りなして民 
                         
                        を救いました。父親の必死の願いを憐れまれるイエスは、「あなたの息子をここに 
                         
                        連れてきなさい(42)」と言って、悪霊を追い出されます。 
                         
                         
                        イエスは「不信仰で邪悪な時代(41)」を、柔和と憐れみをもって忍び給い、怒 
                         
                        りにまかせて世を滅ぼすことはなさいません。イエスの忍耐は無限であり、最後の一 
                         
                        瞬まで罪人の悔い改めを待ち給うのです(ユダへの対応がそうでした)。 
                         
                         
                        今日も不信仰で邪悪な時代ですが、神は力ずくで世を改めよとは言われません。生 
                         
                        けるイエスが困窮する者に出会って、一人ひとりを苦難から救い出し給います。私達 
                         
                        もイエスに倣って苦しむ人に寄り添う者でありたいと思います。   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年10月24日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「山上におけるイエスの変貌」 ルカによる福音書9:28~36 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        イエスに伴われて登った山上でペトロ、ヨハネ、ヤコブの弟子3人が見たのは驚 
                         
                        くべき光景でした。イエスがモーセ、エリヤと、イエスの最後のことを話し合って 
                         
                        おられたというのです。しかし、弟子たちが驚くべき体験をしても少しも変わらな 
                         
                        かったということは、驚くべきことです。ペトロが「小屋を三つ建てましょう」と 
                         
                        口走っただけでした。 
                         
                        彼らが見たイエスの栄光が、復活、高挙、再臨を意味することが分かったのは、 
                         
                        イエスの復活後のことでした。イエスが神の子・メシアであることは、復活のイエ 
                         
                        スに出会わずしては誰にも分からないのです。生けるイエス(聖霊)に出会うこと 
                         
                        が決定的であり、私たちの“人生の目的”なのです。 
                         
                         
                        モーセとエリヤが消え去った後、イエスは雲に包まれ、「これに聞け」との神の 
                         
                        声がありました。モーセの十戒に代わる新しい戒めが与えられました。聴き従うべ 
                         
                        きイエスは、強いこの世の王(=イエス復活前の弟子たちが期待し続けた)ではあ 
                         
                        りません。苦しみ悩む全ての人に寄り沿って救い出し給うのです。「自分の十字架 
                         
                        を負って私に従いなさい」との勧めには、十字架を負って困窮する私たちを丸ごと 
                         
                        背負って下さるとの約束が含まれています。それがイエスの十字架です。 
                         
                         
                        弟子たちが垣間見た栄光は、私たちにも与えられる復活の約束でもあります。一 
                         
                        方的に与えられる恵みを感謝しつつ、困窮する人々に仕える者でありたく思います。 
                         
                                                      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年10月17日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「神の言葉を傾聴する」 エレミヤ書28章 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門 
                         
                        
                        エレミヤ書28章も、記述者バルクによって書かれたものと思われます。ここでは、 
                         
                        エレミヤと全く反対の預言をするハナンヤと対決することになります。ハナンヤは、 
                         
                        バビロンは2年後に神によって滅ぼされ、神殿の祭具も帰って来ると預言します。 
                         
                        エレミヤは、70年後に戻って来ると預言していました。いつの時代でも、苦しい時 
                         
                        には、楽観的な予想が好まれます。この対決の場では、ハナンヤを熱狂的に支持す 
                         
                        る人が多くいたのではないでしょうか。 
                         
                         
                        ハナンヤの預言に対し、エレミヤは、「アーメン」(そのとおりになるように)と 
                         
                        答えます。エレミヤは、これまでの神の預言から、そうならないことを知っていまし 
                         
                        たが、それでもユダ王国の民を助けたいという思いがあったのではないでしょうか。 
                         
                        ハナンヤは、さらにエレミャの軛を打ち砕きます。いままでのエレミヤの姿からする 
                         
                        と、激怒してもよさそうに思われますが、エレミヤは静かに立ち去って行きます。そ 
                         
                        の後、エレミヤにハナンヤの死が予告されます。 
                         
                         
                        エレミヤは、ここでは驚くほど静かで冷静です。イエスも、いつも冷静で、しかし 
                         
                        温かく行動されました。エレミヤは、神の言葉に忠実な人でした。どのような場面に 
                         
                        おいても、神の言葉に従順に従っています。 
                         
                         
                        私たちは静かに聖書の言葉の中から神の思いを感じ取り、,生きていくことが大切な 
                         
                        のではないかと思います。                  (渕上記) 
                         
                         
                        
 
                        2021年10月10日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「マラキ書(3) 義の太陽と十分の一の捧げもの」 マラキ書3章 
                         
                        
                        講話:鎌田厚志、司会:長澤玲子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        マラキ書第三章では、前章における神はどこにいるのかという問いへの応えとして、 
                         
                        主の前に道を整える使者が遣わされることが告げられます。これは新約聖書では洗礼 
                         
                        者ヨハネのことと受けとめられました。さらに、主が突然来たること、主の日には人 
                         
                        々が清められることが示されます。 
                         
                         
                        次に、十分の一の捧げものを実行すれば、天の窓が開き、神の祝福がそそがれるこ 
                         
                        とが述べられます。十分の一税は、レビ人・寄留者・孤児・寡婦に対する施しのため 
                         
                        でした(申命記14:28~29)。再分配こそ、その社会が祝福を得るための道である 
                         
                        ことをマラキは示しています。 
                         
                         
                        さらに、主を畏れる者は記憶され、主への態度によって人はその結末が区別され、 
                         
                        主の日において悪は裁かれ、神を信じる人々には義の太陽が昇ることが告げられます。 
                         
                        義の太陽とは、人々の心を暖める神の慈しみ、闇を照らす命の光、人に義を与える十 
                         
                        字架の愛を象徴します。最後に、人々が滅びぬように主の日の前にエリヤが遣わされ 
                         
                        ると預言されます。 
                         
                         
                        義の太陽であるキリストに心から感謝し、せめて自分にできることをしていくこと 
                         
                        をマラキ書3章を通じて学びました。2015年に「聖書を読む会」から始め(2017年か 
                         
                        ら本集会)、今回で全ての十二小預言者を学ぶことができたことを、主イエスと福岡 
                         
                        聖書研究会に心より感謝いたします。          (鎌田記) 
                         
                         
                        2021年10月3日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「創世記に学ぶ(下)-族長たちの人間的成熟」紹介(その1)  
                                                  創世記25:19~28章 
                         
                        講話:加納貞彦先生(国立聖書研究会=東京)、司会:横山宜和 
                         
                         
                        ゲラルに滞在中のイサクは、そこの民から井戸について言いがかりをつけられると争 
                         
                        わずに新たな場所に移り、そこに井戸を掘ると水が出ます。そのようなことが4度もあ 
                         
                        ったのでした。そのように争うことをせず、新天地を開拓し続けるイサクを主は祝福し 
                         
                        て百倍の収穫を与えられました。平和主義者イサクは「柔和な人々は幸いである。その 
                         
                        人たちは地を継ぐ(マタイ5:5)」とのイエスの言葉の人物でした。 
                         
                         
                        イスラエル民族の祖であるヤコブは、父イサクを何度も騙して兄エサウから祝福を奪 
                         
                        いました。その後ヤコブは「不運のカタログ」の人生を歩みます。ユダヤ教の教師は彼 
                         
                        を反面教師だといいますが、私は創世記のこのような描き方に好感を持ちます。人間を 
                         
                        神格化せず、客観的に記述することに徹して、誉めるべきは神だけである、とする態度 
                         
                        だからです。 
                         
                         
                        兄エサウの恨みに身の危険を感じたヤコブは、伯父のいるハランに逃れますが、野宿 
                         
                        した場所で夢を見ます。天と地を繋ぐ階段を神の使いたちが昇り降りしていました。そ 
                         
                        して主の声を聞くのです。「私は主、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神である… 
                         
                        (28:13)」と。ここでヤコブはこれまで耳では聞いていた主に、直接会うことになり 
                         
                        ます。人は一人でいる時に、主を実感するようです。        (秀村記) 
                         
                         
                        2021年9月26日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「キリスト者となった者の霊における勝利」 ローマの信徒への手紙8:1~17 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        キリスト者は罪から解放されている、とパウロは言います。何故なら、肉にあるキ 
                         
                        リスト者は罪と死の支配から、霊の支配下に移されたから、と。この霊は、復活のイ 
                         
                        エスの霊であり、キリストの体であるエクレシアの中で働くのです。 
                         
                         
                        神は肉の思いに歩む人間の罪を処分するために、イエス・キリストを罪深い肉と同 
                         
                        じ姿でこの世に遣わされました。そしてイエスの十字架の死に至るまでの従順(フィ 
                         
                        リピ2:6~8)。によって罪は処分されました。霊に歩む者は、霊の思いである命と 
                         
                        平和に生きることが出来るのです。 
                         
                         
                        パウロは、神の霊に導かれる者は「神の子」だと述べます。更に子供であれば、相 
                         
                        続人でもある、とも言います。私たちがキリストと共同の、神の相続人だとは、驚く 
                         
                        べきことです。ここに、神が十字架に示して下さった無償の恵みに、私たちはどう応 
                         
                        答するか、生のあり方が求められます。それは、私たちがエクレシアを通して、神の 
                         
                        救いのみ業が全ての被造物の為であることを証言することにほかなりません。 
                         
                         
                        キリストと共に苦しむなら、キリストと共に栄光を受ける(8:17)とあります。 
                         
                        自分の力では負えない十字架こそ真の十字架、イエスはその十字架を共に負って下さ 
                         
                        るのです。そこで初めて、自分に死ぬことが出来ます。霊におけるキリスト者の勝利 
                         
                        は、こうして死に打ち勝つことです。          (秀村記) 
                         
                         
                        2021年9月19日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「ペトロの告白とイエスの受難予告」 ルカによる福音書9:18~27 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        イエスは何者なのか?・・イエスのこの問いにペトロが弟子たちを代表して「神の 
                         
                        メシアです」と答えました。正しい答えでしたが、実はペトロはその意味が分かって 
                         
                        いませんでした。「メシア」は彼らが考えていたダビデのような地上の王ではないの 
                         
                        です。イザヤが預言した「苦難の僕(イザヤ53:4)」の道を歩み、殺されて復活す 
                         
                        ることになっている、とイエスは言われます。常軌を逸した神の子の受難予告を、五 
                         
                        千人への供食を目にしたばかりの弟子たちは理解することが出来ませんでした。受難 
                         
                        予告は3度繰返されることになります。 
                         
                         
                        イエスは、ご自身がそのようなメシアであることを秘密にするよう命じられます。 
                         
                        十字架と復活という、人類救済の為の神の定めが曲げられることがあってはならない 
                         
                        からです。 
                         
                         
                        イエスは、それでも私に付いてくるか?と弟子たちに問われます。弟子たる者は十 
                         
                        字架を負わねばならぬぞ、と。重要なことは、イエスに従う者には、肉のいのちを失 
                         
                        っても永遠のいのちが与えられることを約束して下さっていることです。 
                         
                         
                        イエスは予告通り殺され、復活されました。復活のイエスは聖霊として日々私達と 
                         
                        共におられます。肉のいのちの拡張に奔走するのを止めるとき、永遠のいのちに生き 
                         
                        る者として下さると言われています。罪の姿のあるがままに、イエスに従うことが許 
                         
                        されていることは大きな喜びです。               (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年9月12日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「マラキ書(2) 父なる神との命と平和の契約」 マラキ書2章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        マラキ書第二章では、まず祭司への警告がなされます。神に栄光を帰すことを心 
                         
                        に留めるべきで、レビとの契約は命と平和であること、にもかかわらずレビ(=祭 
                         
                        司)が律法を偏って用い道から外れたことが批判されます。祭司の役目は御言葉を 
                         
                        守り、人々を過ちから立ち帰らせることだとされます。 
                         
                         
                        次に、人間は皆唯一の父なる神から造られたもの同士であるのに、なぜ互いに裏 
                         
                        切るのかと問われます。神が父なる存在であり、ゆえに人間がお互いに愛し合うべ 
                         
                        き存在だという新約の教えがここでは明確に先取りされています。さらに、離婚が 
                         
                        強く批判されます。これは異教との混淆や当時の女性の弱い立場への配慮があった 
                         
                        と考えられます。また、誠実な信仰の伴わない儀式や祈りは空しいこと、人は自分 
                         
                        の霊に気をつけるべきことが告げられます。 
                         
                         
                        最後に、悪を神が肯定しているとする善悪無用論と、神は裁きを行わずこの世界 
                         
                        に関わらないとする神無用論の二つの主張が、神の心を煩わせていることが告げら 
                         
                        れます。 
                         
                         
                        新約では万人祭司が説かれることを踏まえれば(Ⅰペテロ2:9)、これらの祭 
                         
                        司への批判はキリスト者すべてにあてはまることと思われます。神のかたちとし 
                         
                        て造られた人間として、誠実に悪を避け、神を愛し信じ、隣人を愛して生きるべ 
                         
                        きことを、マラキ書二章を通じて学びました。    (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2021年9月5日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「軛を負う」 エレミヤ書27章 
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                        
                        エレミヤは軛を着けて神の言葉を伝えるよう命じられます。軛を着けたエレミヤ 
                         
                        は異様な風体であったでしょうが、強いメッセージを伝えることになったと思われ 
                         
                        ます。最初は、ユダ王国周辺の反バビロンの国々の王に、次にユダの王ゼデキヤに 
                         
                        バビロンに従うようにとの神の言葉を伝えます。神は、ユダ王国だけではなく、周 
                         
                        辺の国々にもバビロンに従うよう命じられます。神の力は、ユダ王国だけではなく、 
                         
                        周辺の国々にも及びます。また、バビロンの王ネブカドネツァルをも神の権限の許 
                         
                        にあることを示されます。そのネブカドネツァルも繁栄を続ける訳ではないことも 
                         
                        示されます。 
                         
                         
                        偽預言者たちに対しても、滅びの厳しい言葉が語られます。 
                         
                         
                        しかし、捕囚の後にユダの人々は元の場所に帰り、バビロンに持ち去られた祭具も 
                         
                        帰って来ると述べられます。  
                         
                         
                        新約聖書においても、「私の軛を負い、私に学びなさい。」とのイエスの言葉が 
                         
                        あります。ユダ王国に課せられた軛は、大変重いものでありました。しかし、イエ 
                         
                        スは「私の軛は負いやすく、私の荷は軽い。」と言われます。今、私たちは大変苦 
                         
                        しい時代に生きていると思いますが、神はこの苦しみがいつまでも続くものではな 
                         
                        いことを示しておられます。まして、イエスの言葉を知る私たちは、イエスと共に 
                         
                        あり魂の安らぎを得て、この状況を乗り越えて行くことが出来ると信じるものであ 
                         
                        ります。                      (渕上記) 
                         
                         
                        2021年8月29日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「五千人への供食」 ルカによる福音書9:10~17 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵 
                         
                        
                        イエスが5千人の群衆に食事を与えられたという奇跡は、ベトサイダの人里離れ 
                         
                        た地での出来事でした。弟子たちが持っていた5つのパンと2匹の魚を、祝福の祈 
                         
                        りをもって裂いて弟子たちに配らせるという、神の子イエスならではの権能を顕 
                         
                        されました。俄かに信じられない記事ですが、荒野でサタンがその権能を信じて 
                         
                        「石にパンになるよう命じてみろ」と誘惑した(4:3)ことは重い事実です。 
                         
                         
                        問題は、この大奇跡の意味です。救いを求めている困窮した群衆に驚くべき神 
                         
                        の憐れみが実現したのは、正に神の国の実現にほかなりません。イエスと弟子た 
                         
                        ちの伝道活動の目的は、ここに象徴される神の国を地上に建てることなのです。  
                         
                         
                        荒野の彷徨中に、モーセを通して60万の民にマナやうずらが与えられたこと 
                         
                        (出16:15以下)や、エリシャが飢饉の地で100人にパンを与えた(王下4:42) 
                         
                        故事と併せて、食料が与えられたことに愛である神の恵みが表わされました。  
                         
                         
                        後にイエスは最後の晩餐でパンを裂いて、十字架の贖いという新しい契約を示 
                         
                        されます。また、エマオで二人の弟子との食事の席でパンを裂き、復活のイエス 
                         
                        を顕されました。十字架と復活の福音は、私たちを神の国の宴会に招いて下さる 
                         
                        希望に結実します。5千人の供食はその予表なのです。 
                         
                         
                        余ったパンの12籠は弟子達に託されたイエスの賜物でしょう。私達にも小さな 
                         
                        籠が託されていると思います。           (秀村記) 
                         
                         
                        2021年8月1日(日)集会(NET集会併設) 
                         
                        「神に委ねる」 エレミヤ書26章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤玲子 
                         
                        
                        26章で注目すべきは、「一言も減らしてはならない(2)」というエレミヤへ 
                         
                        の神の言葉です。エレミヤは、神を信じ切っていました。神の言葉をすべて語れ 
                         
                        ば、自分の命を危険にさらすことになるかも知れなかったのですが、エレミヤは 
                         
                        すべてを語ります。そのため、祭司と預言者たちは死刑に値するとして、裁判を 
                         
                        求めます。裁判は、当時の高官たちが行っていました。高官たちは、以前に預言 
                         
                        者ミカがヒゼキヤ王にエレミヤが述べたと同じような内容の預言をし、当時の王 
                         
                        ヒゼキヤが信仰深い人であった為、アッシリアからエルサレムが守られたことを 
                         
                        思い起こし、エレミヤを無罪としました。 
                         
                         
                        このことはイエスの審きを想起させます。祭司長たちが総督ピラトにイエスを 
                         
                        引き渡します。死刑の判決を出せるのは祭司長たちではなく、ピラトであった為 
                         
                        です。ピラトはイエスの無実を知っていましたが、群衆を恐れ、死刑を許可します。 
                         
                        しかし、イエスを恐れ、「この人の血について、私には責任がない。お前たちの 
                         
                        問題だ」述べます(マタイ27:24)。  
                         
                         
                        エレミヤの審きでは、群衆(「すべての民」)はエレミヤを訴える側だけでなく、 
                         
                        護る側にもいます(7節と11節)。 
                        ピラトはイエスに「真理とは何か」と問いかけていますが(ヨハネ福音書18:38)、 
                         
                        主イエス・キリストこそ真理であり、私たちはイエスの言葉に従って行けば、真理 
                         
                        の道を歩んで行けるのだと思います。         (渕上記) 
                        
 
                         
                        2021年7月25日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「内在する罪の問題」 ローマの信徒への手紙7:7~25 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        パウロは、律法の下にあることは罪と死の支配下に置かれていること、と言い 
                         
                        ます。「貪(むさぼ)るな(7:7)」との律法が、自分の利益を追求してやまな 
                         
                        い人間の罪を暴きます。律法を守ることにおいて非の打ち所ない者(フィリピ3:6) 
                         
                        と自負していたパウロが復活のイエスに出会って、神に背いて“自己追求という罪” 
                         
                        に陥っていることに目覚めたのです。 
                         
                         
                        神から与えられた律法を守ることは本来、救いをもたらす筈でした。しかし、 
                         
                        律法は自己追求をもたらし、罪の拠点となるのです。信仰において自分を立てよ 
                         
                        うとする自己主張、即ち、神の前で飽く事無く自分の栄光を追求することが、律 
                         
                        法のもたらす罪であるということに目覚めたパウロは、「命に導くはずの戒めが、 
                         
                        私にとっては死に導くものとなりました(10)」と述べ、「私はなんと惨めな 
                         
                        人間なのでしょう(24)」と言うのです。これは理論ではなく、彼の実際的経験 
                         
                        です。 
                         
                         
                        回心を機にパウロの救いの拠り所は、律法ではなくキリスト・イエスの「十字架 
                         
                        と復活」となりました。罪と死の問題の解決は、律法に対して死ぬことであり、復 
                         
                        活のイエスに生きることである、と言います。律法に死に、イエスに生きることは、 
                         
                        私たちの全生涯を通じて繰り返されるべきことです。  
                         
                         
                        キリスト者の生涯は、常に新たな悔い改めの連続でなければならない、これが今 
                         
                        日の箇所の中心問題です。                  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年7月18日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「十二弟子の宣教とヘロデの困惑」 ルカによる福音書9:1~9 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                             
                        イエスは十二弟子を宣教に派遣されます。弟子達はイエスに倣って「神の国」 
                         
                        を宣べ伝えました。神の国とは愛と真実による神のご支配のこと。将来来るも 
                         
                        のではなく、イエスと共にある私達のただ中にあり(7:20)、闇の支配下に 
                         
                        あるに見える世が、実は神の支配下にある、ということです。 
                         
                         
                        併せて弟子達はイエスから悪霊を追い出す力と権能を与えられ、人々の病気を 
                         
                        癒しました。肉体と心を病み、苦しんでいる人々を具体的に救うことは、霊の救 
                         
                        いと並んで重要なことだと思います。今日も医療などが伝道の力となっている例 
                         
                        は枚挙に暇ありません。私たちにも其々の出来る範囲で、その力が与えられるこ 
                         
                        とを祈らずにおれません。 
                         
                         
                        イエスは洗礼者ヨハネの甦り等という噂を耳にした領主ヘロデ・アンティパスは、 
                         
                        イエスは何者か?と困惑します。イエスに会いたいという彼の望みは十字架の直前 
                         
                        に叶うことになります(23:8)。イエス殺害に加担する一人になるのです。 
                         
                         
                        宣教に出発する弟子たちに、イエスが持ち物などを制限しておられることに驚き 
                         
                        ます。神から与えられる力と権能があればそれで充分、全てを神に委ねよ、と。私 
                         
                        たちにも福音を述べ伝えることが求められていますが、私たちには新たな力と権能 
                         
                        を与えられました。それは「復活」。イエス生前の弟子達には未知の消息でしたが、 
                         
                        復活のイエスが私たちにいつも送って下さる聖霊は、これ以上ない力と権能です。 
                         
                                                    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年7月4日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「神の憐れみ」 エレミヤ書25章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        エレミヤ書25章は、題目としては2つの部分に分かれていますが、内容は 
                         
                        1節から14節までと15節から38節までに分かれています。前半は、これまで 
                         
                        エレミヤが予言したこと(北からの脅威)が実際に起こったことが記載され 
                         
                        ています。後半は、諸国民に対しての神の言葉となっており、この後、26章 
                         
                        以降も諸国民に対するものとなっています。  
                         
                         
                        この章で注目されるのは、神がイスラエルに敵対するバビロンの王ネブカ 
                         
                        ドレツァルを動かして、エルサレムを陥落させ、また、70年後にはそのバ 
                         
                        ビロンを滅ぼされるというところです。神は、イスラエルを愛しておられま 
                         
                        したが、敵の国をも動かして愛する民を厳しい道に導き入れ、その後、正し 
                         
                        い道に進むようにされました。神はイスラエルの民だけではなく、他国の王 
                         
                        をも動かされます。イスラエルの神と言うだけではなく、世界全体を支配さ 
                         
                        れることを示しています。また、どのような状況にあっても神の許しが用意 
                         
                        されていることが述べられています。それは、ルカによる福音書第15章の 
                         
                        放蕩息子の話を思い起こさせます。神は、それでも私たちを愛してくださる 
                         
                        のです。 
                         
                         
                        私たちは、罪の中にあっても、悔い改めればイエスの救いに導かれます。 
                         
                         
                        今は苦しい時ですが、主イエス・キリストの言葉を信じ生きて行きたいと 
                         
                        思います。                                     
                        (渕上記) 
                         
                         
                        2021年6月27日(日) 集会 (NET集会併設) 
                         
                        「悪霊に憑かれた男と豚の群」 ルカによる福音書8:26~39 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        ガリラヤ湖東岸の異教の地に到着されたイエスが出会われたのは、悪霊に 
                         
                        憑かれた男。イエスの前にひれ伏して「構わないでくれ」と懇願します。悪 
                         
                        霊は直感的にイエスの何者かが分かり、霊なる神の子に屈服したのでした。 
                         
                        そして悪霊はイエスの許可を得て、辺りの山にいた豚の群に入ります。沢山 
                         
                        の豚は湖に飛び込んで全滅しました。恐れた豚飼いなどの人々の願いによっ 
                         
                        て、イエスは男を残して帰られました。 
                         
                         
                        裸同然で墓地を住処とし、繋がれていた鎖を壊して荒れ野を徘徊するという、 
                         
                        精神を病んだ悲惨なこの男をイエスは憐れんで、異教人の差別なく癒されたの 
                         
                        です。言葉をもって悪霊を追い出されるイエスの権威は、愛に基づくものでした。 
                         
                         
                        聖書は、悪霊(サタン)が人間の心(精神)と肉体に介入して病気を起こし、 
                         
                        人間の霊に介入して罪を犯させる、と言います。悪霊が入った豚の群は死に突進 
                         
                        して、全滅しました。悪霊の宿る存在の行き着く先が死であることは、霊の目には 
                         
                        明らかです。悪霊の支配下にあった(天皇を神とした)日本は、夥しい数の死者を出 
                         
                        すという経験をしました。 
                         
                         
                        悪霊が齎す罪から私達を救い出す為に、イエスは十字架に架かり、身代わりと 
                         
                        なって死んで下さいました。イエスは、悪霊をその身に引き受けて死んだ豚になっ 
                         
                        て下さったのです。悪霊に憑かれた男と同じく、救われた私達はイエスに従い、人 
                         
                        々にイエスを証して歩みたいと思います。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年6月20日(日) NET集会 
                         
                        「ガリラヤ湖上の突風」 ルカによる福音書8:22~25 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        ガリラヤ湖上の舟でイエスが眠っておられた時のこと。突風で舟が沈みそ 
                         
                        うになり、慌てた弟子たちはイエスを起こして、助けを求めます。イエスが 
                         
                        風と荒波を叱りつけられると、すぐ波は収まって凪になりました。弟子たち 
                         
                        は「風も波も従うこの方はどなたなのだろう」と、恐れ驚いたのでした。 
                         
                         
                        弟子たちは、イエスの奇跡に驚きましたが、まず驚くべきは、嵐の中でイ 
                         
                        エスが眠っておられたことです。どんなに困難な境遇にあっても、心に平安 
                         
                        を保っておられるイエス。それはいつも神の護りの中にあることを信じてお 
                         
                        られることの顕われに外なりません。私たちが様々な苦難に襲われる時、自 
                         
                        分の考え、努力で乗り切ろうとするのか、愛なる神に全てを委ねきることが 
                         
                        出来るか、が問われます。  
                         
                         
                        弟子達は奇跡に驚きましたが、信仰には至りませんでした。信仰が与えられ 
                         
                        るには、イエスの十字架と復活を待たねばなりません。イエスの死が、自分の 
                         
                        救いのための身代わりであったことに目を開かれて初めて、弟子達は真にイエ 
                         
                        スに従う者となったのでした。嵐を鎮められた奇跡は弟子たちへの愛によるも 
                         
                        のであり、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とのイエスの問いには、弟 
                         
                        子達への憐れみを感じます。 
                         
                         
                        この世で私たちが乗っている舟には、イエスがいつも共にいて下さっています。 
                         
                        どんな嵐に遭遇しても、イエスが護り給うことを信じて、安んじて歩みたいと思 
                         
                        います。                        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年6月13日(日) NET集会 
                         
                        「マラキ書(1) 神の選びと人の供え物」 マラキ書1章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:於保さつき、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        マラキ書は十二小預言書の一つで、キリスト教の聖書では旧約の最後に収録 
                         
                        されています。マラキは、おそらく第二神殿完成以後エズラやネヘミヤ以前の 
                         
                        時代(紀元前515~458年頃)の人物ですが、詳しいことは伝わっていません。 
                         
                         
                        第一章では、まずイスラエルとエドムが対比され、神が一方的にイスラエル 
                         
                        を選び愛していることが告げられます。次に、律法では欠陥の無い動物をいけ 
                         
                        にえに捧げることが規定されているのに、イスラエルの人々は傷や欠陥のある 
                         
                        動物ばかりを神に捧げていることが記され、批判されます。 
                         
                         
                        マラキに先行する預言書では、神は動物のいけにえを重視していません(ホ 
                         
                        セア6:6、アモス5:22など)。では、なぜマラキでは欠陥のない供え物を人 
                         
                        々に求めているのでしょうか。これは、新約を踏まえれば(ロマ12:1など)、 
                         
                        私たちが真心を尽くしてわが身と人生を全きものとして神に捧げることを命じ 
                         
                        ていることだと解釈できます。 
                         
                         
                        しかし、私たちは罪と傷だらけの、とても欠陥のない存在とは言えない者です。 
                         
                        しかし、キリストの十字架の贖いを信じれば、全きキリストの義の衣を着せてい 
                         
                        ただくことができます。この身このままで神に身をゆだね、自分のできる範囲で 
                         
                        力いっぱい神を愛し、隣人を愛し、この人生を神に捧げれば良いことを、マラキ 
                         
                        書一章を通じて学びました。              (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2021年6月6日(日) NET集会 
                         
                        「神を知る心」 エレミヤ書24章 
                         
                        
                        講話:渕上明、司会:吉本朋彦、奏楽:渕上吉子 
                         
                         「良いいちじくと悪いいちじく」と題されたエレミヤ書24章6節では帰還の 
                         
                        約束が与えられ、7節では神を知る心を与えられることよって、イスラエルの 
                         
                        民が再び神の元に帰ることが約束されています。時代背景は、すでに多くのユ 
                         
                        ダ王国の民がバビロニアに捕囚された後でした。多くの人がバビロニアの捕囚 
                         
                        となり、ユダの地に残った人々と別れ離れになりました。普通に考えると、捕 
                         
                        囚されずにユダの地に残った方が幸福であるように思われます。実際、この当 
                         
                        時ユダの地に残った人々は、捕囚されずに安堵していたのではないでしょうか。 
                         
                        しかし、神は良いいちじくは捕囚された民であり、ユダの地に残った民は悪い 
                         
                        いちじくであると述べられます。 
                         
                         
                        神の言葉は、時に私たちには矛盾するように思われることがありますが、そ 
                         
                        の言葉は私たちの理解を超えたところにあるのではないかと考えます。 
                         
                         
                        この言葉は、31章の新しい契約の言葉に繋がって行きます。「小さな者から 
                         
                        大きな者に至るまで、彼らは皆私を知る(31:34)」という言葉と「私は彼 
                         
                        らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはないとの神の言葉があり 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        この言葉はイエス・キリストに繋がって行きます。また、パウロは「霊に 
                         
                        よって心に割礼を施され割礼こそ割礼なのです。そのような人は、人からでは 
                         
                        なく、神から誉れを受けるのです(ローマ2:29)」と述べています。(渕上記) 
                        
 
                         
                        2021年5月30日(日) NET集会 
                         
                        「結婚の比喩による律法からの解放」 ローマの信徒への手紙7:1~6 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:下田妙子 
                         
                        
                        パウロは律法の支配下にある限り、罪と死から免れることが出来ないことを 
                         
                        述べてきましたが、結婚の比喩を用いて、律法の支配下にある者がキリストの 
                         
                        支配下に移されることの説明をします。夫の死によって妻は婚姻法から解放さ 
                         
                        れて、夫の束縛から自由になりますが、同じように、律法に対して死ぬことに 
                         
                        よって罪と死から解放される、と。彼自身がダマスコ郊外で復活のイエスに出 
                         
                        会って経験したことでした。 
                         
                         
                        私たちは自分の力で自分に死ぬことは出来ません。自殺さえ自己への執着の 
                         
                        結果です。しかし、キリストが十字架上で神に捨てられる形で死なれた、その 
                         
                        キリストに合わせられる時に、自己への執着(神をも自分の利益の為に利用す 
                         
                        る)という救いがたい罪に止めを刺されるのです。信仰が分かってキリストに 
                         
                        縋るのではなく、信仰が無いから、信仰が無い所まで落ちられたキリストに縋 
                         
                        るのです。 
                         
                         
                        パウロは、私たちが肉にあった時は罪の欲情が五体のうちに働き、死に至る実 
                         
                        を結んでいたが(5)、新しい霊によって神に仕えるようになった(6)、と言い 
                         
                        ます。私たちの義とは、神の霊を戴きつつ、神から与えられた信仰に生きること、 
                         
                        そうすることによって、善い実を結ぶことが出来ます。 
                         
                         
                        日々新たに信仰を、そして愛を、与えて下さい、と祈るものでありたいと思い 
                         
                        ます。                         (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年5月23日(日)ペンテコステ NET集会 
                         
                        「ともし火のたとえ」 ルカ福音書8:16~21 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        ともし火は升や寝台の下にではなく燭台の上に置かれるとのたとえで、イエス 
                         
                        は“光”としての神の言葉は隠されるのではなく、外に向かって照らし出される 
                         
                        べきものだと言われます。真理は一時覆い隠されていても、後に必ず明るみに出 
                         
                        るものであり、神の言葉はまさにそれです。そして、聞いている弟子たちに、神 
                         
                        の言葉を人々に伝えるように促されています。与えられた“光”を自分の中に溜 
                         
                        め込むだけの者は、それを奪われてしまう、「どう聞くかに注意せよ(18)」、と。 
                         
                         
                        母と兄弟たちが会いに来たとき、イエスは「聞いて行う人たちが私の母、兄弟で 
                         
                        ある(21)」と言われました。①種蒔きの譬え(良い地に落ちた種は聞いて実を結 
                         
                        ぶ者である(15))、②ともし火の譬え、③イエスの母と兄弟のエピソードは、一 
                         
                        貫して神の言葉の“聞き方”がテーマなのです。 
                         
                         
                        “聞いて行う”べきだとの教えは、行為主義(功績によって救いを獲得する)を 
                         
                        いうのではありません。生けるイエスを心に迎えて共に歩むことです。「聞く耳の 
                         
                        ある者は聞きなさい(8)」とのイエスの言葉は、“霊の耳”で聴き、“霊の目”で 
                         
                        見ることの重要なことを示唆しています。私たちには日々がペンテコステ(聖霊を受 
                         
                        ける)でなければならないのです。 
                         
                         
                        イエスに聞くことによって、私達は闇ではなく光の中を歩ませて戴けます。与えら 
                         
                        れた場所で、心の闇に悩む周囲の人々にイエスと共にある喜びを伝えたく思います。  
                         
                                                         (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年5月16日(日) NET集会 
                         
                        「立ち上がって前進せよ」 マタイによる福音書5:1~12 
                         
                        講話:犬養光博先生(日本基督教団)、司会:横山宜和 
                        
                              
                        
                        友人の志村真牧師の翻訳によるアメリカのカトリック司祭ジョン・ディア著 
                         
                        「山上の説教を生きる」(新教出版社)に感銘を受けました。イエスの教えに 
                         
                        ある8つの「幸いだ」は、イエスが用いられたアラム語では「立ち上がって前 
                         
                        進せよ」と翻訳されるそうです。「貧しい者は幸いだ」以下を祝福の言葉とし 
                         
                        て受け止める以上に、私たちの出来ること、為すべきことをせよ、とのイエス 
                         
                        のみ心に応じなければなりません。それは、救われるために行いの功績を積み 
                         
                        上げよ、と命じられているのではなく、イエスに出会い、イエスの命に生きる 
                         
                        者とされた以上、イエスと同じ生き様を生きる者とされ、イエスと共なる新し 
                         
                        い生に招かれているということなのです。 
                         
                         
                        
                        この5月15日は松尾道晏さん、道子さんの夫々召天45年、40年の記念日でした。 
                         
                        病に苦しみ、それ以上に罪に苦しんで絶望の淵にあった二人は、山上の説教に聴 
                         
                        いて「立ち上がって前進」した人でした。イエスの十字架の贖いを信じるだけで 
                         
                        いい、他は何も要らないという福音の証人道晏さん、すぐ隣にいる隣人(夫)に 
                         
                        救いの手を伸ばした道子さんは、主にあって生きるとはどういうことか、を教え 
                         
                        てくれています。 
                         
                         
                        
                        私たちも松尾夫妻が持っていた“イエスの感受性”を与えられる者として山上 
                         
                        の説教を生きたく願います。              (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年5月9日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「蒔かれた種の譬え」 ルカによる福音書8:4~15 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                             
                        譬え話の名人イエスによる、ルカ福音書最初の譬え話が「種蒔き」の譬えです。 
                         
                        イエスはガリラヤの民衆と共に歩んだ日常見聞きすることを題材にされましたが、 
                         
                        この有名な譬えも農民なら皆経験することでした。道端に、岩の上に、そして茨 
                         
                        の中にそれぞれ落ちた種は収穫に至らなかったが、良い土地に落ちた種は百倍の 
                         
                        実を結んだ、というのです(5~8)。 
                         
                         
                        続いてこの喩え話の解説が書かれています。収穫に至らなかった種は、み言葉 
                         
                        を聞いても悪魔に奪われる者、試練にあって落伍する者、富や快楽に走る者とされ、 
                         
                        善い心でみ言葉を聞く者は実を結ぶ(11~15)、と。この解説はイエスが話され 
                         
                        たものではありません。直ちに種明かしされるのでは、譬えを用いる意味がなく 
                         
                        なります。これは、ルカの属する教会への警告・訓戒なのです。迫害される等、 
                         
                        信徒への宣教が困難な中にあった教会の状況が反映しています。そしてこの解 
                         
                        説は、現代の私たちも真摯に受け取るべき教訓であります。 
                         
                         
                        イエスがこの譬えで民衆に伝えようとされたことは「神の国の到来」でした。 
                         
                        イエスは日常の生の中に“神の支配の到来”を見ておられ、民衆にその驚き、喜び 
                         
                        を伝えようとされたのです。多くの失敗を乗り越えて、百倍の実りを実現される神 
                         
                        の支配の素晴らしさを。それは、イエスが進み行かれる十字架と復活という、敗北 
                         
                        と勝利を指し示しています。 
                         
                         
                        そして罪の赦しと復活の希望は現実となります。        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年5月2日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「遠くから愛される神」 エレミヤ書23章 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        エレミヤ書23章は、1~8節までと13~32節までが中心になります。5節で、神は 
                         
                        「正しい若枝を起こす。」と言われ、6節では「彼の名は「主は我々の義」と呼ばれ 
                         
                        る。」と言われます。この言葉はイエス・キリストを想起させます。 
                         
                         
                        23節では、「私は近くにいる神なのか~遠くにいる神ではないのか。」との言葉が 
                         
                        あります。この言葉は、様々に解釈がなされてきたようですが、神が遠くにあると 
                         
                        すれば、私たちは神の恵みから遠くにあるということになるのか、いやそうではない、 
                         
                        「私は近きにいます神であって、遠き神ではない。」と訳すべきだとするものもあり 
                         
                        ました。また、「遠くから」すべてを見渡す神であるとする解釈もありました。しかし、 
                         
                        エレミヤは、神の絶対性と神は遠くからでも、いつも私たちを見ておられることを訴 
                         
                        えているのではないかと思います。 
                         
                         
                        神は絶対的な力を示されます。しかし、それと同時にいつもそばにおられるという 
                         
                        ことです。それは、神が人として主イエス・キリストをこの世に送られたことに示さ 
                         
                        れています。 
                         
                         
                        以前、私はイエスの復活にそれほどの意味を感じず、贖罪がなされたことで十分で 
                         
                        はないかと思っていました。しかし、復活によって、イエスは私たちを見守ってくだ 
                         
                        さる存在になりました。現在も、イエスはいつもそばにおられます。主イエス・キリ 
                         
                        ストに祈り、そのことを通して、この苦しい時代をも乗り越えていけるのではないで 
                         
                        しょうか。                          (渕上記) 
                        
 
                         
                        2021年4月25日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「ゼカリヤ書(16) - 日常が聖なるものになる」 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ゼカリヤ書の最終章である14章では、まずエルサレムと諸国民の戦いが預言されま 
                         
                        す。神が自ら戦ってくださり、必ず残りの者が生き残ること。主の足がオリーブ山の 
                         
                        上に立ち、オリーブ山が裂ける(神の都と異邦人との垣根が取り去られる)こと。さ 
                         
                        らには、主が聖なる者たちと共に来てくださることが預言されます。 
                         
                         
                        次に、夕暮れ時になっても光があること、命の水がいつでもどこにでもそそがれる 
                         
                        ことが告げられます。全地は主を神とすることや、神に敵対する人々には腐敗がもた 
                         
                        らされることも預言されます。かつて神と敵対した人も含めて生き残った人々はすべ 
                         
                        て仮庵祭(神の恵みに感謝する収穫祭)を祝うようになることが告げられます。 
                         
                         
                        さらに、馬の鈴や人々の鍋もすべて聖なるものとなること、神殿から商人がいなく 
                         
                        なることが告げられます。これは、日常が聖なるものとなり、聖俗の垣根が撤廃され 
                         
                        ることを告げています。内村鑑三はこのゼカリヤ書14章を根拠に「聖俗差別の撤廃」 
                         
                        を主張しました。平信徒が聖書を学ぶことを最も大切にする無教会の集会は、ゼカリ 
                         
                        ヤに示された神の御心に最もかなうものと思われます。これらのことをゼカリヤ書 
                         
                        14章を通して学びました。2年半に亘りゼカリヤ書を集会で学ぶことができたことに 
                         
                        心より感謝します。                       (鎌田記) 
                         
                         
                        2021年4月18日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「罪ある女の赦し」 ルカによる福音書7:36~8:3 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:遠山博 
                              
                        イエスがファリサイ派の主人に招かれた食事の席に、罪ある女(売春婦)が闖入 
                         
                        します。彼女はイエスの足許に来て、泣きながら足を涙で濡らして髪で拭い、接吻 
                         
                        して香油を塗るという、異常な行為でイエスへの感謝を表したのでした。 
                         
                         
                        汚れた女の為すに任せられるイエスに、主人はイエスが預言者だという噂に疑念 
                         
                        を抱きますが、イエスは譬を用いて彼に答えさせます。帳消しにされた借金の額が 
                         
                        500デナリの者の方が、50デナリの者より感謝が大きい、と。彼女の感謝の大きさ 
                         
                        と彼のイエスを迎える姿勢との違いを指摘されました。 
                         
                         
                        弁済を免除された借金の額の違いは、神の恵みの不平等を表しているのではあり 
                         
                        ません。“神の恵みは絶対である”ことを、どちらの借金もゼロにされたことに見 
                         
                        るべきです。神は全ての人に等しく一方的に恵み給うのです。またイエスは彼女の 
                         
                        愛を、「あなたの罪は赦された(48)」と喜ばれますが、「彼女が多くの罪を赦され 
                         
                        たのは、私への愛の大きさで分かる(47)」とも言われました。愛したから罪が赦さ 
                         
                        れたというのではなく、愛したことで罪が赦されていることが分かる、ということ 
                         
                        であります。即ち、罪の赦しが先行しているのです。   
                         
                         
                        私たちの罪のためにご自身を捧げられたイエスによって、私たちの罪は不問にさ 
                         
                        れました。罪の女の感謝と愛の行為は、私たちが感謝と愛に生きているかを問います。 
                         
                        イエスが喜び給う感謝と喜びのうちに日々歩みたいと思います。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年4月11日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「与えられた場所で生きる」 エレミヤ書22章 
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                        
                        エレミヤ書第22章1節で、神は宮殿に下り言葉を語るようエレミヤに命じら 
                         
                        れます。「下り」という言葉から、宮殿の上にあった場所、神殿で命じられたと 
                         
                        思われます。エレミヤは、神の言葉を携えて宮殿に下りてきたのです。 
                         
                         
                        3節では公正と正義を行うこと、寄留者や孤児、寡婦を虐待しないよう命じら 
                         
                        れます。これは、出エジプト記第22章20節にあったものと同じ言葉です。 
                         
                         
                        11節からは、ヨシヤ王とその後の王たちとの比較が述べられています。ヨシ 
                         
                        ヤは、出エジプト記の時代、モーセが神より授かった言葉に忠実に生きようとし 
                         
                        ました。しかし、ヨシヤ王の死後、その子供たちは自身の快楽を優先しました。 
                         
                        ヨシヤ王について、16節では「彼は苦しむ者や貧しい者の裁きを行い、その時、 
                         
                        幸福だった。それが私を知ることではないのか。」との言葉があります。王には 
                         
                        王としての仕事があり、神に対して公正と正義を行う義務があります。逆に、苦 
                         
                        しむ人や貧しい人は助けを求めても良いのではないでしょうか。 
                         
                         
                        ローマの信徒への手紙第15章のパウロの言葉に「私たち強い者は、強くない 
                         
                        者の弱さを担うべきであり~互いを築き上げるために善を行い、隣人を喜ばせる 
                         
                        べきです。」とあります。この言葉は、主イエス・キリストの教えを指し示すも 
                         
                        ので、希望に満ちた言葉です。                      
                        (渕上記) 
                         
                         
                        2021年4月4日(日) イースター集会 (NET集会併設) 
                         
                        「洗礼者ヨハネとイエス」 ルカによる福音書7:18~35 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤玲子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        。     
                        牢獄にいた洗礼者ヨハネが弟子たちをイエスの許に送って、「来るべき方(即 
                         
                        ちメシア)はあなたですか?」と問います(20)。ヨハネのみならずユダヤの人 
                         
                        々は皆、ダビデ王国を再興してローマの支配から解放してくれるメシア(キリス 
                         
                        ト)の到来を期待していました。ヨハネは獄中でイエスの活動を伝え聞いて、イ 
                         
                        エスのメシア性に疑問を持ったのです。 
                         
                         
                        イエスは「障害のある人が癒され、貧しい人は福音を聞かされている。私に躓 
                         
                        くな(23)」と答えられました。強さを求める者には信じ難いことですが、メシ 
                         
                        アとは弱く、小さな者と共におられる方なのです。これは、イエスの為に道備え 
                         
                        をした最大の預言者ヨハネにさえ、分からない消息でした。 
                         
                         
                        イエスは、ヨハネとイエスの宣教を受け容れないこの世を、子供の遊び「笛吹 
                         
                        けど踊らず」に譬えて、批判されます。この世にあって、イエスが言葉と奇跡で 
                         
                        その消息を教えられた神の国に反逆する罪から脱却できる人は誰ひとりいません。 
                         
                        人は皆、罪の実である死を免れることが出来ません。この罪の問題を解決するた 
                         
                        めに、イエスはご自身を、死ぬべき人間の身代わりとして十字架上に捧げられま 
                         
                        した。 
                         
                         
                        イエスの死が全人類の罪を贖う勝利の業であることが明示されたのが「復活」で 
                         
                        した。ここに、イエスの生前には誰にも分からなかったイエスが「神の子」である 
                         
                        ことが明確にされました。「復活」こそ福音の原点、また中心です。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年3月28日集会 (NET集会併設) 
                         
                        「聖化問題」 ローマの信徒への手紙6:15~23 
                         
                        講話:市村昭三、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        イエス・キリストの十字架による救いを信じることによって義とされた者は、 
                         
                        その「五体」を神に捧げて「聖なる者」となりなさい、とパウロは言います(19)。 
                         
                        「聖なる者」になるとはどういうことか、が「聖化」の問題です。その一つは 
                         
                        恵によって義とされたことをいいことに、放縦に陥るということがあり、他方 
                         
                        「聖化」を重視する余りに自力で行いによって義を獲得しようとする(信仰を 
                         
                        軽視する)という問題があります。そのどちらでもない道を進まなければなり 
                         
                        ません。 
                         
                         
                        「聖なる者」即ち「聖徒」と呼ばれているのは、聖なる生活を送るからではあ 
                         
                        りません。私たち自身は聖なる者でないのに、唯一の真に聖なる人イエス・キリ 
                         
                        ストの故に、神によってそのように認められているものが「聖徒」なのです。 
                         
                         
                        義とされることを「義認」といいますが、関根正雄先生は「義認」と「聖化」 
                         
                        は同時に与えられるものである、と言われ、高橋三郎先生も両者を一体関係に捉 
                         
                        える、とされました。義認と聖化は、絶えず新しく上からいただくものなのです。 
                         
                         
                        罪の奴隷であった私たちの獲得する“実”は死でした。しかしイエス・キリス 
                         
                        トによって私たちは神の奴隷とされ、永遠の命という“実”を与えられました 
                         
                        (22~23)。神の前に立てない罪の塊である私たちに義の衣を着せて、私たちを義 
                         
                        なる者と見ていただける恵に、日々感謝をもって歩むこと、それが「聖化」というこ 
                         
                        とでありましょう。                        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年3月21日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「やもめの息子の蘇生」 ルカによる福音書7:11~17 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                        ナインの町に入ろうとされたイエスは、死んだ若者が埋葬に運び出されるの 
                         
                        に出くわされます。やもめであるその母親を憐れまれたイエスは「もう泣かな 
                         
                        くてもよい」と言われ、息子には「起きなさい」と言って、蘇生させられました。 
                         
                        人々は恐れ、「偉大な預言者が現れた」と、神を崇めたのでした。 
                         
                         
                        この出来事に示されているのは、神の子イエスの深い愛です。イエスは見知ら 
                         
                        ぬ寡婦の悲しみに、腸(はらわた)がちぎれるほどの憐れみを持って、救い出さ 
                         
                        ずにおれない方なのです。女の信仰が問われることなく、依頼された訳でもなく、 
                         
                        イエスの愛は、恵みとして一方的に与えられます。 
                         
                         
                        この若者の蘇生は、イエスの復活を指し示していますが、両者には大きな違い 
                         
                        があります。若者の蘇生は地上の、肉の蘇生であり、イエスの復活は永遠の命へ 
                         
                        の復帰です。若者はいずれ死んだでしょうが、イエスは永遠に生きておられます。 
                         
                        神がお持ちの永遠の命をイエスもお持ちであり(地上におられる間は肉の命も持 
                         
                        たれた)、神は私たちにも永遠の命を与えることを望んでおられるのです。罪の 
                         
                        故に私たちが失ったその命を、イエスは十字架による罪の処分によって、回復す 
                         
                        る道を開いてくださいました。イエスを心の内にお迎えすることにより、今この時、 
                         
                        永遠の命が与えられるのです。 
                         
                         
                        イエスに宿っていただくことは、イエスの復活の命を戴いていること。これに勝 
                         
                        る喜び、感謝はありません。                  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年3月14日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「百人隊長の信仰」 ルカによる福音書7:1~10 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                             
                        一旦イエスの許にユダヤ人の長老たちを派遣して、死の病に冒されている僕の 
                         
                        救いを懇願した百人隊長は、考えを改めて、友人を通して「来てもらうには及ば 
                         
                        ない、お言葉を下されば充分です」とイエスに伝えます。軍隊で権限を預かる自 
                         
                        分の言葉に、部下も服従するのだから、と。 
                         
                         
                        神の権威をお持ちになるイエスの言葉には、遠隔地の病人さえ癒す力があります。 
                         
                        そのことを見抜いた百人隊長の信仰にイエスは「これほどの信仰は見たことがない」 
                         
                        と驚かれました。イエスに面識もない異邦人の百人隊長がどうしてそんな信仰を持 
                         
                        ち得たのでしょうか?「信仰」とは何でしょうか?  
                         
                         
                        百人隊長は、イエスが多くの病を癒されていることを聞いていて、単純率直にイエ 
                         
                        スに問題解決の希望を持ったのでしょう。「信仰」というと、良い業を重ねるとか、 
                         
                        聖書の知識を増すとか、罪を犯さない等の人間になることを考えがちですが、「イエ 
                         
                        スに希望を持つこと」こそ「信仰」である、と教えられます。私たちは様々な苦難に 
                         
                        遭遇しますが、どんな時にも活けるイエスの愛に希望をもって揺るがぬこと、と。 
                         
                         
                        イエスは異邦人に救いを齎されました。イエスの福音はユダヤ人だけにではなく、全 
                         
                        世界に拡がっていくのです。ルカは福音書に続けて使徒言行録(10章にローマの百人隊 
                         
                        長コルネリウスの記事も)を著して、そのことを伝えます。(秀村記) 
                         
                         
                        2021年3月7日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「神への謙遜」 エレミヤ書21章 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門 
                         
                         
                        ゼデキヤ王はエレミヤの元に使者を遣わして、ユダ王国を救うために祈る(預 
                         
                        言する)ように願います(21:1~2)。この時、エルサレムは、すでにバビロン 
                         
                        の王、ネブカドレツァルの軍隊に包囲されていました。ゼデキヤ王たちは、かつ 
                         
                        てユダ王国がアッシリアに攻め込まれた時、預言者イザヤが預言してアッシリア 
                         
                        が多くの死者を出して退却した時のことを思い、エレミヤにイザヤと同じことを 
                         
                        祈る(預言する)ことを期待しました。 
                         
                         
                        アッシリアが攻め込んできた時の王、ヒゼキヤは神に忠実な人でした。「ユダ 
                         
                        の王の中で、ヒゼキヤのようにイスラエルの神、主を頼りとしていた者は後にも 
                         
                        先にもいなかった」と書かれています(申命記18:5)。それに対して、ゼデキ 
                         
                        ヤは形だけの信仰をもっていただけで、神を信頼し神に全面的に帰依する人では 
                         
                        ありませんでした。そのため、エレミヤの預言もエルサレムの陥落を示すもので 
                         
                        した。そればかりではなく、エルサレムを滅亡させるのは、神の意思によって行 
                         
                        われることをも伝えました。 
                         
                         
                        神は、耐えがたいほどの苦しみを与えられることもありますが、その後の救いも 
                         
                        計画されているのです。現代に生きる私達は主イエス・キリストを通して神と繋が 
                         
                        り、神を信頼して生きていくことが大切なのではないでしょうか。(渕上記) 
                         
                         
                        2021年2月28日(日) NET集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(15) 残りの者の精錬」 ゼカリヤ書13章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:山口洋子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        ゼカリヤ書十三章では、まず「罪と汚れを清める一つの泉が開かれる」ことが 
                         
                        告げられます。キリストはいのちの水の湧き出る泉(ヨハネ4:14)であり、私た 
                         
                        ちが持つ神に背き神から逃れようとする傾向(=原罪)と、個々の道徳に背いた 
                         
                        行為(=汚れ)とが、キリストの十字架の贖いを通して清められることが預言さ 
                         
                        れています。 
                         
                         
                         次に、偽りの預言者が取り除かれることが告げられます。今日においても虚偽 
                         
                        を告げる新興宗教や偽の情報を告げる指導者や知識人が後を絶ちませんが、聖書 
                         
                        の偽預言者に対する厳しい言葉(申命記18:20等)に触れる時、私達は偽りの言 
                         
                        葉を避けるべき重い責任があることに気づかされます。 
                         
                         
                         さらに、牧者が打たれ、羊たちが散らされることが告げられます。これはイエ 
                         
                        ス御自身が自らの受難と弟子たちのつまずきの預言として引用されました(マタ 
                         
                        イ26:31)。そうした苦難を経て、少数の残りの者たちは精錬され、神の民とな 
                         
                        ることが告げられます。 
                         
                         
                        金属が精錬されて純化されるように、人は苦難を通して精錬され、神と応答す 
                         
                        る真実の生き方に変えられます。神によって清められ、永遠のいのちを得る時に 
                         
                        、本当の喜びに溢れた意義のある人生を生きていくことができます。そのことを 
                         
                        ゼカリヤ書十三章を通して学びました。             (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2021年2月21日(日) NET集会 
                         
                        「岩の上に建てられた家」 ルカによる福音書6:43~49 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:於保泰正 
                         
                        
                        イエスは「良い木は良い実を、悪い木は悪い実を結ぶ」と教えられました(43~ 
                         
                        44)。実即ち外に顕れる行いによって、木即ち人の良し悪しがわかる、と。また、 
                         
                        「人は、良い倉(心)から良いもの(言葉)を、悪い倉から悪いものを取り出す」 
                         
                        とも言われて(45)、清い心を持つことを求められました。どうすれば清い心を持 
                         
                        ち、良い行いが出来るでしょうか? 
                         
                         
                        また、「家を建てるのに大事なのは土台であり、その土台は私の言葉を聞いて行 
                         
                        うこと」だ(46~49)、とも言われました。洪水に流されない、即ち艱難に耐える 
                         
                        ことが出来る、と。 
                         
                         
                        この二つの譬えから、イエスは良い行いの実践を求める“行為主義者”のようにも思 
                         
                        えます。しかし、イエスは「聞いて」行うことを求めておられます。では、何を聞く 
                         
                        べきなのか?  
                         
                         
                        聞くべきはイエスの福音。十字架上の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何を 
                         
                        しているか分からないのです(23:34)」との言葉です。私たちの罪を赦して十字架に 
                         
                        死に、復活によって私たちに永遠の命を与えて下さいました。この永遠の命に生きる 
                         
                        とき、私たちはイエスにあって清い心を持つことが許され、イエスに倣う良い行いも 
                         
                        可能になるのです。 
                         
                         
                        ぶどうの木であるイエスに、その枝として繋がっている時、私たちは豊かに実を結 
                         
                        ぶことが出来ます(ヨハネ15:1~10)。枝には木からいつも樹液=聖霊が流れます。 
                         
                        日々聖霊を受けつつ歩む人生は、岩の上に建てられた家なのです。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年2月14日(日) NET集会 
                         
                        「人を裁くな」 ルカによる福音書6:37~42 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:光石佐与 
                         
                        
                        「敵を愛せ」と教えられたイエスは「裁くな」と言われます。“裁く”とは善悪の 
                         
                        判断をすることです。神はエデンの園でアダムに善悪の木の実を食べることを禁じ 
                         
                        られました(創世記3:3~5)。善人・悪人の判断(裁くこと)は神がなさること 
                         
                        であって、私達がしてはならないことなのです。この“罪(原罪の思想に繋がりま 
                         
                        す)”によって人間は“命の木”から遠ざけられ、死ぬ者となったのでした。 
                         
                         
                        私達は自分を神の位置に置いて(罪)、人を裁いて止みません。イエスはそのこ 
                         
                        とを譬えで、盲人が盲人を導くに等しく、また兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、 
                         
                        自分の目にある梁に気が付かないようなものだ、と説かれました。イエスが私達に 
                         
                        求めておられるのは罪からの悔い改めです。 
                         
                         
                        イエスは、「人を裁くな、そうすれば、神によって裁かれることはない(37)」と 
                         
                        言われました。私達は“裁く”ことをされなかったイエスの命を戴くことによって、 
                         
                        裁かない者となれます。十字架上で敵を赦されたイエスの恵みによってのみ可能なこ 
                         
                        と、神の赦しのうちに生きる者(裁かれることのない者)とされるのです。努力して 
                         
                        裁かない者になれば、ご褒美として神に裁かれなくなる、というのではないのです。 
                         
                         
                        “赦せ”、“与えよ”(37~38)、とも言われるイエスによって、私達は罪の赦し 
                         
                        と、復活の命を与えられています。その恵みに生かされることが私達の希望・喜びです。 
                         
                                                         (秀村記) 
                         
                         
                        2021年2月7日(日) NET集会 
                         
                        「キリストに生きる」 エレミヤ書20:7~18 
                         
                        講話:渕上明、司会:下田守、奏楽:下田守、渕上吉子 
                         
                        
                        エレミヤ書20章は7節からエレミヤの告白ですが、13節迄の前半と14節からの後 
                         
                        半の部分に分かれています。おそらく書かれた時代も違っていたのではないかと思 
                         
                        われます。  
                         
                         
                        前半では、エレミヤの嘆きの言葉が聞こえます。もはや神の言葉を語ることは止め 
                         
                        ようと思いますが、エレミヤの心の中から語らずを得ない強い思いがこみ上げて来ま 
                         
                        す。エレミヤは生まれる前から神によって預言者となるよう定められていました(1章)。 
                         
                        エレミヤは神の力には逆らえなかったのです。 
                         
                         
                        エレミヤは嘆き悲しみを神に訴えますが、神から離れることはしませんでした。「し 
                         
                        かし主は、恐るべき勇士のように、私と共におられます(11)」「主に向かって歌い、主 
                         
                        を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪をなす者の手から救われた(13)」、と。 
                         
                         
                        14節から、エレミヤは自身がこの世に生を受けたことを呪っています。18節までのエ 
                         
                        レミヤの言葉は、ヨブ記3章のヨブの嘆きの言葉を思い起こさせます。ヨブは、神の圧 
                         
                        倒的な力の前に沈黙することになりますが、ここでのエレミヤの苦しみはまだ続いてい 
                         
                        くことになります。それでも神とのつながりを絶たないエレミヤの姿は、イエス・キリ 
                         
                        ストの到来を預言するものと言えると思います。 
                         
                         
                        イエスは、苦しみの中に死を迎えますが、それは私たちの罪を癒し、新しい命を私た 
                         
                        ちに与えるためでした。そして復活し、今も私たちと共におられるのです。 (渕上記) 
                         
                         
                        2021年1月31日(日) NET集会 
                         
                        「罪に死に、キリストに生きる=洗礼」 ローマの信徒への手紙6:1~14 
                         
                        講話:市村昭三、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ローマの信徒への手紙は5章までの“信仰義人論(人が救われるのは行いによるの 
                         
                        ではなく、信仰による)”に続いて、6章からは“聖化の問題(聖霊の働きによって 
                         
                        人間が罪から救われ、聖なるものとされること)”が採り上げられています。そして、 
                         
                        パウロは先ず“洗礼”について述べます。 
                         
                         
                        洗礼は古くはユダヤ教の一派・クムラン教団よって身を清める沐浴として行われて 
                         
                        いたのですが、洗礼者ヨハネが“悔い改めの洗礼”運動を始め、イエスも受けられま 
                         
                        した。しかし、聖書にイエスが洗礼を授けられたとの記事はありません。  
                         
                         
                        パウロは、洗礼を「キリスト・イエスの死に与る洗礼(6:3)」として、十字架の 
                         
                        イエスと関係付けて宣べました。イエスが十字架に死んで復活されたように、私たち 
                         
                        も古い自分に死んで、新しい命に生きることを、洗礼の意味としたのでした。水に沈 
                         
                        んで死に、水から上がって新生する、と。 
                         
                         
                        教会は受洗を信徒の条件としますが、無教会は洗礼無用をいいます。内村鑑三以来、 
                         
                        洗礼が絶対必要という主張に対しては、そうではないと言い、他方あってはならない、 
                         
                        と言うとすれば、それを絶対化して無教会をセクト化するとします。洗礼は形式では 
                         
                        なく、霊において為されるべきことです。十字架上に私たちの身代わりとなって罪を 
                         
                        赦し給うたイエスの愛を日々受けることが、霊的な洗礼に外なりません。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2021年1月24日(日) NET集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(14)メシアの受難と人々の救い」 ゼカリヤ書12章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                             
                        ゼカリヤ書12章の冒頭では、天地創造の神が人間の霊を創造したことを告げます。 
                         
                        これは人間の霊を創ることが天地創造に匹敵することと、第二のアダム=キリスト 
                         
                        を通じて神の霊が人々にあらためて創造されることを告げています。 
                         
                         
                        次に、杯と石の重しとたいまつのたとえを通じて、神の怒りと贖いの救い、神の 
                         
                        守りの盤石さ、神は悪に打ち克つ炎であることが告げられ、神の民は必ず最終的に 
                         
                        勝つことが示されます。また、信仰を持つ人は弱い者であっても、ダビデのような 
                         
                        王者にして祈りの人となることが告げられます。 
                         
                         
                        最後に、メシアが刺し貫かれる受難の預言と、人々がメシアの受難を通じて「恵み 
                         
                        と嘆願の霊」(新共同訳「あわれみと祈りの霊」)をそそがれることが告げられます。 
                         
                        新約聖書はこれをイエスの受難の預言と受けとめました(ヨハネ19:37)。さらに、そ 
                         
                        れぞれの人各自が、メシアの受難の悲しみを自分自身のものとして受けとめることが 
                         
                        告げられます。 
                         
                         
                        私たちはせっかく人間と生まれながら、罪のために神から離れ遠くへだたっていまし 
                         
                        た。このどうにもならない状況に、イエスが十字架の受難を通して祈りの霊をそそぎ、 
                         
                        神との交わりの中に私たちを取り戻してくださいました。永遠のいのちと救いはその中 
                         
                        にあります。キリストの受難を通した神の救いの業をゼカリヤ書12章を通して学びまし 
                         
                        た。                              (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2021年1月17日(日) NET集会 
                         
                        
                        「敵を愛しなさい」 ルカによる福音書6:27~36 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                         
                        「敵を愛しなさい」とのイエスの教えは、実行の困難さの故に、例外的状況に 
                         
                        のみ妥当する戒めだとされたり、罪人であることを自覚させる為のものだと考え 
                         
                        られたりしてきました。 
                         
                         
                        初代のキリスト者たちは、復活のイエスを記念する日曜礼拝で、生前のイエス 
                         
                        の教えを再受容しました。彼らに衝撃的なことの一つは、十字架上のイエスが、 
                         
                        イエス殺害に加担した全ての人達(大祭司、議員達、総督ピラトやローマ兵等) 
                         
                        のために「父よ、彼らをお赦し下さい(ルカ23:34)」と祈られたことでした。 
                         
                        「侮辱する者のために祈れ(28)」を実行されていたのです。不可能とする人間 
                         
                        の思いを遥かに超えた神の愛が臨んでいたのでした。信徒達はこのイエスの祈りを、 
                         
                        復活のイエスによる恵みの呼びかけ(福音)として聞き取ったに違いありません。 
                         
                        私の命(永遠の命)を受けよ!と。 
                         
                         
                        ステファノはこの教えを実行し(使徒7:60)、信徒たちは、愛敵の教えを引き 
                         
                        継ぐ「苦難に耐え、迫害する者を祝福しなさい(ローマ12:12、14)」というパ 
                         
                        ウロの教えに従いました。この教えの実行によって、300年に及ぶ迫害に耐えたキ 
                         
                        リスト教は、遂にローマ帝国の国教になったのです。 
                         
                         
                         私たちも、神の愛を信じて永遠の命に生かされる時、この愛敵の教えに従え 
                         
                        るのではないでしょうか?「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」との 
                         
                        パウロの教え(ローマ12:19)がその拠り所となりましょう。 (秀村記) 
                         
                         
                        2021年1月10日(日) NET集会 
                         
                        「時がある」 エレミヤ書19章 
                         
                        講話:渕上明、司会:三苫恵子、奏楽:渕上吉子 
                         
                         エレミヤ書19章は悲惨な予言が続きます。その学びは、新年集会にふさわしくな 
                         
                        いようにも思われます。しかし、今私たちの置かれている状況は、エレミヤの時代 
                         
                        と大変似通っていると思われます。 
                         
                        18章ではエレミヤが陶工の許に行き、陶工が思い通りに作ることが出来ないと、元 
                         
                        の土の形に戻し作り直す姿を見ました。19章では、出来上がった陶器を壊してしま 
                         
                        うよう神より命じられます。このことは、ユダ王国が滅亡することを神から示され 
                         
                        たことになります。 
                         
                        今日の聖書朗読箇所は、「コへレトの言葉」の良く知られた「時」についての部分 
                         
                        を選びました。新型コロナウィルス感染症が世界中に広まり、危機的な状況が生ま 
                         
                        れています。こうした中、日本においては、政治家は国民を守ろうとせず、利権に 
                         
                        明け暮れ、責任を誰も取ろうとしません。エレミヤの時代に多くの預言者達がシャ 
                         
                        ローム(平和)を唱えて、人々の人気を得ようとし、現実に向き合うことをしなか 
                         
                        った状況に似ています。  
                         
                        しかし、イエス・キリストを知る私たちは、いずれ神の手が差し伸べ 
                         
                        られることを知っています。その時がいつであるかは、知ることが出 
                         
                        来ません。しかし、必ず来るのです。いまは、落ち着いて主イエス・ 
                         
                        キリストの言葉に従い、共におられるイエスと過ごし、時の来るのを 
                         
                        待ちたいと思います。                (渕上記) 
                         
                         
                        2020年12月20日(日) クリスマス集会(NET集会併設) 
                         
                        「言は肉となって、私たちの間に宿った」 
                         
                                      ヨハネによる福音書1:1~5、14~18 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         ヨハネによる福音書は冒頭でキリストのことを〝言(ことば)″と言います。 
                         
                        「初めに言があった」(1:1)と、キリストが私たちの命の源であることが告げ 
                         
                        られます。そして、キリストが「神と共にあり、万物はキリスト(言)によって 
                         
                        成った」(1~3)との信仰(三位一体)が告白されています。 
                         
                        
                        「言の内に成ったものは、命=人の光であった」(4)とは、キリストが人の 
                         
                        心に宿る時、キリストの命が与えられ、心は光で満たされる、ということ。即ち、 
                         
                        私達の心を占めている闇(罪)が、残る隈なくキリストの光によって照らされ、 
                         
                        キリストの心に置き換えられる、というのです。キリストが私達に代わってサタ 
                         
                        ンに勝利して下さるとは、驚くべきことです。死をもたらすサタン(闇)は、永 
                         
                        遠の命(光)を私達に下さるキリストに勝つことは出来ないからです。十字架と 
                         
                        復活によって、キリストの勝利は明らかにされました。 
                         
                         
                        「言が肉となった」(14)のがクリスマス。神は、私達がキリストと一体になっ 
                         
                        て復活の命に与る道を開いて下さいました。コロナ禍などの様々な闇に覆われてい 
                         
                        るこの世に、キリストの光を仰がせていただけることを感謝し、困窮、悲しみ、不 
                         
                        安の中にある人々に、命と慰めを与え給うキリストが宣べ伝えられることを祈りた 
                         
                        いと思います。                      (秀村記) 
                         
                         
                        子ども会クリスマスはもちましたが、昼食会は止めました。  
                         
                         
                        2020年12月13日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「ゼカリヤ書(13) 真の牧者と偽りの牧者」 ゼカリヤ書11章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        ゼカリヤ書11章はキリストが銀貨三十枚で売られることを預言している驚くべ 
                         
                        き箇所ですが、同時に真実の生き方がどのようなものかが告げられている箇所 
                         
                        でもあります。 
                         
                        
                        まず、冒頭ではレバノンの杉が燃やされることが告げられます。これはレバ 
                         
                        ノン杉などの高級木材を使用したエルサレム神殿が破壊され審判を受けること 
                         
                        の預言と考えられます。 
                         
                         
                        次に、「羊」(=神の民、人々)を大切にせず、商品や道具として扱い搾取 
                         
                        し虐待する「偽の牧者」が示されます。神は偽の牧者を見捨て滅びに任せられ 
                         
                        ます。人々が互いに「好意」と「一致」を失ったので、神も人との間のそれら 
                         
                        を破棄します。全てを金銭に換算してしまう人間の罪は、神の値段すら「銀三 
                         
                        十シェケル」(奴隷一人分の値段)としてしまいます。 
                         
                         
                        最後に、偽の牧者の対照として、真の牧者の生き方が示されます。失われた 
                         
                        ものを訪ね、迷ったものを捜し求め、傷ついたものを癒やし、飢えているもの 
                         
                        を養い、質素に暮らし、人を傷つけない、―これはまさに主イエスの生き方で 
                         
                        した。 
                         
                         
                        イエスは人の魂を金銭には換算できない尊い大切なものとして愛してくださ 
                         
                        いました。銀貨三十枚で裏切られても、十字架において人類の罪を贖いました。 
                         
                        すべてを金銭に換算してしまう人の罪と、イエスの真実の愛とを、ゼカリヤ書 
                         
                        11章を通じてあらためて学びました。    (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2020年12月6日(日) 集会 (NET集会併設) 
                         
                        「神の忍耐」 エレミヤ書18章 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門 
                         
                        
                         エレミヤは神に陶工のところに行くように言われます。陶工は、器が思ったよ 
                         
                        うな形にならなかった時、それを壊し作り変えます。それは、エレミヤ書1章10 
                         
                        節の「引き抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」とい 
                         
                        う神の言葉と繋がります。8節で神は、ユダの民が悪の道から立ち帰るならば、 
                         
                        災いを下すことを思い直すと言われます。 
                         
                         
                        エレミヤがエルサレムの陥落を預言してから数十年が経っていました。エレミ 
                         
                        ヤは周囲の人から嘲笑され、命をも狙われます。神は忍耐強くユダの民が神に立 
                         
                        ち帰ること期待して、ずっと待たれていたのだと思われます。しかし、そのため 
                         
                        にエレミヤは大変苦しい思いをしなければなりませんでした。 
                         
                         
                        神は、怒りをもって災いを下されることもありますが、それ以上に寛容と憐れみ 
                         
                        をもって対応されるのです。 
                         
                         
                        そして、エレミヤが命を狙われる場面が出てきます。以前にもアナトトの人々 
                         
                        から命を狙われましたが、今回の方がより一層危険なものでした。エレミヤは、 
                         
                        神に復讐を祈ります。預言者としての立場を忘れ、一人の人間として祈っている 
                         
                        ように思われます。エレミヤも人の罪から逃れることは出来なかったのです。そ 
                         
                        れは、やがて来られる何の罪もない方が、すべての人の罪を背負って私たちの罪 
                         
                        を贖ってくださるのを待たねばならなかったのです。その主イエス・キリストを 
                         
                        知っていることを心から喜びたいと思います。       (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年11月29日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「幸いと災い」 ルカによる福音書6:20~26 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                         イエスの宣教活動は新しいステージに入り、山から下りて平地で大勢の群衆に 
                         
                        説教されます。マタイ福音書の山上の垂訓と同じく、最初に「幸い」について教 
                         
                        えられました。 
                         
                         
                        先ず幸なのは「貧しい人々」、彼らが幸なのは、神の国が将来彼らのものだから、 
                         
                        と。次は「今飢えている人々」。彼らは満たされる(受身=神の恵み)から。3つ 
                         
                        目は「今泣いている人々」で、笑うようになるから。最後に「迫害される人々」で、 
                         
                        イエス同様弟子たちもユダヤ人に憎まれますが、天に大きな報いがある、と預言者 
                         
                        の受けた迫害に言及されます。 
                         
                         
                        4つの幸いに続いて「富んでいる者」以下、4つの災いが夫々対応して説かれてい 
                         
                        ます。この世での幸は逆転する、と。 
                         
                         
                        貧しいものが幸い、とは常識を覆す教えです。どう受け取ればいいでしょうか? 
                         
                        キリスト教の歴史において天国での報いを信じて多くの人が殉教死を遂げました。 
                         
                        この種の信仰をマルクスは批判して「宗教は阿片」としました。しかし、地上の生 
                         
                        活条件が完璧であれば満足というものではありません。死の問題があります。そし 
                         
                        て誰しも死の彼方の世界があると感じ取っています。聖書は死で終わりではなく、 
                         
                        永遠の命が与えられることを約束しています。イエスはその命が与えられる状態を 
                         
                        「神の国」と言われました。幸とは、神の国に生きること=イエスと共にあること 
                         
                        に他なりません。イエスなくして生きられない者たちこそが幸いなのです。(秀村記) 
                         
                        * 予定していた香西信氏の講話は都合により秀村に交代しました。 
                        
 
                         
                        2020年11月22日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「アダムとキリスト」 ローマの信徒への手紙5:12~21 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                         パウロは、アダムとキリストを対比することによって、神による全人類の救い 
                         
                        とはどういうものであるかを示します。    
                         
                         
                        神がご自身に似たものとして創造されたアダムが、蛇に唆かされて神の戒めを 
                         
                        破ります。神がなぜ罪を犯すことを許されたのか?は謎としか言えませんが、関 
                         
                        根清三氏は、「神が人間の不従順を望まれた、即ち、人間が本当に人間になるた 
                         
                        めに自由が与えられ、その自由を行使して、神から離れて初めて「人格」として 
                         
                        の自分を自覚する」と述べています。人が罪人であることと、自由であることは 
                         
                        矛盾するようですが、パウロは両者を同時に真実なものとして受け取りました。 
                         
                         
                        そして、アダムは罪を犯すことに於いて全人類を代表すると言います。アダム 
                         
                        が一回的に神に背いたことが、我々の中で繰り返されるのであって、アダムの罪 
                         
                        は神に対する全人類の共同責任なのです。それはパウロの体験的事実でした。 
                         
                         
                        そして人間の罪をアダムが代表したように、キリストが代表して示された義に 
                         
                        よって、全ての人が神との和解(罪の赦し)と終わりの日の救いを与えられたの 
                         
                        です。この喜ばしい福音は、罪ある者がそのままの姿で受けることが出来るので 
                         
                        す。私たちはただ受けるだけで良い、この一方的な恵みによって「永遠の命」に 
                         
                        導いていただけるのです。ここに私たちの希望と喜びがあります。感謝の他あり 
                         
                        ません。                       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年11月15日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「十二弟子の選任」 ルカによる福音書6:12~19 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                         弟子を選ぶにあたり、イエスは山に登って徹夜で祈られました(6:12)。祈 
                         
                        りの内容は記されていませんが、一つにはガリラヤでの初期の活動で、多くの民 
                         
                        衆が苦難の中にある様子(17~19)をご覧になって、民衆を癒すべく神の国の福 
                         
                        音を述べ伝える方法を、そしてその為の働き人の選任を具体的な名前を挙げつつ 
                         
                        祈り求められたのでしょう。 
                         
                         
                        選ばれた十二人にユダヤ教の専門家は一人もいません。ペトロ以下多様な、多く 
                         
                        は無学な平民であることは驚きですが、その中にイスカリオテのユダが含まれてい 
                         
                        ることは謎としか言いようがありません。イエスは彼が裏切ることを予知しておら 
                         
                        れたのでしょうか?後から彼が変身したのでしょうか? 
                         
                         
                        初期の活動でファリサイ人などの敵対者が現われたことから、イエスは神の国の 
                         
                        宣教の行きつく先が死に至ることを察知されたと思われます。祈られたことのもう 
                         
                        一つは、弟子がサタンの手先になる可能性について、神にどうすべきかを問われた 
                         
                        のではないでしょうか。そしてユダを弟子とすることが神のみ心(経綸)であるこ 
                         
                        とを示されたのだと思います。 
                         
                         
                        イエスの生涯の目的は十字架に死ぬことでした。苦しむ小さな人々を救い出す為 
                         
                        に、苦しみのどん底に降りて、人を罪から贖い出して下さいました。神を見失うま 
                         
                        でに小さな者となられたのが十字架上のイエス。それを良しとして神はイエスを復 
                         
                        活させられました。私達の救いの寄り拠です。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年11月8日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「主のまなざし」 詩編33編 
                         
                        講話:吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会)、司会:三苫恵子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        1年ぶりの吉村孝雄氏による講話を、徳島聖書キリス集会とNET(ZOOM)で繋い 
                         
                        で伺いました。徳島集会の方々のほか、両集会とNET(ZOOM、SKYPE)で繋 
                         
                        がっている方々も含めると約60人の合同集会になりました。 
                         
                         
                        
                        聖書が示す神は、義と慈しみに溢れた方です(詩編33:4)。神の本質は、憐れ 
                         
                        み、恵み、愛と真実であり、罪を赦し給う、とあります(出エジプト34:6)。 
                         
                        地上は表面的には闇で、戦争や災害が続くとき、私たちはどこに神がおられる 
                         
                        のか?と叫ばずにおれなくなりますが、実は神は、絶えず愛の心をもって支え 
                         
                        て下さっているのです。 
                         
                         
                        私たちは神の愛、本当の愛から離れてしまっています。その状態を「罪」と 
                         
                        言い、私たちは罪から逃れることが出来ません。しかしイエスは十字架上から 
                         
                        愛のまなざしをもって、「汝の罪赦されたり」と言って下さっています。その 
                         
                        神の愛は揺らぐことがありませんから、信じることが出来るのです。 
                         
                         
                        全能の神は全世界の全ての人一人ひとりを、愛のまなざしで見ておられます 
                         
                        (詩33:13)。何と幸いなことでしょうか。 
                         
                         
                        冷たく差別する傲慢なまなざしが世に満ちていますが、愛のまなざしが私たち 
                         
                        に注がれていることを忘れてはなりません。3度も主を裏切ったペトロに、「振り 
                         
                        向いて」罪の赦しのまなざしを注がれたイエス(ルカ22:61)。多くの苦難(コロ 
                         
                        ナも!)の中にあっても、ペトロに注がれた主のまなざしは、私達に向かって消え 
                         
                        ることが無いのです。               (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年11月1日(日)集会 (NET集会併設) 
                         
                        「神を信頼する」 エレミヤ書17章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤玲子 
                         
                        
                         17章は五つの段落に分かれていますが、二つの段落に大きな意味があるように 
                         
                        思われます。一つは「人間の心を知り尽くす神(9~13)」の部分です。富を求める 
                         
                        者の愚かさが記述されています。内村鑑三も「聖書之研究」の中で、財を求める 
                         
                        者の愚かしさを語っています。しゃこの譬え(11)の解釈の中で「財を得て終わ 
                         
                        るところは失望である。」と述べています。 
                         
                         
                        この部分で、もう一つ心に残るところが「主である私が心を探り思いを調べる 
                         
                        (10)」との言葉です。これは、「右の手のしていることを左手に知らせてはな 
                         
                        らない(マタイ6:1~4)」と言われたイエスの言葉を思いださせます。神は私 
                         
                        たちの良い思いも悪い思いもすべて心の奥底までご存じということです。 
                         
                         
                         もう一つの箇所が「エレミヤの嘆き(14~18)」の部分です。エレミヤは人に 
                         
                        嘆こうとはしていません。しかし、神には嘆きの言葉を投げかけます。「あなた 
                         
                        こそ私の逃れの場(17)」と言い、迫害する者への恐れを隠しません。しかし、 
                         
                        根本にあるのは14節の言葉です。「主よ、私を癒してください。そうすれば私は 
                         
                        癒されます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。あなたこそ、私 
                         
                        の誉れだからです。」  
                         
                         
                        神に対する絶対的な信頼を持っていることが何よりも大切であることを教えて 
                         
                        くれます。この姿は、父に祈りを捧げる主イエス・キリストの姿につながってい 
                         
                        きます。
                         (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年10月25日(日)集会 (NET併設) 
                         
                        「安息日の主」 ルカによる福音書6:1~11 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                         レビの宴会で、イエスとファリサイ人との律法に対する態度の違いが浮き彫りに 
                         
                        なりましたが、続いて起こった二つの安息日の出来事で、その違いは一層明確にな 
                         
                        ります。一つはイエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたこと、もう一つ 
                         
                        はイエスが安息日に手の萎えた人を癒された事件です。 
                         
                          
                        安息日を守ることはモーセの十戒の中でも最も神聖な戒律ですが、慣例として細 
                         
                        々なことが禁じられていました。麦を摘んだことは、その一つである「収穫」だと 
                         
                        ファリサイ派の人々に難癖をつけられたのです。イエスは、祭司以外に禁じられて 
                         
                        いた供えのパンをダビデが食べた、との故事を引いて、人の苦痛(空腹)を和らげ 
                         
                        ることを拒むのは、人に休息を与えるという安息日の精神に反するものだと反論さ 
                         
                        れました。 
                         
                         
                        更に、イエス自身の安息日律法違反としてファリサイ人たちが監視していた第二 
                         
                        の事件については、安息日に人を救うことが何故悪いことなのか、と怒りを込めて 
                         
                        言われました。 
                         
                          
                        
天地創造は神の安息をもってひとまず完成されましたが、罪の問題が残った点 
                         
                        で、未完成でした。イエスの十字架と復活によって罪の問題が解決され、神の 
                         
                        創造の業が完成に至るのです。即ち、イエスが述べ伝えた「神の国」は安息の 
                         
                        完成への希望に他なりません。イエスこそが「安息日の主(6:5)」なのです。 
                         
                        私たちは「人の子(メシア)」イエスによって、真の安息(神との和解)に招 
                         
                        かれているのです。            (秀村記) 
                         
                         
                         
                        2020年10月18日(日) 集会(NET併設) 
                         
                        「徴税人レビの召命」 ルカによる福音書5:27~39 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                         「私に従いなさい」とイエスに言われた徴税人レビは、何もかも捨てて直ちにイ 
                         
                        エスに従いました。異邦ローマの手先としてユダヤ人から厳しく人頭税などを取り 
                         
                        立てる徴税人は、私腹を肥やしていたこともあって、罪人として嫌われていました。 
                         
                        ”金がすべて”のレビの心の暗黒に、イエスの愛の光が差し込みました。彼はイエス 
                         
                        のために盛大な宴会を催します。 
                         
                         
                         ファリサイ人や律法学者たちが、イエスの弟子たちに二つの文句をつけました。 
                         
                        第一に、なぜ徴税人・罪人と飲食を共にするか、第二に、なぜ断食しないのか、と。 
                         
                        第一についてイエスは「私が来たのは正しい人ではなく、罪人を招くためである(32)」 
                         
                        と答えられます。イエスの愛は罪人に働きかけて彼らを赦します。レビに喜びが溢れ 
                         
                        ますが、心に高ぶりを持つファリサイ人はイエスとの愛の交わりに与れないのです。  
                         
                         
                         第二についてイエスは、婚礼の客は花婿を前に断食はしない、と自らを花婿に譬え 
                         
                        られます。イエスと共にある飲食は天国の盛大な宴会ですが、ファリサイ人はあくま 
                         
                        で断食の掟にこだわりました。イエスと離れて飲食にふけり、或いはイエスと共にい 
                         
                        ながら喜びを持たぬのは、共に誤りなのです。 
                         
                         
                        イエスの到来によって、ファリサイ人の形式的宗教とは異なる全く新しい福音がも 
                         
                        たらされました。〝新しいぶどう酒は新しい革袋に”入れねばなりません(38)。 
                         
                        私たちは日々、イエスと共なる、新たな喜びに招かれています。 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年10月11日(日) 集会(NET併設) 
                         
                        「ゼカリヤ書(12) 祈りに答える神」 ゼカリヤ書10章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ゼカリヤ書十章では真実の神に祈るべきことと、神は人の祈りに答えてくださると 
                         
                        いうことが告げられます。 
                         
                         
                        まず、神は雨を与えてくださり、雨を神に祈り求めるべきだと告げられます。聖書 
                         
                        において雨は祝福や恵みを象徴的に表しています。虚偽は何ももたらさず、偽りの指 
                         
                        導者に人々が迷わされ苦しめられているけれども、必ず主が人々を顧み、偽りの指導 
                         
                        者たちに審判を下すことが告げられます。 
                         
                         
                        さらに、「隅の石」「杭」「弓」という言葉を通じてメシアの到来が告げられます。 
                         
                        神が共にいる時に、人は勇気と活力と喜びに満ちた「勇士」になり、非暴力の闘いに 
                         
                        より「馬に乗った人々」=暴力に頼る権力者たちを恥じ入らせます。神は一方的な愛 
                         
                        により人々を罪から救い出し、無垢な罪なき立場に人々を回復し、「私は主、彼らの 
                         
                        神であって、彼らに答えるからだ」と告げます。すでに神が人々の罪を贖ったので神 
                         
                        は合図を送り、人々は呼び集められます。神と共に歩む人々は、人生という「苦しみ 
                         
                        の海」を渡り、世俗の権力やサタンから解放され、主なる神によって救われることが 
                         
                        告げられます。 
                         
                         
                        主は聴いて、答えてくださる神です。聖書は、神の呼びかけに応える人間と、人間 
                         
                        の呼びかけに神が答えたことが記された書物です。そのことを、あらためてゼカリヤ 
                         
                        書10章を通じて学びました。                       (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2020年10月4日(日) 集会(NET併設) 
                         
                        「御国にふさわしい者」 エレミヤ書16章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        エレミヤは神から妻子を持つことを禁じられます(1節)。彼が苦難に満ちた生涯 
                         
                        を送るようになることから、神が禁じたとも考えられますが、彼はユダの民と常に一 
                         
                        緒に行動する預言者でしたから、ユダの民に与えられる神からの裁きを知らしめられ 
                         
                        たものとも考えられます。また、弔いに行くことも、世間的な付き合いも禁じられま 
                         
                        す。そうしたことが、エレミヤをいっそう孤独にしたことと思われます。 
                         
                         
                        神の審判の理由が示されます(10~13)が、出エジプト記と同じように帰還するこ 
                         
                        とを神は示されます(14~15)。また、地の果てから諸国民が来て、「人間が神を造 
                         
                        れようか。そのようなものは神ではない」と言う言葉が書かれています(19~21)。 
                         
                        日本では歴史上の人物が神とされ、神社に祀られることが古くから行われていましたが、 
                         
                        当時のユダの国においても、様々な偶像崇拝が行われていました。まさに人が神を造る 
                         
                        状態でした。しかし、今日の私たちは、イエスの言葉によって真の神を知ることが出来 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        神の国は「御国にふさわしい実を結ぶ民」に与えられる(マタイ21章)のです。主イエ 
                         
                        ス・キリストにより、救いの道はイスラエルにとどまらず、世界に広がることとなった 
                         
                        のです。  
                         
                         
                        エレミヤは、苦難の人であり、当時の人には理解されず、涙多き預言者でしたが、 
                         
                        そうした弱さをも救ってくださるキリストに至る道を示してくれているのです。 
                         
                                                        (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年9月27日(日) 集会 (NET併設) 
                         
                        「信仰によって義とされる」 ローマの信徒への手紙5:1~11 
                         
                        講話:市村昭三、司会:小林典子 
                         
                        
                         信仰によって義とされて、神の怒りから解放されたキリスト者はどういう生き方 
                         
                        を与えられるでしょうか?パウロは、神との間に「平和」を得るのだ、と述べてい 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        「平和」はギリシャ哲学にいう「心の平和」ではありません。また、ユダヤ教で 
                         
                        は救いの確信を得るには絶えざる不安や焦り、憎しみの中にあり、決して「平和」 
                         
                        ではないのです。それに対してパウロの言う「平和」は、キリストによって命に満ち 
                         
                        溢れている状態です。そこに希望が与えられます。 
                         
                         
                        パウロは、キリストによって与えられる希望を「誇る」と言います。キリストに 
                         
                        ある苦難は希望を生み出すから、と。「誇り」は人間的尊厳の表現ですが、問題は 
                         
                        何を誇るか、にあります。自分を誇るのか、神を誇るのか、です。「誇り」の対象は 
                         
                        キリストを信じる者の手中にはありません。宗教的自己主張は、自分を誇ること、即 
                         
                        ち、自分を小さな神にするに繋がります。人間の罪の姿です。 
                         
                         
                        キリストの血が流されることによって、神の怒りが鎮められ、神は私たちを 
                         
                        キリストのプリズムを通してしか見給いません。私たちがどんな状態にあっ 
                         
                        ても、神の方で義と認めて下さいます。罪あるままで全く義なるものと認め 
                         
                        て下さるのです。もはや自分が(自分の信仰さえ)問題でなくなります。そ 
                         
                        れが自分に死ぬことであり、自分を離れること、私たちと和解して下さった 
                         
                        「神を誇る」ことなのです。 (秀村記) 
                         
                         
                        2020年9月20日(日) 集会 (NET併設) 
                         
                        「体の麻痺した人の癒し」 ルカによる福音書5:17~26 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                         屋根を剥がして体の麻痺した病人をイエスの前に釣り降ろした人達の信仰を 
                         
                        憐れみ給うたイエスは、病人に「あなたの罪は赦された(20)」と言われます。 
                         
                        罪の赦しはイエスによる恵みであって、彼らの信仰に罪を赦す力がある訳では 
                         
                        ありません。罪の赦しは、人々が信じていた〝病気は罪の結果である”という 
                         
                        因果応報の思想からの解放でもあります。 
                         
                         
                         そこにいたファリサイ派の人達や律法学者が「神を冒涜した、罪を赦せるの 
                         
                        は独り神だけだ(21)」と論じ始めますが、イエスは「起きて家に帰りなさい(22)」 
                         
                        と言って、罪を赦す権限をお持ちであることを顕わされました。イエスは 
                         
                        「〝地上で”罪を赦す権威を持っている(24)」と言われます。天国に行って 
                         
                        から、というのでなく、地上にいて私たちが生けるイエスと共にあることが許 
                         
                        されているのです。 
                         
                         
                         絶望の極みにあった、全身を規定の病に冒された人(12~16)と同様、この体 
                         
                        の麻痺した病人も、イエスに出会って救を得ましたが、その救いは「罪の赦し 
                         
                        =復活」に他なりません。「罪の赦し」こそ福音の中心。イエスの十字架と復 
                         
                        活の目的は「罪の赦し」なのです(ルカ24:46~47)。  
                         
                         
                        なお、〝病人”のではなく、〝釣り降ろした人たち”の信仰を良しとして 
                         
                        イエスが病人を癒し給うたことは、私たちが家族など他人の為にする祈りを、 
                         
                        イエスは必ずや聴き届けて下さる、との嬉しいメッセージではないでしょう 
                         
                        か。                        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年9月13日(日) 集会 (NET併設) 
                         
                        「ゼカリヤ書(11) ろばに乗ってやって来るメシア」 ゼカリヤ書9章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                             
                        本日からゼカリヤ書後半の内容となります。おそらく8章までと9章からの 
                         
                        預言の間には40年ほどの月日が流れていると考えられます(別人の預言とい 
                         
                        う説もあります)。 
                         
                         
                        9章ではまず、異邦人への裁きと彼らも神の民となることが告げられます。 
                         
                        異邦人たちの人間の知恵や富や誇りはむなしく滅ぼされます。しかし、神は彼 
                         
                        らを滅ぼし尽くすことはなく、神の民とし、異邦人をも救うことが告げられます。 
                         
                         
                        次に、ろばに乗ってメシアがやって来ることが預言されます。当時一般的に存 
                         
                        在した軍馬や戦車に乗る王やメシアとは対照的なイメージが語られ、全き平和が 
                         
                        来ることが告げられます。これはイエスのエルサレム入城と最後の一週間を預言 
                         
                        したものとキリスト教の立場からは受けとめられます。 
                         
                         
                        さらに、「契約の血」によって「水のない穴」から人々が救い出されることや、 
                         
                        主は人々の苦難の二倍の恵みを回復することなどが告げられます。ギリシャにイス 
                         
                        ラエルが勝つと預言され、神の民は羊の群れ・王冠の宝石だと告げられます。 
                         
                         
                        塚本虎二は「わたし達は驢馬に乗るイエスに彼の福音を見る」と言いました。 
                         
                        そのとおりで、無教会の非戦論はろばに乗ったイエスの精神の継承と思います。 
                         
                        メシアの方からろばに乗って私達に向かって歩み寄ってきてくださった、その 
                         
                        恵みを、改めてゼカリヤ書9章を通じて学びました。(鎌田記) 
                         
                         
                        2020年9月6日(日) 集会(NET併設) 
                         
                        「神はともにいる」 エレミヤ書15章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤澄子 
                         
                        
                         15章には印象的な言葉がいくつも出てきます。それは、エレミヤの嘆きの言葉と 
                         
                        それに対する神の言葉です。「あなたの言葉が見いだされたとき、私はそれを食べ 
                         
                        ました」とエレミヤは言います(15:16)。この言葉は、「わたしの肉を食べ私の 
                         
                        血を飲む者は私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる」というイエスの 
                         
                        言葉(ヨハネ6:56)を思い起させます。エレミヤは、「あなたの言葉は私にとっ 
                         
                        て喜びとなり、私の心の楽しみとなりました」と、神の言葉を素直に喜んでいるこ 
                         
                        とに感銘を受けます。この時期、エレミヤは人生の中でも最も苦しい時期ではなかっ 
                         
                        たかと思われます。その中でも神の言葉を自分の中に入れ、その喜びを語っている 
                         
                        のです。 
                         
                         
                        
                        エレミヤは、他の預言者とは異なり、苦しみを直接的に神に訴えます。「実にあな 
                         
                        たは、私にとって欺きのようになられました」(15:18)とまで言っています。神の 
                         
                        怒りを招いても不思議ではないところですが、それでも神は、「もしあなたが無価値 
                         
                        なことではなく、尊いことを口にするなら、あなたは私の口のようになる」と言われ 
                         
                        ます。エレミヤは、苦難の人生を送った人でしたが、神に愛された人でした。 
                         
                         
                        
                        「私があなたと共にいてあなたを救い助け出す」(15:20)と神は語られます。私 
                         
                        たちは主イエス・キリストが共にいて苦難の道から救い出されることを信じ、そのこと 
                         
                        を喜びとしたいと思います。             (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年8月2日(日) NET集会 
                         
                        「『創世記に学ぶ(上)』紹介(その3)」 
                         
                            創世記 12:10~20 、創世記 22:1~8 
                         
                        講話:加納貞彦先生(国立聖書研究会)、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子。 
                         
                        
                         神に呼び出されて親族から離れたアブラハムは、少数者として他人の土地で羊 
                         
                        を飼いながら、壮年の人生を過ごしました。人間として偉い面もありましたが、 
                         
                        私たちと同じ弱さや欠点もある人間でした(保身の為2度も妻サラを妹だと偽っ 
                         
                        た等)。彼を彼たらしめているのは、「父の家、親族から離れて私が示す地へ 
                         
                        行け」との召しを受けた時、その召しに応じて、行く先も知らないで出て行っ 
                         
                        たことではないでしょうか。 
                         
                         
                         であればこそ、そのようなアブラハムを神は護って下さったと思います。神は 
                         
                        ご自分が選んで呼び出し給うた者の人間的な成長を見て下さっており、たとえ弱 
                         
                        さや欠点があっても、その人を護り、導いてくださいます。 
                         
                         
                         しかし神はどこかの時点で、人が、自分がこの世で執着しているものから離れて、 
                         
                        神を第一とする(人間的成熟と考えたい)か否かを試みられます。アブラハムが愛 
                         
                        息イサクの奉献を求められたように。私たちも同様に試みられることがあるかもし 
                         
                        れません。あるいはもうあった人もいるでしょう。その試みに、アブラハムのよう 
                         
                        に神を信じて粛々として従う時、それまで自分がこの世で執着していたものを、神 
                         
                        は聖化して、より素晴らしいものとして返されるのだと思います。 
                         
                         
                         この世への執着から離れることが出来ない(罪の)私たちを、イエスはそのまま 
                         
                        の姿で赦して下さるのです。                  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年7月26日(日) 集会(NET集会併設) 
                         
                        「全世界の相続人としてのアブラハム」 ローマの信徒への手紙4:13~25 
                         
                        講話:市村昭三、司会:秀村興子 
                         
                        
                         パウロは、ユダヤ人だけでなく全人類、更には自然も含めた全世界をアブラハ 
                         
                        ムの子孫が相続する、と記します(4:11).。ユダヤ人はアブラハムを自分たちの 
                         
                        救いの父と考えていましたが、パウロは全世界の救いを考え、そして救いが実現 
                         
                        するのはユダヤ教の「律法」遵守によるのではなく、神が約束された救いを「信 
                         
                        じる」ことによる、と力説するのです。 
                         
                         
                         パウロは、ユダヤ人の考える救いの歴史を大きく拡げて示します。ユダヤ人が、 
                         
                        アブラハムを民族の救いの出発点に置いて、ダビデ王国の滅亡が回復することを 
                         
                        展望する歴史観を持つのに対して、パウロは「復活」までを視野の視野に入れるの 
                         
                        です。宇宙の「創造」に始まり、キリスト再臨・復活の終わりの日の「宇宙の完成」 
                         
                        を望んでいる、と申せましょう。 
                         
                         
                        「死者を生かし、無から有を呼び出される神(17)」とは、復活を、特に十字架に 
                         
                        死んだイエスの復活を指し示しています。“この救いは私たちの為なのです。主イエ 
                         
                        スを死者の中から復活させた方を信じる私たちも、義と認められるのです(24)”と 
                         
                        パウロは言います。アブラハムに示され、彼が信じた救いの約束は、イエスの十字架 
                         
                        と復活によって私たちに明確にされました。復活は将来のことで、救いは完成してい 
                         
                        ませんが、終わりの日(再臨の日)に完成するのです。この喜ばしい神の約束を信じ 
                         
                        て歩みたいと思います。                 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年7月19日(日) 集会(NET集会併設) 
                         
                        「二人の病人の癒し」 ルカによる福音書5:12~26 
                         
                        (今日は3ケ月半ぶりのアクロスでの集会(NET集会も併設)だったこと 
                         
                        もあり、裏面記載聖書箇所の前半(規定の病を負っている人の癒し=12~ 
                         
                        16節)を学びました。後半は次回に。) 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                         レビ記で穢れた者と規定された皮膚病の人が、イエスに出会って懇願し、その 
                         
                        病を癒して貰います。触れたら穢れが移る、とされて社会から疎外されていた病 
                         
                        人にイエスは触れて、彼の苦難を身に引き受けられました。イエスの癒しは「清 
                         
                        くなれ」との言葉によって為されます。病人のイエスへの信仰が起点ではあります 
                         
                        が、病人の癒しは彼の信仰によって為されたのではなく、イエスの力(恵み)によ 
                         
                        るものでした。 
                         
                         
                         また、屋根を剥がして体の麻痺した病人をイエスの前に釣り降ろした人達の信仰 
                         
                        を見たイエスは、病人に「あなたの罪は赦された」と言われます。そこにいたファ 
                         
                        リサイ派の人達や律法学者が「神を冒涜した、罪を赦せるのは独り神だけだ」と論 
                         
                        じ始めますが、イエスは「起きて歩け」と言って、罪を赦す権限をお持ちであるこ 
                         
                        とを顕わされました。ここにも、罪の赦しはイエスによる恩恵であることが明示され 
                         
                        ます。 
                         
                         
                         絶望の極みにあった全身を規定の病に冒された人が、イエスに出会って救を得ました 
                         
                        が、その救いは「罪の赦し=復活」に他なりません。「罪の赦し」こそ福音の中心。 
                         
                        イエスの十字架と復活の目的は「罪の赦し」なのです(ルカ24:46~47)。 
                         
                         
                        なお、病人を釣り降ろした人たちの信仰を良しとしてイエスが病人を癒し給うたこ 
                         
                        とは、私たちが家族など他人の為にする祈りを、イエスは必ずや聴き届けて下さる、 
                         
                        との嬉しいメッセージではないでしょうか。         (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年7月12日(日) NET集会 
                         
                        「『創世記に学ぶ(上)』紹介(その2)」 創世記6:1~12:4 
                         
                        講話:加納貞彦先生(国立聖書研究会)、司会:三苫恵子 
                         
                        
                         「ノアの洪水」の原因として創世記は①人間(特に権力者)の性道徳の乱れに 
                         
                        対して神が人間を生んだことを後悔されたこと、②力ある者(動物も)が自分よ 
                         
                        り弱い者を虐げること、の2つを記しています。そしてノアが選ばれたことにつ 
                         
                        いても、①ノアが正しい人であったから、②神の一方的な恩恵による、との2つ 
                         
                        の見方が記されており、創世記の多様性が表れています。そして今日の人種差別 
                         
                        や経済至上主義に基づく自然への暴虐などの問題を考えるとき、コロナウィルス 
                         
                        や自然災害に、ノアの洪水の如き神の警告を見る思いがします。  
                         
                         
                         洪水のあと、神は「二度と全てのものを滅ぼすことはしない」と、考えを変えら 
                         
                        れます。人間の罪に対する方針を変更されたのでした。そして神はアブラハムを選 
                         
                        び、彼が人間としては完全ではないにも拘らず、彼を祝福して護られました。アブ 
                         
                        ラハムの子孫、イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の息子達がこの世に於いて少数派で 
                         
                        あったうちは、神は祝福されたのですが、人口が増えて多数派になると、共同体の 
                         
                        中での人間の罪が明らかになり、モーセを通して人間が守るべき律法を与えられる 
                         
                        ことになります。律法遵守による義の道が開かれました。しかし人はその道を歩む 
                         
                        ことは出来ませんでした。 
                         
                         
                        神はイエスを地上に送り、人の罪を彼に負わせて十字架にかけ、そこに示された 
                         
                        神の赦しと愛を信じる者を義とする「信仰により義とされる」道を開いて下さった 
                         
                        のです。                           (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年7月5日(日) NET集会 
                         
                        
                        「神へのとりなしと祈り」 エレミヤ書14章 
                         
                        講話:渕上明、市会:小林典子、奏楽:渕上吉子 
                         
                         
                        エレミヤ書第14章は、干ばつによる災いと偽預言者について語られています。 
                         
                        どちらも、現代の状況と似ています。新型コロナウィルスによって生活が大きく 
                         
                        変えられ、多くの人々が苦しんでおり、一方、世界の大国の指導者達は、自身の 
                         
                        利益のために政治を行っています。 
                         
                         
                        エレミヤは何度も神にユダの民の罪を許すよう懇願しますが、神は決して許そ 
                         
                        うとはされませんでした。神は「この民のために幸いを祈ってはならない(11)」 
                         
                        とまで言われています。エレミヤは、神の言葉に忠実に生きていく人でした。エ 
                         
                        レミヤは、預言者たちは神が平和を与えられると語っていると訴えますが、それ 
                         
                        らの預言者が偽預言者であることを、神は明白に語られます(13)。エレミヤは神 
                         
                        の言葉に逆らってでも、神とユダの人々との間をとりなそうと懸命に訴えます 
                         
                        (19以降)。神は涙を流してユダの民に訴えるようエレミヤに命じているように 
                         
                        も思えますが、一方で、神がユダの民のために涙を流しているようにも思われま 
                         
                        す(17~18)。 
                         
                         
                        エルサレム入城時のイエスも、エルサレムの行く末をご存じでしたので、エル 
                         
                        サレムのために涙を流されたのでした(ルカ19章)。そこには、罪あるものを赦そ 
                         
                        うとされるイエスの深い愛があります。 
                         
                         
                        この苦しい時代、私達は主イエスを信じ、イエスと共に生きることが、何より 
                         
                        大切なことではないでしょうか。               (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年6月28日(日) NET集会 
                         
                        
                        「預言者エレミヤのまなざし」 エレミヤ書31:31~34 
                         
                        講話:月本昭男先生(東京・経堂聖書会):司会:横山宜和 
                         
                         
                        バビロン捕囚期の預言者エレミヤは、敵王ネブカドネツァルを「主の僕」と呼 
                         
                        んで、ユダヤの民に降伏することを勧めたため、裏切り者だと憎まれた悲哀の人 
                         
                        でした。彼の預言の特質は、人の内面への視座をもっていたことにあります。 
                         
                         
                        3大預言書のなかで最も多く「心」に触れて語ったのはエレミヤです。ユダヤ 
                         
                        人が重視したのは「割礼」でしたが、彼は肉体ではなく「心の割礼」を要求しま 
                         
                        した。「心の悪を洗い清めよ(4:18)」「罪は心の板に刻まれる(17:1)」、と。 
                         
                         
                        心に目を向ける彼は、真実を重んじて虚偽を嫌悪します。「神は真実を求める 
                         
                        が、民の間に真実を求める者はいない(9:2)」と嘆きます。真実を求めない者は 
                         
                        「偶像」を拝んで「虚偽」「欺瞞」に陥って、「偽預言者」に従うのです。 
                         
                         
                        内面への視座は、行為や事柄の量よりも、その質に目を向けます。小悪と巨悪は、 
                         
                        社会的影響力からみれば、同列に論じ難いのですが、質的に見るとき両者の差は失 
                         
                        せます。殺人を犯さなくても、「兄弟に腹を立てる者は裁きを受ける(マタイ5:20)) 
                         
                        とのイエスの教えを想起します。 
                         
                         
                         エレミヤの内面への視座は、「新しい契約」の預言に結晶しました。 
                         
                        神の「ユダの家と新しい契約を結ぶ(31:31)」との約束は、十字架 
                         
                        に示された罪の赦しという、イエスの血による「新しい契約」として 
                         
                        実現したのです。  
                         
                         
                        2020年6月21日(日) NET集会 
                         
                        
                        「最初の弟子の召命」 ルカによる福音書5:1~11 
                         
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                         ガリラヤ湖畔で群衆に教えられるイエスのために船を出したペトロは、イエスに 
                         
                        促されて「深み」に網を降ろしました。船が沈みそうになるほどの大漁に恵まれた 
                         
                        彼は、ひれ伏してイエスに罪を告白します。「あなたは人間を“生かす者”になる」 
                         
                        と言われた彼は、全てを捨ててイエスに従ったのでした。  
                         
                         
                         ペトロの召命は、イザヤの召命を想起します(イザヤ6:1~8)。共にイエス(神) 
                         
                        に出会って罪を告白し、弟子(預言者)として召されたのでした。人は罪を自覚し 
                         
                        てからイエス(神)に出会うのではなく、イエス(神)に出会って罪を知るのです。 
                         
                        「イエスとの出会い」とは何か、を教えられます。 
                         
                         
                         矢内原忠雄は、イエスが網を「深み」に降ろさせたのは、奇跡を用いて弟子を獲得 
                         
                        しようとされたのではなく、①福音を人の心の深み(良心)に伝えるべきこと、 
                         
                        ②目に見える範囲だけではなく、福音は全地に伝えられるべきことを教えようとさ 
                         
                        れたのだ、と述べます。そこに弟子の使命があります。 
                         
                         
                        全てを捨ててイエスに従うことが出来なかった金持ちの青年(マタイ19:16~30) 
                         
                        は、私たちの姿であります。ペトロ達を直ちに従わせたのはイエスの“権威”でし 
                         
                        ょうが、その本質は“愛”。罪と死から救い出し給うイエスの愛に抱かれているこ 
                         
                        とを憶えて、私たちも弟子たちに倣って、人を生かす者として用いられることを祈 
                         
                        りたいと思います。                      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年6月14日(日) NET集会 
                         
                        
                        「地の塩であること」 エレミヤ書13章 
                         
                        講話:渕上 明、司会:村上思門、奏楽:渕上吉子 
                         
                         
                         神はエレミヤにエルサレムから直線で600キロ離れたユーフラテス川に行き亜 
                         
                        麻布の帯を隠すよう命じられます。その後、多くの月日がたった後、再びユーフ 
                         
                        ラテス川に行き帯を取り出すよう命じられます。しかし、帯は傷み使い物になら 
                         
                        なくなっていました。これは、譬え話のようにも思われます。  
                         
                         
                        役に立たなくなるといいう譬えは、イエスの地の塩の話を思い起こさせます。塩 
                         
                        は昔も今も大切なもので、味付けや腐敗の防止など様々なことに使われています。 
                         
                        その力がなくなれば捨てられてしまいます。亜麻布の帯は当時高価なもので、エレ 
                         
                        ミヤが腰に着けるには不釣り合いな感じがするものですが、神はあえてエレミヤに 
                         
                        買い求めさせ、月日が経って取りに行かせたのは、ユダの民がバビロニアに捕囚さ 
                         
                        れ、またユダに帰って来ることを暗示しているように思われます。 
                         
                         
                        神の言葉に従うことをエレミヤは強く主張しています。当時のユダの人々は、バ 
                         
                        ビロニアとエジプトの二大強国との駆け引きでユダの安定を保つことが出来ると考 
                         
                        えていました。エレミヤは切々と神に従うことをユダの民に訴え、涙を流していま 
                         
                        す。エレミヤは民と共に行動し、苦しむ人でした。 
                         
                         
                        イエスの言葉では、「あなたがたは地の塩である」とあります。「地の塩」をど 
                         
                        う解釈するかは人によって違うかもしれませんが、神から与えられた場所でイエス 
                         
                        の言葉に従って生きることの大切さを教えられているように思います。  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年6月7日(日) NET集会 
                         
                        「限界を生きる」 フィリピの信徒への手紙3:12~16 
                          
                        
                        講話:犬養光博先生(日本基督教団)、司会:長澤澄子 
                         
                         
                         召されて10年になる高橋三郎先生にとってのキーワードは「限界」だと言える 
                         
                        でしょう。最初の著作は「ルターの根本精神とその限界」であり、最後に遺言の 
                         
                        如くに残されたのは「パウロの限界」でした。パウロの“法律的思惟形式”を採 
                         
                        り上げられましたが、その陥りやすい問題点は、神のことを全部解ったと思い込 
                         
                        んで自分の考えを神の名において主張すること(宗教的熱狂主義)に顕われます。 
                         
                        それはしばしば恐ろしい結末を齎します。分裂を産み、争いを、遂には戦争に至 
                         
                        るのです。その「限界」の中をどう生きればいいか? 
                         
                         
                         高橋先生はその答えを明示しておられませんが、どんな人の中にも隠されている 
                         
                        福音の働きを大切にしようとされたことを想起します。筑豊の、福音から遠い存在 
                         
                        と思えるような兄弟にも、実に誠実に向き合われました。 
                         
                         
                         フィリピの信徒の中に、自分たちはキリストの者となって、もう完全だ、という 
                         
                        人々がいたようですが、パウロはそんな人々も、神の声を聴いて生きている人々な 
                         
                        のだと肯定します。そして、「私は完全な者となっている訳ではない、神を目指し 
                         
                        てひたすら走る(3:12~14)」のだ、と言い、共に進もう、と呼びかけています。 
                         
                        「限界」は認めつつ、否定しないのです。 
                         
                         
                         私達も一人ひとりが置かれている「限界」を超えて、与えられた十字架の恵み 
                         
                         
                        の中を歩みたいと思います。               (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年5月31日(日) NET集会 
                         
                        
                        「不敬虔な者を義とする神」 ローマの信徒への手紙4:1~12 
                         
                        講話:市村昭三、司会:三苫恵子 
                         
                         
                         人類の罪を暴いたパウロは、「人が義とされるのは、律法の行いによるので 
                         
                        はなく、信仰による」と述べました(3:28)。ユダヤ人特にファリサイ派の 
                         
                        人々は、生活上の細目を決めた律法の数々を守ることによって義とされる、と 
                         
                        していましたが、パウロは信仰によって律法が確立されると言います。  
                         
                         
                        パウロはユダヤ人が父と仰ぐアブラハムについて語ります。彼が義とされた 
                         
                        のは、律法を守ったからではなく、彼の信仰によるのだ、と書かれている(創 
                         
                        世記15:6)、ユダヤ人が律法の中心として重視する割礼をアムラハムが受け 
                         
                        たのは、神によって彼の信仰が義と認められた後ではないか、と。パウロは、 
                         
                        業績(律法の行い)に依り頼むことによって獲得する義を否定します。信仰と 
                         
                        は、業績による自分の義を捨てて、ただ神の恵みによってのみ生きる姿勢なの 
                         
                        です。 
                         
                         
                        更にパウロはユダヤ人の理想の王であるダビデの詩編を引用します。「主に 
                         
                        罪を咎められない人は幸いだ(詩編32:2)」と、神に罪を赦されることが幸 
                         
                        いであって、神の恩恵を受身になって承認することによって義とされる、と言 
                        います。 
                         
                         
                        罪は暴かれることによっては解決しません。罪は覆われることによって解決 
                         
                        するのです(関根正雄)。「キリストの義を着る」と言いますが、神がキリス 
                         
                        トを通してしか私たちを見給わない、という絶対の恩恵が与えられています。 
                         
                        十字架によって不敬虔な者もその恵みに浴しているのです。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年5月24日(日) NET集会 
                         
                        
                        「カファルナウムでの奇跡」 ルカによる福音書4:31~44 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:秀村 興子 
                         
                         
                         カファルナウムの会堂でのイエスの権威ある教えに人々は驚きます。「権 
                         
                        威(=権力)」は、荒野の誘惑で悪魔が栄華と共に与えようと言ったもので 
                         
                        した。イエスの権威は神からのものです。それがあるべき会堂に無かったこ 
                         
                        とが、悪霊に憑かれた男が存在を許されていることで暴露されています。 
                         
                         
                         イエスは悪霊を叱りつけて男を癒されました。シモン(ペトロ)のしゅうと 
                         
                        めの高熱もやはり叱りつけて癒されます。イエスの奇跡の業は、神の権威の顕 
                         
                        われである「言葉」によることが強調されています。悪霊はその権威に触れて、 
                         
                        「イエスの正体を知っている、神の聖者だ」と言いうのでした。悪霊もイエスを 
                         
                        認知するのです。私たちも、イエスを頭で知ることに終わっていないか、信じて 
                         
                        いるか、が問われます。 
                         
                         
                         イエスがなされた“悪霊払い”の奇跡は、私達には俄かに信じ難いことです。 
                         
                        しかし、イエスを信じるようになって病が快方に向かい、或いは癒された方は少 
                         
                        なくありません。古代であれば悪霊払いとされたであろう奇跡は今日も起きてい 
                         
                        ます。活けるイエスが今日も働いておられることに目が開かれる時、私達も奇跡 
                         
                        の経験を証しするものとされます。 
                         
                         
                        イエスの業によって利益を得た人々はイエスを誉めそやし、留まって欲しいと 
                         
                        言いますが、他の町にも神の国を宣べつたえねばならない、とイエスは立ち去ら 
                         
                        れました。福音はユダヤの全土からローマにまで拡がっていくのです。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年5月17日(日) NET集会 
                         
                        
                        「創世記に学ぶ(その1)」 
                         
                        講話:加納貞彦先生(国立聖書研究会)、司会:小林典子 
                         
                         
                        創世記は、アブラハムの時代(前18世紀)からの千年以上の間に出来た伝 
                         
                        承が基となり、成立時代や背景が異なる複数の資料を元にして、それらの資 
                         
                        料間の矛盾を残したまま、バビロン捕囚期(前6世紀)に編集されたものです。 
                         
                        従って多様性に富み、矛盾する内容の思想や文章を含んでおり、ユダヤ教、キ 
                         
                        リスト教、イスラム教を産む素地となりました。 
                         
                         
                        天地創造と人間の創造の物語から始まります。祭司資料による「神は人を自 
                         
                        分のかたちに創造された(1:27)」とあるのは、基本的人権の発想のもとと 
                         
                        なりました。他方ヤハウゥ資料では、「神は土の塵から人を作り、鼻に命の息 
                         
                        を吹き込まれた(2:7)」と、人は身体と霊からなっていて、真に生きるには、 
                         
                        神の霊を必要とすることを教えています。このように複数の資料が相補って素 
                         
                        晴らしい人間観を提示しています。 
                         
                         
                        最初の男と女が「善悪の知識の木」の実を食べた結果、楽園にいた彼らに死が 
                         
                        入り込み、これが人間の定めとなりました。これはキリスト教の「原罪」の思想 
                         
                        に繋がりました。 
                         
                         
                        弟アベルに対するカインの最初の殺人について古来様々な解釈があります。神 
                         
                        がカインの供え物を顧みられなかった理由は語られず、読者に考えさせます。カ 
                         
                        インは自分の供え物がアベルのより劣ると考えたのではないでしょうか?自己中 
                         
                        心の心は他人を、更には神をも自分の利益のために利用しようとし、暴力によっ 
                         
                        てでも実現しようとするのです。            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年5月10日(日) NET集会 
                         
                        「神に委ねる」 エレミヤ書11:18~12:17 
                         
                        講話:渕上明、司会:横山宜和、奏楽:渕上吉子 
                         
                        
                        エレミヤ書11:18からエレミヤの暗殺計画が語られます。それはエレミヤ 
                         
                        の故郷であるアナトトの人々によって計画されたものでした。「預言者は、 
                         
                        自分の故郷では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)というイエスの言葉と共 
                         
                        通します。 
                         
                         
                        エレミヤは神によってそのことを知らされ、一時的には動揺し、神に報復を 
                         
                        願いましたが、神の約束(エレミヤ1:19)により、自らの身は安全であるこ 
                         
                        とを信じていました。「私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のよう 
                         
                        でした(18)」という言葉にイエス・キリストを思い起こします。エレミヤは 
                         
                        「彼らを屠られた羊のように引きずり出し、虐殺の日のために分けておいてくだ 
                         
                        さい(12:13)」と報復を神に願います。預言者がこのように神に願うのは異例の 
                         
                        ことです。神はエレミヤの言葉には関係なく、神の意思により行動されます。 
                         
                         
                        この世には不条理と思われることが多くあります。「なぜ、悪しき者たちの道は 
                         
                        栄え、裏切る者たちが皆、安穏としているのですか(12:1)」と、エレミヤは神 
                         
                        に問いかけます。神は,、神の圧倒的な力を述べられます(12:5)。ヨブ記38章の 
                         
                        神の言葉を思い起こさせます。 
                         
                         
                        エレミヤは「私があなたと争うときも、正しいのは、主よ、あなたです(12:1)」 
                         
                        と述べています。神の正しさを信じて生きていくことの大切さ。そのことはエレミヤ 
                         
                        の後、主イエス・キリストを通して明らかにされて行くのです。(渕上記) 
                         
                         
                        2020年5月3日(日) NET集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(10)神の祝福と平和の種」 ゼカリヤ書8章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        ゼカリヤ書8章では、神の側からの一方的な救済と祝福が告げられ、異邦 
                         
                        人にも神への信仰が広がることが記されます。 
                         
                         
                        まず、神が熱情に駆られエルサレムに帰還し、平和が回復され、全地の民 
                         
                        が救われ神の民となることが告げられます。 
                         
                         
                        神殿を再建するための基(隅の親石)が据えられた後は、それまでと違っ 
                         
                        て甲斐あるいのちとなること。平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、 
                         
                        天の露が降り、残りの者がそれらを受け継ぐこと。かつての災いが幸いに変 
                         
                        わること。勇気を出すべきことが告げられます。断食は喜びに変わり、諸国 
                         
                        民が神の教えを慕うようになることが預言されます。 
                         
                         
                        これらはゼカリヤの時代においては、神殿再建後のことと受けとめられた 
                         
                        ことでしょう。しかし、新約に照らす時、「平和の種・ぶどうの木」はメシ 
                         
                        ア預言と受けとめられます。 
                         
                         
                        種は聖書の言葉であり、福音です。平和の種(福音)を自らの心に蒔き、 
                         
                        よく守る。そして、他の人々にも、結果をあまり期待せずに、神の言葉を蒔 
                         
                        き続ける。ぶどうの木に留まり、神を愛し隣人を愛する。その時、天の露 
                         
                        (神の祝福と恵み)はそそがれ続ける。「今の世にも、恩恵の選びによる残り 
                         
                        の者がある。」(塚本虎二訳ロマ11:5)神の一方的恵みにより、残りの者で 
                         
                        あることのありがたさを、あらためゼカリヤ書8章を通じて学びました。 
                         
                                                    (鎌田記) 
                         
                         
                        2020年4月26日(日) NET集会 
                         
                        「ガリラヤでの宣教開始」 ルカによる福音書4:14~30 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        悪魔の試みに勝利されたイエスは、ガリラヤに帰って宣教活動を始められ 
                         
                        ます。ガリラヤ湖畔の街カペナウムを中心にイエスの噂が一帯に拡がりました。 
                         
                        イエスは故郷ナザレの会堂での安息日礼拝で、渡された聖書を朗読されます。 
                         
                        “主の霊が私に臨み、貧しい人に福音を告げるべく私に油注ぎがなされた。 
                         
                        弱い人々を解放し、主の恵みの年を告げるために(イザヤ61:1~2)”、と。 
                         
                        恵みの年は、解放の喜びが与えられる“ヨベルの年”を意味し、イエスの到来 
                         
                        によって社会的弱者に喜びの時、解放の時が来たことが明らかにされます。そ 
                         
                        して会堂に集まっていた人たちに「あなた方がこれを聴いた今、預言の言葉が 
                         
                        成就した」と言われたのでした。 
                         
                         
                        肉に於いてイエスを熟知しているナザレの人々は、他の街でなくナザレに利益 
                         
                        を齎すことを求めますが、イエスは拒否されます。イエスの宣教活動は偏狭な地 
                         
                        域主義、民族主義を超えて、全世界を視野に入れる普遍的なものなのです。 
                         
                         
                        神の救いは異邦の地に向かう、と言うイエスに激怒した人々は彼を殺そうとし 
                         
                        ます。イエスは宣教開始と共に受難の道を歩み始められました。それは十字架を 
                         
                        暗示しています。 
                         
                         古い肉に着ける私たちの自己中心の心は、神に背き、敵対してやみません。イ 
                         
                        エスを殺そうとしたナザレの人々に、私たちの罪を見ます。罪からの解放(ヨベ 
                         
                        ルの年)の喜びを与えてくださるイエスの福音に生きたいと願います。(秀村記) 
                         
                         
                        2020年4月19日(日) NET集会 
                         
                        「悪魔の試み」 ルカによる福音書4:1~13 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                         
                        イエスは神の国の宣教活動を始める前に、荒野で悪魔の試みを受けられます。 
                         
                        「霊によって」とある通り、それは神が導かれたことであり、40日間神はイエ 
                         
                        スと共におられました。 
                         
                         
                        3つの試みは「神の子」とは何者なのかを巡るものです。最初はパンの問題。 
                         
                        悪魔は空腹を覚えられたイエスに石をパンに変えることを誘います、「神の子な 
                         
                        ら」と言って。イエスにとって貧しい者を救うことは大きな課題です。イエスは 
                         
                        自らの、また民の必要を満たすために奇跡を行うことを拒否して、神に対する無 
                         
                        条件の信頼と絶対の服従を貫かれました。 
                         
                         
                        次は、この世の支配権の問題です。ローマ帝国圧制下のイスラエルを救うこと 
                         
                        はイエスに期待されることです。悪魔を拝むことによって、悪魔が握っているか 
                         
                        に見えるこの世の権力を入手することへの誘惑を、イエスは拒否されます。更に 
                         
                        悪魔は、神殿の端から飛び降りて天使に救わせよ(詩91:11)と、神を試みるこ 
                         
                        とを求めますが、イエスは拒絶されました。   
                         
                         
                        イエスは、夫々の試みに申命記の言葉で応じておられます。「人はパンだけで 
                         
                        生きるのではない(8:3)」、「主を拝み、ただ主に仕えよ(6:13)」、「主 
                         
                        を試してはならない(6:16)」、と。イエスの神への従順は揺らぐことがありま 
                         
                        せんでした。 
                         
                         
                        宣教活動開始前におけるこの悪魔に対する勝利は、イエスの復活を暗示していま 
                         
                        す。悪魔の持つ究極の武器は死ですが、復活は十字架の死に対する勝利に他なりま 
                         
                        せん。                           (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年4月12日(日) イースター集会 
                         
                        「神を愛する」 エレミヤ書10~11章 
                         
                        講話:渕上明、司会:三苫恵子、奏楽:渕上吉子 
                         
                        
                        10章の初めに偶像崇拝は案山子を崇拝するようなものであるとの神の言葉 
                         
                        があります。出エジプト記でも人々が金の子牛を造って、神として崇めました 
                         
                        (出エジプト32:2)が、どんな熟練工がきらびやかに造ろうとも、偶像には 
                         
                        何の力もありません。人の欲望、利益追求から生まれたものです。 
                         
                         
                        「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる(11)」 
                         
                        との神の言葉があります。この言葉は、当時の国際語でバビロニアの人々も理解 
                         
                        できたアラム語で語られています。神の力が、全世界に及ぶことと、まことの神 
                         
                        を知ることの大切さが述べられています。 
                         
                         
                        エレミヤは、災いは私の病、私はそれを負わなければならないと言い(19)、 
                         
                        ユダ王国の人々と共に苦しんでいます。このことは、主イエス・キリストがわた 
                         
                        くしたちの罪のために苦しまれたことを思い起こさせます。エレミヤは「主よ私 
                         
                        を懲らしめてください。しかし、あなたの怒りによらず、ただ公正によって(24)」 
                         
                        と祈っています。神は正しいことをなさる存在であり、このユダの人々への災いも、 
                         
                        正しい道に導くための神の計画であると信じ祈っているのです。 
                         
                         
                        私達は自らの力のみに頼り、正しく判断することは出来ません。何よりも、神の 
                         
                        正義を信じて生きていくことが大切なものになります。そのことは、主イエス・キ 
                         
                        リストが身をもって、私達に教えて下さったことでもあります。 (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年4月5日(日) NET集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(9) 断食と社会正義
―その行いは神のためか」 ゼカリヤ書7章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:小林典子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ゼカリヤ書7章では、第1章の時から二年が経過し、新たな預言が告げられ 
                         
                        ます。それまでの八つの幻と異なり、具体的な断食という行いに関し神と人 
                         
                        との間に問答が行われます。 
                         
                         
                        まず、ベテルからエルサレム神殿に派遣された人々が、これからも断食を続 
                         
                        けるべきか問います。当時、バビロン捕囚から帰還したユダヤの民は、バビロ 
                         
                        ニアによって滅ぼされた歴史などを記念し断食を行っていました。 
                         
                         
                        その問いに対し、主はゼカリヤを通して、本当に神のために断食してきたのか、 
                         
                        自分のために飲食してきただけではないか、と問い返します。 
                         
                         
                        さらに、主はゼカリヤを通して、かつて多くの預言者を通じて、真実・慈し 
                         
                        み・公正・憐れみを主が求め、寡婦・孤児・寄留者・貧しい人々の保護を主が命 
                         
                        じたのに、ユダヤの民は頑なに聞き入れなかったこと、それに対し神の審判が行 
                         
                        われ、離散と滅亡の事態に至ったことが告げられます。 
                         
                         
                        神は形式的な断食や行いは喜びません。まことの生きた信仰は必ず愛の実を結 
                         
                        びます。神への絶対信頼(信仰)と隣人愛は車の両輪であり、キリストの十字架 
                         
                        によって神との生きたつながりにあずかる時、人はおのずと社会正義を配慮します。 
                         
                        神とつながり、神のために生きているか。そのことをゼカリヤ書第七章を通じて 
                         
                        学びました。                                   (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2020年3月29日(日) 集会 
                         
                        「神の子イエスの受洗」 ルカによる福音書3:21~38 
                         
                        
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                         
                        イエスがヨハネから受洗されると、「あなたは私の愛する子」との声がし 
                         
                        ます。それはイエスの祈りに応えて聖霊が降ると共に、人々にも聞こえたの 
                         
                        でした。イエスが「神の子」であることを神ご自身が宣言されたのです。 
                         
                         
                        罪の無いイエスに“悔い改め”の洗礼が要るのか、疑問に思いますが、ル 
                         
                        カ福音書では「民衆が皆洗礼を受けていると」とあり、受洗のイエスは民衆 
                         
                        と同じ姿になられたことを示しています。イエスは「神の子」でありつつ同 
                         
                        時に「人の子」であり、弱い人間の罪を負われるに至るのです。罪無き「神 
                         
                        の子」の受洗は十字架を予表するものでありました。  
                         
                         
                        ルカは「祈りの福音書記者」と称せられますが、出処進退の重大な節目は 
                         
                        もとより、折に触れて祈られるイエスを描いています。天に届ける祈りへの 
                         
                        応答として天から聖霊が降ります。私たちは自力での問題解決を図ろうとし 
                         
                        ますが、祈りの大切さと、弱い所に聖霊が働き給うことを教えられます。 
                         
                         
                        イエスが「神の子」であることを示すべく系図が提示されますが、神から 
                         
                        イエスに至る間に2つの断絶(神とアダム、ヨセフとイエス)があります。 
                         
                        イエスは肉によればアダムから出ていますが、霊によればアダムからヨセフ 
                         
                        に至る連続的系列を超えて、直接神より出たのです。同じくアダムから出た 
                         
                        私たちも霊においては「神の子」です。神の恩恵の系図の中に生かされてい 
                         
                        ることを感謝せずにおれません。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年3月22日(日) 集会 
                         
                        「信仰による義」 ローマの信徒への手紙3:21~31 
                         
                        講話:市村昭三、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        全人類が罪人であることを述べてきたパウロは、「しかし今や神の義が現 
                         
                        されました」と言います。イエス・キリストの到来によって全く新しい世界 
                         
                        が始まっている、と。それは新たな宇宙の原理の開始ともいえる事態ですが、 
                         
                        “律法”と預言者(つまり旧約聖書)によって予表されていたことでした。 
                         
                         
                        律法の精神は本来、神の戒めを喜んで守るということにあったのですが、 
                         
                        ユダヤ人はバビロン捕囚で崩壊した自分たちの共同体を立て直す為に、律法 
                         
                        を彼らの自己安心の道具に変えてしまいました。律法を守る者が義人で、 
                         
                        “神の義”は律法順守、即ち人間が努力して獲得するものとなっていたのです。 
                         
                         
                        しかし、新たな神の義が現された、それは“キリストの真実”だというので 
                         
                        す。“真実”は“信仰”とも訳せる言葉(ピスティス)ですが、キリストが持 
                         
                        っている真実が私たちを救うのであって、私たちの信仰や律法順守の行いが私 
                         
                        たちを救うのではないのです。私たちの内側(信じる心など)にではなく、外 
                         
                        側(キリストが神に対して真実であること)に救いがあるというのですから、 
                         
                        一方的な神の恵みに他なりません。 
                         
                         
                        イエスの真実に依り頼む者を義とされる神は、罪を放置される訳ではありま 
                         
                        せん。罪の処分を厳密に行われます。人間の罪をご自身の御子に負わせて神の 
                         
                        義を貫徹されたのです。私たちの罪が十字架上に贖われました。罪あるままに 
                         
                        私達を救い給う十字架に、神の義と愛が示されています。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年3月15日(日) 集会 
                         
                        「先駆者ヨハネの宣教」  ルカによる福音書3:1~21      
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        荒野でヨハネが宣教を始めます。人々の眠っている良心を呼び覚まして、 
                         
                        悔い改めを求めました。即ち、心身の汚れを洗い流す禊ではなく、心の根源 
                         
                        にある罪を問うたのです。群衆に「毒蛇の子らよ」と迫ったばかりでなく、 
                         
                        支配者ヘロデ・アンティパスを憚ることなく断罪して、投獄された程でした。 
                         
                        それはイザヤが預言していた先駆者の役割=待望されていたメシア・神の子 
                         
                        イエスの到来のための道を備える=でした。 
                         
                         
                        彼は、群衆には貧しい中にあっても分かち合うことを、徴税人には法外な 
                         
                        徴税をせぬこと、兵士には給料で満足することを求めます。“悔い改めの実” 
                         
                        として貪りを戒めたのでした。 
                         
                         
                        矢内原忠雄は、救いには ①罪の赦しを求める自覚が起こる ②悔い改め 
                         
                        て生活態度の転換を求める ③罪が赦されたという平安を確信する ④この 
                         
                        新生が永遠の生命に至る実を結ぶ という4つのプロセスがあると述べ、③④ 
                         
                        はイエスにしか出来ない事であり、ヨハネの役割は①②である、と述べていま 
                         
                        す。古来多くの預言者が、漠然とメシアや先駆者の出現を預言しましたが、彼 
                         
                        はメシアを眼前にした最初で最後の預言者です。イエスが③④を聖霊によって 
                         
                        与え給う神の子だと見破ったヨハネの慧眼は聖霊によって開かれたのでしょう。 
                         
                         
                        ヨハネに出会うとき、私たちも日々の悔い改めを迫られます。そしてイエス 
                         
                        の十字架を仰ぐとき罪赦されて、聖霊が降り給い、その恵みに浴させて戴くこ 
                         
                        とができます。                 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年3月8日(日) 集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(8)ヨシュアの戴冠 ―好意の記念としての冠」   
                         
                                          ゼカリヤ書6:9~15 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ゼカリヤ書六章後半では、それまでに述べられた八つの幻のまとめと 
                         
                        して、大祭司ヨシュアの戴冠が記されます。 
                         
                         
                        まず、捕囚から帰還した三人の人物の贈り物から冠をつくり、ヨシュ 
                         
                        アにかぶらせることを神が命じます(東方の三博士の予表)。若枝(メ 
                         
                        シア)が主の宮を建て王座に着いて治め、その傍らの祭司と平和への思 
                         
                        いが一致することが示されます。 
                         
                         
                        さらに、冠は「好意の記念」であり、遠方の人々が来て主の宮を建て、 
                         
                        主の声を心して聞き、神の言葉に耳を傾けるようになることが告げられ 
                         
                        ます(異邦人・万人の救い)。 
                         
                         
                        旧約のゼカリヤ書では、戴冠するのは歴史上の特定の人物であるヨシュ 
                         
                        アです。しかし、新約の光に照らせば、大祭司イエスの贖い(ヘブライ 
                         
                        2:17)を信じる全ての人は祭司です(Ⅰペトロ2:5、9、黙1:6、同 
                         
                        5:10)。冠は永遠のいのちと義認を意味します(黙2:10、ヤコブ1:12、 
                         
                        Ⅱテモテ4:8、Ⅰペテロ5:4、Ⅰコリ9:25)。さらには、私たちはキリ 
                         
                        ストとともに王となります(Ⅱテモテ2:12(塚本訳))。 
                         
                         
                        私たちは、キリストの茨の冠と十字架の贖いによって、罪を赦され、義 
                         
                        と命の冠が約束されています。神の子・祭司・王となり、キリストの平和 
                         
                        をいただくという、はかりしれない「好意」(原語「ヘン」=恵み)を受 
                         
                        けています。そのことをゼカリヤ書第六章後半を通じて学びました。(鎌田記) 
                        
 
                         
                        2020年3月1日(日) 集会 
                         
                        「知恵と信仰」 エレミヤ書9章 
                         
                        講話:渕上 明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        エレミヤ書9章には二つのポイントがあります。一つは、「知恵あるもの 
                         
                        は自分の知恵を誇るな。誇るものはただこのことを誇れ。悟りを得て、私を 
                         
                        知ることを。(22、23)」です。内村鑑三もこの言葉を「実に偉大なること 
                         
                        ば」と述べています。頭脳の明晰なことは悪いことではありません。しかし、 
                         
                        そのことを誇ることが悪いことであり、知恵がかえってその人を破壊する危 
                         
                        険性を備えています。では何を誇ったら良いのか。それは、神を知ることで 
                         
                        ある、といいます。 
                         
                         
                        もう一つのポイントは、「イスラエルの家は皆、心に割礼を受けていないか 
                         
                        らだ。(25)」という言葉です。ユダヤの民は割礼を受けているわけですが、 
                         
                        形の上で割礼を受けていても、心に割礼を受けていなければ無意味である、と 
                         
                        述べられています。内村鑑三は、洗礼に関しても同じである、と言います。日 
                         
                        本においては、神社仏閣に参拝し祈りますが、それは形式的なものであり、真 
                         
                        の祈りとは言えないものです。人は自らの無力を知り、真の神の存在を知るこ 
                         
                        と、神は正義を行われることを信じ、その神を知っていることを誇りに思うこ 
                         
                        とが大切であることをエレミヤ書第9章は教えてくれます。 
                         
                         
                        また、割礼や洗礼は、それを形の上で受け入れるのではなく、心に受け入れ 
                         
                        ることが大切であり、そうした形式よりも、謙虚に神と共に歩むことが何より 
                         
                        も重要であることを教えてくれます。        (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年2月23日(日) 集会 
                         
                        「神殿奉献と少年イエス」 ルカによる福音書2:22~52 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤玲子 
                         
                        
                        長子は聖別されねばならないとの律法の規定に従い、敬虔なヨセフ夫婦 
                         
                        は誕生40日目にイエスを神殿に連れて来ます。時に神殿の境内にいた老人 
                         
                        シメオンが、幼子を腕に抱いて神を賛美しました。「この目であなたの救 
                         
                        いを見たので、安らかに死ぬことが出来る」、と。彼は、メシアを見るま 
                         
                        では死ぬことがない、と聖霊に示されていたからでした。 
                         
                         
                        そして、「イエスは万民の救いであり、啓示の光、イスラエルの栄光で 
                         
                        ある」と言い、併せてマリアに「イエスは人々から反対を受けるしるしと 
                         
                        して定められている」とも預言したのです。「剣があなたの魂さえも刺し 
                         
                        貫くだろう」、と。女の老預言者アンナも人々に幼子による救いの到来を 
                         
                        語りました。 
                         
                         
                         イエスの到来によって、多くの人の心の真相が顕わにされます。イエスに 
                         
                        従う者が出る一方で、逆らう者が出現します。イエスは悲哀の人となり、マ 
                         
                        リアも悲哀の母となる、とシメオンは聖霊によって十字架を指し示したのでした。 
                         
                         
                        12歳のイエスが過越祭の帰途に両親とはぐれますが、神殿で学者達と驚くべ 
                         
                        き賢さで話し合っていました。「私は父の家にいて当然ではないか」、と両親 
                         
                        に言った彼には“神の子”としての自覚が芽生えていたのでしょう。しかし30 
                         
                        歳まで“大工の子”として、ナザレの田舎で神と人に愛される普通の人として 
                         
                        成長されました。その間自然、家庭、労働と(旧約)聖書に学ばれたことを、心 
                         
                        に留めたいと思います。                (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年2月16日(日) 集会 
                         
                        「イエスの誕生」 ルカによる福音書2:1~21 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        「イスラエルを治める者が出る」と預言されていた(ミカ5:1)ダビデ 
                         
                        の町ベツレヘムで、宿に居場所無く生まれたイエスは、布で包まれて飼い葉 
                         
                        桶に寝かされました。 
                         
                         
                        ナザレの住人であるヨセフとマリアがベツレヘムに旅したのは、軍事力を 
                         
                        持ってローマ帝国を支配した皇帝アウグストゥスの勅令によるものでしたが、 
                         
                        図らずも平和をもって全世界を治める真の支配者の誕生を演出したのでした。 
                         
                        それは普通の人としての誕生でしたが、馬槽に臥すことが、民に大きな喜び 
                         
                        を齎す救い主を見出すための“しるし”となりました。 
                         
                         
                        その夜、野宿していた羊飼い達に天使が現れて、恐れる彼らに大いなる喜び 
                         
                        として救い主・主メシアの誕生を告げます。更に天の大群が「至高所には栄光 
                         
                        神にあれ、地には平和み心に適う人に」と合唱して、神を賛美し、幼子誕生の 
                         
                        深遠な意味を示します。羊飼い達は、天使が語ったとおりの救い主誕生の出来 
                         
                        事を確認して、人々に告げ知らせたのでした。 
                         
                         
                        当時の羊飼いは、律法を守れない者として人々から蔑まれていました。神の子 
                         
                        の到来という、歴史を切り開く驚くべき出来事が、貧しく小さい人々にだけ明か 
                         
                        されたことを、心に刻みたいと思います。最初の伝道者が彼らであったことも。 
                         
                         
                        この夜「栄光神に、地に平和」は天使達しか知りませんでした。しかしイエスの 
                         
                        十字架と復活の後、この真理は全地を覆っており、私たちがその賛美を合唱するの 
                         
                        です。                            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年2月9日(日) 集会 
                         
                        「ユダヤ人と律法」 ローマの信徒への手紙3:1~20 
                         
                        
                        ユダヤ人が最も大切にしている律法(特に割礼)を役に立たないものだ 
                         
                        (2::17~29)、と言ったパウロは、それでは律法の意義は何か?と議論 
                         
                        を進めます。ユダヤ人を選んで律法を与えられた神は間違ったことをされ 
                         
                        たのではない、と。 
                         
                         
                        律法の意義は第一に、神の言葉が与えられたことにあり、特に神の「約束 
                         
                        の言葉」は素晴らしい恵みである。第二には、人は皆偽り者であることを明 
                         
                        らかにしたこと(後述)、第三には「神の義」が明らかにされたことにある、 
                         
                        神の義は、救いが裁きという形を通して顕われるところにある、裁きにおい 
                         
                        てこそ愛であり給う、と述べます(3:1~8)。 
                         
                         
                        律法の無い異邦人世界に罪は存在しない、といいます(19~20)。悪とか 
                         
                        道徳的な不完全とかはありますが、神の前の罪はありません。神の前の「絶 
                         
                        対的罪」は聖書の世界だけにあるのです。聖なる神の律法に絶えず反抗して 
                         
                        やまない人間の姿に、パウロは罪の根拠を示しています(上記第二点)。 
                         
                         
                        「律法によって罪が知られる」、即ち律法が分からずしては罪は分からない、 
                         
                        といいますが、そのことは実は、神に面接しなければ分からないのです。そし 
                         
                        て神ご自身が私たちと面接して下さる場所は十字架なのです(関根正雄)。 
                         
                        イエスの十字架において、神は私たちを裁き給う(義)と同時に赦し給います 
                         
                        (愛)。そのような神を仰ぐとき、私たちは底抜けの明るさと喜びのうちに生 
                         
                        きることが出来るのです。                (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年2月2日(日) 集会 
                         
                        「エレミヤの涙」 エレミヤ書8章 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        エレミヤ書8章は7章を踏襲したものとなっていますが、より深く民の罪 
                         
                        について語っています。 
                         
                         
                        「わが民は主の法を知ろうとしない(7)」との言葉は人間の原罪を想起 
                         
                        させます。また、人間の知恵によって律法を解釈し、神の真の思いを捻じ曲 
                         
                        げてしまっていることに対してもエレミヤは言及しています。自らの知恵で、 
                         
                        善をなし悪を行わないでいることは出来ないことは、パウロが明らかにして 
                         
                        いるとおりです(ローマ7:14)。 
                         
                         
                        また8章にはイエス・キリストの到来を予告するような内容が含まれていま 
                         
                        す。その一つが13節のいちじくの木の話です。福音書にも、いちじくの木の話 
                         
                        が出てきます(ルカ13:6~9)。神は何とかして助けようとされるのですが、 
                         
                        人が拒否してしまうのです。また23節では、エレミヤは涙を流します。イエス 
                         
                        も、エルサレムに近づき、都が見えた時、涙を流されます(ルカ19:41~44)。 
                         
                         
                        エレミヤは、神とユダの人々の間にあって苦しみます。神の言葉を何とかして 
                         
                        伝えようとします。しかし、民は聞き入れず、ユダ王国が滅亡するであろうこと 
                         
                        もエレミヤは分かっています。このことは、神が自らの使いを苦難の中に置かれ 
                         
                        たという点で、イエス・キリストを思い起こさせます。神が私たちの罪を贖うた 
                         
                        め、主イエス・キリストを送られたことにつながっているのです。(渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年1月26日(日) 集会 
                         
                        「洗礼者ヨハネの誕生」 ルカによる福音書1:57~80 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:日比和子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        エリサベトに男児が生まれ、天使がザカリアに告げたとおりヨハネと命名 
                         
                        されます。その時ザカリアの口や耳も開かれ、人々は恐れを抱いて「この子 
                         
                        はどんな人になるのか」と言いました。ザカリアは聖霊に満たされて預言を 
                         
                        します。 
                         
                         
                        預言の前半(68~75)はイスラエルを救い給う神への賛美です。古来預言 
                         
                        者によって言われていた通り、神が民のために“救いの角”をダビデの家系 
                         
                        に起こされた、といいます。ここにイエスの到来が賛美されています。 
                         
                         
                        後半(76~79)は幼子の将来の働きについての預言、人々の問への答えです。 
                         
                        ヨハネの使命は、主に先立ってその道を備え、罪の赦しの救い、即ちイエスを 
                         
                        人々に知らせることである、イエスの到来は“神の憐れみ”であり、“暗闇と 
                         
                        死に座するものに、曙の光が訪れる”ことである、と。 
                         
                         
                        聖書には“闇と光”が頻出します。私たちは闇と光は対立するもの、分離す 
                         
                        るものと考え勝ちではないでしょうか?しかし、光であるイエスは「闇の中で 
                         
                        輝いている(ヨハネ1:5)」とあります。闇の只中に突入され、闇(即ち死) 
                         
                        そのものになられました。それが十字架です。一体となられて闇を救い給うイ 
                         
                        エスによって初めて真の和解、平和がもたらされます。その備えをするヨハネ 
                         
                        の誕生は神の“出来事”であり、父ザカリアの預言は“曙の光”を指し示して 
                         
                        います。                       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年1月19日(日) 集会 
                         
                        「耳を開く」 エレミヤ書7章 
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                        
                        7章前半では、バアル信仰を行いながら、神殿の前で神の名を呼ぶこと 
                         
                        に対し、神殿が「盗賊たちの巣窟になった」と神から厳しい警告がなされ、 
                         
                        イスラエル王国と同様にユダ王国も滅亡する、と神から言い渡されます。 
                         
                        後半では、ユダの民が異教の教えに従い、供え物やいけにえを捧げている 
                         
                        こと、殊に子供をいけにえにすることを、激しく叱責されます。  
                         
                         
                        「私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなたがたの神となり、あなたが 
                         
                        たは私の民となる。あなたがたが幸いを得るために、私が命じるすべての道 
                         
                        を歩め。」という神の言葉があり(23)、詩編の「いけにえも供え物も、あ 
                         
                        なたは喜ばれず、私の耳を開いてくださった。」という言葉を思い起こさせ 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        また、「聞く耳のあるものは聞きなさい。」というイエスの言葉(ルカ福 
                         
                        音書8:8)に繋がっていきます。イエスは、この言葉を「大声で言われた。」 
                         
                        と書かれています。出来るだけ多くの人を救済したいとの思いからなされた 
                         
                        ものと思います 
                         
                        「聞きなさい」という言葉は現在形で、ずっと神の声を聞き続けなさいと言 
                         
                        われているのです。聞く耳があるかないかは、神によるものでもあり、詩編 
                         
                        にあるように「私の耳を開いてくださった。」ことに、心から感謝すべきだ 
                         
                        と思います。耳を開かれること、聞く耳をもつこと。それを絶えず忘れない 
                         
                        ことによって、主イエス・キリストの言葉が心の中に深く入っていくのでは 
                         
                        ないでしょうか。                 (渕上記) 
                        
 
                         
                        2020年1月12日(日) 集会 
                         
                        「受胎告知とマリアの賛歌」 ルカによる福音書1:26~56 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        田舎町ナザレの処女マリアは、男児を生むと天使に告げられます。訝り 
                         
                        つつも彼女は、聖霊による受胎であること、神はその子イエスにダビデの 
                         
                        王位を賜る、との言葉を素直に信じました。「お言葉どおり、この身にな 
                         
                        りますように」、と。 
                         
                         
                        マリアは、懐妊して6ケ月になると天使から聞いた親類のエリサベトを訪 
                         
                        ねます。マリアの挨拶に胎児ヨハネがエリサベトの胎内で踊り、エリサベト 
                         
                        は喜びの声を挙げます。エリサベトは、神の告知は必ず実現することを身を 
                         
                        もって証しし、イエスがヨハネと自分の主である、と言い表したのでした。 
                         
                         
                        続くマリアの賛歌は「マニフィカート」として有名ですが、サムエルの母 
                         
                        ハンナの賛歌(サムエル上2:1~10)を想起します。神が卑しい仕え女を恵 
                         
                        み給うたこと、神は人間集団の境遇を逆転し給う方であること、を同様に賛 
                         
                        美しています。 
                         
                         
                         “処女懐胎”は古来議論の多いところです。ルカは「神にできないことは 
                         
                        何一つない(37)」と、神のみ業を信じることを求めています。不信仰をも 
                         
                        ってすればナンセンスなことでしょうが、信仰をもって聞くとき、天来の福 
                         
                        音となります。なお、マリアの位置付けも古来問題多いところです。東方教 
                         
                        会やカトリックは“神の子の母”として崇拝したり、祈りの執り成しを懇願 
                         
                        しますが、偶像崇拝に他なりません。イエスは“マリアの子”ではなく“マ 
                         
                        リアの主”なのです。                  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2020年1月5日(日) 新年集会 
                         
                        「洗礼者ヨハネ誕生の予告」 ルカによる福音書1:1~25 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        高い教養を身に着けた(医者?)ルカが、彼の福音書の冒頭に 
                         
                        採り上げたのは、洗礼者ヨハネ誕生の予告です。エルサレム神殿 
                         
                        の祭司ザカリアと妻エリサベトは年老いて子が無かったのですが、 
                         
                        天使によって男の子が授けられるとの告知を受けます。信じるこ 
                         
                        とが出来なかったザカリアは口が利けなくなりますが、エリサベ 
                         
                        トは信じて、喜びを言い表しました。 
                         
                        この物語はアブラハム夫婦へのイサク誕生予告の記事を想起させ 
                         
                        ます(創世記15章、18章)。そこにも人間の不信(妻サラは笑っ 
                         
                        た)が記されていますが、神は選び給うた人間を用いてご計画を 
                         
                        進められます。神の力は人間の不完全(老齢)を圧倒し、神の選 
                         
                        びは人間の信仰に優先します。アブラハムの信仰を土台としてイ 
                         
                        スラエル民族が成立しましたが、ザカリア夫婦の信仰の上に新し 
                         
                        い時代の幕が開かれたのでした。  
                         
                         
                        ヨハネは神から特別の使命を授けられて世に顕われます。その 
                         
                        使命とは、キリスト(メシア)の先駆者として現れると預言され 
                         
                        ていた(マラキ3:23)エリヤの役割を果たすべく、生涯を神に 
                         
                        捧げること、神と人との関係を正してキリストを迎えるための準 
                         
                        備をすることでした。ルカは、旧約聖書に預言されて実現した事 
                         
                        柄(1:1)を記述していくのです。 
                         
                         
                        イエス降臨の嬉しいニュースの前に、ヨハネ誕生という喜びの 
                         
                        告知があったことを、心に刻みたいと思います。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年12月22日(日) クリスマス祝会 
                         
                        「クリスマスの目的-死のため、復活のため」 ヨハネ6:36~40 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        赤子の誕生は命の可能性に満ち、人々に希望と喜びをもたらします。しか 
                         
                        しイエスの誕生は死を目的とするものでした。イエスは初めから神と共にお 
                         
                        られ(ヨハネ福音書1:1)、永遠の命をお持ちでした。人間になるというこ 
                         
                        とは、死なない神の子が死ぬ者になられたということです。老人シメオンは 
                         
                        母マリアに「剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう」と言いましたが(ル 
                         
                        カ2:35)、十字架によって実現したのでした。 
                         
                         
                        憐れみの人であったイエスが殺害されたのは、人の心の中にある罪が顕わ 
                         
                        にされて噴出した結果です。イエスは人間の罪を担って十字架にかかられ、 
                         
                        人を罪と死から解放して下さいました。クリスマスの出来事は、神の子が私 
                         
                        たちの罪と死を引き受けて下さることの宣言にほかなりません。ここに於い 
                         
                        て、私たちはイエスに合わせられるのです。 
                         
                         
                        イエス自身は「私が来たのは、私を信じる者が一人残らず永遠の命を得て、 
                         
                        終わりの日に復活するためである」と言われました(ヨハネ6:36~40)。 
                         
                        クリスマスの目的は、私たち全ての復活である、というのです。神はご自身 
                         
                        がお持ちの永遠の命を愛する私たちにも回復させて下さるべく、イエスを遣 
                         
                        わされたのでした。イエス再臨の日の復活が約束されていることに勝るクリ 
                         
                        スマスプレゼントはありません。 
                         
                         
                        続いて子供会クリスマスと昼食会をもちました。    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年12月15日(日) 集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(7) 四両の戦車と北の地の神霊 ―神の経綸」 
                         
                                           ゼカリヤ書6:1~8 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ゼカリヤ書六章前半では第八の幻が記されています。第八の幻では、青銅 
                         
                        の二つの山の間から四両の戦車が来ることが告げられます。青銅は聖書では 
                         
                        贖罪や清めを意味します(参照:民数記21:8-10、ヨハネ3:14-15、出エジ 
                         
                        プト30:17-21)。 
                        それらの戦車は赤、黒、白、まだらの馬たちが引いています。聖書の別の 
                         
                        箇所では赤=戦争、黒=秤・飢饉、白=勝利、青白=死だと示されます(黙 
                         
                        示録6:1-8、19:11-14)。これらの馬の色は神の計画とその遂行を意味してい 
                         
                        ると思われます。 
                         
                         
                        さらに、これらの戦車と馬たちは「天の四方の風」だと告げられます。ヘ 
                         
                        ブライ語「ルーアハ」は「風」と同時に「霊」を意味します。神の霊が全地を 
                         
                        駆けめぐり、全宇宙は神の支配のもとにあり、神の経綸が行われることを意味 
                         
                        しています。 
                         
                         
                        黒い馬たちは「北」に行きます。北の地で神の霊を北の地に留まらせます 
                         
                        (異訳では神の霊を「鎮め」「なだめる」)。「北」は聖書では「災い」や 
                         
                        「バビロン」を意味します(エレミヤ1:13-15)。神の国と地の国が終わりの日 
                         
                        まで戦うのです。 
                         
                         
                        私たちは四方からの風(霊)を受ける時に生き返ります(エゼキエル37:9 
                         
                        -10)。また、自ら「北」の地に赴き、神の愛を実践する人(イエス、中村哲ら) 
                         
                        のおかげで、神からの風に触れることができます。神の経綸と神からの風を感じ 
                         
                        歩むことをゼカリヤ第六章前半を通じて学びました。       (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2019年12月8日(日) 集会 
                         
                        「主は近い」 フィリピの信徒への手紙4:2~23 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        フィリピの信徒への手紙でパウロは「主にあって」「キリスト・イエス 
                         
                        にあって」と繰り返しますが(21回も)、ここでは「主にあっていつも喜 
                         
                        びなさい」と言います(4:4)。「主にあって」とは、人を罪と死から贖 
                         
                        い出し、復活の命を与え給うイエス・キリストが共にいて下さる、という賜 
                         
                        物に生きることです。感謝の祈りをもって、溢れる「喜び」に満たされます。 
                         
                        (「喜び」は、この手紙のキーワードです。) 
                         
                         
                        「主にある」ことの完成は終わりの日を待たねばなりませんが、既に恵み 
                         
                        としてエクレシア(信徒の群)の中に与えられています。「主は近い(5)」 
                         
                        のです。パウロはコリントの信徒たちに、救われた者に相応しく歩むことを 
                         
                        勧めます。 
                        信徒たち同士では争わず、一致し助け合うこと(2~3)、寛容な心(5) 
                         
                        が求められています。特に、キリスト以外のものを信じる人々に対する寛容 
                         
                        の教え(「すべて真実なことを尊べ」=8)は、広い心を持つパウロならでは 
                         
                        の教えです。 
                         
                         
                        様々な苦難に会いつつも、パウロはどんな境遇にも対処出来る(12)、と 
                         
                        言っていますが、フィリピの信徒たちにしばしば物心両面で支えられたことが、 
                         
                        どれだけ力になったことでしょうか。エフェソの獄舎での助けに対する感謝を 
                         
                        述べていますが(10~19)、その捧げものは自分に対してではなく、神へのも 
                         
                        の(かぐわしい香り)だとしていること(18)に、“使徒”パウロのへりくだ 
                         
                        りを見ます。                    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年12月1日(日) 集会 
                         
                        「神への捧げもの」 エレミヤ書6章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        6章はこれまでのエレミヤの言葉が纏められ、演説に使われたのではない 
                         
                        かとも言われています。6章で印象的な箇所が二つあります。一つは「ぶど 
                         
                        うの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすべて摘み取れ。収穫す 
                         
                        る者のように、あなたの手をもう一度枝々に伸ばせ(9)」というエレミヤ 
                         
                        に対する神の言葉です。神を散々裏切ったイスラエルの民ですが、それでも 
                         
                        神はイスラエルの民を救おうとされています。 
                         
                         
                        もう一つは、高価なものを捧げることによって、神からの恵みを受けよう 
                         
                        とする欲望に駆り立てられた行動に対して、神が拒否されるところです(20)。 
                         
                        神に高価な捧げものをすることによって、神から快楽や所有欲を満足させる 
                         
                        もの得ようとする行為は、神の思いからは遠く離れたことでした。 
                         
                         
                        これはマルコ福音書の「やもめの献金」を想起させます。1クアドランス 
                         
                        (約160円)を献金したやもめについてイエスは、「この貧しいやもめは、献 
                         
                        金箱に誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏 
                         
                        しい中から持っている物をすべて入れたからである。」と言われました。神に 
                         
                        全幅の信頼を置いていなければ出来ないことでした。 
                         
                         
                        エレミヤは、神の言葉をイスラエルの民に伝え、何とか救済しようとしまし 
                         
                        たが、上手くは行きませんでした。それでも神は決して見捨てられることはな 
                         
                        く、やがて主イエス・キリストをこの世に遣わされるのです。  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2019年11月24日(日) 集会 
                         
                        「ユダヤ人の自負心と異邦人への態度に見られる罪」  
                         
                                        ローマの信徒への手紙2:17~29 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:村上思門 
                         
                        
                        人類は皆罪人であることをパウロは指摘しましたが(2:1~15)、ユダヤ 
                         
                        人独特の罪を採り上げます。ユダヤ人の最大の問題は人を裁くことですが、 
                         
                        その消息を抉り出します。 
                         
                         
                        ユダヤ人は律法を持っているという自負心を持ち、律法を頼りにしています。 
                         
                        律法を神の位置に置いて、自分の宗教心(宗教的エロース)を満足させるので 
                         
                        す。そして、休んじて(自己安心)います。その自負心から異邦人に対して誇 
                         
                        りを持ちます。自分たちは盲人の案内者、異邦人の導き手、闇の中の光だ、と。 
                         
                        こうして、人を裁くのです。しかし、律法を守っていると言うユダヤ人は、全 
                         
                        然守っていない。彼らの律法に背いている姿は、「神の名はあなたがたの故に 
                         
                        侮られている」とある(イザヤ52:5)通りだ、と断罪します。 
                         
                         
                        荒野の誘惑でサタンから求められた「神の子である証拠」は、十字架を前に 
                         
                        して自分を救おうとされず、「父よ、私の霊を御手に委ねます(ルカ23:35)」 
                         
                        と祈られたイエスによって、明らかです。この祈りを祈られたイエス、神の真実 
                         
                        への服従を貫かれたイエスだけが、唯一律法を全うされた方です。 
                         
                         
                        ここに記されているパウロの詰問や断罪(21~24)の前には、ユダヤ人のみな 
                         
                        らず、私たちの皆が頭を垂れざるを得ません。私たちは皆律法の違反者です。そ 
                         
                        のこと示されて、ここに私たちは悔い改めに導かれます。    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年11月17日(日) 集会 
                         
                        「国籍は天にあり」 フィリピの信徒への手紙3:2~4:1 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:日比和子 
                         
                        
                        十字架と復活の福音に対して、律法遵守も必要だというユダヤ主義キリ 
                         
                        スト教徒を「あの犬ども」、「悪い働き手たち」とパウロは厳しく攻撃し 
                         
                        ています。律法に熱心な彼らの生き方は肉を頼みにすることであり、神の 
                         
                        み心を行うに程遠いと。 
                         
                         
                        そして、律法に熱心なことにかけて誰にも負けない、と言いう彼は、自 
                         
                        分は正真正銘のユダヤ人で、イスラエル古来の厳格な伝統を守ってきただ 
                         
                        けでなく、キリスト教徒を迫害さえしてきたユダヤ人のかがみである、と 
                         
                        啖呵を切るのです。 
                         
                         
                        しかし、刻苦勉励の努力によって獲得した重要なものが、キリストに出 
                         
                        会った新しいパウロには無価値なものとなった、と言います。かつての彼 
                         
                        に誇りであったものが、今や正反対の恥となったのです。自分が獲得する 
                         
                        “義”ではなく、キリストから恵みとして与えられる“義”を得たからで 
                         
                        した。 
                         
                         
                        イエスの救いに欠けたところはありませんが、終わりの日に救いが完成 
                         
                        することをパウロは信じています。この世に生きている間の彼は、競技者の 
                         
                        ように栄誉を目指して走ると言い、信徒たちにその生き方に習うように勧め 
                         
                        ています。十字架に敵する歩みは滅びの道を進むことである、と言います。 
                         
                         
                        「私たちの国籍は天にある」との言葉は、私たちに最終的な栄誉である 
                         
                        “永遠の命”が約束されていることを意味します。私たちが様々な苦難に満ち 
                         
                        たこの世にある間、喜びに満ちた自由な日々を走り抜く力が与えられます。 
                         
                                                  (秀村記) 
                         
                         
                        2019年11月10日(日) 集会 
                         
                        「清い心の創造と新しい霊」 詩編51編 
                         
                        講話:吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会)、司会:小林典子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                             
                        聖書の一貫したテーマは「清くされる」ことです。人は勉強、立身出世 
                         
                        やスポーツなどに力を注ぎますが、それらによって清くされることは不可 
                         
                        能です。神が清いお方であることは、自然
―花や海、青い空など― を見 
                         
                        れば分かります。その神による「創造」によってのみ、人は清くされるの 
                         
                        です(12)。 
                         
                         
                        心の内側まで清められる神の創造は、主イエスの血によって成し遂げら 
                         
                        れました。十字架の贖いは、汚れたままで、罪のままで、信じる者に与え 
                         
                        られるのです。 
                         
                         
                        バト・シェバ事件に結び付けられてダビデの詩とされる詩編51編は、遥 
                         
                        に1000年後のイエスの十字架を指し示していますが、更に「聖霊」の重要 
                         
                        性に触れていることに注意したいと思います。神に創造していただく清さ 
                         
                        は聖霊によって維持していただくのです(14)。イエスに背いて3度も否認 
                         
                        したペトロが、罪赦されて伝道に立ち上がったのは、聖霊降臨(ペンテコ 
                         
                        ステ)によってであったことが想起されます。 
                         
                         
                        罪から清められた者の口から自然に溢れ出るものは「賛美」です(16~17)。 
                         
                        誉め賛えるのは、罪人が救われたことによって貫徹する、神の「義」に他な 
                         
                        りません。 
                        神が喜ばれるのは「砕かれた霊」とあるのは(18~19)、「心の貧しい人 
                         
                        々は幸いだ」(マタイ5:3)に通じます。この詩篇は新約聖書の福音と深い 
                         
                        関連を持っています。                 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年11月3日(日) 集会 
                         
                        「神の忍耐」 エレミヤ書5章 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        神は民に悔い改めを呼び掛け続けておられます。「一人でも見つかるだ 
                         
                        ろうか公正を行う者、真実を探求する者が。もしいるなら、私はエルサレ 
                         
                        ムを赦そう。」、と。創世記にあるソドムとゴモラの例においても、正し 
                         
                        いものが十人いれば、私は滅ぼしはしないと約束されています。ここでは、 
                         
                        一人でもと言われています。神は赦そうとされるのですが、民は神の慈愛 
                         
                        に満ちたまなざしを無視し、目の前の快楽で満足し、大切な信仰を忘れてし 
                         
                        まいます。 
                         
                         
                        内村鑑三は、現在の日本の状況を予見した人ともいえる存在ですが、エレ 
                         
                        ミヤ伝研究のなかで、「偽りの教師と、偽りの牧師と、偽りの信者と、この 
                         
                        三つがそろうて、教会はすたれ国は滅ぶのである。教師ばかりの罪ではない。 
                         
                        民が偽りの教師を愛するからである。」と述べています。 
                         
                         
                        エレミヤ書第5章では、「滅ぼし尽くしてならない。」という神の言葉が何 
                         
                        度も登場します。神の救いへの思いは、やがてイエス・キリストにつながって 
                         
                        いきます。 
                         
                         
                        また、内村鑑三は、「しかしユダヤには少なくともエレミヤがおった。わが 
                         
                        国においては彼もおらないのである。」と述べています。内村鑑三の生きた時 
                         
                        代と今では、様々なものが変わっていますが、主イエス・キリストをとおして、 
                         
                        正しく生きる道を見つけていくことが、何よりも大切なことであることに変わり 
                         
                        はないのではないでしょうか。            (渕上記) 
                        
 
                         
                        2019年10月27日(日) 集会 
                         
                        
                        「主にあって共に喜ぶ」 フィリピの信徒への手紙2:12~3:1 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        「キリスト賛歌(2:6~11)」で歌われたように従順の人であったキリ 
                         
                        ストが、信徒となった全ての人を心底からの従順へと変えて下さっており、 
                         
                        それはパウロが共にいるいないに拘わらず神が成し給うた救いである、と 
                         
                        パウロは言います。 
                         
                         
                        「従順」についてまず、「恐れおののきつつ」生きることだ、と述べます。 
                         
                        救いは公的な神の名誉が懸っている問題であるからです。十字架によって救 
                         
                        われたことを思えば、従順であらざるを得ません。また、何事も「不平や理 
                         
                        屈を言わず」に行いなさい、とも教えていますが、想起するのは、モーセに 
                         
                        率いられた民の荒野での“呟き”です。苦難に満ちた信徒の旅路に於いても、 
                         
                        キリスト再臨による救いの完成を固く信じて、終わりの日まで呟かず走り抜く 
                         
                        ことが求められます。 
                         
                         
                        主に従順な者は、“とがめられることの無い”純真な神の子とされ、暗黒 
                         
                        の世にあって星のように輝く、と述べられているのには驚きますが、私たち 
                         
                        の業や勲によるのではなく、神からの働きかけで実現する従順によって、暗 
                         
                        黒の世界を照らす「世の光(マタイ5:14)」とされるのです。 
                         
                         
                        自らが祭司であると共に、犠牲の捧げ物でもあるというパウロは、獄にあ 
                         
                        って死を見つめていることが分かりますが、同時に生きてフィリピを再訪す 
                         
                        る計画を持っていることに、生死を主に委ねている(そしてそのことをフィ 
                         
                        リピの信徒たちと共に喜ぶ)彼の生き様が顕れています。 (秀村記) 
                         
                         
                        2019年10月20日(日) 集会 
                         
                        「キリスト讃歌」 フィリピの信徒への手紙1:27~2:11 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        パウロはエフェソの獄中からフィリピの信徒たちに「キリストの福音にふ 
                         
                        さわしい生活をせよ(1:27)」と勧めます。 
                         
                         
                        キリストの福音にふさわしい生活とは、キリストの支配下に留まることであり、 
                         
                        聖霊の下、集会が一つとなって悪霊の支配下にあるこの世と戦うことです。実 
                         
                        は、戦いはイエスの十字架に於いて既に勝利が決定していますから、信徒には 
                         
                        それを信じて終わりの日に向かって走り抜くことだけが求められています。信 
                         
                        徒は苦難の中にあっても耐えることが出来るばかりか、楽観的に生きることが 
                         
                        許されているのです。 
                         
                         
                        私たちも様々な苦難に襲われますが、それはイエスの十字架を指し示して下 
                         
                        さる、神の恵み(1:29)なのです。 
                         
                         
                        パウロは「喜び」と「へりくだり」について語ります(2:2)。喜びは終わ 
                         
                        りの日に与えられる救いの喜びであり、へりくだりは十字架のイエスに顕れた 
                         
                        私たちの生の根拠です。 
                         
                         
                        当時の讃美歌である「キリスト讃歌」は、前半(6~8)でキリストの自発的 
                         
                        なへりくだりが、後半(9~11)で神によるキリストの高挙が歌われます。キリ 
                         
                        ストは十字架の死という究極の卑下によって私たちを神と和解させて下さり、そ 
                         
                        の和解によって神の前に存在することが許されています。そして、キリストの高 
                         
                        挙は、終末時に全宇宙が神を讃美するためです。この讃美は私たちの現在の応答 
                         
                        でもあります。                       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年10月13日(日) 集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(6)エファ升の中の女と神殿 ―人間の罪」 
                         
                                      ゼカリヤ書5:5~11 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:遠山博 
                         
                        
                        ゼカリヤ書5章後半では第七の幻が記されています。エファ升(穀物な 
                         
                        どの容量を量る容器)が「罪」の象徴として、さらに升の中の一人の女が 
                         
                        「邪悪」の象徴として現れます。二人の翼を持った天使がこの升を封印し、 
                         
                        シンアルに建設中の神殿まで運び去っていきます。 
                         
                         
                        このビジョンは何を意味しているのでしょうか?一つの解釈としては、 
                         
                        ユダヤの人々の罪を封印し、遠くバビロンの地の神殿に持って行って処理し 
                         
                        た、と解釈できます。その場合もはやエルサレムは罪のない状態になった、 
                         
                        ということになります。 
                        しかし、別の解釈もできます。当時建設中だったのは、他ならぬエルサ 
                         
                        レム神殿でした。「シンアル」とは創世記でバベルの地域を指している言葉 
                         
                        です。神から離れ、己の力を頼り、人を裁く。この人間のどうしようもない 
                         
                        「罪」が、再建される神殿にすら根深く残る、ということをこの第七の幻は 
                         
                        示していたのではないでしょうか。実際、ずっと後に、この再建された神殿で、 
                         
                        人々はイエスを裁き十字架につけました。 
                         
                         
                        
このようなどうしようもなく根深い人間の罪や悪を、主イエス・キリスト 
                         
                        が十字架と復活によって贖い救ってくださった、その愛のはかりしれなさ 
                         
                        を、ゼカリヤ書5章5~11節を通じてあらためて味わい学びました。   
                         
                                                   (鎌田記) 
                         
                         
                        2019年10月6日(日) 集会 
                         
                        「破滅の預言」 エレミヤ書4章 
                         
                        講話:渕上明、司会:三苫恵子 
                         
                             
                        ユダ王国の滅亡について神より語られます。「イスラエルよ。もし立ち 
                         
                        返るなら私のもとに立ち帰れ」と神は呼びかけられます。また、「茨の中に 
                         
                        種をまくな。」「心の包皮を取り除け。」とも言われます。茨の中に種を蒔 
                         
                        く譬えはイエスの言葉を思い起こさせます(マタイ13:7)。また、心の割 
                         
                        礼については申命記(10:20)に書かれています。つまり、神は決してユダ 
                         
                        の人々を見捨てられている訳ではないのです。 
                         
                         
                        しかし、ユダの人々が聞き入れないこともご存じでした。エレミヤはユダ 
                         
                        王国の滅亡を預言しますが、この預言と同時に滅亡は起こりませんでした。 
                         
                        アッシリアは弱体化して、新バビロニア王国が強大な力を持つようになり、 
                         
                        スキタイ族などの騎馬民族が勢力を伸ばしていました。しかしユダ王国が攻 
                         
                        められることはありませんでした。このため、この4章のエレミヤの預言は 
                         
                        外れたと考えられます。一方、この後、新バビロニア王国がユダ王国に侵入し、 
                         
                        ユダ王国の人々が捕囚となることも事実であり、エレミヤの預言は、新バビ 
                         
                        ロニア王国の侵入を指しているのだとも解釈されます。 
                         
                         
                        
「全地は荒れ果てる。しかし、私は滅ぼし尽くしはしない。」 
                         
                        との神の言葉があります(4:27)。こうしたことが、新約聖 
                         
                        書における主イエス・キリストの福音につながっていくのであり、 
                         
                        キリストの福音は旧約聖書の時代から準備されていたのです。 
                         
                                               (渕上記) 
                         
                         
                        2019年9月29日(日) 集会 
                         
                        「神の正しい裁き」 ローマの信徒への手紙2:1~16 
                         
                        講話:市村昭三、司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        2章でパウロはユダヤ人の罪を採り上げます。彼等は律法を持っている 
                         
                        ことを盾に、持たない異邦人を裁いている。しかし実際は律法を守ってお 
                         
                        らず、自己安心して罪に陥っている彼等は、神に裁かれている、とパウロ 
                         
                        は言います。 
                         
                         
                        そして「神は各自の“行い”に従って報い給う(6)」と述べていますが、 
                         
                        これは彼の、人が義とされる(救われる)のはただ信仰のみによるのであっ 
                         
                        て、善い行い(功徳を積む)によるのではない、という“信仰義認論”と矛 
                         
                        盾します。 
                         
                         
                        これをどう理解するか、様々な解釈がされてきました。内村鑑三は「尊い 
                         
                        のは愛によって働く信仰だけである」と言っています。また、“信仰だけで 
                         
                        救われる”がお題目になると、別の意味の自己安心になってしまいます。キ 
                         
                        リストの支配を受け入れて、その支配のもとに生きることが大切です。日々、 
                         
                        幼子のように信仰をいただいて、神の戒めを守ること(=行い)が喜びであ 
                         
                        る生活が求められているのです。 
                         
                         
                        私たちの生きている世界は問題だらけですが、キリストが再び来たり給う日 
                         
                        (終りの日)に、神の正しい裁きが行われるという約束が、私たちの希望です。 
                         
                        この約束が私たちの信仰の支えです。パウロは、耐え忍んで生きる者には永遠 
                         
                        の命が与えられる(7)と記していますが、この“希望を含む忍耐”によって、 
                         
                        信仰は持ちこたえるのです。            (秀村記) 
                         
                         
                        2019年9月22日(日) 集会 
                         
                        「福音の前進」 フィリピの信徒への手紙1:12~26 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        パウロは、彼の投獄が“福音の前進”に役立っている、と言います。 
                         
                        彼が獄中にあることが、「キリストにある」こととして全ての人に知れ 
                         
                        渡り、信徒たちが信仰の確信を持って一層勇敢に宣教に務めたから、と 
                         
                        いうのです。投獄という普通に考えればマイナスなことが、プラス 
                         
                        とは、恵みである(1:29)」から、即ち、私たちが十字架の苦難に合わ 
                         
                        せられることは、イエスの救いに与ることなのです。 
                         
                         
                        彼の投獄を、愛と善意を持って宣べ伝える者だけではなく、悪意や妬み 
                         
                        をもって語る者もいました。驚くことに彼はそれをも“喜ぶ”と述べてい 
                         
                        ます。十字架の福音の核心を伝える者ではなくても、キリストの名が拡め 
                         
                        られて福音が前進するのであれば評価する、と。福音は人間の側のあらゆ 
                         
                        る思いを超えて、それ自身で前進するということを信じていたのです。 
                         
                         
                        救いはキリストの十字架に於いて既に成っており、彼はその救いを明らか 
                         
                        にする者として生かされていることを、「生きることはキリスト(21)」と 
                         
                        言い表しました。終わりの日に於ける救いの完成を固く信じて、喜びに溢れ 
                         
                        ていました。 
                         
                         
                        私たちも、苦難に満ちたこの世にあって、この世から断絶することなく、 
                         
                        むしろこの世を愛し、諸課題に冷静に、喜びをもって対処していきたいと思 
                         
                        います。この世も十字架の故に神から肯定され、愛されているのですから。 
                         
                                                   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年9月15日(日) 集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(5)飛ぶ巻物 ―律法の呪いと裁き」  
                         
                                         ゼカリヤ書5:1~4 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:小林典子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ゼカリヤ書5章前半では第六の幻が記されています。第六の幻で 
                         
                        は飛んでいる巻物が示されます。飛ぶ巻物の大きさは、およそ長さ 
                         
                        9メートル、幅4.5メートル(これはソロモンの神殿の玄関前の広さ 
                         
                        と同じで、再建された神殿から神の審判の声が全地に響くというビジ 
                         
                        ョンです)。巻物(=律法)は全地の呪いであり、盗む者と偽り誓う 
                         
                        者は除かれ、それらの罪を行う「家」(共同体)は滅ぼされると告げ 
                         
                        られます。 
                         
                         
                        人は皆、律法の法則のもとにあり、「律法の呪い」(ガラテヤ3:13) 
                         
                        を本来は免れることができないと聖書は教えています(パウロは異邦人 
                         
                        も自然の律法のもとにあると論じています(ロマ2:14~15))。隣人 
                         
                        や神をおろそかにした罪は必ず裁かれるべきはずでした。しかし、キリ 
                         
                        ストの十字架の贖いを信じる者は、それだけで罪を赦され、律法の呪いか 
                         
                        ら解放され、永遠の生命を得るという福音が与えられました。 
                         
                         
                        この並外れた恵みは、飛ぶ巻物つまり「義」の厳しさがわからないとわ 
                         
                        かりません。義がわかってこそ神の愛はわかります。塚本虎二は、福音と 
                         
                        律法の関係を、高利貸からの債務を友人が支払ってくれて、法律上の義務 
                         
                        が消滅し、温かき愛の絆が新たに生まれたことに譬えています。義の厳しさ、 
                         
                        キリストの愛のはかりしれなさを、ゼカリヤ書5章1~4節を通じてあらため 
                         
                        て味わい学びました。                (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2019年9月8日(日) 集会 
                         
                        感 話 「アシュラムでの恵み」  横山 宜和 
                         
                        「フィリピのエクレシア」 フィリピの信徒への手紙1:1~11 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ローマ帝国マケドニア州にあるフィリピは、金銀鉱山と肥沃な土地 
                         
                        によって古くから栄えた地ですが、ローマの退役軍人の植民都市とし 
                         
                        て発展していました。市民の大部分はローマの市民権を持ち、皇帝か 
                         
                        ら様々な特権を与えられて、豊かに暮らす人が多かったようです。ユ 
                         
                        ダヤ人は少数に過ぎなかったことが、会堂(シナゴグ)が無いことか 
                         
                        ら分かります。 
                         
                         
                        フィリピは、パウロが小アジアからヨーロッパに渡って最初に福音 
                         
                        を伝えた、記念すべき町です。彼の滞在は短期間を余儀なくされたに 
                         
                        も拘わらず、主として異邦人信徒からなる小さなエクレシアが生まれ 
                         
                        ました。ユダヤ教への改宗者ルディアほか2人の人物が使徒言行録 
                         
                        (16:14~34)に記されています。このエクレシアとパウロの関係は 
                         
                        極めて良く、後日に至るまで献金などで経済的にもパウロを支えたの 
                         
                        でした。 
                         
                         
                        この手紙は、獄中にいるパウロにフィリピの信徒たちが見舞いの金品 
                         
                        を贈り届けたことに対する感謝の手紙で、第3回伝道旅行でのエフェソ 
                         
                        獄中からの手紙でしょう(A.D.54頃)。パウロは礼を述べるに留まらず、 
                         
                        彼の宣教活動の状況を報告し、信徒たちが福音に於いて前進するよう励 
                         
                        ましています。 
                         
                         
                        終わりの日の審き主イエスが、罪ある者を潔白と認め給い、恵みとして 
                         
                        の新しい命の実を実らせて下さるように、とのフィリピの信徒たちへの彼 
                         
                        の祈り(10~11)は、私たちへのメッセージでもある、と読みたいと思い 
                         
                        ます。                      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年9月1日(日) 集会 
                         
                        「悔い改め」 エレミヤ書3章 
                         
                        講話:渕上明、視界:横山宜和 
                         
                        
                        ユダ王国の人々を叱責する神からの語りかけがあり、またイスラエル 
                         
                        王国やユダ王国の人々の罪が語られます。それでも、神は決して彼らを 
                         
                        見捨てることはされません。「立ち帰れ。背信の子らよ。(14)」と呼 
                         
                        びかけられ、「ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、北の地から、 
                         
                        私があなたがたの先祖に相続させた地へと共に帰ってくる。(18)」と 
                         
                        述べられます。ここに神の「人への救いの思い」が込められています。 
                         
                         
                        また、ユダの罪はイスラエルの罪よりも重いと言われます。イスラエ 
                         
                        ルは神の言葉に従うことなく、バアルの神の許に行ってしまいましたが、 
                         
                        ユダはバアル信仰の儀式を行いながら、自らの神への祈りも行っていま 
                         
                        した。つまり、二重に神を裏切っていたのです。そのため「不実な女ユ 
                         
                        ダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった。(11)」と述べられてい 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        内村鑑三はエレミヤ伝研究の中で、そのままでよい、罪のあるまま神の 
                         
                        許へ帰りなさい、罪をなくして神の許に返る必要はないという趣旨の言葉 
                         
                        を残しています。神の無限の愛を信じ、神の許へ帰ること。これが最善の 
                         
                        道、福音への道であると述べています。私たちが、もし道に外れたとしても、 
                         
                        また、神の許に返れば、新しい生命、人生が与えられるのです。 
                         
                         
                        エレミヤ書3章は、よく読むとキリストの福音を予兆しているように思わ 
                         
                        れます。主イエス・キリストを信じ、その愛の中に身を置くことで救いの道 
                         
                        が開かれるのです。                  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2019年8月25日(日) 集会 
                         
                        
                        「旧約でいちばんの奇人」 ヨナ書1章 
                         
                        講話:片山寛先生(西南学院大学 神学部教授)、司会:秀村興子 
                              
                        ヨナは預言者でありながら神の命に背を向けて逃げたという、旧約聖書 
                         
                        の中でへそ曲がりの奇妙な人物(奇人)です。しかし、彼が神に背いたか 
                         
                        らといって、悪い預言者だと決めつけることは出来ません。彼は神(の意図) 
                         
                        が分からなかった、ニネベに行けと言われる神は、本当の神とは思えなかっ 
                         
                        たのです。何故なら、ニネベはイスラエルの敵である強国アッシリアの都で、 
                         
                        言わば戦時中の日本人がニューヨークに行かされるようなこと、敵国で殺さ 
                         
                        れかねないことなのです。彼は神の声が聞こえない地の果て迄逃げようとし 
                         
                        ました。 
                         
                         
                        しかし、神はヨナを逃がされませんでした。船の難破、籤を通して。ヨナは 
                         
                        嵐の中で神に出会いました。神がどういう方であるかが分かり、同時に自分自 
                         
                        身をも発見したのです。自分はヘブライ人であり、神を畏れる者であることを 
                         
                        (1:6)。 
                         
                         
                        聖書は、答が最初にあって、それにただ従っていればいい、とは教えません 
                         
                        (それは律法主義)。長い苦闘の時期があり(病気など)、聖書を必死に読む自 
                         
                        分との闘いの末に答に辿り着き、そして、その答が聖書に書いてあることを発見 
                         
                        するのです。 
                         
                         
                        私自身も暗黒を彷徨う日々を経て、嵐の中で神が出会って下さるという経験を 
                         
                        しました。神の命に従順に見えるアブラハムやエリヤたちも、きっとそうであっ 
                         
                        たに違いありません。 
                         
                         
                        様々な困難と苦闘する歩みの中で、私たちを導き給う神と出逢うとき、聖書を面 
                         
                        白く読むことができます。                 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年7月28日(日) 集会 
                         
                        「イエスとの出会い」 ルカによる福音書16:1~13 
                         
                        講話:香西信氏(岡山聖書集会・京都聖書集会) 
                         
                              司会:三苫恵子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        主人の財産を無駄遣いして解雇されそうになった管理人が、主人に債務 
                         
                        がある者たちの債務を減らしてやって、クビになった後の自分を守ろうと 
                         
                        したという、イエスの譬話があります。この二重に不正を働いた管理人を 
                         
                        主人が褒めた、というのですから、読む私たちは困惑させられます。 
                         
                         
                        この主人をイエスと理解するとき、この世で様々な困難に遭遇しつつ必 
                         
                        死に生き延びようとする者を、愛をもって見守ってくださるイエスの眼差 
                         
                        しを感じ取ることができます。自己中心的な(罪の塊である)私たちに、 
                         
                        柔らかく澄んだ眼差しを注いでくださるイエスに出会うのではないでしょ 
                         
                        うか。 
                         
                         
                        そして、不正な富を用いてでも友達をつくるべし、との勧めがあります。 
                         
                        私たちは地上の生涯を用いて、イエスを友として獲得することに努めるべ 
                         
                        きなのです(矢内原忠雄)。二人の主人に仕えることは出来ない、とも教え 
                         
                        られていますが、仕えるべき主人はただ一人、イエス以外にありません。 
                         
                         
                        イエスに出会うことによって私たちに与えられる恵は、畑に隠された宝を 
                         
                        見出した者の譬話(マタイ13:44)のように、才能や努力に関係なく、思い 
                         
                        がけずも与えられたものです。しかし、その恵はイエスの十字架という代償 
                         
                        に基づく“高価な恵み(ボンヘッファー)”であり、日々祈り求めるべきもの 
                         
                        であることを、心に刻みたいと思います。  (秀村記) 
                         
                         
                        2019年7月21日(日) 集会 
                         
                        「人間の罪」 ローマの信徒への手紙1:18~23 
                         
                        講話:市村昭三、司会:三苫恵子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        パウロはまず徹底的に人間の罪を追求します。罪を知ることによって 
                         
                        初めて、福音(=罪の赦し)が分かるからです。 
                         
                         
                        彼は次のように言います。「神のみ手になる宇宙万物を見れば、そこ 
                         
                        に神の力を知ることができる。また、全ての人が持っている良心によって、 
                         
                        神の裁きがあることも分かっている。しかし、神を知っていながら、本当 
                         
                        は知らないのだ。それは、神を崇めることや神への感謝、神に栄光を帰す 
                         
                        ことを本当はしていないことからも、明らかである。」、と。 
                         
                         
                        そして、「人は皆、神ではなく空しいものを追い回して、空しい者にな 
                         
                        ってしまっている。」と述べています。空しいものとは“偶像”にほかな 
                         
                        りません。「生まれながらの人間には、霊的な神、栄光なる神が分からない。 
                         
                        それで、いきなり動物や人間を神にして、その像の中に自分の求めるものを 
                         
                        宿らせるのである(「キリスト教の本質」)」とフォイエルバッハが書いて 
                         
                        いますが、人間は神を造って、そこに自己追求を具体化するのです。十戒の 
                         
                        第一戒、第二戒を犯す行為です。 
                         
                         
                        私たちはどこまでも“自分”の幸福(救い)を求めてやみません。それは、 
                         
                        名誉、財産、子供、地位などの偶像でしょうが、自分の信仰も偶像になるの 
                         
                        です。信仰とは、自己を離れて神と交わること、神なくして神の前に立つこ 
                         
                        とです。それは、私たちが十字架のイエスに合わせられることによってのみ、 
                         
                        可能なことなのです。             (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年7月14日(日) 集会 
                         
                        「愛の執り成し」 フィレモンへの手紙 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        パウロが第三回伝道旅行でのエフェソの獄中から、コロサイ集会の 
                         
                        フィレモンに宛てた個人的な短い使信です。具体的な問題に処する彼 
                         
                        の優しさが顕われている貴重な手紙です。  
                         
                         
                        かつてパウロの導きでキリスト信徒になったフィレモンが所有して 
                         
                        いた奴隷のオネシモが、主人の許を脱走してパウロのところに逃亡し 
                         
                        てきたのですが、そのオネシモが獄中でキリスト信徒になりました。 
                         
                        オネシモを導いたパウロは、今オネシモを主人の許に送り返そうとす 
                         
                        るのですが、主人フィレモンにオネシモを今度は奴隷としてではなく、 
                         
                        主にある兄弟として受け入れて欲しい、との依頼をしたためたのです。 
                         
                        命令とか勧告ではなく、お願いとしての手紙であり、更には、逃亡時 
                         
                        にオネシモが持ち出した金銭も自分が負担すると明言、オネシモのた 
                         
                        めに執り成すパウロの細かな愛に満ちています。 
                         
                         
                        奴隷問題は原始キリスト教会の難しい問題でした。パウロは社会改 
                         
                        革を目指すのではなく、福音が齎す価値基準の転倒に問題解決の道を 
                         
                        見出します。奴隷はイェスによって解放された自由人であり、主人は 
                         
                        イェスの奴隷です。福音は人に神との、同時に隣人同士の、新しい係 
                         
                        わりを生み出すからです。 
                         
                         
                        十字架にみるイエスの執り成しの愛によって罪赦されたパウロが、 
                         
                        その愛をもってオネシモを執り成しています。私たちもイエスの執り 
                         
                        成しの手紙(十字架)を携えて、主人(神)の許に立ち返ることが出 
                         
                        来るのです。                   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年7月7日(日) 集会 
                         
                        「神の恵み」 エレミヤ書2章 
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                         
                        
                        神は、出エジプト時代の神とイスラエルの人々の関係を花婿と花嫁の 
                         
                         
                        関係に例えられます。しかし、この蜜月の関係は、イスラエルの民が約 
                         
                        束の地カナンに着いてからは、その肥沃な土地において豊かになるにつ 
                         
                        れて、壊れて行きました。イスラエルの民は、エジプトから救い出して 
                         
                        くださった神の恵みを忘れ、カナンのバアルの神を信じるようになり、 
                         
                        真の神の存在を忘れて行きました。このようなイスラエルの民を神は強 
                         
                        く叱責されますが、決して見捨てることはされません。 
                         
                         
                        旧約聖書における神の恵みは、創世記第1章4節「神は光を見て良しと 
                         
                        された。」、人の創造の後、28節で「神は彼らを祝福して言われた。」 
                         
                        と言われ、31節では「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それ 
                         
                        は極めて良かった。」と言われた箇所に現れています。この時から神の 
                         
                        恵みは私たちに与えられていたのです。 
                         
                         
                        主イエス・キリストも天地創造の時から私たちと共におられたのです。 
                         
                        私たちもエレミヤ書に書かれたイスラエルの民と同じ過ちを犯す誘惑にい 
                         
                        つもさらされています。旧約聖書の時代から、神はいつも私たちを見守っ 
                         
                        て下さいました。 
                         
                         
                        それでも罪を犯さざるを得ない私たちのために、主イエス・キリストが 
                         
                        この世に来られ、罪ある存在である私たちが赦され、キリストに従って生 
                         
                        きることにより真の平安が私たちにもたらされることとなったのです。   
                         
                                                               (渕上記) 
                        
 
                         
                        2019年6月30日(日) 集会 
                         
                        「霊に蒔く者」 ガラテヤの信徒への手紙5:26~6:18 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        パウロは肉によって歩むのではなく、霊によって歩むことを勧めまし 
                         
                        たが、具体的には、①他人との比較、競争に生きることを止める ②罪 
                         
                        過に陥った人には柔和な心で助言する ③他人の重荷を担い合う、こと 
                         
                        だと言います。律法から自由にされたことは、放縦が許されるのではな 
                         
                        く、心に住み給うキリストに服従することだからです。「キリストの律 
                         
                        法=モーセ律法本来の精神である愛=を全うする」と表現しています。 
                         
                         
                        伝道者への経済的支援を指示した上で、「自分の肉に蒔く」者ではなく、 
                         
                        「霊に蒔く」者となれ、と強く勧めています。前者は、自己主張を貫徹す 
                         
                        る生き方で、その行き着くところは滅びであるのに対し、後者は御霊の指 
                         
                        示に従って献身することで、永遠の命が恵みの賜物として与えられる、と。 
                         
                        だから、たゆまず善を行おう、と言います。ここに、私たちは自分をどこ 
                         
                        に捧げているか、が問われると思います。 
                         
                         
                        手紙の結びに、「ほかの福音」の伝道者が「肉の思いを誇る」のに対して、 
                         
                        「十字架のほかに誇るものがあってはならない」と断言します。人には恥辱 
                         
                        と見える十字架が誇りであるというパウロは、キリストの死に合わせられて 
                         
                        「新創造」に与ったからでした。律法遵守が齎す罪から解放されたのです。 
                         
                         
                        私たちは自分の「誇り」を求めて高ぶりに生きているのではないでしょうか。 
                         
                        復活のイエスに信頼して、全てを委ねて歩むことを、この手紙から学びとりた 
                         
                        いと思います。                   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年6月23日(日) 集会 
                         
                        「霊によって歩む」 ガラテヤの信徒への手紙5:2~25 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        人の生きる道は二つです。一つは一貫して自己を追求し、自分の利益と 
                         
                        欲望を追求する、倫理から遠い「肉に従って」生きる道です。第二は、正 
                         
                        しい生き方を追求する、倫理的規範を重んじる道です。パウロは熱心なユ 
                         
                        ダヤ教徒として後者の道をひたすら走っていました。しかし、その為に必 
                         
                        須とされていた「律法」を守ることが、自己追求(自分を神とする)に繋 
                         
                        がることを、復活のイエスとの出会いによって発見したのです。第二の道も、 
                         
                        結局行き着く先は第一の道である、と。 
                         
                         
                        パウロは第三の道として「霊によって歩む」ことを指し示します(5;16)。 
                         
                        それは神から恵みとして与えられる「愛によって働く信仰」に生きる道です。 
                         
                        キリストによって律法から解放して自由にしていただける、と言います。 
                         
                         
                        ガラテヤの信徒たちに、「肉による」道の結ぶ実として、性の乱れや争い 
                         
                        など、15の悪を示し、「霊による」道のそれとして愛、喜び、平和など、9つ 
                         
                        の善を挙げます。そして、彼の伝えた「霊によって歩む」真の福音から離れて 
                         
                        はならない、と情熱を込めた強い言葉で説得するのです。律法を守れというユ 
                         
                        ダヤ人キリスト者たちに騙されるな、と。 
                         
                         
                        「霊によって歩む」とは、イエスと共に歩むことでしょう。いつも私たちの 
                         
                        心の扉を叩いておられる復活のイエスを、あるがままで、心にお迎えしたいと 
                         
                        思います。                    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年6月16日(日) 集会 
                         
                        「死を超えるもの ~第二テモテの中の二つの讃美歌より」 
                         
                              テモテへの手紙二 1:9~10 、2:11~13 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                             
                        第二テモテは牧会書簡の一つで、パウロが最晩年に愛弟子テモテに宛て 
                         
                        たものと記されています。ただし、牧会書簡は18世紀以降の聖書学の進展 
                         
                        とともに、文体や内容からパウロの真筆ではないと多くの研究者が考える 
                         
                        に至っています。内村鑑三も「疑わしき書簡」の中で、牧会書簡はパウロ 
                         
                        以外の人物によるものとし、内容について多くの批判をしています。 
                         
                         
                        ただし、1章9~10節と2章11~13節は、第二テモテが書かれるよりも前 
                         
                        から存在した讃美歌の文章で、そこからの引用と考えられます。 
                         
                         
                        前者では、永遠の昔から神は私たちに恵みの計画を持ち、聖なる者にしよ 
                         
                        うと招き、イエスによって神の愛を示し、死を滅ぼし不滅の命を明らかにし 
                         
                        たことが謳われます。 
                         
                         
                        後者では、聖霊のバプテスマを受けキリストを信じるに至った人は永遠の 
                         
                        命を生きること、耐え忍ぶならばキリストと共に世を治める者となること、 
                         
                        小さい者の苦しみや悲しみに共感せずないがしろにした者は裁かれること、 
                         
                        愛そのものであるキリストは自らを否定することができず、常に愛をもって 
                         
                        働きかけ人々を救うことが伝えられます。 
                         
                         
                        この二つの讃美歌はキリスト教信仰の精髄を現した珠玉の文章と思われます。 
                         
                        二つの讃美歌を通じて、死と絶望を乗り越える神の真実を学びました。(鎌田記) 
                        
 
                         
                        2019年6月9日(日) 集会 
                         
                        「神の計画」 エレミヤ書1章 
                         
                        講話:渕上明、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        エレミヤはヨシヤ王の治世第13年に20歳前後で召命を受け、エルサレム 
                         
                        の住民が捕囚となるまで40年間にわたって預言活動をしています。エルサ 
                         
                        レム崩壊後、エジプトに連れて行かれることになりますが、その最期は分 
                         
                        かっていません。 
                         
                         
                        エレミヤは、他の予言者に比べ弱々しく、時に神に対して嘆き悲しむだ 
                         
                        けではなく、迫害する者への復讐を願ったり、神への不平不満も口にした 
                         
                        りします。神はエレミヤの口に触れ、言葉を授けられます。これは、神の 
                         
                        言葉をエレミヤが直接語っていくことを意味します。 
                         
                         
                        10節の神の言葉「見よ、今日、私はあなたを諸国民、諸王国の上に任命する。 
                         
                        引き抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」は、24章 
                         
                        4節から7節にある言葉と関連しています。神は、「捕囚の民を良いものと見な 
                         
                        す。」と述べられ、この地に帰すことを約束されます。7節では「私は彼らに、 
                         
                        私が主であることを知る心を与える。」と言われています。その心によって、 
                         
                        本当に主を知ることになる人もいれば、心を与えられても、知ることのない人 
                         
                        もいるかも知れません。神は、イスラエルの人々に罰を与えると共に、それを 
                         
                        救う道も計画されているのです。 
                         
                         
                        エレミヤ書は、様々な面で、主イエス・キリストの到来を預言する部分があ 
                         
                        ります。それは、神からの一方的な愛であり、そのことに感謝せざるを得ません。  
                         
                                                  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2019年6月2日(日) 集会 
                         
                        
                        「遺民(いみん)」 ミカ書5:6 
                         
                        講話:犬養光博先生(日本基督教団)、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        預言者ミカは言います。神は、背く南ユダ王国をバビロン捕囚によって 
                         
                        審かれた後、「残りの者」を呼び集めて(2:12)新しい国の土台とされる、 
                         
                        と。その残りの者は「足の萎えた者(4:7)」等の押し潰された人々で、神 
                         
                        の恵み(朝露、草に降る雨)と癒しを与えられる、と(5:6)。そしてミカ 
                         
                        書は、神の審きと救いは同時に起こる、と結ばれています(7:18~20)。 
                         
                        救いは審きを通してのみ与えられるのです。 
                         
                         
                        新しい国の再興にあたって、神は古い土台をむき出しにする(1:6)とあ 
                         
                        ります。神の形に似たものとして土台(基)を創られた人間が、自己中心のか 
                         
                        らだを建ち上げていますが、残りの者(遺民)とされるとき、土台に立ち返ら 
                         
                        せて戴くのです。カネミ油症被害者・紙野柳蔵さんは、多くの被害者が「元の 
                         
                        体を返せ」といわれる中で、そう言われませんでした。罪人であった古い自分 
                         
                        に戻るのではなく、新たに創られた者として生きよう、と「悔い改め」を呼び 
                         
                        かけられたのでした。 
                         
                         
                        十字架という審きを通して、救いが齎されました。審きの後に起こされた“遺 
                         
                        民”はイエス・キリストにほかなりません。イエスから新しい命が生じ、世の光 
                         
                        が輝いています。イエスの光を世に輝かせるのは、押し潰された人々なのです。 
                         
                         
                        暗黒に突き進むこの世にあって、私たちはイエスから遺民としての使命を与え 
                         
                        られていることを憶え、イエスに繋がることを通して“世の光”として生きたく 
                         
                        思います。                         (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年5月26日(日) 集会 
                         
                        「挨拶」 ローマの信徒への手紙1:1~7 
                         
                        講話:市村昭三、司会:原サイ子 
                         
                        
                        この手紙はパウロが第3回伝道旅行の最後に3ケ月滞在したコリントで書 
                         
                        いたもの。ローマにいる未知の信徒達と信仰の本質を分かち合って実りを 
                         
                        得たいとの希望と、異邦人伝道者としての責任感に満ちており、彼の遺言 
                         
                        とも言われます。 
                         
                         
                        冒頭、当時の手紙に倣って、発信人パウロから受信人ローマの信徒への 
                         
                        挨拶が書かれていますが、その中に信仰の中心問題に関する挿入文があり 
                         
                        ます(2~6)。そこには、いくつかの重要な語句があります。 
                         
                        ①「使徒」:使徒といえばイエスの12弟子とされていましたが、パウロは 
                         
                        霊によって召されて使徒とされた、と言います。それもユダヤ人の枠を超 
                         
                        えて、世界に福音を伝えるべく召されたのだ、と。彼は終始、自分の使徒 
                         
                        職の権威を巡って戦ったのでした。 
                         
                        ②「神の福音」:福音は固定的、客観的に捉えて「悟り」のように解するの 
                         
                        ではなく、「神の力」である、と述べます。キリスト者とは、個人の思いを 
                         
                        はるかに超えて、創造者・審判者である神の領域の中に入れられた者なのです。 
                         
                        ③「約束」:福音は思想や哲学ではありません。イスラエルに与えられた約束 
                         
                        が、イエスの到来によって成就した、歴史的出来事です。 
                         
                         
                        パウロを召された神は私たちも召して、イエスのものとされる、といいま 
                         
                        す(6)。パウロが命懸けで伝えてくれた福音に耳を傾けるにつけ、恵みの領 
                         
                        域に入れて戴いていることを感謝しつつ、日々新たに歩みたいと思います。 
                         
                                                     (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年5月19日(日) 集会 
                         
                        「自由な身の女の子ども」 ガラテヤの信徒への手紙4:20~5:1 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                             
                        イエスとの出会いによって、律法への熱心から自分の正しさを主張する 
                         
                        あまり、神に敵対する者となることに目覚めたパウロは、ユダヤ人が選ば 
                         
                        れた民として律法に固着し、霊的感受性を失っていることに気がついたと 
                         
                        思われます。価値判断の主体としての自己が深い眠りに陥っているという 
                         
                        自己喪失は、現代日本の最も深刻な問題でもありましょう。 
                         
                         
ガラテヤの信徒に律法も守るべきだと言う論敵(ユダヤ人キリスト者たち) 
                         
                        に、その律法(旧約聖書)に耳を傾けてみよと、パウロはハガルとサラの物語 
                         
                        (創世記16、21章)を採り上げます。奴隷ハガルの子イシュマエルは“肉につ 
                         
                        く者”、自由な身サラから生まれたイサクは“約束の子”ですが、驚くのは、 
                         
                        ユダヤ人が敵とするハガル(と子孫)を、ユダヤにとって大切なエルサレムだ 
                         
                        とするのです。エルサレムから論敵が来ていたからでした。そしてサラを天上 
                         
                        のエルサレムになぞらえますが、それはキリストを指し示しています。キリス 
                         
                        トの恵みを受けたガラテヤの信徒たち(サラの子ども)は、ハガルの子孫に戻 
                         
                        ってはならない、と。福音に目覚めた彼ならではの自由な解釈です。 
                         
                         
感受性喪失のユダヤは、程なく神によって審かれて地上から消えました。 
                         
                        恐ろしいことに、神の審きは“放置される(ローマ1:24)”ことにあります。 
                         
                        今日の日本は、その審きの下にあることを恐れなければならないと思います。(秀村記) 
                         
                         
                        2019年5月12日(日) 集会 
                         
                        「罪の赦しの福音」 ルカによる福音書7:36~50 
                         
                        講話:千葉惠(けい)(北海道大学・文学研究院)、司会:小林典子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                             
                        食卓でイエスの足を涙で濡らして香油を塗った女は、イエスについて来 
                         
                        たのでしょう。「罪深い女」とありますが、救いを必要としていたのです。 
                         
                        私の経験からも言えることですが、罪を自覚することなくしてイエスに救 
                         
                        われるには至りません。 
                         
                         
宴席の主人であるファリサイ人シモンは、女に触れさせているイエスを咎 
                         
                        める思いを持ちます。罪人に触れることは罪だとされていたからです。それ 
                         
                        を察知したイエスは、「私に示した愛の大きさから、この女は多くの罪を赦 
                         
                        されている(触れても問題ない)」と言い、女には「あなたの罪は赦された」 
                         
                        と言われます。また、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」とも言われ 
                         
                        ました。ここで、人を救うのは“愛の業”によるのか、“信仰”によるのか、 
                         
                        を考えさせられます。 
                         
                         
私たちの信仰を神が嘉してくださるとき、私たちは信仰のみで義とされます。 
                         
                        そして“信”は“愛”に向かうのです。イエスは完全な“神への信”をお持ちで 
                         
                        あった故に、その一挙手一投足が“愛”でありました。私たちも、イエスが私た 
                         
                        ちの心の中に形づくられるとき(ガラテヤ4:19)、愛を実践することが出来る 
                         
                        ようになります。イエスは、モーセに与えられた律法を廃棄された訳ではなく、 
                         
                        愛は律法の冠なのです。 
                         
                          
イエスの十字架によって私たちの罪は赦されていますが、その“証”として 
                         
                        イエスは復活されたのです。 (秀村記) 
                         
                         
                        2019年5月5日(日)  集会 
                         
                        「エレミヤの召命」 エレミヤ書1章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        出エジプト後、イスラエルの人々はカナンの地に定着しました。その後、 
                         
                        ソロモン王の頃に栄華の絶頂期を迎えます。しかし、出エジプトの時代に 
                         
                        神との契約を結んだことを忘れ、カナン人の信仰を受け入れるようになっ 
                         
                        ていました。その後、イスラエルは、南王国ユダと北王国イスラエルに分 
                         
                        裂します。北王国イスラエルは、紀元前722年に大国アッシリアに滅ぼ 
                         
                        されます。その後、アッシリアは衰退に向かい、新バビロニア王国が台頭し、 
                         
                        エジプトと覇権を争っていましたが、イスラエルはその間にあり、両国に翻 
                         
                        弄されていました。やがて、ユダ王国も新バビロニアのネブカドネツァル王 
                         
                        によって滅ぼされ、多くの国民はバビロンで捕囚となります。 
                         
                         
この時期に登場したのが、預言者エレミヤです。彼は若き日に神より召命 
                         
                        を受けます。それは、神のすべての力を与えるとの約束でもありました。ま 
                         
                        だ20代と思われるエレミヤにとっては、たいへん重い役割を担わされたわけ 
                         
                        ですが、預言者になることは、エレミヤが母の胎内にいる時から、決まって 
                         
                        いたことを告げられます。 
                         
                         
人生において苦しみもありますが、与えられた場所で懸命に生きることは、 
                         
                        神によって定められたものであることが示されます。そして、何よりもエレ 
                         
                        ミヤ書1章の最後にある言葉、「わたしがあなたと共にいて、救い出すから 
                         
                        だ」という言葉には勇気づけられます。        (渕上記) 
 
                         
                        2019年4月28日(日) 集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(4)- ただ神の霊によって光となる」 ゼカリヤ書4章 
                         
                           
                        講話:鎌田厚志、司会:村上思門、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                              
                        ゼカリヤ書4章ではゼカリヤの第五の幻が記されています。 
                         
                         
                        4章冒頭では神がゼカリヤを眠りから目覚めさせる様子が描かれます。 
                         
                        聖書では霊的に鈍くなることを「眠り」と表現します。信仰が教義化し 
                         
                        て単なる知識に終始すれば霊的に鈍くなってしまいます。ではどうすれ 
                         
                        ばいいのでしょうか? 
                         
                         
                        その答えが第五の幻にあります。第五の幻では、金の燭台と七つの灯 
                         
                        火皿のビジョンが示されます。この燭台には、二本のオリーブの木の枝 
                         
                        から油が注がれ続けています。この不思議なビジョンの意味をゼカリヤ 
                         
                        が問うと、神は、これは総督・ゼルバベルに向けた言葉だと示します。 
                         
                        人の力によらず神の霊によって生きる時に、ゼルバベルはメシア到来へ 
                         
                        と向かう歴史の一部となります。ささいな日常と思われていた日々が喜 
                         
                        びに満ちた意義深い一歩一歩となります。さらに、二本のオリーブの木 
                         
                        の枝は二人の神の霊をそそがれた人間であると告げられます。神の霊と 
                         
                        しっかり結びついた人間を通して、神の霊は人々に伝わっていくという 
                         
                        のです。 
                         
                         
                        私たちは、神の霊が常に注がれる時に、世を照らす光となります。 
                         
                        神の言葉に触れ続け、神に問い続け、神と対話し続けること。その 
                         
                        ことの大切さを、ゼカリヤ第4章を通じて学びました。   (鎌田記) 
                         
                         
                        2019年4月21日(日) イースター集会 
                         
                        「神の子の自由」 ガラテヤの信徒への手紙4:1~20 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        長澤澄子のの感話「ガリラヤの風」に続き、上記をを学びました。 
                         
                        
                        神の子とされる恵みは、律法を守ることによるのではなく、キリストの 
                         
                        真実によるのだ、と言うパウロは、視野を異邦人に拡げます。“律法”を 
                         
                        持たない異邦人には“この世のもろもろの霊力”が問題だ、と。キリスト 
                         
                        に出会う迄、ユダヤ人は律法の支配下に閉じ込められているが、異邦人は 
                         
                        “神ではない神々”に隷属しているのであり、いずれの場合もキリストに 
                         
                        よって、神の子の自由へと解放される、というのです。 
                         
                         
                        神は、イエスを人として罪(律法やもろもろの霊力)の下に遣わされ、人 
                         
                        を罪から贖い出して下さいました。パウロは、「人の心に神が御子の霊を送 
                         
                        り給うたことによって成った救いから離れてはならない、再度あなた方の心の 
                         
                        内にキリストが形づくられることを願う。」とガラテヤの信徒達に訴えます。 
                         
                         
                        律法遵守を主張したユダヤ主義キリスト者達は、アブラハム以来の伝統に忠 
                         
                        実であろうとし、キリスト信仰もその延長上にありました。神に対する熱心が 
                         
                        そうさせたのでしょうが、パウロはイエスとの出会いによって、その熱心が強 
                         
                        烈な自己主張となって、恐るべき倒錯に陥っていたことに目が開かれたのでした。 
                         
                        彼の信仰は、その古き自己の死を経由して与えられたものであり、律法からの解 
                         
                        放に他ならなかったのです。 
                         
                         
                        肉に付ける古い自分に死んで、イエスの霊に生きること(イースターの意味!) 
                         
                        が求められています。                 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年4月14日(日) 集会 
                         
                        「イエス・キリストにある神の子」 ガラテヤの信徒への手紙3:15~29 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        パウロは、アブラハムが救われたのは律法を守ったからではなく、神の 
                         
                        契約(約束)を信じたからであって、後から出来たモーセ律法によって契 
                         
                        約が破棄されることはない、律法よりも契約が上位に位置する、と言いま 
                         
                        す。ユダヤ主義キリスト者が、異邦人は律法を守ってユダヤ人にならなけ 
                         
                        ればキリスト信徒になれない、と主張するのは誤りだ、と。 
                         
                         
                        律法は神の契約を具体化したもの、とするユダヤ人に対して、パウロは 
                         
                        律法の意義を認めつつ、神が律法を与えられたのは、私たちに律法を守る 
                         
                        ことは不可能なこと、即ち私たちが罪人であることを教える為であった、 
                         
                        と述べています。律法は私たちをキリストに導く“養育係”なのだ、と。 
                         
                        回心前キリスト者を迫害していた経験から、律法は神に逆らう拠点と化す 
                         
                        ことを、イエスとの出会いによって発見したのでした。 
                         
                         
                        しかし今や、私たちは“神の子” とされた、と言います。“神の子”と 
                         
                        はイエスの尊称ですが、罪の自分のまま、キリストを着ることによって 
                         
                        “キリストと共なる相続人(ローマ8:17)”にしていただくとは、驚くべき 
                         
                        ことです。十字架のイエスの贖いという恵みによって、「ユダヤ人も異邦人も、 
                         
                        奴隷も自由人も、男も女も、キリスト・イエスにあって一つである(3:28)」 
                         
                        新しい、差別のない時代が齎されました。 
                         
                         
                        ここに顕れた神の栄光を讃美せずにおれません。     (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年4月7日(日) 集会 
                         
                        「律法の完成」 出エジプト記40章 
                         
                        講話:渕上明、司会:日比和子 
                         
                        
                        出エジプト記の学びを終えるに当たって最初から読み返してみて、改め 
                         
                         
                        て神の深いご計画を感じることが出来ました。 
                         
                         
モーセの一生は、エジプトの王宮での40年、羊飼いの40年、そして神の 
                         
                        召命による40年に分かれます。当時の最高の知識や学問を修めた最初の期 
                         
                        間、荒野での自然の生活をした期間、イスラエル民族の出エジプトを導いた 
                         
                        リーダーとしての期間、その全てを通して神のご計画が遂行されました。 
                         
                         
また、モーセの活動を見てみると、モーセがイエス・キリストにつながっ 
                         
                        ていることを知らされます。モーセとイエスの夫々によって、神から私たち 
                         
                        に旧い律法と新しい律法が与えられました。モーセに与えられた律法は、人 
                         
                        間の行動に関する律法でしたが、イエス・キリストの律法は、人の心の中に 
                         
                        まで入り込んだ律法でした。もう一つの大きな違いは、モーセに与えられた 
                         
                        律法は、正しい行いをすれば、恵みが与えられるという律法でした。しかし、 
                         
                        元々、罪を背負った人間はそれを守ることが出来なかったのです。その生ま 
                         
                        れつき内在する罪を贖うために、神はイエス・キリストをこの世に送られま 
                         
                        した。それは、神からの一方的な恵みでした。 
                         
                         
モーセの人生は、将来訪れるイエス・キリストの死と復活による福音を示 
                         
                        す為の先駆けとなったものであり、モーセの語った律法も、主イエス・キリ 
                         
                        ストの新しい律法によって完成されたのです。       (渕上記) 
 
                         
                        2019年3月31日(日) 集会 
                         
                        「無教会の諸先生のローマ書講解の特色」 ローマの信徒への手紙1:1~7 
                         
                        講話:市村昭三、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        パウロが第3次伝道旅行の最終段階で書いたとされる「ローマの信徒へ 
                         
                        の手紙」は、彼の信仰の集大成であり、遺言状とも言われます。従って無 
                         
                        教会の先達は皆、その講解に力を注ぎました。内村鑑三は、この手紙は 
                         
                        “秩序整然たる一大書簡”であり、その内容の壮麗高貴であることを大建 
                         
                        築物に例えています。読む者の襟を正す論述です。また、この手紙の内容 
                         
                        を魚の切り身に例える塚本虎二のものは、日常生活に信仰を定着させよう 
                         
                        とした塚本ならでは、です。信仰のあり方に神学的に迫る関根正雄、パウ 
                         
                        ロの立場に身を置いて彼を内側から捉えようとする高橋三郎と、夫々特色 
                         
                        があり、読む者に、自分はこの手紙にどう向き合うかを考えさせられます。 
                         
                         
                        現代聖書学のリーダーともいえるG.タイセン(ドイツ)は、特異な解釈 
                         
                        をしますが、手紙冒頭でのパウロの挨拶(1:1~7)につき、次のように 
                         
                        述べています。「パウロは、目一杯に肩書を響かせて自己紹介をしつつ、 
                         
                        彼が全世界の支配者(神)からの委託を受けて活動しており、自分の伝道は 
                         
                        全ての民族に及ぶものであることを強調する。そして彼のローマ訪問の意義 
                         
                        について、またその覚悟のほどを、見事に描いている。パウロの伝道活動と、 
                         
                        残された手紙によって、キリスト教が世界宗教として展開されたことは、歴 
                         
                        史的事実である」、と。 
                         
                         
                        私達もこの手紙に多大な恵を受けているのです。   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年3月24日(日) 集会 
                         
                        「律法の呪い」 ガラテヤの信徒への手紙3:1~14 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        信仰だけではなく律法も必要だ、と変節したガラテヤの信徒達にパウロ 
                         
                        は「愚か者!」と叱っています。アブラハムを見よ、彼が義とされたのは、 
                         
                        神を信じたから(創世15:6)であって、律法を守ったからではないでは 
                         
                        ないか、と。では、そもそもパウロが攻撃してやまない律法とは何でしょ 
                         
                        うか?  
                         
                         
                        イスラエルの民は、神の導きと約束に信頼する信仰に基盤を起きましたが、 
                         
                        信仰は、同時に具体的局面での決断と行為を問われましたから、律法遵守も 
                         
                        必須、と理解されたのです。唯一の神を信じて律法を守る「ユダヤ人」が神 
                         
                        の祝福を受けるとされ、神殿と律法が機能するユダヤ教となったのでした。 
                         
                         
                        熱心なユダヤ教徒で、キリスト教徒を迫害していたパウロは、復活のイエ 
                         
                        スとの出会いによって、律法が神への反逆(罪)の拠点となることに目を開 
                         
                        かれたのです。律法は、人を罪に誘う「呪い」である、とまで言います(3:10)。 
                         
                        彼が知ったことは、全人類が捕われているその「呪い」を、イエスが引き受け 
                         
                        てくださった(贖いの死)こと、従って律法は不要、十字架のイエスによって 
                         
                        与えられた恩恵を信じるだけで良い、ということでした。ここに、異邦人も罪か 
                         
                        ら救われる道が開かれ、新しいときが到来したのです。 
                         
                         
                        私達に求められることは、あるがままで(律法不要)イエスを信じ、その招き 
                         
                        に従うこと。罪の苦しみ、悩みから解放して下さるイエスを仰ぎつつ歩みたいと 
                         
                        思います。                     (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年3月17日(日) 集会 
                         
                        「キリストの真実」 ガラテヤの信徒への手紙2章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        復活のイエスとの出会いによって律法(=罪)から解放され、同時に 
                         
                        異邦人伝道者として召されたことを記した(1章)パウロは、引き続きエ 
                         
                        ルサレムでの「使徒会議」と、アンティオキアでのペトロとの「衝突」に 
                         
                        ついて述べています。 
                         
                         
                        「使徒会議」では、律法も大切だとするユダヤ主義キリスト者(ペトロ、 
                         
                        ヤコブ)が、パウロの律法不要論を容認して、伝道対象をユダヤ主義者は 
                         
                        ユダヤ人、パウロは異邦人と取り決めました。しかし、アンティオキアに 
                         
                        来たペトロが、承認した筈であるパウロの立法不要論に反する行動をとっ 
                         
                        たのです(異邦人との食事を避けた)。それは偽善(差別)だ、と指摘し 
                         
                        ます。ガラテヤの信徒達も同じ誤りに陥っている、と。 
                         
                         
                        パウロは自分が律法を守れない罪人であり、死ぬべき存在であることを 
                         
                        自覚して、律法は人を殺すことを発見しました(ローマ7章にその苦衷を 
                         
                        吐露しています)。異邦人は罪人というユダヤ人も、律法の行いによって 
                         
                        は誰ひとり義とされることが無いとすれば、全人類が罪人にほかなりません。 
                         
                         
                        イエスも律法によって殺されましたが、全ての人の罪を贖う十字架に示さ 
                         
                        れた“キリストの真実”によって、私達はその死に合わせられるのです。そ 
                         
                        してイエスの復活に示された新しい生命に生きることが許されています。 
                         
                        「私が生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を捧げられた神の子の 
                         
                        真実による。(2:20)」は私達の告白でもあります。  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年3月10日(日) 集会 
                         
                        ガ「真の福音」 ラテヤの信徒への手紙1章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                             
                        パウロはガラテヤ地方(トルコ中部)を3度訪ねて集会を創りましたが、 
                         
                        最後の伝道旅行でのエフェソ滞在中にガラテヤ集会の異変を耳にしました。 
                         
                        後から来た伝道者によって彼の伝えた福音とは異なる福音が齎され、ガラ 
                         
                        テヤ集会の信仰が変節した、と。驚き、憤慨して書いたのがこの手紙です。 
                         
                         
自らの使徒職の根拠を、人間から与えられたのではなく、神の啓示によ 
                         
                        るのだ、と言います。熱心なユダヤ教徒として、律法遵守が救いへの道であ 
                         
                        ると確信していた彼は、復活のイエスとの出会いによって、それまでの信念 
                         
                        が根源的な倒錯であることを示されたのでした。正義の信念は他者を排除し 
                         
                        ますが、律法遵守の信念が神の子イエスを殺すのです(即ち罪)。それは同 
                         
                        時に、彼が信じ、生きてきた歴史が、イエスの到来によって新たな歴史に突 
                         
                        入したことを知らされたことでもありました。イエスとの出会いは、罪赦さ 
                         
                        れると同時に、新たな歴史を切り開くべく彼を異邦人伝道に向かわせたのです。 
                         
                         
パウロは救いに必要なのは“信仰のみ”、と強調しました。信仰と併せて律 
                         
                        法の行いも必要か?というのがガラテヤ集会の問題です。十字架は無条件に全 
                         
                        ての人を罪から救い出す神の愛を示すもの、良い行いを追求する必要は無いの 
                         
                        です。 
                         
                         
「(神が)御子を私の内に啓示すること(1:15岩波訳)」がパウロを回心に 
                         
                        導きましたが、私たちも、いつも心にイエスが宿り給う日々を歩みたく祈ります。 
                         
                                                       (秀村記) 
                         
                         
                        2019年3月3日(日) 集会 
                         
                        「心に知恵のある者」 出エジプト記35~39章 
                         
                        講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        出エジプト記35~39章は25~31章の繰り返しで、35章から幕屋の建設 
                         
                        について書かれています。その中で心に残った言葉が「心に知恵のある者」 
                         
                        という言葉
- 単に「知恵のある者」ではなく-
です。モーセが幕屋建設 
                         
                        のための捧げものを求めますと、心を動かされた人と魂を突き動かされた 
                         
                        人が、皆捧げものを携えてやって来ました。そして、その材料を使って、 
                         
                        「心に知恵のある者」が制作して行きます。36章では、主から知恵と英知 
                         
                        を与えられた者が集められます。多くの人々が協力しました。   
                         
                         
                        パウロは、私達が「キリストにあっては一つの体であり、一人一人が互い 
                         
                        に部分なのです。」と述べています(ローマ12:4)。また続けて「私たちは、 
                         
                        与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。」とも言 
                         
                        っています。 
                         
                         
                        私たちは、人生の様々な場面で、その賜物を生かしていく必要があるのではな 
                         
                        いでしょうか。主イエス・キリストは、その人生の様々な場面で、身をもって模 
                         
                        範となる姿を示してくださいました。主イエス・キリストと同様に行動すること 
                         
                        は、とても出来ないことですが、自分に与えられた賜物に感謝し、内村鑑三が 
                         
                        「後世への最大遺物」の中で述べているように、自分がこの世を去る時に、少し 
                         
                        でも生まれた時よりもこの世が善くなったと思えるような生き方を考えていくこ 
                         
                        とが大切なことだと思います。            (渕上記) 
                        
 
                         
                        2019年2月24日(日) 集会 
                         
                        「福音による一致-献金の勧めの手紙-」  
                         
                                       コリントの信徒への手紙二8~9章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        各地に設立した集会を再訪するパウロの第3回伝道旅行は、献金集め 
                         
                        の旅でもありました。パウロは異邦人伝道を認められた時(使徒会議)、 
                         
                        エルサレム集会を経済的に支える、と約束していました(ガラテヤ2: 
                         
                        10)。エルサレム集会との接続を殊のほか重視していたのです。十字架 
                         
                        の福音は、古来ユダヤ人に伝えられてきたヤハヴェ神の約束の成就だ、 
                         
                        と信じていたからでした。愛なる神の愛の実現にほかならない、と。 
                         
                         
彼はコリント集会とのトラブル解決の為に“涙の手紙”を書き、次い 
                         
                        で弟子テトスを派遣、募金の任務も持たせました。パウロはマケドニア 
                         
                        に来てテトスと会い、トラブル解決を喜んでコリント集会宛に“和解の 
                         
                        手紙”を、続いて“献金の勧めの手紙”を書いています。2つの手紙で、 
                         
                        マケドニア集会と共にコリント集会をも褒めて、牧会的配慮を見せてい 
                         
                        ます。 
                         
                         
献金することは恵みであり、恵みの業(奉仕)であるといいます。キ 
                         
                        リストがご自身の富を放棄して貧しくなられたことに倣うのだ、と。十 
                         
                        字架に見るキリストの貧しさこそ、信徒が他の信徒に対してもつべき精 
                         
                        神を示す、というのです。 
                         
                         
献金は、教会の本部エルサレムに払う教会税でも慈善行為でもなく、 
                         
                        キリストのからだに連なる肢体相互を結ぶ“愛のわざ”であり、この 
                         
                        わざは“感謝の祈り”と“とりなし”を呼び起こして、礼拝となるの 
                         
                        です(9:11~15)。          (秀村記) 
                         
                         
                        2019年2月17日(日) 集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(3)-神による着替え」 ゼカリヤ書3章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ゼカリヤ書3章では第四の幻が記されています。 
                         
                         
冒頭では、神の法廷において、大祭司ヨシュアが主のみ使いの前に 
                         
                        立ち、サタンに告発されます。しかし、み使いは、ヨシュアを弁護し、 
                         
                        さらにはヨシュアの「汚れた衣」を脱がせ、「晴れ着」(別訳では 
                         
                        「礼服」)に着替えさせます。そして、ヨシュアの罪は赦されたと宣 
                         
                        言します。 
                         
                         
さらに、この罪の赦しの上で神の道と戒めを守れば、「家」と「庭」 
                         
                        つまりエクレシアを管理する者となり、神や天使たちと交わることが許 
                         
                        されると述べられます。そして、「若枝」つまりメシアが来ることと、 
                         
                        ヨシュアたちはその「しるし」(前表、予兆)であることが告げられま 
                         
                        す。(ヨシュアのギリシャ語名は「イエス」です)。 
                         
                         
最後に、七つの目のある石に彫り物が刻まれ、地の罪が一日の間に赦 
                         
                        され、平和が訪れることが告げられます。 
                         
                         
この幻は、キリスト(「隅の親石」「かなめ石」)の十字架の贖罪で 
                         
                        人類の罪が赦されることを預言していると受けとめた時に、はじめて意 
                         
                        味がわかるのではないでしょうか。「キリストを着る」(ロマ13:14) 
                         
                        ことで主の宴会に参加する資格となる「礼服」を着ることができる。た 
                         
                        だキリストの十字架の贖いを信じるだけで罪が赦され、神の国に入る資格 
                         
                        を得る。この福音をゼカリヤ3章を通じて学びました。 (鎌田記) 
 
                         
                        2019年2月10日(日) 集会 
                         
                        「モーセの顔の光」 出エジプト記34章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        モーセの必死のとりなしにより、神とイスラエルの民との契約が再び 
                         
                        結ばれることとなりました。モーセは四十日四十夜シナイ山にこもるこ 
                         
                        とになります。モーセが二枚の石板を携えてシナイ山に登り、その石板 
                         
                        に神が契約の言葉を書かれます。また、モーセも神の言葉を書き記すよ 
                         
                        う命じられます。 
                         
                         
この記事で最も不思議に感じられるのは、モーセの顔が光り輝いてい 
                         
                        たことと、モーセが顔に覆いを掛けていたことです。これに関しては様 
                         
                        々な解釈があるようですが、パウロは、モーセに与えられた栄光は、や 
                         
                        がて消え去るものであるが、キリストによって与えられた栄光は、消え 
                         
                        去るものではなく、永続するものであると述べています(Ⅱコリント 
                         
                        3:6~18)。  
                         
                         
モーセは神としばしば親しく語り合い、そのため神の栄光により顔の肌 
                         
                        が光り輝くようになりました。しかし、その栄光は永遠に続くようなもの 
                         
                        ではなく、時と共に消え去るものでした。そのため、モーセは神の前に行 
                         
                        って神と語り合う時、神の言葉をイスラエルの人々に告げる時以外は、顔 
                         
                        に覆いを掛けていました。しかし、私たちはパウロの言うように、新しい 
                         
                        契約で神と結ばれています。石の板ではなく、心の板に新しい契約を与え 
                         
                        られました。それは、キリストによって、私たちの中にある心の覆いが取 
                         
                        り除かれたからです。 
                         
                         
罪の中にある私たちですが、主イエス・キリストにより、神からの一方 
                         
                        的な恵みがもたらされたのです。 (渕上記) 
 
                         
                        2019年2月3日(日) 集会 
                         
                        「伝道者の愛-和解の手紙②-」  
                         
                                 コリントの信徒への手紙二2:5~13、7:5~16 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:日比和子 
                         
                        
                        パウロの教えとは異なる福音に変節したコリントの信徒たちが、“涙 
                         
                        の手紙”によって悔い改めたことを知ったパウロは、苦しかったが慰め 
                         
                        を得た、と大喜びします。そして問題を起こした人物
-詳しいことは不 
                         
                        明。福音に強さを求めた人?不正を働いた人?- に“愛を示して赦しな 
                         
                        さい(2:8、10)”と言います。過ちを犯した者に対してとる態度は、 
                         
                        神が罪人を赦し給うことに倣うべきなのです。隣人を裁いて切り捨てない…  
                         
                        それは私たちも倣うべき福音伝道者の愛の姿勢だと思います。裁く時、サ 
                         
                        タンにつけ込まれる(2:11)のです。 
                         
                         
                        “涙の手紙”でパウロがコリントの信徒たちに求めたのは、自分に対す 
                         
                        る“従順”であった、と言い切っています。パウロが人間的に優れている 
                         
                        から自分に従え、と言っているのではありません。伝道者はイエス・キリ 
                         
                        ストから遣わされた者として、神の全権を授かっているから、そして彼自 
                         
                        身が神への従順を貫いているからこそ、言えたことでした。 
                         
                         
                        手紙の結びは喜びの言葉です。まず吉報を得たテトスが喜び、そしてパ 
                         
                        ウロは最愛のコリントの人々との関係が回復したことを喜んで感謝に溢れ 
                         
                        ています。伝道者パウロの愛が伝わってきます。それは信徒たちへの愛で 
                         
                        あり、福音、即ちイエス・キリストへの愛です。私たちはパウロを通して、 
                         
                        神の愛、イエスの愛を受け取ることが出来ると思います。(秀村記) 
                         
                         
                        2019年1月27日(日) 集会 
                         
                        「『ロマ書』を学ぶにあたって 
                         
                                -ロマ書を巡る内村先生と藤井先生の対立と和解」 
                         
                                        ローマの信徒への手紙5:8ほか 
                         
                        講話:市村昭三、司会:鎌田良子 
                         
                         
                        今年からローマの信徒への手紙を学びますが、最初にこの手紙の中心と 
                         
                        もいえる十字架の福音を巡って、内村鑑三と藤井武の両先生が提起された 
                         
                        問題を見ておきたいと思います。 
                         
                         
                        若くして内村の弟子となった藤井は、内村の「聖書之研究」誌に、ロマ 
                         
                        書に学ぶことは“キリストの十字架に顕れた神の愛を信じること”との論考 
                         
                        を寄せて、“贖罪は十字架を虚しくする”と述べたのです。「単純なる福音」 
                         
                        を信じるべきだ、と。  
                         
                         
                        内村は反論して、“愛である神は罪を放置されない、罪に対する神の怒りを 
                         
                        離れて、十字架を考えることはできない、独り児の上に全人類の罪を置き給 
                         
                        うたのである。”と十字架による贖罪を強調しました。“神の義と愛が結合 
                         
                        するところがキリストの十字架である”として、キリスト教の真理は、義と 
                         
                        愛の二つの中心点を持つ“楕円形”であると説いたのでした。 
                         
                         
                        二人の対立は6年後に解消します。熱い祈りと聖霊の導きによって、藤井は 
                         
                        十字架による罪の贖いを信じる者となりました。“罪に対する憐れみ”しか分 
                         
                        からなかった彼が、“神の聖なる憤り”が分かるに至った、と言います。内村は 
                         
                        これを喜んで、“贖罪についての信仰を共にすれば、万事に一致できる”と書き、 
                         
                        二人の友情は内村が世を去るまで続きました。 
                         
                         
                        パウロの遺言とも言えるロマ書を通して、「十字架とは何か?」という最大の 
                         
                        問いを学びたいと思います。                 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年1月20日(日) 集会 
                         
                        「神はともにある」 出エジプト記33章 
                         
                        講話:渕上明、司会:横山宜和、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        イスラエルの民が金の子牛を拝んで滅亡の危機に陥りましたが、モーセの 
                         
                        とりなしにより救われました。そして、神はイスラエルの民に約束の地に向 
                         
                        かうよう命じられます。しかし神は、イスラエルの民が頑ななので滅亡させ 
                         
                        てしまうかも知れないとして、イスラエルの民との同行を拒否されます。  
                         
                         
                        モーセは臨在の幕屋を作って神と語り合い、神に同行してくださるよう願 
                         
                        います。神はモーセとの同行を承諾されます。更にモーセは、モーセだけで 
                         
                        はなく、イスラエルの民と同行して下さるよう再度願います。ずいぶん厚か 
                         
                        ましい願いにも思えますが、神はそのことにも同意されます。 
                         
                         
                        このことを私たちに当てはめてみると、神が主イエス・キリストを通して 
                         
                        いつも傍に居てくださることを意味します。「わたしはあなたの前にすべて 
                         
                        のわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。(19)」 
                         
                        とありますが、賜物とは、神の恵みを指すものであり、主という名の宣言とは、 
                         
                        神が唯一の存在であることを示されています。 
                         
                         
                        新約聖書では、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。 
                         
                        (マタイ28:20)]という復活されたイエスの言葉があります。私たちは、人 
                         
                        生のどのような苦しい場面でも、主イエス・キリストが共に居てくださること 
                         
                        を思い、生きていくことが出来ます。そのことを心から喜ばざるを得ません。 
                         
                                                   (渕上記) 
                         
                         
                        2019年1月13日(日) 集会   
                         
                        「すべてのことに時がある -フィリピンに遣わされて39年-」 
                        
                        コヘレトの言葉3:1~8 
                         
                        講話:横川知親、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                              
                        昨年ここに来た直後に妻が重病になり、死を覚悟しましたが、奇跡的に 
                         
                        巡りあったサプリによって、日常生活がこなせています。息子や娘も倒れ 
                         
                        たことがありましたが、護られています。しかし、親しい教会のピアニスト 
                         
                        が突然召されてしまいました。「生まれる時、死ぬ時、何事にも時がある」 
                         
                        という言葉(コヘレト3:1~2)を実感する日々を生きています。 
                         
                         
                        現在のフィリピンは“戦国時代”、簡単にいのちが奪われます。ドゥテル 
                         
                        テ大統領は安全な国への改革を進めています。民衆は大統領を支持していま 
                         
                        すが、辞めたらどうなるかわかりません。彼の政治改革は命懸けなのです。 
                         
                         
                        私はそんなフィリピンに遣わされて39年になりますが、こんなに長い期間 
                         
                        フィリピンにいる日本人は他にいません。 
                         
                         
                        何度も死ぬ目に会いましたが、その都度不思議な助けが与えられました。主 
                         
                        の御護りは奇跡としか言えませんが、皆さんが祈って下さることによるもの 
                         
                        と、感謝しています。 
                         
                         
                        「求める時、失う時、愛する時、戦いの時、平和の時、すべて定められた 
                         
                        時がある(コヘレト3:1~8)」とありますが、その時を定められるのは神 
                         
                        様です。神様に従順に従って、福音のために最後までこの身を捧げたいと願 
                         
                        っています。 
                         
                         
                        講話の前には、日比聖書教会のクリスマスなどをVIDEOで拝見、沢山の手 
                         
                        品も教えていただきました。             (秀村記) 
                        
 
                         
                        2019年1月6日(日) 新年集会 
                         
                        「苦難と慰め-和解の手紙①-」 コリントの信徒への手紙二1:1~2:4 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        異なる福音に惑わされたコリントの信徒たちを糾そうとしたパウロ 
                         
                        は「涙の手紙」を書き、三度目の訪問も考えましたが、代わりにテモ 
                         
                        テを派遣、マケドニアでテモテから吉報を受け取ります。コリントの 
                         
                        信徒たちは悔い改めてパウロの福音に戻りました。喜んで書いたのが 
                         
                        和解の手紙です。 
                         
                         
                        伝道活動の成否が懸かっているとも言えるコリント教会の行方につい 
                         
                        て、パウロの苦悩は並大抵のものでは無かったでしょう。安堵した彼は 
                         
                        神から慰めを得た、と述べています。この手紙を書いているエフェソで、 
                         
                        パウロは死に瀕する苦難(銀細工人の騒動?=使徒19章)からも救われ 
                         
                        たのでした。「神はあらゆる苦難に際して、私たちを慰めてくださる 
                         
                        (1:4)」との言葉を、新年に当たって心に刻みたいと思います。 
                         
                         
                        三度目の訪問を止めたことに対する非難もあったようですが、それはコ 
                         
                        リントの信徒への“思いやり”と“愛”が理由だと言います。伝道者とし 
                         
                        てのパウロの行動原理は、人間の思いや知恵によるのではなく、神から受 
                         
                        けた“純真と誠実、神の恵み”による(1:12)、と強調しています。 
                         
                         
                        私たちの日々の歩みに “霊”が与えられることは、救いの“手付金 
                         
                        (保証)”を手にしていることだ、とあります(1:22)。「苦難が希望を 
                         
                        産む(ローマ5:4)」ことを信じて、パウロのイエスにある喜びを共に生 
                         
                        きたいと思います。               (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年12月23日(日) クリスマス祝会 
                         
                        「キリストがあなた方の内に形づくられる」 ガラテヤの信徒への手紙4:19 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        ヘロデ大王の圧政下、人々は暗黒の中に喘いでいましたが、野宿して 
                         
                        いた羊飼いたちへの天使の言葉は「恐れるな」でした。イエスの誕生は、 
                         
                        希望なく戦慄すべき歴史の中に、全く新しい世が突入した、驚くべき 
                         
                        “出来事”でありました。 
                         
                         
                        イエスとは誰でしょうか?「ただ父の懐にいる独り子なる神だけが、 
                         
                        神を顕されたのである(ヨハネ1:18)」とあります。人間の知り得な 
                         
                        かった神の神秘がイエスによって開かれ、同時に私たちの生の意味が明 
                         
                        らかにされたのです。これこそが天使の告げた出来事-しかもただ1回 
                         
                        限りの出来事でした。このことによって、罪の贖い、私たちの救いが永 
                         
                        遠に与えられたのです。私たちは永遠の神の国の世継ぎとされました。 
                         
                        これがクリスマスの意味なのです。では、私たちはクリスマスをどう迎 
                         
                        えるべきでしょうか? 
                         
                         
                        パウロは「あなた方の内にキリストの形が出来るまでは産みの苦しみを 
                         
                        する(ガラテヤ4:19)」と言い、アンゲルス・シレジウスは「キリスト 
                         
                        の汝の衷に生れずば
/ベツレヘムの誕生に / 何の意味もなかるべし」と 
                         
                        詩っています。 
                         
                         
                        パウロが180度心の向きを変えたように、私たちの心の真中にイエスをお 
                         
                        迎えすること、それがクリスマスなのです。 
                         
                         
                        引き続き子供たちと共に、楽しい日曜学校クリスマス会、昼食感話会も 
                         
                        もちました。                  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年12月16日(日) 集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(2)― 城壁のない開かれた所」 ゼカリヤ書2章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:原サイコ、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        ゼカリヤ書前半の八つの幻のうち、第二章では第二・第三の幻が記され 
                         
                        ています。 
                         
                         
                        第二の幻では、四本の角と、それと闘う四人の鉄工(別訳:鍛冶職人) 
                         
                        が現れます。角は力の象徴であり、四方からイスラエルを攻撃する国々と 
                         
                        解釈できます。あるいは、角とは、傲慢・怒り・貪欲・偶像崇拝などの内 
                         
                        的な力を指すとも考えられます。 
                         
                         
                        問題や敵のあるところには、必ずその数だけ、それらの課題に取り組む 
                         
                        「鉄工・鍛冶職人」がいることをゼカリヤ書は教えてくれています。世界 
                         
                        のあちこちに存在している問題や悪を見るだけではなく、それらと取り組 
                         
                        んでいる人々がいることを忘れないようにしたいと思います。 
                         
                         
                        また、第三の幻では、復興されるエルサレムは神が火の柱となって守る 
                         
                        ので城壁はいらないと告げられます。軍備を撤廃し、神が守ってくださる 
                         
                        ことを信じる道が示されています。また、神が人々の只中に住むことと、 
                         
                        異邦人が神を信じることが預言されます。 
                         
                         
                        思えば、私たちは、日ごろあまりにも多くの壁をつくってしまっています。 
                         
                        しかし、イエスは、あらゆる壁や隔たりをなくした方でした。イエスのその 
                         
                        歩みに倣いたいとあらためて思います。そのことをゼカリヤ書から学びました。 
                         
                                                      (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2018年12月9日(日) 集会 
                         
                        「伝道の精神 ― 涙の手紙 ④
―」  
                         
                                 コリントの信徒への手紙二12:11~13:13 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        栄光に輝く強いキリストを主張する論敵に惑わされたコリントの信徒たち 
                         
                        の非難に対して、パウロは激しく論駁しましたが、つい自慢話(天に登った 
                         
                        経験など)もしてしまった、と言います。自分は“大使徒(論敵に対する皮肉) 
                         
                        ”以上の使徒である、何故なら、自分を捧げてもいいほどに信徒たちを愛し 
                         
                        ているのだから、と。十字架上に自分を犠牲にされたイエスの精神をもって 
                         
                        伝道している、と表白しています。 
                         
                         
                        「パウロは自己弁護している」という批判に対して、「神の御前でキリス 
                         
                        トに結ばれて語っている(19)」と応じています。自己弁護とは、人間パウ 
                         
                        ロが、人間である信徒に向かって、自分のことを語ることですが、語るのは 
                         
                        イエスであり、聞き手は信徒として存在しているイエス、語る内容はイエス 
                         
                        の十字架だというのです。これが、“伝道者の精神”です。 
                         
                         
                        弱い十字架のイエスは、復活されて生きておられ、弱い伝道者もイエスの 
                         
                        復活の命に生きていると、予定している3回目のコリント訪問に当たり、信 
                         
                        徒たちに心の準備を迫ります。 
                         
                         
                        手紙の最後に、「完全な者になりなさい(13:9、11)」と繰り返してい 
                         
                        ます。修練や努力によって完全を目指すのでなく、あるがままに、完全な者・ 
                         
                        イエスを心に迎えて生きよ、と勧めているのでしょう。結びの「喜びなさい 
                         
                        (11)」との祝福のうちに、私たちも日々を歩みたいと思います。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年12月2日(日) 集会 
                         
                        「モーセのとりなし」 出エジプト記32章 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                             
                        出エジプトの中で、32章は中心となる所です。イスラエルの民が金の雄牛 
                         
                        を作って神とし、主の怒りをかった時、モーセが神にとりなしてイスラエル 
                         
                        の民を滅亡から救いました。 
                         
                         
                        神はイスラエルの民をかたくなな民であると言われて、滅ぼし尽くし、モ 
                         
                        ーセのみを大いなる民とすると言われます。この言葉は、神がモーセを試す 
                         
                        ために言われた言葉ともとれます。モーセは、論理的に、また冷静に神に嘆 
                         
                        願します。神はモーセの言葉を受け入れ、怒りを収められます。そこには神 
                         
                        の召命を拒み続けていたモーセはいません。モーセの人としての成長を感じます。 
                         
                         
                        モーセは命がけで、イスラエルの民を赦してもらうよう、神に願います。も 
                         
                        し願いがかなわないのであれば、神によって書き記された書から自分の名を消 
                         
                        し去って下さいと言います。この書は「いのちの書」であり、そこから名を消 
                         
                        し去ることは、すなわち死を意味します。モーセは自分の命と引き替えにイス 
                         
                        ラエルの民を赦してもらうよう嘆願しているのです。このことは、十字架上で 
                         
                        私たちの罪を背負って命をなくされた主イエス・キリストを思い起こさせます。 
                         
                         
                         モーセが多くの予言者の中でも最も有名で、第一に名前が挙がるのは、この 
                         
                        32章に書かれている行動によるからではないでしょうか。そしてモーセのこうし 
                         
                        た行動が、やがて主イエス・キリストにつながって行くのです。 (渕上記) 
                        
 
                         
                        2018年11月25日(日) 集会 
                         
                        「深い淵から」 詩編130編 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:秀村興子  
                         
                        
                        詩編130編は個人の嘆き(悔い改め)の詩とされています。詩人は、「深い 
                         
                        淵の底から主を呼ぶ(1)」といいます。「深い淵」は神無きところであり、 
                         
                        彼は神から全く離れて、神を呼ぶことさえ出来ない状況で、神を呼んでいます。 
                         
                         
                        そして、「あなたが罪を心に留められるなら、誰が耐ええましょう(3)」 
                         
                        といいますが、「自分の罪」と言わないことに注目したいと思います。自分 
                         
                        の罪を救い給え、という祈りに、自分を最も(神よりも!)大切にしている 
                         
                        ことが露呈します。ルターも内村鑑三も、全てを捨てても「自分の救い」だ 
                         
                        けは捨てることができずに苦しんだのでした。救いを求める自分の姿に深い 
                         
                        罪を見たのです。究極の罪(神への背き)です。 
                         
                         
                        そこで、ルター、内村が見出したのが「キリストの義」でした。キリストの 
                         
                        十字架において人間の罪を罰し、私たちを罪無きものと見做して下さったこと 
                         
                        を発見したのです。詩人が「赦しはあなたのもとにあり(4a)」と述べている 
                         
                        通りです。そして「あなたを畏れ敬うのです(4b)」と信仰を告白します。新 
                         
                        約の福音につながる深い消息が歌われています。 
                         
                         
                        この詩の後半では「望み」が採り上げられますが、「主を待ち望む(6、7)」 
                         
                        ことが出来るのは「あなたに赦しがある(4)」からだ、といいます。「赦し」を、 
                         
                        イエス・キリストが十字架と復活のできごとをもって私たちに与えてくださいました。 
                         
                        感謝をもって主を信じ、待ち望みたいと思います。       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年11月18日(日) 集会 
                         
                        「弱さを誇る ―涙の手紙③―」 コリントの信徒への手紙二12:1~10 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:日比和子 
                             
                        コリントの信徒たちを“十字架の福音”から引き離そうとする論敵たちの、 
                         
                        パウロは霊的ではないという挑発もあって、パウロは自身の霊的体験を述べま 
                         
                        す。14年前に天に昇って神の声を聞いた、と。誇るべき体験ですが、彼に誇る 
                         
                        ことのないように一つの“とげ(眼病?癲癇?諸説あり)”が与えられ、3度 
                         
                        も癒されることを祈ったが、神からの答えは「わたしの恵みはあなたに充分だ」 
                         
                        であった、と言います。 
                         
                         
                        「キリストの力が宿るように、わたしは喜んで自分の弱さを誇る(9)」と 
                         
                        述べています。パウロの伝道は苦難の連続でしたが、自分の弱さに満足している、 
                         
                        力は弱さの中で発揮されるが故に、「弱いときにこそ強い(10)」、といいます。 
                         
                         
                        彼が回心前に信じていた神は、律法を守る者は救いますが、守れない者には裁 
                         
                        きをもって臨む、この上なく強い神でした。しかし、彼がダマスコで出会ったの 
                         
                        は、罪人のために殺される、この上なく弱いキリストにおいて自己を啓示する神 
                         
                        だったのです。パウロが「弱さを誇る」根拠は、復活をもって勝利し給うたイエ 
                         
                        スが“十字架に付けられしままなる”弱い姿で、いつも共に歩んで下さることに 
                         
                        ありました。 
                         
                         
                        イエスの到来は単に個人を救うに留まらず、全人類を罪から救い出す新しい時 
                         
                        が歴史に突入したことを意味しています。弱い私たちはあるがままに(強さを求 
                         
                        めることなく)、イエスを信じて、日々を新しく生きていきたいと願います。 
                         
                                                    (秀村記) 
                         
                         
                        2018年11月11日(日) 集会 
                         
                        「私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える ― 主の平和と社会的平和」 
                         
                                         ヨハネによる福音書14:26~27 
                         
                        講話:吉村孝雄(徳島聖書キリスト集会=1年ぶりに迎えました)、 
                         
                                           司会:長澤澄子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        「平和」というと「社会的平和」、即ち戦争のない状態をいうが、それとは 
                         
                        全く異なる「主の平和」がある。人が持っている憎しみの心から噴出する「罪」 
                         
                        が赦されることなくして平和は無い。イエスの十字架を信じることによって与 
                         
                        えられる「主の平和」こそが、真の社会的平和も齎すのである。 
                         
                         
憲法9条には国民を戦争から護ってきたという尊い面はあるが、表面的な平 
                         
                        和は人間を退化させる。若者の享楽や真理に対する不感症という最近の風潮が 
                         
                        「主の平和」を遠ざけており、それは日本の若者の自殺率(世界でトップ)に 
                         
                        見る如く、内なる殺人は絶えず起こっていることに顕れている。この世の表面 
                         
                        的な平和は打ち倒されなければならない。その為に神は苦難を与えられる。苦 
                         
                        しみを乗り越えて初めて平和に辿り着くのである。ローマによる300年の迫害 
                         
                        を経てキリスト教が拡がり、主の平和が満たされたように。 
                         
                         
イエスも十字架の苦難を経て「聖霊」を送って下さるに至った。イエスは 
                         
                        「平和をあなた方に与える(ヨハネ14:27)」と言われたが、「聖霊があな 
                         
                        たがたに全てを教える(同14:26)」とあり、「主の平和」は「聖霊」と深 
                         
                        く結びついている。 
                         
                         
「主の平和」はキリスト者に与えられた使命である。暗黒の増す世にあって、 
                         
                        「主の平和」の証人でありたい。             (秀村記) 
 
                         
                        2018年11月4日(日) 集会 
                         
                        「見えない力」 出エジプト記30~31章 
                         
                        講話:渕上明、司会:横山宜和 
                         
                        
                        出エジプト記31、31では香を焚いて罪の贖いの儀式を行うこと、命の代償とし 
                         
                        て銀を支払うこと、聖別の油を作ること、聖なる香を作ることを命じられます。 
                         
                        また、工芸品を作る人物も指定されます。最後に安息日の厳守を命じられます。 
                         
                         
年に1度の罪の贖いの儀式については、出エジプト記の中で、30章にしか記述 
                         
                        がありません。人は罪ある者という考え方は、新約聖書にも引き継がれます。また、 
                         
                        命の代償としてすべてのイスラエルの人々から、半シェケルの銀を徴収すること 
                         
                        になります。その金は幕屋の建設などに使われました。 
                         
                         
新約聖書で私たちはこれらの掟から解き放たれます。主イエス・キリストがこ 
                         
                        の世に来られ、この掟から私たちを解放されたからです。 
                         
                         
幕屋の建設にあたっては、神がそれを作る人々を任命されます。神は、必要な 
                         
                        時に必要な技術者を育てられ、必要なものを与えられます。また、技術者には、 
                         
                        神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と知識を持たせると言われています。 
                         
                        日本においても、何かしら見えない力が、この世で働いているのではないかと 
                         
                        信じる人はいます。しかし、聖書を読む習慣のない人がほとんどの日本におい 
                         
                        ては、主イエス・キリストによる救済に与る人は少ないように見受けられます。 
                         
                        イエスを信じる人たちの行動を目にすることによって、聖書に触れる人が多く 
                         
                        なるようにと切に願うものです。          (渕上記) 
                         
                         
                        2018年10月28日(日) 集会 
                         
                        「ゼカリヤ書(1) 神に帰ること」 ゼカリヤ書1章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:村上思門、奏楽:遠山博 
                         
                        
                        ゼカリヤ書は、バビロン捕囚からの帰還後の時代に、ハガイとともに神殿 
                         
                        再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言とされ、全14章と十二小預言書中 
                         
                        最も長く、多くの黙示やメシア預言を含みます。今回はその第1章を学びまし 
                         
                        た。 
                        ゼカリヤ書1章冒頭では、「神に帰れ」という呼びかけと、そうすれば神も 
                         
                        私たちに帰ってきてくださるということが告げられます。何の条件もつけず、 
                         
                        ただ神に帰ることが呼びかけられています。これはルカ福音書15章の「放蕩 
                         
                        息子の帰還」と相通じる、神の愛を示しています。 
                         
                         
                        この神の愛の上で、ユダの民は、先祖の罪を認め、神の裁きが正しかったこ 
                         
                        とを認めます。私たちは神の愛に支えられている時に、自分自身や国家社会の 
                         
                        罪を率直に認めることができ、その罪から自由になることができるのだと思い 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        ゼカリヤ書1章後半では、ミルトスの林の谷の中で、神と人との仲介ととり 
                         
                        なしをする、不思議な「み使い」が現れます。これはキリスト教の信仰の立場 
                         
                        からは、間違いなく仲保者・キリストのことだと思われます。さらに、ゼカリ 
                         
                        ヤ書1章の末尾では、恵み・慰め・選びが回復されることが告げられます。私た 
                         
                        ちはあるがまま・そのままで神に帰れば良く、そうすれば、恵み・慰め・選び 
                         
                        に満ちた人生を歩むことができる。そのことをゼカリヤから学び感謝でした。 
                         
                                                    (鎌田記) 
                         
                         
                        2018年10月21日(日) 集会 
                         
                        「パウロの苦難―涙の手紙②― 」 コリントの信徒への手紙二 11章
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        パウロは、使徒職としての栄光は苦難・弱さのなかに顕れると言います。 
                         
                        何故なら、キリストの十字架という苦難・弱さに福音が示されているではない 
                         
                        か(十字架の逆説=青野太潮)、と。パウロの後から来た巡回伝道者たちは、 
                         
                        力と成果こそ福音の栄光である、とコリントの信徒たちを惑わしたのでした。 
                         
                        パウロは激情をもって、論敵の彼に対する非難と思い上がりを攻撃します。 
                         
                        彼らはサタンに仕える偽使徒だ、と。 
                         
                         
                        他のコリント教会への伝道者と違って、パウロが無報酬を貫いたことも疑 
                         
                        念を持たれました。テント職人として自活し、フィリピなど他の教会からの 
                         
                        支援を受けていたのです。十字架の福音を誰からも邪魔されることなく語る 
                         
                        ために、独立の精神に徹したのでした(内村以来、無教会も独立精神を重視)。 
                         
                         
                        そしてパウロは、キリストに仕える者として受けてきた無数の苦難と、天 
                         
                        よりの啓示を受ける者とされたことを、“愚かな使徒”の誇りだと言います。 
                         
                        自らの「弱さを誇る(30)」と。 
                         
                         
                        コリントの信徒への愛から、パウロは論敵を厳しく裁いています。しかし、 
                         
                        パウロの説く十字架は“逆説の神学”だけでは無いことにも留意しておきたい 
                         
                        と思います。十字架はイエス・キリストによる“贖罪”でもあります(ローマ 
                         
                        3:21~26)。私たち全人類の罪が赦され、救いへと奪還されたのです。そこ 
                         
                        に“偽使徒”も漏れることはないでしょう。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年10月14日(日) 集会 
                         
                        「主を誇る―涙の手紙①― 」 コリントの信徒への手紙二 10章
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:原サイ子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        パウロが第二回伝道旅行で創ったコリント教会に、彼が去ったあとに来た巡 
                         
                        回伝道者達によって“異なる福音”が伝えられ、信徒たちの信仰が変質してい 
                         
                        ました。2年経ってエフェソに来たパウロはこれを正すためにコリントを訪問し 
                         
                        ますが(中間訪問)上手くいかず、帰ってきたエフェソから激情を吐露した手 
                         
                        紙を書きました。それがⅡコリント10~13章、“涙の手紙”(Ⅱコリント2:4) 
                         
                        といわれる部分で、彼の伝える福音の本質と共に、彼の人物像が良く顕れてい 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        パウロは、①臆病だ②肉に従って歩んでいる③限度を超えて誇り、自己推薦 
                         
                        している、という論敵の非難と思い上がりを退けます。ユダヤ人キリスト者で 
                         
                        ある敵は、ヘブル人として優れていることを誇り、主の霊は力となって現れると 
                         
                        して、強さを誇っていました。そしてパウロの使徒職としての権威を葬り去ろう 
                         
                        としていたのです。 
                         
                         
                        それに対してパウロは、弱いところに神の栄光が顕れる、十字架に付けら 
                         
                        れた主イエスにこそ救いがあるのだ、と言います。神の力が十字架に啓示 
                         
                        されたことを理解しない誇りは、偽りの誇りに過ぎない、「誇る者は主を誇れ 
                         
                        (10:17)」、と。 
                         
                         
                        私達も肉の存在として高ぶりに陥ることを避けることは出来ません。信徒の 
                         
                        一人一人をこの罪から奪還すべくエネルギーを注ぐ、“主の使徒”パウロの愛 
                         
                        に圧倒されます。(秀村記) 
                         
                         
                        2018年10月7日(日) 集会 
                         
                        「キリストの贖い」 出エジプト記27~29章 
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                         
                        出エジプト記27章からは、祭壇や祭服、そして儀式について述べられます。 
                         
                        幕屋は、三つの区域からなっています。庭、聖所、至聖所です。イスラエルの 
                         
                        人々は、シナイ山を去り荒野に出かけます。その際、神との出会いの場が必要 
                         
                        となり、神の指示により幕屋を造ったのですが、その造りは、シナイ山と同じ 
                         
                        ような意味を持って居ました。実際、シナイ山では一般の人が居る場所、祭司 
                         
                        や長老が登れる場所、モーセのみが登れる場所と三つに分かれていました。幕 
                         
                        屋はシナイ山と同じ役目を果たして行くのです。 
                         
                         
                        さて、幕屋に入ってすぐにあるのが、捧げものを屠るための祭壇です。当時は、 
                         
                        毎日捧げものをしなければなりませんでした。それは、人の罪や咎を赦してもら 
                         
                        うために必要なことだったのです。日本においては、水によって清められるとい 
                         
                        う考えが一般的であり、キリスト教においても、洗礼式などで水が使われます。 
                         
                        しかし、モーセの時代、罪や咎は生き物の血によらなければ、赦されないものだ 
                         
                        ったのです。 
                         
                         
                        やがて、イエス・キリストが、それまでの大祭司とは異なり、神の許から来られ 
                         
                        た大祭司として、この世に来られ、私たちの罪や咎を赦すため、御自身の血によっ 
                         
                        て、永遠の贖いをされたのです。この時から、私たちは、イエス・キリストを通し 
                         
                        て神との正しいつながりを持つことが出来るようになったのです。  (渕上記)) 
                        
 
                         
                        2018年9月30日(日) 集会 
                         
                        「パウロのローマ到着とローマでの宣教 」 使徒言行録28:11~31 
                         
                        講話:市村昭三、司会:小林典子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        パウロは冬の間を過ごしたマルタ島から、遂にローマに到着します。ローマ 
                         
                        での彼は宿舎に軟禁状態(外出禁止)ながらも、自由に人々と接触することが 
                         
                        許されました。 
                         
                         
                        彼は早速主だったユダヤ人達を招いて、自分は「イエスこそあなた達が望ん 
                         
                        でいるメシアである」ということを述べ伝えているのだ、と言います。“イエ 
                         
                        スこそ救い主”、これが福音の中心です。私たちは自力で問題を解決しようと 
                         
                        しますが、救いは恵みとして外から与えられるのです。様々な艱難に遭った内 
                         
                        村鑑三も、この点で揺らぐことはありませんでした。 
                         
                         
                        以後定期的に訪ねてくる大勢のユダヤ人達にパウロは福音を説き続けます。 
                         
                        信じる者も出ましたが、信じない者も多く、最後には彼らに「神は民の心を頑固 
                         
                        にされる」というイザヤの預言(6:9)を引用して、福音はユダヤ人でなく、異 
                         
                        邦人に伝えられる、と言ったのでした。そして、彼のローマでの宣教は2年に及 
                         
                        びました(殉教死したと伝えられています)。 
                         
                         
                        彼の二つの希望(①ローマからスペイン迄の宣教、②エルサレム教団と共に働 
                         
                        くこと)はいずれも叶えられませんでしたが、彼の手紙は残りました。ローマの 
                         
                        信徒への手紙を初め、新約聖書の重要な文書として後の時代を切り開き、今日私 
                         
                        たちも彼の伝えた福音によって導かれています。パウロを自らの器として用いら 
                         
                        れた神を賛美せずにおれません。             (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年9月23日(日) 集会 
                         
                        「広い心 ―使徒職弁明の手紙④― 」 コリントの信徒への手紙二6:1~7:4 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        パウロはコリントの信徒たちに、イエスの十字架と復活の福音によって“新し 
                         
                        く創造された者”は、神との和解という素晴らしい恵みをいただいているではな 
                         
                        いか(5:17~18)、自分は一人でも多くの人にこの喜びを伝えたく、神の全権 
                         
                        大使、また協力者として労しているのだ、と言います。  
                         
                         
                        使徒職の勤めを果たすのに最も必要なものは、“忍耐”だと述べています。多 
                         
                        くの苦難、欠乏、監禁、飢餓など彼の味わった労苦は枚挙に暇ありません。しか 
                         
                        し、純真、寛容、親切な心、偽りのない愛を持って働いて来たのでした。 彼の 
                         
                         
                        人を欺いているようでいて、誠実であり、 
                         
                         
                        人に知られていないようで、よく知られ、 
                         
                         
                        死にかかっているようで、生きており、…… 
                         
                         
                        悲しんでいるようで、常に喜び、…… 
                         
                         
                        無一物のようで、すべてのものを所有している(6:8~10) 
                         
                         
                        という不思議な生き様は、彼が神と共に歩んでいることから来ているのでしょう。 
                         
                        苦難の中にあって凱歌を歌っています。 
                         
                         
                        そして、「私が主にある喜びと慰めに満たされて、心を開いてあなた方に接して 
                         
                        いるように、あなた方も広い心(=キリストの愛)を持って欲しい」と、この手紙 
                         
                        を結んでいます。 
                         
                         
                        私たちもパウロの呼びかけに応えて、全ての人に心を開き、キリストの愛を生き 
                         
                        る日々を歩みたいと思います。              (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年9月16日(日) 集会 
                         
                        「ハガイ書(下) 神の選びとしるし」 ハガイ書2章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                        
                        今回は、ハガイ書第二章を通じて三つの事柄を学びました。 
                         
                         
                        ひとつめは、「勇気を出せ」(2の4、関根訳「しっかりせよ」、文語 
                         
                        訳「自ら強くせよ」)ということについてです。神の霊が共にいるので、 
                         
                        勇気を出して神殿再建に働きなさいと神はハガイを通して人々に伝えます。 
                         
                         
                        ふたつめは、聖別された肉を包んだ衣服が触れたものは別に清められな 
                         
                        いが、死体を包んだ衣服に触れたものは汚れる、という箇所についてです。 
                         
                        これはサマリア人の排除についての記述だとも解釈されていますが、むし 
                         
                        ろ儀式等によっては私たちが清められることはなく、罪にまみれている人 
                         
                        間は何を行っても罪にまみれてしまうということが指摘されているとも理 
                         
                        解できます。かつこのように罪深い人々が、神によって一方的に赦され祝 
                         
                        福されるということをハガイは告げます。 
                         
                         
                        最後に、当時のユダヤ総督でダビデ王家の出身だったゼルバベルが神によ 
                         
                        って選ばれ「印章」とされることが述べられます。これはゼルバベルをメシ 
                         
                        アだと錯覚した外れた預言だと解釈する人もいます。しかし、ゼルバベルに 
                         
                        限らず信仰者は誰もが神から選ばれ、聖霊に証印され、キリストの香りを伝 
                         
                        える神の「印章」(しるし)となりうるのではないでしょうか。神の一方的な 
                         
                        選び・神の愛に自分が裏打ちされていると知った時、私たちは真の勇気を得る 
                         
                        ことができます。                  (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2018年9月9日(日) 集会 
                         
                        「新しい創造―使徒職弁明の手紙③―」 コリントの信徒への手紙二5:11~21 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                        コリント教会の論敵から「自己宣伝し、狂気をもって自説で説得しよう 
                         
                        としている」と非難されていたパウロは、「自分は土の器に過ぎないが、 
                         
                        その中に納められている宝を宣べ伝えているのだ(自己宣伝ではない)、 
                         
                        あなた方もこの宝を誇って欲しい」と言います。宝である“キリストの愛” 
                         
                        に駆り立てられているからだ、と。私たちが聖書を学ぶ目的は“キリスト 
                         
                        の愛”を生きることにあります。どんなに神学を極め、善行に励んでもイ 
                         
                        エスに出会わずして、平安は得られません。 
                         
                         
                        パウロはここで福音の要点を述べます(5:14~18)。 
                         
                         
                        ①キリストが私たちの代表として十字架上に死んで下さった以上、私たちも 
                         
                        死んだのである。 
                         
                         
                        ②生きているものはもはや自分のために生きるのではなく、復活されたキリ 
                         
                        ストのために生きる。これがクリスチャン。③クリスチャンは“新しく創造 
                         
                        された”者である。 
                         
                         
                        ④罪の赦し(十字架と復活のメッセージ)を与えられて、私たちは神に和解 
                         
                        させていただいた。ここに平安がある。 
                         
                         
                        クリスチャンは、新しい創造によってイエスと共に復活のいのち(永遠の 
                         
                        生命)を与えられ、死という人生最大の問題から解放されるのです。艱難と 
                         
                        悲哀が尽きないこの世にあって、パウロに傚って喜びと感謝をもって、この 
                         
                        キリストの愛を周囲の人々に伝えたく思います。      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年9月2日(日) 集会 
                         
                        「古い掟と新しい掟」 出エジプト記25~26章 
                         
                        講話:渕上明、司会:長澤澄子 
                         
                             
                        出エジプト記25章からは、幕屋の建設や祭壇についての詳細な記述など、 
                         
                        細かな定めが最後の40章まで延々と続きます。実に出エジプト記の三分の一 
                         
                        以上を占めています。25章から,いわば幕屋全体の設計図が述べられ、途中、 
                         
                        32章の金の子牛の話をはさんで、その後の35章からは、幕屋の建設の場面に 
                         
                        移って行きます。 
                         
                         
                        モーセによって伝えられた旧約聖書の掟は、これから完成ていく訳ですが、 
                         
                        その後、イエス・キリストが現れ、その死と復活により私たちの罪が赦され、 
                         
                        モーセによって伝えられた掟とは違う新しい掟が与えられます。そのことに 
                         
                        ついては、「ヘブライ人への手紙」8章で述べられているとおりです。 
                         
                         
                        イエス・キリストの新しい掟を端的に示されているのが、マタイによる福音 
                         
                        書22:37のイエスの言葉です。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし 
                         
                        て、あなたの主である神を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 
                         
                        第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律 
                         
                        法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」  
                         
                         
                        聖書には、たくさんのイエスの言葉があり、その言葉の真実には、いつも圧 
                         
                        倒される思いでいますが、その教えの根本にあるのが、このイエスの言葉だと 
                         
                        思います。この言葉が、世界の人々の心に根付く時、真の平和が世界に訪れる 
                         
                        のだと思います。                (渕上記) 
                         
                         
                        2018年7月29日(日) 集会 
                         
                        「ゲッセマネの祈りと私たちの祈り」 マルコによる福音書14:32~42 
                         
                        講話:香西信(岡山聖書集会)、司会:松尾晴之 
                         
                         
                        マルコ、マタイ、ルカの福音書が書かれた紀元1世紀には、イエスは完全な 
                         
                        神であって、人となったのは仮の姿にすぎないという異端の考えがありました 
                         
                        (仮現論)。この考えによれば、イエスに死の恐怖はなく、十字架も苦難には 
                         
                        なりません。しかし、ゲッセマネで祈られたイエスは、血の汗を流すほど(ル 
                         
                        カ22:44)に悲しみ、苦しまれたのでした。イエスは完全に神であり、また 
                         
                        完全な人間であられました。 私たちの悲しみや苦しみを分かって下さる方で 
                         
                        ありますから、私たちはイエスを信じることが出来るのです。 
                         
                         
                        イエスがこの祈りで苦しまれたのは、神からの答えが無かったことでした。 
                         
                        しかしイエスは「御心に適うことが行われるように」と祈られ、神はこの祈り 
                         
                        を聴かれました。この祈りこそ、私たちも祈るべき、最も大切な祈りであります。 
                         
                         
                        神の沈黙のうちに、イエスはご自分の進むべき道を示され、覚悟を固められ 
                         
                        ました。この後裁きを経て死に至る迄のイエスの沈黙は、十字架が神の意思であ 
                         
                        ることを裏書しています。 
                         
                         
                        
私たちは神の“雄弁(目に見える結果)”を求めますが、人を救うのは、 
                         
                        神の“沈黙”です。それは、苦難の僕(イザヤ53:7~8)に預言され 
                         
                        ていたことでもありました。私たちの罪を担って罪を赦し、解放し給う 
                         
                        イエスの愛に抱かれていることを、十字架を仰いで感謝せずにおれません。 
                         
                                               (秀村記) 
                         
                        2018年7月22日(日) 集会 
                         
                        「土の器に納められた宝 -使徒職弁明の手紙②-」  
                         
                                    コリントの信徒への手紙二4:1~5:10 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門、奏楽:鎌田加奈子 
                         
                             
                        パウロは、使徒として働いて失望することはない、と書き送っています。 
                         
                        敵対者からの“悪賢い”とか“福音をねじ曲げている”等との批判に対して、 
                         
                        自分は真理を明らかにする、どう受け止めるかは相手の良心に委ねている、 
                         
                        と述べます。 
                         
                         
                        その真理はイエス・キリスト。天地創造の折に神が光あれ、と言われたその 
                         
                        光です。パウロは自己宣伝ではなく、光即ち神の栄光である主キリストを宣 
                         
                        べ伝えている、と強調します。 
                         
                         
                        パウロによれば、私たちは「宝を納めている土の器」です(4:7)。この 
                         
                        宝は光であるイエス・キリストに他なりません。土の器に命はありませんが 
                         
                        (無価値)、十字架のイエスを信じる時、そこにイエスの命=復活の命=が 
                         
                        宿るといいます。真に驚くべきことですが、それは“並外れた神の力”によ 
                         
                        るのであり、私たちの力で出来ることではないのは明らかです。 
                         
                         
                        ここでパウロは復活について、幕屋を譬えに用います。地の幕屋、即ち肉の 
                         
                        体が滅びて、天の幕屋、即ち霊の体が与えられるのであり、その保証として聖 
                         
                        霊が与えられている、と。  
                         
                         
                        だから私たちは失望することはない、と繰り返します。「私たちの『外なる 
                         
                        人』は衰えても、『内なる人』は日々新たにされていく(4:16)」のであれば、 
                         
                        一時の軽い艱難は問題では無くなる、と説いています。復活の希望と喜びのう 
                         
                        ちに歩ませていただけることは感謝の他ありません。    (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年7月15日(日) 集会 
                         
                        「パウロの遭難と救い」 使徒言行録27:39~28:10 
                         
                        講話:市村昭三、司会:原サイ子 
                         
                        
                        囚人としてローマに送られるパウロを乗せた船がクレタ島を出航して暴風に 
                         
                        会い、2週間もの間漂流しました。助かる見通しもなく、食事を取っていなか 
                         
                        った276人の同乗者達を力づけたのはパウロでした。彼に告げられたみ使いの 
                         
                        言葉「恐れるな、あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は一緒に航 
                         
                        海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」を信じて、人々に 
                         
                        食事を取らせ、元気づけたのです。 
                         
                         
                        皇帝の前でキリストを証することと、船客全員の救いとは直接関係はないよう 
                         
                        に見えます。しかしこの航海の初めから終わりまで常に中心に位置していたのは、 
                         
                        実はパウロでした。神によって皇帝の前に連れて行かれるパウロのお陰で、全員 
                         
                        が命拾いしたのです。マルタ島に座礁して囚人たちの逃亡が危惧された時も、囚 
                         
                        人パウロを守ろうとした百卒長によって、囚人たち全員が殺されずに済んだので 
                         
                        した(27:42)。  
                         
                         
                        キリスト者は、その人の関わる全ての人に対して責任を負っています。当人は 
                         
                        そんな役割を担っているとは思っていなくても、神にはその人の果たしている責 
                         
                        任が見えておられるのでしょう。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福される 
                         
                        (創世記12:3)」はキリスト者に当てはまるのです。 
                         
                         
                        「あなたがたは世の光である。…… あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい 
                         
                        (マタイ5:14~16)」とのイエスの教えを心に刻んで歩みたいと思います。 
                         
                                                   (秀村記) 
                         
                         
                        2018年7月8日(日) 集会 
                         
                        「キリストの香り-使徒職弁明の手紙①-」  
                         
                                     コリントの信徒への手紙二2:14~3:18 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子、奏楽:古海加奈子 
                         
                        
                        コリントの集会にパウロの反対者が侵入したため、パウロの福音に疑問を持 
                         
                        つ信徒たちが出ました。そこでパウロは自らの使徒職を弁明する手紙(2:14 
                         
                        ~7:4)を書きます。 
                         
                         
                        将軍が凱旋する時、その行進に捕虜を引き回しましたが、パウロは勝利者キ 
                         
                        リストに引き回されて、人々にキリストの知識を広めている、と言います。こ 
                         
                        こで、キリストの知識を“香り”に譬えています。この香りは、嗅ぐ人によって、 
                         
                        命となったり死となったりする、と。福音は命ともなり、死ともなる、伝道者 
                         
                        はこの重い任務に携わっているのだ、と。 
                         
                         
                        また、伝道者の資格について述べます。エルサレムからペトロやヤコブの推薦 
                         
                        状をもって来た巡回伝道者がいたようですが、パウロは自分の推薦状はあなたが 
                         
                        た信徒たちだ、と言います。信徒たちは、キリストが私を口述筆記者として書き 
                         
                        給うた“手紙”である、と。それは、文字で石板に書かれた手紙ではなく、霊に 
                         
                        よって心の板に書かれている、と述べます。文字、即ちモーセの律法は人を縛り 
                         
                        上げて殺しますが、霊は人を自由にして命に生かす、ということはパウロがイエ 
                         
                        スに出会って体得させられた重大な真理でした。旧約律法の教えを凌駕する新約 
                         
                        の福音を伝えるのが彼の使命でした。 
                         
                         
                        
私達もキリストの“香り”であり“手紙”である、ということを心に刻んで、 
                         
                        歩んで行きたく思います。                (秀村記) 
                         
                         
                        2018年7月1日(日) 集会 
                         
                        「神との契約」 出エジプト記24章 
                         
                        講話:渕上明、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        出エジプト記23章で、イスラエルの三大祭に男子はすべて参加するよう主か 
                         
                        ら命じられます(14~19)。その中でも、最も大切な祭は過越の祭ですが、五 
                         
                        旬祭(ペンテコステ)は、後に使徒言行録2章の聖霊が降る場面で有名になりま 
                         
                        す。そして主の御使いが現れ、カナンの地に導くこと、カナンの人々の国が滅ぼ 
                         
                        されることが約束されます。また、カナンの人々や彼等の神々と契約することが 
                         
                        禁止されます(20~33)。 
                         
                         
                        24章は神とイスラエルの民との契約の記事です。日本人の私たちにとっては、 
                         
                        神と人が契約するということはなかなか理解しがたいことですが、ここで初めて 
                         
                        神と人の間で、契約が交わされます。この契約は人の行動についての契約でした 
                         
                        が、人はこの契約を守ることが出来ませんでした。 
                         
                         
                        その後エレミヤが預言したように、新しい契約が結ばれました(エレミヤ31:33)。 
                         
                        すなわち、神の子イエスとの契約です。イエスによって私たちは罪を赦され、救い 
                         
                        の道に入ることが出来るのですが、古い契約との違いは、単に行動だけではなく私 
                         
                        たちの心の中にある罪を問題にしていることです。単に悪い行いを罪と言うのでは 
                         
                        なく、人の心の中に生じる思いにも罪の存在を気づかせ、それを罪と呼んでいるの 
                         
                        です。 
                        心の中の罪を赦す存在は、主イエス・キリスト以外にありません。主イエス・キ 
                         
                        リストがこの世に来られたことを心から感謝せざるを得ません。   (渕上記) 
                        
 
                         
                        2018年6月24日(日) 集会 
                         
                        「モーセはどのようにして自分がヘブライ人であることを知ったのか?」 
                                            出エジプト記2:10~15 
                         
                        ユダヤ教ラビのJ.マゴネット先生を迎えて、上記講話を伺いました。 
                        昼食も共にしつつ、ユダヤ教の考え方など興味深い話も聞くことが出来ました。 
                         
                        司会:鎌田良子、通訳:長澤澄子、奏楽:遠山博 
                         
                             
                        エジプト王女に養われて成人したモーセは、ある日エジプトの重労働に服して 
                         
                        いる人々を見ますが、そこで打たれている人を救おうと、打っている人を殺して 
                         
                        砂に埋めてしまいます。普通出エジプト記のこの箇所(2:10~15)は、モーセ 
                         
                        が打たれている自分の同胞ヘブライ人を、打っているエジプト人から救った(救 
                         
                        った理由は同胞だから)、と読まれますが、原語を丁寧に分析すると違ったモー 
                         
                        セ像が顕れてきます。 
                         
                         
                        王家に育ったモーセにとっては、エジプト人もヘブライ人も同胞であって、虐 
                         
                        待されている者を救ったのは、自分の同胞だからということではなく、彼の正義 
                         
                        感からだったのです(救ったのが偶々ヘブライ人だった)。その夜、彼は昼間に 
                         
                        自分のしたことについて深く考えたに違いありません。そして自分がヘブライ人 
                         
                        であることに目覚めたのだと思われます。 
                         
                         
                        モーセ無しにはユダヤ人も無ければイスラエルも無かったでしょう。 
                         
                        神がモーセを出エジプトのリーダーとして特別に選び出された根拠 
                         
                        は、彼にリーダーとしての資質を認められたからでした。その資質 
                         
                        とは、エジプト王家で受けた最高の教育による指導者としての知識 
                         
                        や政治能力であり、それ以上に、彼のもつ正義への深い忠誠心であ 
                         
                        りました。                   (秀村記) 
                         
                         
                        2018年6月17日(日) 集会 
                         
                        「ハガイ書(上) 人生の中心とは」 ハガイ書 1章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:横山宜和 
                         
                        
                        ハガイ書は、バビロン捕囚から帰還した後の時代の紀元前520年に、ハガイ 
                         
                        に降った預言をまとめたものです。内容は、神殿の再建を命じ励ますものです。 
                         
                        と同時に、私たちが人生の中心を何とすべきかを、問いかけるものとなってい 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        当時、バビロン捕囚から解放され、帰還してからすでに二十年近い歳月が経 
                         
                        っていました。しかし、神殿再建の工事は中断されたままでした。人々は、 
                         
                        「神の家」(=神殿)よりも自分たちの「人の家」を優先していました。その 
                         
                        結果、人々は、霊的にも物質的にも満たされないままでした。 
                         
                         
                        ハガイを通じて、神は、人々に自らの生き方を問い直すように語りかけました。 
                         
                        ユダヤの人々は皆、ハガイの言葉に耳を傾けました。かつてはあれほど頑なに神 
                         
                        の言葉を拒絶していたユダヤの人々は、バビロン捕囚という苦難を経て、素直に 
                         
                        神の言葉に耳を傾けるようになっていたのです。 
                         
                         
                        神の言葉に耳を傾けた人々に、神は「わたしはあなたたちと共にいる」(ハガ 
                         
                        イ1:13 )と語りかけます。人々の霊は奮い立ち、神殿再建の作業が始まりました。 
                         
                         
                        人生の中心とは何か。それは、神と共に歩むこと。神と共に歩む人生は、決し 
                         
                        て沈み込んだままに終わることはなく、必ず苦難を乗り越えることができる。そ 
                         
                        うハガイは問いかけ、語りかけてくれています。        (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2018年6月10日(日) 集会 
                         
                        「募金問題と結びの言葉」 コリントの信徒への手紙一16章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        エフェソに来たパウロは、重要拠点であるコリント集会にも募金の協力を 
                         
                        求めます。第3回伝道旅行は、彼が作った諸集会からエルサレム教会へ献金 
                         
                        を届けることが目的の一つだったのです。律法の遵守を主張するエルサレム 
                         
                        教会(ユダヤ人キリスト者中心)と、信仰のみ(律法からの自由)を重視す 
                         
                        る彼とその集会(異邦人キリスト者中心)とは路線対立があり、旧約聖書の 
                         
                        神への接続と福音の一致を重んじる彼は、艱難を覚悟の上で、エルサレム教 
                         
                        会との良好な関係を作ることに尽力したのです。結果的にこの献金は失敗に 
                         
                        終わったばかりか、エルサレムで捕縛されてローマに送られ、処刑されるこ 
                         
                        とになります。福音のために命を捧げた生涯でした。 
                         
                         
                        コリントへの旅行計画と共に述べるこの手紙の結びの言葉は“信仰と希望 
                         
                        と愛(13:13)”に満ちています。通りすがりでなく、コリントでひと冬の 
                         
                        滞在を希望する、と同地の集会への深い愛を表白し、また、ステファナ以下 
                         
                        の名を挙げて信徒間の信仰の交わりが前進することを祈り求めています。 
                         
                         
                        そして、神と再臨のイエスによる完成の「希望」(マラナ・タ= 私たちの 
                         
                        主よ、来りませ)、イエスの恩恵に対する「信仰」、パウロと集会を固く結 
                         
                        ぶ「愛」で締めくくられます。 
                         
                         
                        4つの勧め「目を覚ましていなさい、信仰に基づいて固く立ちなさい、雄々 
                         
                        しく強く生きなさい、何事も愛をもって行いなさい(13~14)」を心に留め 
                         
                        たいと思います。                  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年6月3日(日) 集会 
                         
                        「罪に気づく」 出エジプト記22~23章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        出エジプト記の律法は、厳しさと共に意外に人道的なやさしさが感じら 
                         
                        れます。寄留者の扱いや寡婦や孤児への対応に、思いやりが感じられます 
                         
                        (22:20~26)。また「法廷において」では、今の日本の状況を考えさ 
                         
                        せられます(23:1~2)。 
                        ところで、律法と罪の関係を考えて見る時、なぜ人間は罪あるものとし 
                         
                        て生まれて来たのか、という問題に突き当たります。カインの末裔である 
                         
                        が故に、人は罪あるものとして生まれてくるという考えもありますが、ア 
                         
                        ダムとエバが善悪の知識の実を食べてから、人は罪を意識するようになっ 
                         
                        たのではないでしょうか。人の罪は、アダムとエバが善悪の知識の実を食 
                         
                        べた時から始まりました。善悪を知らなければ、罪に気づくことも罪を犯 
                         
                        すこともなかったでしょう。パウロは「律法によらなければ、わたしは罪 
                         
                        を知らなかったでしょう。」(ローマの信徒への手紙7:7)と述べています。 
                         
                         
                        罪からの解放は、自分自身では不可能なことです。パウロがローマの信 
                         
                        徒への手紙8章で述べているように、キリスト・イエスによって罪から解放 
                         
                        されるのです。 
                         
                         
                        私たちは、一方で善を目指しながら、一方では肉による欲望のため罪を 
                         
                        犯してしまっています。しかし、パウロはキリスト・イエスに結ばれるこ 
                         
                        とにより、命をもたらす霊の法則により、罪と死から解放されると述べて 
                         
                        います。このことに、心から感謝せざるを得ません。    (渕上記) 
                        
 
                         
                        2018年5月27日(日) 集会 
                         
                        「復活の福音②」 コリントの信徒への手紙一15:35~58 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        死者が復活する時はどんな状態で復活するのでしょうか?パウロは、種 
                         
                        が死んで麦になるように、朽ちる卑しいものが死んで、朽ちない輝かしい 
                         
                        ものに復活する、その時人それぞれの個性は維持される、と言います。最 
                         
                        初のアダムに繋がる者は自然の命の体を持ちますが、最後のアダム(キリス 
                         
                        ト)に繋がる者は霊の体を持つ、と。即ち、復活のキリスト同様、私達にも 
                         
                        永遠の命を持った復活の体が与えられるのです。 
                         
                         
                        復活の体は、地上の体とは違う、キリストの十字架によって贖い清められ 
                         
                        た全く新しいものになります。復活の朝に私たちは、罪も汚れも、涙も死も 
                         
                        知らぬ者とされる、といいます。これこそが、キリスト教の福音です。 
                         
                         
                        このことが起こるのは終わりの日(キリスト再臨のとき)であり、死者も 
                         
                        含めて全ての人が復活に与るとされ、パウロは、その時は切迫していると考 
                         
                        えていたようです。信徒たちに、勝利の日を信じて愛の業に励むことを勧め 
                         
                        ています。 
                         
                         
                        キリストの再臨は延び、私たちは復活の日を待たなければなりませんが、 
                         
                        イエスは「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者 
                         
                        は、永遠の命を得ている(ヨハネ5:24)」と言われました。イエスを信じ 
                         
                        ることによって永遠の命が与えられる、ということは、復活が確約されてい 
                         
                        るということです。もはや怖れることはありません。喜びと平安のうちに生 
                         
                        きることが許されているのです。          (秀村記) 
                            
                         
                        2018年5月20日(日) 集会 
                         
                        「パウロのローマへの船出と暴風雨」 使徒言行録27:1~26 
                         
                        講話:市村昭三、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        ローマ総督と国守アグリッパは、弁明を聞いてパウロの無罪を確信し 
                         
                        ますが、パウロは皇帝への上訴を取り下げませんでしたので釈放されるこ 
                         
                        となく、ローマに送られます。数名の政治犯と一緒にカイサリアから船出 
                         
                        したのでした。当時の船は帆船ですから風に乗って移動しますが、寄港し 
                         
                        た港(ミラ)で270人もの乗船者がいる大船に乗り移ります。 
                         
                         
                        クレタ島の「良い港」に着いたときには航海に不向きな季節になり、パ 
                         
                        ウロはそこで冬を越すことを勧めます。しかし船長たちの判断により、次 
                         
                        の港まで航行を続けてしまいました。間もなく暴風に巻き込まれて漂流す 
                         
                        る羽目になり、積荷はもとより船具まで捨て、助かる望みが全く消えたの 
                         
                        でした。人々が苦境に陥った中でパウロは元気を出せ、と言います。船は 
                         
                        失うが全員救われる、天使が「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出 
                         
                        頭しなければならないのだから。神が全ての同乗者をあなたに任せて下さ 
                         
                        ったのだ」と言った、と。 
                         
                         
                        著者ルカは旅の経過を記述しますが、護送されゆくパウロの背後に神の 
                         
                        支配を読み取っています。旅程の全ては神のみ手にあり、大勢の同乗者の中 
                         
                        で
“神の人”であるパウロの任務(彼の福音はローマに伝えられる)は完 
                         
                        遂されるのです。 
                         
                         
                        信者でない全ての人の救いもパウロに任されているのは著しいことです。 
                         
                        私たちもクリスチャンではない全ての人々の救いと関わりを持っているのです。 
                         
                                                    (秀村記) 
                         
                         
                        2018年5月13日(日) 集会 
                         
                        マルコによる福音書7:14~23 「人の中から出てくるもの 
                                  ―カネミ油症被害者紙野柳蔵さんの闘い」 
                         
                        講話:犬養光博先生、司会:小林典子 
                         
                        今年はカネミ油症発覚から50年になります。家族全員が重い油症に苦しみ、 
                         
                        国を相手とする訴訟団を率いられた紙野柳蔵さんの闘いに多くを学びました。 
                         
                        加害企業・カネミ倉庫の正門前で座り込みを始めた彼は、加藤社長以下社員 
                         
                        に「良心を取り戻せ」と呼びかけ続けました。公害の原点はウソをつくこと 
                         
                        にあります。真実を貫くことこそは、今日我が国の最大の問題でもあります。 
                         
                        そして、人の命を金に変えることである、と一家は民事訴訟団を外れたので 
                         
                        した。 
                         
                        
                        イエスは「外から体に入るものではなく、人の内から出るものが人を汚す」 
                         
                        と言われました(マルコ13:14~)が、毒が口に入ったこの事件をどう考え 
                         
                        ればいいでしょうか? 紙野さんは「人の思いは外化する」と言います。儲 
                         
                        けたいという思いが、毒を売るという形として顕れる、内から出るものが外 
                         
                        化して人を苦しめるのだ、と。紙野さんは「カネミと自分は無関係ではない 
                         
                        ということに気づいて、「人間は皆繋がっている」と言います。私たちは網 
                         
                        の目のように繋がっています。それは死んだ人も、これから生まれる人も含 
                         
                        めてです。その網の目の中に神が人として入って下さったのでした。 
                         
                         
                        私たちにこれからも起こるであろう修羅場にもイエスが共にいて下さいます。 
                         
                        紙野さんは苦衷にあって「私は独りではない、主イエスが共にい給う」と証さ 
                         
                        れたのでした。                   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年5月6日(日) 集会 
                         
                        「キリスト・イエスの下僕」 エジプト記21章 
                         
                        講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        出エジプト記21章で奴隷についての定めが示されます。奴隷というと、 
                         
                        人格も何もかも奪われた悲惨な生活を思い起こしますが、ここでの奴隷は、 
                         
                        ヘブライ人の奴隷に限りますが、6年間奴隷として働いた後は自由の身に 
                         
                        なれるとされています。女奴隷の場合はもっと優遇されており、主人の妻 
                         
                        となることも、主人の息子の嫁となることも出来ました。今日私たちが考 
                         
                        える奴隷とは、少し様子が違っていたようです。 
                         
                         
                        ローマの信徒への手紙 冒頭の挨拶で、パウロは、自らをキリスト・イエ 
                         
                        スの僕と述べています。僕とは、自らの意志で奴隷となることを表します。 
                         
                        この言葉を、パウロが神に選ばれた特別な存在であったことを表していると 
                         
                        解釈する人もいますが、ここでの僕とは自らの意志でキリスト・イエスの奴 
                         
                        隷となった人ことを指すものと思われ、イエスを受け入れ、その言葉に従お 
                         
                        うとする人すべてが、キリスト・イエスの僕となるものと解釈されます。 
                         
                         
                        イエスの僕となることは、イエスの言葉に従って生きるということ、イエ 
                         
                        スの愛の中で生きることを表します。そのように、私たちは、イエスの僕と 
                         
                        なることで、何の心配もなく、この世での生活を営む事が出来るようになる 
                         
                        のです。苦しい時、悲しみに満ちた時においても、キリスト・イエスの僕と 
                         
                        して生きることによって、やがて永遠の命に導かれて行くこととなります。 
                         
                                                   (渕上記) 
                         
                         
                        2018年4月29日(日) 集会 
                         
                        「復活の福音①」 コリントの信徒への手紙一15:1~34 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        復活ほど信じ難いことはありませんが、パウロの宣教の原点はイエスの復 
                         
                        活でした。福音の中の福音、最も大切なものだと言い、先ず、イエスの復活 
                         
                        は事実である、と述べます。挫折して逃げていた弟子たちが勇躍伝道に立ち 
                         
                        上がったのは、復活のイエスとの出会いによってであり、彼らの大転換がイ 
                         
                        エスの復活の証拠です。それはパウロ自身にも起こったことでした。彼の回 
                         
                        心は、復活のイエスに出会って、瞬時にキリスト者を迫害していた罪の“赦し” 
                         
                        を経験したからでした。 
                         
                         
                        彼は何故イエスの復活を重視するのでしょうか?それは、神の子イエスは 
                         
                        神の許に帰るべき、ということもありますが、罪からの救いは復活なしには 
                         
                        完成しないからなのです。イエスの十字架は罪の贖いのためですが、罪が征 
                         
                        服されることは、同時に死が滅ぼされねばなりません。イエスが十字架上に 
                         
                        死んだままでは、贖罪の意味をなさないのです。私たちが罪から救い出され 
                         
                        るために、イエスの復活が不可欠なのです。 
                         
                         
                        イエスの復活は私たちの復活の初穂である、とされます。イエスの復活に 
                         
                        よって、終わりの日(キリスト再臨のとき)に私たちも復活させられる、即 
                         
                        ち滅び去る肉の命ではない新しい命(永遠の命)をいただくことが約束され 
                         
                        たのです。 
                         
                         
                        イエスの復活に於いて、私たちは神による万物創造の完成を垣間見させて 
                         
                        いただいています。死を克服する神の愛が約束されていることこそ、私たち 
                         
                        の希望の根拠です。              (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年4月22日(日) 集会 
                         
                        「神の友」 イザヤ書41:8 、ヤコブの手紙2:23、 
                         
                              ヨハネによる福音書15:11~17 
                         
                        講話:小林洋一先生(西南学院大学神学部・名誉教授)、司会:横山宜和 
                         
                        
                        友である条件は信頼関係(裏切らない、見捨てない、どんな時にも向き合 
                         
                        う間柄)ですが、旧約聖書で唯一「神の友」と言われているのがアブラハム。 
                         
                        イスラエルは神の愛し給う友・アブラハムの子孫だとされています(イザヤ 
                         
                        41:8).。 
                         
                         
                        神にも友が必要なのか? 神も、裏切らない、向き合う存在を求めておられ 
                         
                        ます。アブラハムは神と向き合い続けました。彼の風貌や業績などには触れず、 
                         
                        ただ信仰、希望を失わない生き方だけが記されています。彼の“楽観主義”は、 
                         
                        独り児イサクを捧げることを神に求められた時も、愛である神を疑わなかった 
                         
                        ことに顕れています。また、ソドム滅亡を言い渡されたときには、遠慮なく自 
                         
                        分の思いを神に訴えました。“敬虔なる不敬虔”です。私たちも神に嘆き、訴 
                         
                        える祈りをしましょう。沈黙の中にも、神は必ずや祈りを聴かれます。 
                         
                         
                        アブラハムの子孫(ユダヤ人)として、神の子イエス・キリストが来られま 
                         
                        した。イエスは「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました(ヨハネ 
                         
                        15:15)。神の友・アブラハムの子孫ではない(異邦人)私たちはイエスに従 
                         
                        うことで神の友とされます。 
                         
                         兄弟が誤って放った矢で片目を失った失意の中で、「悪を見る目を失くして 
                         
                        善を見る目だけが残った」との母親の言葉に救われたアメリカの8歳の男の子も、 
                         
                        その母も、愛なる神を信じたアブラハムの子孫なのです。   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年4月15日(日) 集会 
                         
                        「霊の賜物③-異言と預言」 コリントの信徒への手紙14 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                         霊の賜物としての愛について述べたパウロは本題に入ります。それはコリ 
                         
                        ントの集会で問題になっていた異言についてでした。異言の詳しいことは分 
                         
                        かりませんが、霊に満たされ恍惚状態になって意味不明なことを語る者が続 
                         
                        出して、集会が混乱していたようです。パウロは霊の賜物としての異言を尊 
                         
                        びつつも、異言よりも預言を語ることを勧めます。理性を用いて他人に分かる 
                         
                        ように語ることで集会を造るからです。 
                         
                        
                        信徒が語るべき預言とはどういうものでしょうか?預言といえば、旧約の 
                         
                        預言者の言葉でしょう。それは“審判”と“希望・喜び”であり、イエス・キ 
                         
                        リストの言葉に結実しています。新約聖書が無いパウロの時代には、信徒各自 
                         
                        が霊の導きを頼るしか無く、混乱に陥るのもやむを得なかったと思いますが、 
                         
                        私たちには新約聖書によってイエスの言葉が与えられています。私たちが聖書 
                         
                        に基づいて語る“審き”と“喜び・希望”の言葉は預言そのものと申せましょ 
                         
                        う。聖書(イエスの福音)の学びを中心に置く無教会集会は、彼の勧める健全 
                         
                        性を実現していると申せましょう。 
                         
                         
                        コリントの信徒は、理性は霊より劣ると考えていたようですが(19)、パウ 
                         
                        ロは理性と霊は互いに排斥する対立物ではなく、理性は霊によって潔められ、完 
                         
                        全なものにされると考えています。「この世の知恵」だけが霊に反するものなの 
                         
                        です。 
                         
                         
                        愛である霊の導きを祈り求めたいと願います。(秀村記) 
                         
                         
                        2018年4月8日(日) 集会 
                         
                        「ゼファニヤ書(下)-神の愛による新生」 ゼファニヤ書 3章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:長澤澄子 
                         
                            
                        ゼファニヤ3章前半では、諸国の民が神のことを忘れている間も、主は常 
                         
                        に人々の中にいることと、それでもなお悔い改めなかった人々に対し、神は 
                         
                        審判を実行することが記されています。さらに、審判の後、諸国の民に「清 
                         
                        い唇」が与えられ、すべての人が神の御名をとなえるようになることと、神 
                         
                        を信じ正しく生きる「苦しめられ、卑しめられた民」が残り、助けられるこ 
                         
                        とが告げられています。 
                         
                         
                        3章後半では、神は、人々に喜ぶことを促し、「お前の主なる神はお前の 
                         
                        ただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽 
                         
                        しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれ 
                         
                        る。」(ゼファニヤ3:17)と、神の愛によって私たちが新しく生まれ変わ 
                         
                        ることが告げ知らされ、約束されています。 
                         
                         
                        新約聖書において、主は「新たに生れなければ、神の国を見ることはで 
                         
                        きない。」(ヨハネ3:3)とはっきり述べられました。その新生が、すで 
                         
                        に旧約聖書において、ここに約束されています。苦難を経た後でなければ、 
                         
                        なかなか素直に神を信じることができないのが人間の悲しさではありますが、 
                         
                        今、キリストを素直に信じ、その御名を讃える「清い唇」が与えられている 
                         
                        ことに感謝します。ゼファニヤ書から「新生」の喜びを学びたいと思います。 
                         
                                                   (鎌田記) 
                         
                         
                        2018年4月1日(日) イースター集会 
                         
                        「十戒」 出エジプト記20章 
                         
                        聖書講話:渕上明、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        十戒は旧約聖書中最も有名な箇所の一つですが、新約聖書とは違う一面も 
                         
                        あります。戒めは2枚の石板に書かれており、最初の4つの戒めが人の神に 
                         
                        対する義務を、後の6つが人の人に対する義務を定めたもの、と一般的には 
                         
                        言われています。 
                         
                         
                        十戒には懲罰の規程はありません。「~しなさい」「~してはならない」 
                         
                        という言葉はありますが、違反した場合の懲罰規定はありません。私たちが 
                         
                        一般に使う契約とは、その点が違っています。つまり、十戒は神による無条 
                         
                        件で絶対的な宣言で、私たちは従うしかないのです。 
                         
                         
                        内村鑑三は「聖書の研究」で、5つ目の戒め「あなたの父母を敬え」は、人 
                         
                        に対する義務ではなく、神に対する義務であると解釈しています。単に父母だ 
                         
                        けでなく年長者に対する畏敬の念を持つことの大切さが書かれていると考える 
                         
                        からです。また内村は、十戒についての文章の最後に「律法はモーセを通して 
                         
                        与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた(ヨハネ1:17)」 
                         
                        を引用して、「律法は人をして福音に至らしむる唯一の途であると」述べてい 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        十戒にあるそれぞれの戒めは、新約聖書では「心を尽くし、精神を尽くし、思 
                         
                        いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛し 
                         
                        なさい。」という2つの掟にまとめられます。このイエスの言葉に従うことによ 
                         
                        って私たちは救われ、永遠の命が得られるのです。 (渕上記) 
                         
                         
                        2018年3月25日(日) 集会 
                         
                        「東方におけるパウロの最後の弁明」 使徒言行録26章 
                         
                        聖書講話:市村昭三、司会:秀村興子 
                         
                         
                        ユダヤ人から告訴されたパウロはカイサリアでローマ総督フェストゥスの 
                         
                        下に監禁されていましたが、国守アグリッパの前で弁明する機会を得ます。 
                         
                        彼の弁明は使徒言行録に繰り返し記されていますが、これが東方パレスチナ 
                         
                        の地で彼がなした最後のものとなりました。 
                         
                         
                        彼は先ず自分の回心の経験を語ります。ユダヤ教徒として律法遵守に熱心 
                         
                        のあまりキリスト教徒を迫害していた彼が復活のイエスに出会って、いかに 
                         
                        自分が倒錯の歩みをしていたかを知らされたこと、それを赦されて180度の 
                         
                        転換をして、異邦人への伝道者になったことを。そして、「このことはどこ 
                         
                        かの片隅で起こったことではない(26)」と言います。 
                         
                         
                        私たちも復活のイエスとの出会いによって、それまで頼みとし、誇りに思っ 
                         
                        ていたこと-信じていたことも-が無価値になり、180度転換して生きる者と 
                         
                        なります。私自身もいくつかの挫折の経験を経てイエス・キリストを信じる者 
                         
                        とされました(挫折の一つに、信仰を自力で作り上げようとして行き詰ったこ 
                         
                        とも)。そして私たちがクリスチャンであることは、公的な意味を持っている 
                         
                        ことを忘れてはなりません。 
                         
                         
                        総督とアグリッパは弁明を聞いてパウロの無罪を確信しますが、パウロは皇帝 
                         
                        への上訴を取り下げませんでした。福音は世界の中心であるローマに伝えられね 
                         
                        ばならないからです。決して片隅に燻っているものではないのです。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年3月18日(日) 集会 
                         
                        「霊の賜物 ② -愛の讃歌-」 コリントの信徒への手紙 一12:31b~13:13 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:原サイ子 
                         
                        
                        多様な霊の賜物について述べたパウロは、それらよりも一層優れた賜物とし 
                         
                        て愛を採り上げます。愛は人間にとって最大の関心事ですが、彼が語る愛は人 
                         
                        々が問題にする愛とは違います。ギリシャ語で“アガペー”といい、人と人の愛“ 
                         
                        フィリア”や男女の愛“エロス”とは異なる、神から出る特別の愛です。反抗す 
                         
                        る者・価値なき者を抱きしめ、それによって生命を生み出す愛、捧げの愛であ 
                         
                        り、敵をも愛する愛です。 
                         
                         
                        預言、知識、完全な信仰を持っていても、また、大きな善行や殉教の死さえも、 
                         
                        愛が無ければ一切無益であると言います。新約聖書中に最も印象的なものの一つ、 
                         
                        愛の讃歌です。そして、愛は寛容で情け深いとの前提に立ち、妬むことをせず、 
                         
                        自慢せず、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みを抱かない等と愛の特質を 
                         
                        列挙します。自らを省みて胸を突かれます。特に、すべてを忍び、信じ、望み、 
                         
                        耐える、は神への信頼と服従なくしては不可能だと思います。 
                         
                         
                        最後に愛の永遠性が語られます。預言も知識も廃れますが、愛はキリストが来 
                         
                        て下さることによって完成され、永遠の存在に入るというのです。信じる者はこ 
                         
                        の愛によって、キリストと顔と顔を合わせて永遠の命を生きる者とされます。 
                         
                         
                        私達は愛の完成を信じて、この愛に生きることが許されています。故にこの愛 
                         
                        は最も大いなるものなのです。              (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年3月11日 集会 
                         
                        「霊の賜物 ① ― 個と全体」 コリントの信徒への手紙 一12:1~31a 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        信仰は霊の賜物である、とパウロは言います。自分の力で神を信じ、また他人 
                         
                        を教え導いて神を信じさせることが出来ると思いがちですが、神(聖霊)の働き 
                         
                        無くしては不可能なのです。「イエスは主である(3)」と言うとき、またエク 
                         
                        レシアに参加しているとき、聖霊が働いて下さっているのです。 
                         
                         
                        霊の賜物はどのように顕れるのでしょうか?パウロは第一に、人其々に違った顕 
                         
                        れ方をする、と言います。人は個性をもつ存在であり、エクレシアに於いても、知 
                         
                        恵の言葉を持つ者、病気を癒す者、預言をする者など賜物は多様だ、と。これは、 
                         
                        常に他人を羨んで争う私たちには大きな福音です。 
                         
                         
                        第二に、人其々に多様な賜物を戴いているのは全体の益になるためだ(7)と述 
                         
                        べます。個は個として存在しても無意味、全体のために働いてこそ存在の意義があ 
                         
                        る、と肢体の構成に譬えます。信徒はキリストの体であり、夫々が役割を与えられ 
                         
                        た部分なのです。第三には
“弱い、見劣りする部分こそが大切なのだ(22~26)” 
                         
                         との深い教えで、心に残ります。 
                        この“個と全体”の福音は、万人の存在を肯定し、生き甲斐・勇気を与えるもの 
                         
                        です。また、神の万物創造の原理でもあり、内村鑑三が生涯追求した、日本の個性 
                         
                        と使命(世界に果たす役割=天職)についても考えさせられます。他にない憲法9条 
                         
                        を持つ日本の世界に果たすべき使命を。           (秀村記) 
                        
 
                         
                        2018年3月4日(日) 集会 
                         
                        「謙遜であること」 出エジプト記18~19章 
                         
                        聖書講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                        
                        18章では、モーセのしゅうとエトロがモーセの妻ツィポラと二人の息子を連れ 
                         
                        てモーセのもとにやって来ます。そして、モーセの仕事ぶりを見て助言をします。 
                        19章では、20章の十戒に先立って神から契約について告げられます。「今、も 
                         
                        しわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民 
                         
                        の間にあってわたしの宝となる。」とモーセに言われます。神との契約という概 
                         
                        念は、わたしたち日本人には、なかなか理解し難いものがありますが、ここでの 
                         
                        神の言葉は、いわば宗主と臣下の関係のようなものであり、政治的、法律的な意 
                         
                        味合いも感じさせます。 
                         
                         
                        また、「あなた達は、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」とモ 
                         
                        ーセに伝えられます。祭司は神への奉仕のため献身する者であり、また人々に奉 
                         
                        仕する義務を負う者でもあります。神との契約は20章から細かく決まっていきます。 
                        この二章にわたって、最も心に残ったのは、モーセの謙遜さでした。モーセは、 
                         
                        しゅうとエトロの言葉を素直に受け入れました。モーセはイスラエルの人々の指 
                         
                        導者でしたから、エトロの言葉をそのまま受け入れなくても良い立場でした。民 
                         
                        数記に「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった(12:3)」と 
                         
                        書かれています。モーセ以上に謙遜であったのは主イエス・キリスト以外にありま 
                         
                        せん。私たちも主の言葉を謙遜に受け止めたいと思います。    (渕上記) 
                        
 
                         
                        2018年2月25日(日) 集会 
                         
                        「主の晩餐」 コリントの信徒への手紙 一11:2~34 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        中近東に多い女性がベールを被る風習が、当時のギリシャにもあったようですが、 
                         
                        パウロは、コリント教会の礼拝で女性はベールを被ることを勧めています。キリス 
                         
                        トにあっては奴隷も自由人も平等、男も女も平等だという福音(ガラテヤ3:27~ 
                         
                        28)を原則としつつも、風習などの社会変革には慎重です。様々な風習の中にいる 
                         
                        私達に示唆を与えてくれます。 
                         
                         
                        次にパウロが採り上げるのは、「主の晩餐」の問題です。最後の晩餐でのイエス 
                         
                        の言葉(24~25)に基づいて愛餐を行うべきなのに、分けられる食物に不平等があ 
                         
                        ったり、心がイエスの教えに相応しくなかったり、十字架の贖いを憶えての“聖餐” 
                         
                        とは言えない食事会になっていたのです。パウロは「裁かれるために集まることに 
                         
                        ならないように」、と警告します。 
                         
                         
                        「主の晩餐」は聖餐式として教会のサクラメントに定められした(その解釈など 
                         
                        で教会分裂の要因にもなりました)。無教会は聖餐式を行いませんが、イエスの肉 
                         
                        と血に与るのは霊に於いてである、と信じるからです。イエスが教え給うたように 
                         
                        「神は霊であるから、霊とまことをもって拝すべき(ヨハネ4:24)」であり、主の 
                         
                        晩餐に与るのも、霊的パンと霊的葡萄酒であるべきです。割礼という儀式・形式を 
                         
                        廃したパウロの信仰を、主の晩餐においても倣おうということなのです。 
                         
                         
                        私達はイエスが喜ばれる愛餐をもちたいと思います。それは隣人と共にイエスの愛 
                         
                        に与るものでありましょう。                 (秀村記) 
                         
                         
                        2018年2月18日(日) 集会 
                         
                        「ゼファニヤ書(上)- 神の審判と悔い改めの呼びかけ」 
                         
                                              ゼファニヤ書 1~2章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:横山宜和 
                         
                         
                        ゼファニヤ書前半では、第三章で述べられる神の愛による新生の前提として、 
                         
                        まず神の審判の告知と悔い改めの要求がなされます。ゼファニヤの預言の時代背 
                         
                        景は、おそらく紀元前640年から紀元前621年の間、アッシリアがまだ滅亡せず、 
                         
                        かつヨシヤ王が申命記改革を行う以前の、ヨシヤ王の治世の初期と考えられます。 
                         
                        ゼファニヤは、おそらくヒゼキヤ王の子孫で王族の一員であり、かつエチオピア 
                         
                        人(クシュ人)の血も引いていたと考えられます。ゼファニヤは、ヨシヤ王の申 
                         
                        命記改革に影響を与えたとも考えられます。 
                         
                         
                        ゼファニヤ書には、中世ヨーロッパの詩「怒りの日」(Dies irae)(モーツァ 
                         
                        ルトのレクィエムなどの歌詞にもなりました)に影響を与えた、神の怒りの審判 
                         
                        の描写があります。しかし、神の審判の告知は、決して滅ぼすことを目的とせず、 
                         
                        事前に人々が悔い改めて、罪の結果としての滅亡を避けるための、衷心からの忠 
                         
                        告でした。 
                         
                         
                        凝り固まり、頑なで、神に対して無感覚になっている日頃の私たちの生き方を 
                         
                        振り返り、神と正義と謙遜を求める生き方(2章3節)を、ゼファニヤ書は呼びか 
                         
                        けています。さらには、主が犠牲を用意し、人々を聖別するという、キリストの 
                         
                        十字架の預言もなされています(1章7節)。ゼファニヤ書から、神の愛と義を学 
                         
                        びたいと思います。                  (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2018年2月11日(日) 集会 
                         
                        「神のため、人のためを」 コリントの信徒への手紙一10:1~11:1 
                         
                        聖書講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        偶像に捧げられた肉も食べて良い、との原則を示したパウロは、弱い信徒の良 
                         
                        心のためには節制もする、と重ねていいます(9:25、10:28)。そして、節制 
                         
                        といえば、恐ろしい前例があるから気を付けよ、と警告します。荒野を旅した先 
                         
                        祖たちは、洗礼(海を渡ったこと)と聖餐(マナ)に与りつつも、金の子牛を拝 
                         
                        したが故に、救いに与れなかった、と。 
                         
                         
                        問題は、捧げられた肉を食べる食べない以前に、偶像崇拝を避けることにあり 
                         
                        ます。神の食卓に着くか、偶像の食卓に着くかの二者択一です。これが根本問題 
                         
                        であります。 
                         
                         
                        しかし、伝道者であるパウロは、異教世界にあって信徒たちが直面する具体的 
                         
                        な問題への対処については、言葉を重ねて丁寧な配慮をしていることに感じ入り 
                         
                        ます。一人一人の問題に寄り添って、原則を示しつつも苦闘している姿に、伝道 
                         
                        者パウロの真骨頂をみます。すべてを神の栄光のためにしなさい、との教えと、 
                         
                        信徒の益のためなら何でもする、との愛が具体的な問題への判断基準となってい 
                         
                        ます。それはイエス・キリストに倣うことであり、私に倣いなさいと勧めます。 
                         
                         
                        私たちは試練に襲われますが、真実な神は、耐えられないような試練に会わせ 
                         
                        給うことはない、試練と共に逃れる道をも備えてくださっている、との彼の教え 
                         
                        (10:13)は艱難の中を生きる私たちへの大いなる慰めの言葉です。(秀村記) 
                         
                         
                        2018年2月4日(日) 集会 
                         
                        「神を試してはならない」 出エジプト記16~17章 
                         
                        聖書講話:渕上明、司会:三苫恵子 
                         
                         
                        荒野での40年間、「マナ」と「うずら」によってイスラエルの人々は生きてい 
                         
                        くことになりますが、荒れ野で様々な困難に出会うとモーセとアロンに不平を言 
                         
                        います。神はその声を聞きつけて、自ら救済に乗り出されます。神は、真に必要 
                         
                        な時に必要な物を与えられます。神の言葉は正しく、必ず実現されます。神の言 
                         
                        葉の中に留まることが求められています。 
                         
                         
また、飲み水がなくなり、イスラエルの人々とモーセとの間には激しい言い争 
                         
                        いがおこりモーセが身の危険を感じるほどのものとなります。そこでも、神は岩 
                         
                        の中から水を出し、イスラエルの人々を助けられます。この岩はキリストであっ 
                         
                        たとパウロは述べています(Ⅰコリント10章)。 
                         
                         
先住民アマレクとの戦いが起こりますが、これからも長く続きます。アマレク 
                         
                        は、疲れ切ったイスラエルの人々を攻め滅ぼし、神を畏れることない部族でした。 
                         
                        アマレクとの戦いの際、モーセは手を高く上げ神に祈りました。実際に戦ったの 
                         
                        は、モーセの後継者となるヨシュアでしたが、モーセが祈りによって支えていた 
                         
                        のです。 
                         
                         
神は、真に困った時、助けを送られます。主イエス・キリストがこの世に来ら 
                         
                        れて、私たちの罪を贖い、永遠の命を得る道を整えて下さいました。神の言葉、 
                         
                        主イエス・キリストの言葉の中にいること、そして祈りによって生きていくこと 
                         
                        が求められています。                  (渕上記) 
 
                         
                        2018年1月28日(日) 集会 
                         
                        「パウロの皇帝への上訴」 使徒言行録25:1~12 
                         
                        聖書講話:市村昭三、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        3度に及ぶ伝道旅行から帰ったパウロは、エルサレムのユダヤ人達に暗殺さ 
                         
                        れそうになり、カイサリアの総督の許に監禁されてしまいます。2年経って総 
                         
                        督が交代、新任のフェストゥスは能吏で、パウロの処遇も迅速に進めます。早 
                         
                        速エルサレムのユダヤ人を呼び寄せて、パウロの裁判を開きました。 
                         
                         
ユダヤ人たちはパウロの罪状として、律法を守らないこと、神殿を汚したこと、 
                         
                        皇帝への反逆を訴えましたが、立証されることなく、無罪は明らかとなります。 
                         
                        しかし、更にエルサレムでの裁判も求められたパウロは、それを拒否してローマ 
                         
                        皇帝への上訴を求めたのでした。無罪にも拘わらず裁判に付されたこと、イエス・ 
                         
                        キリストと同じ道を歩んだのです。 
                         
                         
パウロは上訴したことにより、ローマに行くことになりますが、彼と前後して 
                         
                        ローマに赴いた2人のユダヤ人を想起します。一人はアレキサンドリアの哲学者 
                         
                        フィロン。その地のユダヤ人迫害が起こった時、ユダヤ人のリーダーとして善処 
                         
                        を求めてローマに赴きました。もう一人はユダヤ教の学者・アキバ。ローマへの 
                         
                        反乱軍(AD132年)の精神的指導者となりましたが、ローマで処刑されたのです。 
                         
                        いずれもユダヤ人社会の指導者でしたが、活動が実ることはありませんでした。 
                         
                         
ユダヤ人パウロは孤独な伝道者であり、囚人としてローマに行くことになります 
                         
                        が、彼の説いた福音は全地に新しい時代を開き、私たちもその恩恵に浴しているの 
                         
                        です。                           (秀村記) 
 
                         
                        2018年1月21日(日) 集会 
                         
                        「神の救い」 出エジプト記14~15章 
                         
                        聖書講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        エジプトを脱出したモーセたちは紅海を前に宿営しますが、そこは、敵の 
                         
                        攻撃を考えると通常の軍隊では宿営しない、前には海が、後ろには山がある 
                         
                        という場所でした。神はあえて危険な場所に宿営させられました。そこでイ 
                         
                        スラエルの人々に海を渡らせて救おうという、神のご計画があったのです。 
                         
                         
イスラエルの人々を失って、ファラオは軍隊を引き連れてイスラエルの人 
                         
                        々を追います。イスラエルの人々は、死への恐怖からモーセを非難します。 
                         
                        これから40年間、彼らは何度もモーセを非難しますが、モーセは神を信じ、 
                         
                        神の救いを確信していました。そして、実際に神はその力を発揮し、エジプ 
                         
                        ト軍を滅ぼされます。その光景を見たイスラエルの人々は神とモーセを信じ 
                         
                        ます。モーセは、神をたたえる歌を歌い、アロンの姉ミリアムは、小太鼓を 
                         
                        持って踊りながら歌います。 
                         
                         
イスラエルの人々は荒れ野を三日進み、マラに着きます。そこの水は苦く 
                         
                        て飲めず、モーセに苦情を言います。あれほど神とモーセを称えたのに、3日 
                         
                        の後には苦情を言うのです。 
                         
                         
私たちも、主イエス・キリストを信じたからといって、直ちに苦難から解 
                         
                        放される訳ではありません。かえって苦しい思いをすることが多いかも知れ 
                         
                        ません。しかし、いつも主イエス・キリストを通して神の救いがあるのです。 
                         
                        それは、神御自身が計画されていること。私たちもモーセと同じように神を 
                         
                        信頼して生きていくことが求められています。      (渕上記) 
 
                         
                        2018年1月14日 集会 
                         
                        「苦しみは祝福に-シャボン玉物語・野口雨情-」  
                         
                                     コリントの信徒への手紙
二4:16~18 
                         
                        講話:横川知親先生(日比聖書教会) 司会:秀村興子 
                         
                         本日は1年ぶりにフィリピンから横川先生をお迎えしての集会でした。 
                         
                        
                        フィリピンの教会でも歌われる「シャボン玉飛んだ  … シャボン玉消えた 
                         
                         飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた」は、クリスチャン詩人 
                         
                        ・野口雨情が長女の生後2ケ月での死を悲しんで作詞したものです。私たちは 
                         
                        様々な苦難に会いますが、苦しむのは苦難の理由が分からないことにあります。 
                         
                        何で神様は私をこんな目に会わせるのか?と。 
                         
                         
九十九里のバイブルキャンプで、大勢の子供が大波にさらわれ、次の波で浜 
                         
                        に戻されたとき、テトラポットに頭を打って一人だけが死んだのですが、その 
                         
                        子は私の親しい青森の牧師の一人息子でした。彼は悲嘆にくれましたが、後に 
                         
                        神様はキャンプを継続させるため、一人死ぬのなら自分の子を選ばれたのだ、 
                         
                        と神様のご計画が分かったのでした。私たちの艱難は、神様の栄光のために必 
                         
                        要とされているのです(Ⅱコリ4:17)。そして私たちの最終的な行き先はイ 
                         
                        エス様のみ許である、という喜ばしい約束をいただいています(同18)。 
                         
                         
“財産、知恵、快楽は全て空しく、神に心を向ける時だけ真の幸福を見出す 
                         
                        ことができる(リビングバイブル・伝道の書解説)”とある通り、人生の目的 
                         
                        はイエス様を知ることにあります。その為に経験する小さな奇跡を大切にしま 
                         
                        しょう。 
                         
                         
日比聖書教会の映像、手品も楽しみました。      (秀村記) 
 
                         
                        2018年1月7日(日) 新年集会 
                         
                        「伝道者の精神」 コリントの信徒への手紙 一8~9章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                         
                        コリントの信徒が問題にした偶像に捧げられた食物を食べることの可否に 
                         
                        ついて、偶像は神ではないから汚れることはない、自由に食べよ、とパウロ 
                         
                        は原則を示しますが、信仰の弱い者のために、場合によって自らは食べない、 
                         
                        といいます。 
                         
                         
ここで彼は、伝道者としての自己を開示します。神の奴隷であり、人の奴 
                         
                        隷でもある、そしてそれが誇りである、と。 
                         
                         
伝道者はその活動によって生活が支えられるのは当然であり、権利なので 
                         
                        すが(民18:31、マタイ10:10)、彼はテント職人として自活しました。神 
                         
                        に強いられてせずにおれない任務だから無報酬は当然、それが誇りだ、といい 
                         
                        ます。神の奴隷であるからです。また、福音による自由を得ているが、その自 
                         
                        由を制限する自由も持っているといいます。“ユダヤ人に対してはユダヤ人の 
                         
                        ごとく、律法を持たぬ人に対しては、律法を持たぬ人のごとくに”、“全ての 
                         
                        人に対して全てのものになる”のは、一人でも多くの人を救わんがため、人の 
                         
                        奴隷であるからだ、というのです。その柔軟な精神に驚きます。 
                         
                         
朽ちない冠(=永遠の生命)を得るために、競技者のように節制することを、 
                         
                        彼は自らに課し、信徒たちに勧めています。私たちは、神と人の奴隷であること 
                         
                        を心に刻まなければなりませんが、愛なる神は不可能なことを求め給うことはな 
                         
                        いでしょう。弱く貧しいままでOK、従うことだけを求め給うイエスに招かれてい 
                         
                        る幸を感謝したいと思います。                (秀村記) 
 
                         
                        2017年12月24日(日) 集会  クリスマス祝会 
                         
                        「平和の君」 ルカによる福音書2:8~14 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        今年は平和を祈るクリスマスとなりました。我国の指導者は国会審議も 
                         
                        なく1基1000億円もするイージスアショアを2基もアメリカから買うこと 
                         
                        を決めました。内村鑑三は「王者が軍事に勤め、軍事に数億を費やして 
                         
                        農事に数百万を投ずるに過ぎざるが如き、国の不幸この上なしである。」 
                         
                        と言っていますが、100年前に今日の闇をを預言したが如くです。 
                         
                         
イザヤは、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」と預言しましたが、 
                         
                        その光は「ひとりのみどりごが生まれた」こと。その児は「剣を打ち直し 
                         
                        て鋤とする」「平和の君」なのです。 
                         
                         
誕生したみどりごイエスを最初に拝した羊飼いたちが聞いた天使の声は 
                         
                        「地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ2:14)」でした。平和は人 
                         
                        の心に宿るのです。国や社会の平和の基礎は、人の心の平和ですが、それ 
                         
                        は決して平穏無事な状態を言うのではなく、喜びが充満した平安=シャロ 
                         
                        ームなのです。イエス・キリストの十字架と復活により罪の闇から救い出 
                         
                        していただくことによって得られるシャロームです。 
                         
                         
その事例として、ナチの手からユダヤ人家族を救ったドイツ兵たちの物語 
                         
                        (西の国から来た3人の博士たち)を読み、最後に平和に因む讃美歌「鳥の 
                         
                        歌」を唱和しました。 
                         
                         
引き続き子供たちと共に楽しいこどもクリスマス会、昼食感話会もも 
                         
                        ちました。                  (秀村記) 
 
                         
                        2017年12月17日(日) 集会 
                         
                        「結婚について
」 コリントの信徒への手紙一7章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        異教の豊かな都会コリントの教会で信徒たちが抱えていた問題の一つに結 
                         
                        婚の問題がありました(結婚の問題の重さは今日も変わりません)。①独身 
                         
                        の方がいいか ②離婚して良いか ③非信者と夫婦でいて良いか等です。こ 
                         
                        れらの問いに対してパウロは極めて穏当・常識的な答えを書き送っています。 
                         
                         
①キリストの再臨が近いこともあるから、心を神に集中する(心の分裂を 
                         
                        避ける)為には独身が良い。しかし不品行忌避のために結婚するのはよいこ 
                         
                        とだ。②イエスも命じておられるように(マルコ10:9)離婚してはならない。 
                         
                        ③信者でない相手(妻又は夫)とも共にいよ。しかし非信者が去る場合はそれ 
                         
                        を認めよ、と。パウロの答えは、其々が与えられた賜物に沿って考えなさい、 
                         
                        と自由です。求められているのは、神の召しに応じて「平和な生活を送る(15)」 
                         
                        ことなのです。 
                         
                         
「結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっと良 
                         
                        いのです」(38)を根拠にカトリックは今日まで独身主義を貫いています。し 
                         
                        かし、ルターは自ら結婚し、結婚生活を祝福しました。「品位ある姿勢で余念 
                         
                        なく主に仕える」(35)ことが最も大切なことであるからです。 
                         
                         
私たちには、結婚の如何に関係なく、神と共にあるか?が問題です。十字架 
                         
                        と復活によって神の子とされていること、そして、皆イエス・キリストにおい 
                         
                        て一つとされていること(ガラテヤ3:28)を感謝したいと思います。(秀村記) 
 
                         
                        2017年12月10日(日) 集会 
                         
                        「この書物危険につき 」 ヨハネの黙示録22:18~20 
                         
                        講話:片山寛先生(西南学院大学・神学部) 司会:横山 宜和 
                         
                        
                        宗教改革の後、カトリックとプロテスタントの対立などで100年に及ぶ戦 
                         
                        争の時代がありました。聖書が引き起こした混乱です。ヨハネ黙示録に“こ 
                         
                        の書物に付け加える者や取り去る者があれば、災いを受ける”(20:18~19) 
                         
                        とありますが、聖書は危険な書物でもあるのです。 
                         
                         
                        政治・社会の指導者だけでなく、教会も聖書についての過ちを犯し、悪い 
                         
                        影響を齎しました。例えば、ローマ書16書にある女性使徒の名を男性の名に 
                         
                        書き換えたため(ユニアをユニアスと=16:7)、今日に至るまでカトリッ 
                         
                        クには女性聖職者は存在が許されていません。3世紀最大の神学者オリゲネ 
                         
                        スが迫害された等、教会には弾圧の歴史もありました。 
                         
                         
                        そのような負の歴史にも拘わらず、信徒たちは聖書の真理を伝えることを 
                         
                        止めませんでした。それは、キリスト教の原点がそうさせたからです。原点 
                         
                        は「イエスに出会いたい」ということ。イエスは十字架の死後再び来るとの 
                         
                        約束を、復活をもって果たされました。昇天されましたが、再び来ると約束 
                         
                        されています。「然り、わたしはすぐに来る」(20)とのイエスの言葉を信 
                         
                        じ、イエスの到来を待ち続けるのがキリスト教会の歴史であり、“待つ”こ 
                         
                        とが“信じる”ことなのです。 
                         
                         
                        混迷の時代にこの原点を確認すべく、聖書を読みたいと思います。イエス 
                         
                        に出会うことが出来るからです。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2017年12月3日(日) 集会 
                         
                        「神の導き 」 出エジプト記12~13章 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        10に及ぶ神からの災の最後の災いは「初子の災い」ですが、神はまず、イ 
                         
                        スラエルのための暦をモーセとアロンに伝えられます。それは、イスラエル 
                         
                        が独立した民族として存在していくための第一歩だったからです。そして過 
                         
                        越の祭りについて神からの指示があります。過越の祭りと除酵祭は、ずっと 
                         
                        イスラエルの民に引き継がれていくことになります。 
                         
                         
                        そして、これまでとは違って今度は神自らが、ファラオを初めとするエジ 
                         
                        プトの人々を撃たれます。人だけではなく家畜までもその初子を撃たれたの 
                         
                        で、ファラオはイスラエルの人々にエジプトから出て行くよう懇願します。 
                         
                        ファラオが、イスラエルの民を去らせた時、神は約束の地であるカナンへの 
                         
                        最短の道へは導かれませんでした。当時の幹線道路であったペリシテ街道を 
                         
                        通れば、数週間で行き着くところを、荒れ野の道に迂回させられました。そ 
                         
                        の後、40年をかけてイスラエルの民はカナンの地にたどり着くのです。 
                         
                         
                        神はなぜこのようなことをなさったのでしょうか。神には神の御計画があ 
                         
                        るのだと思います。何もかもうまくいかないように思われる時、神はなぜい 
                         
                        つまでもこのままにされるのか、不安にかられる時もあります。しかし、神 
                         
                        は最善の道を考えて下さっているのです。主イエス・キリストが神の御計画 
                         
                        によって私たちの許に来られたように、私たちも神の御計画によって生かさ 
                         
                        れているのです。               (渕上記) 
                        
 
                         
                        2017年11月26日(日) 集会 
                         
                        「大祭司らの総督への告訴とパウロの弁明
」 使徒言行録24章 
                         
                        講話:市村昭三、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        パウロ苦難の旅は続きます。3回に亘る伝道旅行を終えてエルサレムに帰っ 
                         
                        たパウロは、律法を守らなくとも良いという教えを説いている、との理由でユ 
                         
                        ダヤ人たちに殺されそうになり、カイサリアの総督フェリクスの許に護送され 
                         
                        ました。 
                         
                         
ユダヤ人たち(大祭司アナニアほか)のフェリクスへの訴えは、パウロの活 
                         
                        動がローマの平和を乱すものだということと、エルサレム神殿を汚した、とい 
                         
                        うことでした。パウロはユダヤ人としての彼の信仰に問題は無いことを弁明し 
                         
                        ます。 
                         
                         
この告発と弁明(演説)の記事は、多くの注解者がいうように、ルカの創作 
                         
                        (作り話)でしょう。しかし、重要な場面に演説を挿入することは、古代の歴 
                         
                        史家の常套手段であり、著者ルカが訴えたいことが演説の中に表れている、と 
                         
                        読まなければなりません(使徒言行録の実に3分の1は演説で占められている= 
                         
                        この後も3回)。キリスト教は決してローマに有害なものではない、とルカは主 
                         
                        張したいのです。 
                         
                         
フェリクスが同席させた妻ドルシアは、律法違反の再婚をしたユダヤ人でし 
                         
                        たが、パウロが彼らに正義や裁きを語って怯れられた(25)、とあるのは、洗 
                         
                        礼者ヨハネがヘロデ・アンティパスとその妻ヘロディアに怯れられたことを想 
                         
                        起させます(マルコ6:20)。フェリクスは賄賂も狙ったのでした。 
                         
                         
尽きることの無い人間の罪とパウロの苦難ですが、そのことを通して神は福 
                         
                        音を全地に拡げ給うたのです。            (秀村記) 
 
                         
                        2017年11月19日(日) 集会 
                         
                        「性道徳の問題と信徒のこの世との関係」 コリントの信徒への手紙一5~6章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        歓楽に陥っていた大都会コリントの性道徳の乱れは信徒たちの中にも影響し 
                         
                        ていて、姦淫を犯している者もいました。パウロは断固としてその様な者を排 
                         
                        除すべきだ、と言います。“肉”の過ちは“霊”を滅ぼすからです。 
                         
                         
                        彼は不道徳な者を裁きますが、信徒たちに「この世の悪人を裁くな」と教え 
                         
                        ます。彼らが裁くべきは、信徒たちの間でのこと、外部の悪は神の裁きに委ね 
                         
                        よ、と。これは、世の悪に従っていていいのか?という微妙な問題を孕んでい 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        私たち信徒の為すべきことは、世の悪を裁き、この世と戦うことではなく、神 
                         
                        の義と裁きを宣べ伝えつつ、裁きの一切を神に委ねて、祈りつつ神の裁きを待 
                         
                        つことでしょう。 
                         
                         
                        この世の人々との関係として、彼は訴訟問題にも触れています。些細な問題 
                         
                        で訴訟を世に持ち出すな、信徒たち同士で解決出来る筈ではないか、と。日頃 
                         
                        は不信仰者と見下している世の人々に、訴訟で頼る不見識を指摘しています。 
                         
                         
                        様々な問題の原因は“不義”にある、と彼は喝破しています。キリストの十 
                         
                        字架と復活によって“義”とされたことから、私達の生き方は変わらざるを得 
                         
                        ません。なぜ性道徳の乱れが悪いのか、と問われて答えに窮するといいますが、 
                         
                        パウロの答えは「私達の体は復活のキリストの体と一体であるから」、「聖霊 
                         
                        の宿る神殿だから」、と明快です。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2017年11月12日(日) 集会 
                         
                        「漂流の時代における神の言葉と希望-預言者から」 エレミヤ書30:23~31:17 
                         
                        講話:吉村孝雄氏(徳島聖書キリスト集会) 司会:秀村興子 
                         
                        
                        行く先が分からず漂流している現代は、人間の言葉に苦しめられています。 
                         
                        この時こそ創造主なる神のみ言葉に聴かなければなりません。聖書の無い古い 
                         
                        時代に、アブラハムを始めとして人々は神の声を聴きました。私たちも聖霊を 
                         
                        受けるとき、神の声を聴くことができます。聖書も漫然と読んではなりません。 
                         
                        霊とまことをもって読まねばならないのです。 
                         
                         
                        預言者エレミヤはユダヤ王国が新バビロニア帝国によって滅亡した時代に、 
                         
                        半世紀の長きに亘って神の言葉を聴き、人々に取り次ぎました。人々が嫌がる 
                         
                        道を指し示し(バビロン捕囚に従え等)、偽預言者だと罵倒されます。怒らず、 
                         
                        悲しみをもって背信の民を担いつつ、帰還の希望を語ったのでした。 
                         
                         
                        イエス・キリストも背信の民に対して神の言葉で闘われました。神の言葉は 
                         
                        “いのち”ですが、イエスご自身が“いのち”であり、神の言葉であられたの 
                         
                        です。 
                         
                         
                        神の言葉はまた、“火”である、とあります(エレミヤ23:21)。 
                         
                        悪を焼き尽くし、灯火となって暗闇を導き、周囲を温めます。世界が 
                         
                        暗闇に苦しんでいる今日、私たちは火のような力を持っている神の言 
                         
                        葉(=イエス)を受け取って、聖霊を戴いて護り、周囲の人々に語り 
                         
                        伝えなければならないと思います。愛である神は私達の涙を拭い去り、 
                         
                        希望に生きることを約束されています(31:16~17)から。 (秀村記) 
                         
                         
                         
                         
                        2017年11月5日(日) 集会 
                         
                        「神を受け入れる」 出エジプト記9~11章 
                         
                        講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        エジプトに対する10の災いが示されますが、たび重なる災いに遇ってもファ 
                         
                        ラオは、その頑な心を改めようとはしません。それでも、ファラオが「どうか、 
                         
                        もう一度だけ過ちを赦して、あなたたちの神、主に祈願してもらいたい。」と 
                         
                        懇願した時(10:17)、モーセは主に祈願し、主はいなごの大群を一匹残らず 
                         
                        海に追いやられました。このことは、イエスの教え「七回どころか七の七十倍 
                         
                        までも赦しなさい(マタイ18:22)」を連想させます。スイスの哲学者カール・ 
                         
                        ヒルティも「争いをしているときは、理のある側が、まず先に若干譲歩すべきで 
                         
                        ある。理のない相手は、全然赦すことのできないのが通常である。」と言ってい 
                         
                        ますが、モーセはファラオに対して何度となく、主の言葉を取り次いでいます。 
                         
                        それにもかかわらず、ファラオはその言葉を聞き入れませんでした。 
                         
                         
                        神は、私たちに様々な事を示されます。特にイエス・キリストをこの世に送り、 
                         
                        人の生き方あり方を、イエスを通して教えて下さいました。そのイエスの言葉を 
                         
                        受け入れるか受け入れないかは、私たちにまかされています。この出エジプト記 
                         
                        のファラオも、神の言葉を受け入れる道もあったのですが、受け入れることが出 
                         
                        来なかったのです。 
                         
                         
                        私たちは、幸いなことに聖書を通して、自らの生き方を学ぶことが出来ます。 
                         
                        そのことを主イエス・キリストを通して感謝したいと思います。 (渕上記) 
                        
 
                         
                        2017年10月29日(日) 集会 
                         
                        「伝道者の任務」 コリントの信徒への手紙一4章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:宮崎禎子 
                         
                        
                        あなたがたという“神の神殿”を建てる(特に土台を据える)というパウ 
                         
                        ロは、伝道者の任務を語ります。それは、キリストの部下として神の秘密を 
                         
                        管理することだ、と。そして、自分には人に批判されるようなことは何もな 
                         
                        いと思うが、全てを裁かれるのは神である。終わりの日に働きの全てが明る 
                         
                        みに出され、善い働きには栄誉が与えられる、と言います。 
                         
                         
                        私達も伝道者でありますから(万人祭司、万人伝道者)、このパウロの言 
                         
                        葉は私達にも当てはまります。私達もキリストの部下とされ、神の秘密を管 
                         
                        理すべく委ねられているのです。神の秘密(奥義)は十字架と復活の福音。 
                         
                        これを誤りなく信じ抜き、人々に伝えることこそ、私達が生かされている意 
                         
                        味でしょう。重すぎて担い得ない任務だと思わずにおれませんが、終わりの 
                         
                        日の裁きで栄誉が与えられる、という言葉に慰めを受けます。裁き給う神は 
                         
                        愛なるお方であるからです。 
                         
                         
                        パウロは「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでし 
                         
                        ょうか(7)」と言って、伝道者もコリントの信徒達も神の前には罪人であ 
                         
                        ることを強調しています。福音は弱く愚かである者にのみ、受け容れられる 
                         
                        からです。 
                         
                         
                        管理者に求められることは“忠実”だ(2)、とあります。私達は世俗の 
                         
                        日々を生きていますが、各自に与えられたタラントン(マタイ25:14~)を 
                         
                        精一杯用いて歩むとき、小さな働きにも栄誉が与えられるのではないでしょ 
                         
                        うか。                       (秀村記)  
                        
 
                         
                        2017年10月22日(日) 集会 
                         
                        「神の神殿」 コリントの信徒への手紙一3章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        コリントの信徒たちが、自分の先生はパウロだ、いやアポロだ、と言って 
                         
                        争うのは“妬み”に囚われる肉の人だからである、というパウロは、現実的 
                         
                        な解決策を述べるのではなく、根本問題として“伝道の精神”を語ります。 
                         
                        伝道者は植え、水を注ぐ者であって、成長させるのは神である、「神のため 
                         
                        に力を合わせて働く者である」、と。そして建築の喩を語ります。 
                         
                         
                        自分は熟練した建築家としてイエス・キリストという土台を据えるが、その 
                         
                        上にどういう家を建てるかは自由である、と実に寛大です。派閥など生じる筈 
                         
                        がありません。しかし、建てられる家は終末の審判に耐えるものでなければな 
                         
                        らない、と警告します。彼はイエス・キリストなる土台の上に、十字架の福音 
                         
                        の家を建てることに生涯を捧げたのでした。 
                         
                         
                        「あなたがたは神の神殿である」と言います。喩の建築物は神殿。神の所有 
                         
                        になるものであり、人の手で作られるものではありません。そして神の霊(聖霊) 
                         
                        が宿り給うのです。神を拝するには霊とまこと(ヨハネ4:24)をもってすべき 
                         
                        であり、教会堂・儀式などは不要です。そして、神はこの神殿を破壊する者を滅 
                         
                        ぼされる、と言います。信徒が艱難に会うことがあっても、最終的に神は護り給 
                         
                        うのです。 
                         
                         
                        結びの言葉「全てはあなた方のもの、あなた方はキリストのもの、キリストは 
                         
                        神のもの」は、私たちの立ち位置を明示しています。平安のうちに歩みたいと思 
                         
                        います。                        (秀村記)  
                        
 
                         
                        2017年10月15日(日) 集会 
                         
                        「神の知恵」 コリントの信徒への手紙一2章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        神が“この世の知恵=哲学、思想、文化、神学など”を卑しめられたこ 
                         
                        とは、パウロがコリントで“この世の知恵”を用いて伝道することが無か 
                         
                        ったにも拘わらず教会が生まれたことに表れている、と言います。弱り、 
                         
                        恐れ、不安を抱えてコリントに来た時、彼は「十字架につけられたキリス 
                         
                        ト以外は何も語るまい」と決心していたのでした。「十字架のキリスト」 
                         
                        のみを語るという“一点突破”の方針を神が嘉し給うて、人々が信じるに 
                         
                        至ったのです。 
                         
                         
                        また彼は信仰者を円熟と完成に導く“知恵”を語る、とも言います。そ 
                         
                        の知恵は「神の知恵」。それは、①隠されている②万物創造の前から信徒 
                         
                        たちに準備されていた③世の支配者たちは理解しない、もし理解していた 
                         
                        らキリストを十字架にかけはしなかった、と述べています。そして驚くべ 
                         
                        きことに、信徒たちには“明らかに示されている”というのです。 
                         
                         
                        信徒たちに「神の知恵」を教えるのは「聖霊」だ、とパウロは言います。 
                         
                        「聖霊」以外に神を知るものはいない、その「聖霊」を信徒たちは受けたの 
                         
                        だから、と。そして「神の知恵」を知るには「キリストの思い」を知れば良 
                         
                        い、と結びます。 
                         
                         
                        十字架に至るまで謙遜であられたキリスト(フィリピ2:6~11)を心に 
                         
                        お迎えする時、私たちは「神の知恵」により、終りの日の栄光に与ることが 
                         
                        出来る、というのです。無知・愚鈍な者に与えられたこの福音に感謝あるの 
                         
                        みです。                       (秀村記)  
                        
 
                         
                        2017年10月8日(日) 集会 
                         
                        「御手にまかせて」 出エジプト記6~8章 
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                        
                        神はイスラエルの人々を救い出すことを宣言されます。神の命ずるままに、 
                         
                        モーセとアロンはファラオと交渉しますが、神がファラオの心をかたくなに 
                         
                        されたので、交渉はうまくいきません。神はなぜファラオの心をかたくなに 
                         
                        されたのでしょう。私たちの生活でも、物事がうまくいかない時も多々あり 
                         
                        ます。聖書の教えに従っている場合にも見られることです。しかし、それら 
                         
                        は神のご計画に基づき行われていることで、最後に神のなさる意味が分かる 
                         
                        時が来るのだと考えます。 
                         
                         
                        ファラオはヘブライ人の神の言葉には、全く耳を貸しませんでしたが、災い 
                         
                        が続いたため、モーセとアロンに主に祈願して災いを去らせてもらうよう依頼 
                         
                        します。その願いに対して、モーセは主に祈願します。これはイエスの言葉 
                         
                        「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5:44) 
                         
                        を想起させます。 
                         
                         
                        モーセは、その後もファラオの求めに応じて祈ります。ここには、祈りの大 
                         
                        切さが示されているように思います。しかも、主は何度も受け入れてくださっ 
                         
                        ています。当時のエジプトは多神教の国で、羊や牛の神様もいました。ですか 
                         
                        ら、エジプトにおいて、犠牲を献げることは出来ません。(8:22)しかし、 
                         
                        ファラオは主に願うしかありませんでした。 
                         
                         
                        ファラオに対して、主は、エジプトにおいても、神は唯一の存在であること 
                         
                        を示されたのです。                    (渕上記) 
                        
 
                         
                        2017年10月1日(日) 集会 
                         
                        「ハバクク書(下) 神による喜びと讃美」 ハバクク書3章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:横山 宜和 
                         
                        
                        前回は、ハバクク書の第一章および第二章を読み、神義論(「なぜ神は悪を 
                         
                        放置するのか?」という問題)をめぐるハバククと神との対話と、信仰によっ 
                         
                        てこそ本当に生きることができるというハバクク書のメッセージを確認しました。 
                         
                         
今回学ぶハバクク書の第三章では、第一・二章の中で確立されたハバククの 
                         
                        信仰が、いかなる状況にも神を喜び讃美するものだったことが、詩の形で表現 
                         
                        されています。 
                         
                         
第三章のハバククの詩では、神が顕現し、「み言葉の矢」によって悪を滅ぼし、 
                         
                        神の民を救い出すことが告げられます。また、ハバククは、バビロンの台頭と南 
                         
                        ユダ王国の滅亡を予知して、恐れおののきます。と同時に、必ずバビロンが審判 
                         
                        を受け、ユダヤの民が解放されることを、ハバククが「静かに待つ」ことも述べ 
                         
                        られます。 
                         
                         
さらに、絶望的な状況の中においても、ハバククは、「しかし、わたしは主にあって 
                         
                        喜び、/わたしの救いの神にあって歓喜しよう。わたしの主なる神はわたしの力。 
                         
                        /わたしの足を雌鹿のようにし、/わたしに高い所を歩ませられる。」(フランシ 
                         
                        スコ会訳、ハバクク3の18、19)と述べてこの詩を結びます。この詩は当時の 
                         
                        多くの人に愛唱されたようです。いかなる状況でも現実をあるがままに受けいれ、 
                         
                        神に感謝し讃美するハバククの信仰に学びたいと思います。(鎌田記)  
                         
                         
                        2017年9月24日(日) 集会 
                         
                        「エルサレムでのパウロの苦難とカイサリアへの護送」 使徒言行録23:23~35 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:鎌田良子 
                             
                        3回の伝道旅行を終えてエルサレムに帰ったパウロは、ユダヤ教徒達の陰謀で 
                         
                        暗殺されそうになりますが、ローマ兵に救われてローマ総督の居るカイサリアに 
                         
                        護送されたのでした。  
                         
                         
エルサレム帰還のあと苦難を受けることは、彼自身予感していたことでしたが、 
                         
                        「苦難に負けずローマに行って宣教せよ。勇気を出せ」と、神に励まされていま 
                         
                        す。彼の目指すところは、全地を福音で満たすことであり、世界の中心であった 
                         
                        ローマに行くことでありました。カイサリアに送られることになったのは、彼の 
                         
                        使命を果たす為の第一歩となりました。 
                         
                         
彼を護送したローマ兵の千人隊長が「彼は死刑や投獄に相当する理由はない」 
                         
                        と総督宛に手紙を書いています(23:29)。イエス・キリストは死刑に相当する 
                         
                        罪が無いと総督ピラトに認定されたにも拘わらず、十字架に付けられました。イ 
                         
                        エスと同じ苦難を受けつつ、彼はイエスの福音を伝えたのでした。 
                         
                         
イエスの死(A.D.30頃)直後には再臨がすぐ起こると信じられていましたが、ル 
                         
                        カ文書(ルカ福音書と使徒言行録)が書かれた80年代には再臨は遅延するとされ、 
                         
                        キリスト者はどう生きるべきかが問題でした。ルカ文書はこの問題と真剣に取り 
                         
                        組んでおり、神の人類救済がどういう形をとって前進するか、私たちは如何に生 
                         
                        きるべきかを示されます。変わることない神の真実に信頼して歩みたいと思います。 
                         
                                                       (秀村記)   
 
                         
                        2017年9月10日(日) 集会 
                         
                        「ハバクク書(上) 義人は信仰によって生きる」 ハバクク書 1~2章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子 
                         
                        
                        ハバクク書は、わずか三章の短い文章ですが、旧約聖書の中でも最も深い問 
                         
                        題に挑み、かつ最も重要な聖句が登場する箇所です。今回はその中の第一章と 
                         
                        第二章を学びました。 
                         
                         
ハバクク書は、紀元前600年頃、アッシリアが滅亡し、新バビロニア王国が 
                         
                        急速に台頭する時代を背景としています。ハバククは、南ユダ王国国内、ある 
                         
                        いはアッシリアの悪を見て、なぜ悪が放置されているのかと神に問います。す 
                         
                        ると、神はそれらの罪の審判として、バビロンを興すと答えます。ハバククは、 
                         
                        バビロンの暴虐を目の当たりにし、どうしてこのような悪を神が道具として用 
                         
                        いるのかと問います。神は、その問いに対し、終りの時が必ず来ること、悪に 
                         
                        対しては裁きがあること、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節) 
                         
                        ことを答えます。 
                         
                         
私たちはこの世の中の悪を見る時に、すぐに絶望してしまいがちです。神が善で 
                         
                        あり全能であるならば、どうして悪を放置するのか?この問いは、多くの人にと 
                         
                        って問われ、躓きの石ともなってきました。ハバクク書は、この問いに対して、 
                         
                        長い時間をかけて歴史を通して神の意志が必ず実現するという「信実」(エメッ 
                         
                        ト)を伝えています。神の「信実」に基づく「信仰」を持つ時に、人は本当に生 
                         
                        きることができる。そのことをハバククから学びたいと思います。(鎌田記)  
                         
                         
                        2017年9月3日(日) 集会 
                         
                        「神の力」 出エジプト記5章  
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                        
                        出エジプト記5章から、モーセとアロンがファラオと交渉します。モーセと 
                         
                        アロンは、ファラオに三日の間、犠牲をささげるために荒れ野に出かけさせて 
                         
                        欲しいと願いますが、ファラオは聞き入れず、奴隷としての仕事を増やすこと 
                         
                        により、かえってヘブライ人に苦役を課します。モーセとアロンが神によって 
                         
                        ヘブライ人たちをエジプトから救い出すよう命じられたことを信じた人たちも、 
                         
                        モーセとアロンを非難します。 
                         
                         
神の言葉、主イエス・キリストの言葉に従おうとすると、苦労に遭うことが 
                         
                        よくあります。モーセたちも神の命令に従ったのに、思いがけない厳しい状況 
                         
                        に置かれました。 
                         
                         
神は、どのようなお考えでこのようなことをなさるのでしょうか。  
                         
                         
ここで、モーセは神へ、その苦しさを訴え、助けを求めます。わたしたち日 
                         
                        本人は、あまりそうしたことはしませんが、神への訴えは、それはそれで良い 
                         
                        のではないかと思います。この世の不条理について、「神よ、なぜですか。」 
                         
                        と問い続けることも必要ではないかと思います。神は、その問いを聴かれてお 
                         
                        り、時にかなった時期に助けを送られるのです。 
                         
                         
主イエス・キリストも、モーセの時代以前から私たちの傍らに居てくださり、 
                         
                        私たちを見守ってくださっているのです。          (渕上記) 
                         
                         
                        2017年7月30日(日) 集会 
                         
                        「湖の上を歩く-奇跡物語を読む」 マルコによる福音書6:45~52 
                         
                        講話:香西信(コウザイシン)〈岡山聖書集会〉、司会:小林典子 
                         
                        早朝ガリラヤ湖を移動していて襲われた突風に船を漕ぎ悩んでいた弟子たち 
                         
                        の許に、イエスは湖上を歩いて来られます。幽霊だ、と怯える弟子たちにイエ 
                         
                        スは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言って嵐を静められ 
                         
                        たのでした。 
                         
                         
福音書に数多く記されているイエスの奇跡物語をどう読めばいいのでしょう 
                         
                        か?現代科学の観点から奇跡の事象を説明しようという試みもありますが、そ 
                         
                        うではなく、私たちに語りかけてくるその物語の“意味”を読み解くべきでし 
                         
                        ょう。例えば初代の信徒たちは、迫害や艱難の中にある教会をイエスは助け、 
                         
                        伝道活動を支えて下さる、と解釈しました。 
                         
                         
私たちは弟子たちと同じく、この物語の最後に記されているように“心が鈍い” 
                         
                        即ち不信仰な存在です。福音を聞かせていただいていること自体が奇跡ですが、 
                         
                        そう思わないのは信じない弟子たちと同じではないでしょうか。大切なのは真 
                         
                        理に対する感受性だ、と矢内原忠雄先生は述べておられます。 
                         
                         
イエスは弟子たちの不信仰を嘆きつつも赦し給います。「安心しなさい」は 
                         
                        福音書に繰り返されるイエスの特徴ある言葉。イエスに従って歩む者は、どん 
                         
                        な艱難の中を歩むことになっても失望に終わることは無い、との約束の言葉な 
                         
                        のです。「わたしは世に勝っている(ヨハネ16:33)」とのみ言葉と併せ、辛 
                         
                        い時にも艱難を乗り越える勇気を与えられます。         (秀村記)  
 
                         
                        2017年7月23日(日) 集会 
                         
                        「パウロ、最高法院で取調べを受ける」 使徒言行録22:30~23:22 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:長澤澄子 
                         
                         3回の伝道旅行を終えてエルサレムに帰ってきたパウロをユダヤ人達が殺そう 
                         
                        とします。彼がユダヤ人達の大切にしていた割礼などの律法を不要だ、として 
                         
                        いたからでした。彼はユダヤ人の最高法院で議員たちを前に弁明の機会を得ます。 
                         
                        
                        まず自分はれっきとしたユダヤ人であり、“良心”に従って生きてきた(23:1)、 
                         
                        と言います。マルチン・ルターがローマ教皇に破門されたとき、ウオルムスの国会 
                         
                        で「私の“良心”は神のみ言葉にとらわれている。”良心“に背くことは正しくな 
                         
                        いからだ。」と自説を曲げることを拒否したことを想起します。私たちは、神の前 
                         
                        に自らの良心に従って生きることを基本にしなければなりません。 
                         
                         
弁明の中でパウロが“復活“に言及したことを機に、ユダヤ人同士の論争(復活 
                         
                        を認めるファリサイ派と、認めないサドカイ派)が激しくなって、この論争に無関 
                         
                        係な彼はその場を逃れることになります。その夜、イエスが彼の傍に立って「勇気 
                         
                        を出せ、ローマでもわたしのことを証しなければならない。」と言われます。これ 
                         
                        が、パウロが直接聞いたイエスの最後の言葉となったのでした。 
                         
                         
この後使徒言行録には、彼がローマに至るまでの旅路が長々と記されて 
                         
                        いますが、その苦難の旅路の論拠となったのはこのイエスの言葉だった 
                         
                        のです。                   (秀村記)  
                         
                         
                        2017年7月16日(日) 集会 
                         
                        「十字架の言葉は神の力」 コリントの信徒への手紙一1章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                        第2回伝道旅行で1年半滞在したコリントにパウロは教会を設立しました。繁 
                         
                        栄する商業都市に生まれたばかりの教会は様々な問題を抱えていました。彼がそ 
                         
                        の問題解決のために第3回伝道旅行で滞在したエフェソから書き送った(紀元54 
                         
                        年頃)のがこの手紙、福音理解に欠かせない大切な文書です。 
                         
                         
                        挨拶と感謝を述べた後、彼が真っ先に採り上げたのは、教会内に起きていた仲 
                         
                        間割れでした。パウロ先生に従うという者、いやアポロ先生に、ペトロ先生に、 
                         
                        と喧嘩していた信徒達に彼は一致団結を要請します。自分は福音を語っただけで、 
                         
                        弟子を作ろうと洗礼を授けることはしなかった、と言います。分争の原因は福音が 
                         
                        正しく理解されないからだ、とパウロは指摘します。福音とは何か?が問題なのです。 
                         
                         
                        神の恵み(=福音)は“キリスト・イエスの到来”ですが、それは端的に十字架 
                         
                        に顕れている、と言います。「十字架についての言葉」が救われる者にとっての神の 
                         
                        力である、と。十字架の言葉は、しるしを求めるユダヤ人には躓きとなり、知恵を求 
                         
                        めるギリシャ人には愚かなものであるが、救われる信徒には神から賜る知恵であり力 
                         
                        である、と述べています。 
                         
                         
                        
神は知恵も力もない私たちを招いて下さいましたが、それは誰ひとり神の前 
                         
                        に誇ることのないようにするためであり、“誇る者はキリストを誇れ”と彼 
                         
                        が書き残してくれたことを、感謝を持って深く心に刻みたいと思います。 
                         
                                                  (秀村記)  
                         
                         
                        2017年7月9日(日) 集会 
                         
                        「聞いて行う者」 マタイによる福音書7:21~29 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        山上の垂訓の結びにイエスの警告が記されています。イエスを信じ御名によって 
                         
                        力ある業を行っても、救いが保証される訳ではなく、むしろ厳しく断罪される多く 
                         
                        の人がいる、と。私たちは、キリストの恵みに与ったことを自分の功績であるかの 
                         
                        ように誇る高ぶりの罪から逃れることは出来ません。心に迫る警告です。救われる 
                         
                        のは「イエスの言葉=山上の垂訓=を聞いて行う者だけ」だ、と言われます。 
                         
                         
                        古来容易に実行が出来ない山上の垂訓について、①中世には、修道院に入るよう 
                         
                        な特別の人に向けられたもの、②世の終わりのような差し迫った時代の信徒が対象、 
                         
                        ③信徒に深く罪を自覚させるためのもの、などと解釈されても来ましたが、私たち 
                         
                        が「聞いて行う」とはどうすればいいのでしょうか? 
                         
                         
                        山上の垂訓は律法ではなく福音であり、祝福の到来を告げる救いの宣言です。聞 
                         
                        く私たちに求められていることは、この恵みをしっかりと受け止めることでしょう 
                         
                        (「行う」は「受領」ということ)。そして、現実にこの戒めを実行することが出 
                         
                        来ず、罪を重ねる者に対して、「我が許に帰れ」とイエスは呼びかけ給います。十 
                         
                        字架と復活に示された罪の赦し(贖い)が日々与えられています。イエスと共に歩 
                         
                        むとき、山上の垂訓を行う者としていただけるのだと信じることが出来ます。 
                         
                         
                        人々が驚いた山上の垂訓に顕れたイエスの“権威”は、 “審き主の権威”であり、 
                         
                        “罪を赦す権威”でした。                 (秀村記)  
                        
 
                         
                        2017年7月2日(日) 集会 
                         
                        「モーセの召命」 出エジプト記3~4章 
                         
                        講話:渕上明、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        モーセは、燃えさかる柴の間から神に声をかけられ、エジプトに戻り、イスラ 
                         
                        エルの人々を救い出すよう命令されます。モーセにとっては思いがけない事だっ 
                         
                        たでしょう。神は、「私は必ずあなたと共にいる。」と約束され、「このことこそ、 
                         
                        わたしがあなたを遣わすしるしである。」と語られます。 
                         
                         
                        神は、このように何かを私たちに命じられる時、いつも、傍に居てくださるの 
                         
                        です。モーセは、この役目がどれほど重いものか分かっていましたから、懸命に 
                         
                        この役目を逃れようとします。神は様々な力をモーセに与えられますが、それで 
                         
                        も、「どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」と懇願します。 
                         
                        神は怒りを露わにされ、雄弁な兄のアロンと共に行くよう命じられます。 
                         
                         
                        私たちは、時に自分にとって大変な重荷になる行動を取らなければならない場合 
                         
                        があります。しかし、神はいつも傍に共にいて居てくださり、従順に従う時、私たち 
                         
                        を助けてくださいます。また、主は弱い者の上に力を授けてくださいます。 
                         
                         
                        アロンは雄弁にモーセに代わって語る役目を与えられますが、神の言葉を取 
                         
                        り次ぐ役目はモーセに与えられます。神に対する従順さと謙虚さがモーセに 
                         
                        あったからです。私たち一人一人は弱い存在ですが、神は主イエス・キリス 
                         
                        トをこの世に送られ、その死と復活によって私たちの罪を贖われただけでな 
                         
                        く、今も共にいて私たちを力づけて下さいます。(渕上記) 
                         
                         
                        2017年6月24日(日) 集会 
                         
                        「私たちは(神の)乞食だ、これはまことだ」詩篇31篇 
                         
                        講話:阿部光成氏(経堂聖書会)、司会:三苫恵子 
                         
                             
                        今年は宗教改革500周年ですが、マルチン・ルターの最後の言葉は「わたしは、 
                         
                        わが魂をみ手にゆだねます」というイエスの十字架上の言葉(ルカ23:46)でした。 
                         
                        この言葉があるのは詩篇31篇ですが、その冒頭に書かれている「神の義」に修道院 
                         
                        で熱心に救いを求めていた当時の彼は躓きました。「神の義」とは、その義によっ 
                         
                        て神は罪人と不義な者を罰するのだ、と理解するよう教えられていたからでした。 
                         
                        “私を憎んでいる義の神”を憎んでいた、と言っています。 
                         
                         
                        しかし、修道院の先輩シュタウピッツから、“確かなものを見よ、それは十字架 
                         
                        である”と諭されたこともあって、「神の義」は無償の恵みを顕す言葉だと理解す 
                         
                        るようになったのでした。パウロ(ローマ書3:24など)とも取り組み、イエスの十 
                         
                        字架による罪の贖いに示された無条件の救いを信じるものとなったのです。ルターに 
                         
                        よる「福音の再発見」でした。 
                         
                         
                        彼が死の2日前に残していた文章の最後に、「私たちは(神の)乞食だ、 
                         
                        これはまことだ」と記されていました。宗教改革者として大きな足跡を 
                         
                        残しましたが、自分の一生は神の恵みを求める手を差し出すだけであっ 
                         
                        た、ということを言い表したのです。神の前にあっては受けることのみ 
                         
                        なのだ、と。 
                         
                         
                        そして、私たちが自分で日本語によって聖書を読める幸いは、ルターに負 
                         
                        うことを忘れることは出来ません。           (秀村記)  
                         
                         
                        2017年6月18日(日) 集会 
                         
                        「狭い門」 マタイによる福音書7:13~20 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        イエスがそこから入りなさいと勧められる「狭い門」は、イエス自身のことで 
                         
                        す(「ヨハネ10:5)。命に通じるこの門は狭く、隠されており、そこから辿る 
                         
                        道も険しい、と言われるイエスは、生涯をもってそのことを証しされました。苦 
                         
                        難の道を歩まれ、最後は十字架の死でした。 
                         
                         
                        私たちにとっての狭い門(=苦難)とは、罪を知ることです。そして自分を神 
                         
                        に委ねきってしまうこと、即ち己を捨てることです。自分に死ぬことは生身の人 
                         
                        間に一番出来ないことですが、イエスによって自分の罪を知り、赦しによって生 
                         
                        かされるとき、罪の赦しの恵みに感謝し、自由と喜びに溢れる者とされるのです。 
                         
                         
                        苦難と併せて、「狭い門」に導かれる為に欠かせないのが「人格」との出会い 
                         
                        です。多くの導き手は、甘言をもって滅びに至る道に通じる「広い門」を示します。 
                         
                        イエスは「偽預言者に警戒せよ」と言われました。イエスの時代に多くの“惑わ 
                         
                        す者(24:11など)が現れましたが、現代に至るまで数々の誤った教えが“悪い 
                         
                        実”を結んだことを忘れてはなりません。 
                         
                         
                        “良い実”を結ぶ木はイエスにほかなりません。その木に繋がることによって、 
                         
                        私たちも豊かに実を結ぶことが出来る(ヨハネ15:1~5)、とイエスは言われます。 
                         
                        恵みによって「狭い門」を通らせていただいたことを感謝し、“山上の垂訓”に示 
                         
                        された命に至る道を歩みたいと願います。          (秀村記)   
                        
 
                         
                        2017年6月11日(日) 集会 
                         
                        「ナホム書(下) 良い知らせ」 ナホム書 2~3章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:秀村興子 
                         
                        
                        2章冒頭で「良い知らせ」が伝えられます。「善い知らせを告げる者が、山々 
                         
                        の上をやって来る。/それは平和を告げる者。/ユダよ、祭りを祝い、お前の誓 
                         
                        いを果たせ。/無法の者はすべて滅ぼされ、もうお前の間をまかり通ることはな 
                         
                        い。」(フランシスコ会訳、2:1) 
                         
                         
                        古い肉の自己(ヤコブ)から新しい霊の生命(イスラエル)へと生まれ変わり 
                         
                        (2:2)、かつて荒らされた「ぶどうのつる」(フランシスコ会訳、2:3)は再 
                         
                        び「ぶどうの幹」(神)と結びあわされて回復することが記されます。 
                         
                         
                        しばしばナホム書は、単にアッシリアの滅亡を吉報として祝っていると受けと 
                         
                        られているため、一般的にはあまり好んで読まれませんが、この2章冒頭は、福音 
                         
                        の到来の預言と受けとめる時に正しくその意義を理解することができます。 
                         
                         
                        ナホム書の末尾では、多くの人々を圧政で苦しめてきたアッシリアが滅亡し、 
                         
                        冷笑される様子が描かれます。「アッシリア」を歴史上の一帝国としてだけ 
                         
                        でなく、真の神から離れ、快楽や暴力を追求し、他人を力で支配しようとす 
                         
                        る利己主義の象徴と受けとめれば、これらの結果は罪人である私たちの帰結 
                         
                        であったはずでした。しかし、実際に万人の嘲笑を一手に引き受けて十字架 
                         
                        上で死んでいったのは、罪なきイエス・キリストでした。今回はナホム書の 
                         
                        2~3章を通じて、福音(良い知らせ)とは何かを学びたいと思います。 
                         
                                               (鎌田記) 
                         
                         
                        2017年6月4日(日) 集会 
                         
                        「神のご計画」 出エジプト記2章 
                         
                        講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        モーセはレビ人として産まれます。当時のエジプトでは、産まれたヘブライ人 
                         
                        の男子はすべて殺害するようファラオの命令が出ていました。モーセは産まれて 
                         
                        3ヶ月は親元にかくまわれていましたが、それも難しくなり、パピルスの籠に入 
                         
                        れられてナイル河畔に置かれました。そのモーセをエジプトの王女が助け、実の 
                         
                        母が乳母となって育てることになりました。神の計画の不思議さが感じられます。 
                         
                        実の母に育てられましたから、自身がヘブライ人であることは十分認識していた 
                         
                        と思われます。その後、成人し王女の許に連れて行かれ、モーセ(水から引き上 
                         
                        げられた者の意味)と名付けられます。 
                         
                         
                        当時ヘブライ人はエジプト人によって労役が課せられており、ヘブライ人がエ 
                         
                        ジプト人によって打たれているのを見たモーセは、そのエジプト人を殺害します。 
                         
                        しかし、その現場を見ていたヘブライ人はモーセを、エジプト人からヘブライ人 
                         
                        を救済してくれる人物とは考えませんでした。モーセはファラオから追われるこ 
                         
                        ととなり、ミディアンの地に逃れ、ミディアンの祭司の娘ツィポラと結婚し、子 
                         
                        どもをもうけます。 
                         
                         
                        2章の最後で、神はその嘆きを聞き、御心に留められます。私たちは、人生の中 
                         
                        で多くの苦しみを味わいますが、それらはすべて神のご計画の中に組み込まれてお 
                         
                        り、絶望的な状況の中でも、愛と憐れみを持って私たちを救い出して下さる存在な 
                         
                        のです。                     (渕上記) 
                        
 
                         
                        2017年5月28日(日) 集会 
                         
                        「パウロの弁明と二回目の回心の話」 使徒言行録21:18~22:29 
                         
                        講話:市村昭三、司会:小林典子 
                         
                        
                        第3回伝道旅行を終えたパウロはエルサレムを訪れて、ヤコブ以下のユダヤ人 
                         
                        キリスト教徒たちに会います。彼は異邦人と共にユダヤ人も、即ち全ての人が救 
                         
                        われることをヴィジョンとしていましたから、律法不要という彼の福音を快く思 
                         
                        わないユダヤ人信徒たちとの和解を願っていたのでした。異邦人教会から集めて 
                         
                        きた和解の為の献金は受け取ってもらえなかったようですが、ヤコブの提案によ 
                         
                        り請願をするユダヤ人の費用を負担して誠意を表し、請願にも参加します。 
                         
                         
                        ところが、ユダヤ人たち(キリスト教徒ではない)が請願の為にいた神殿の境 
                         
                        内でパウロを見つけて騒動を起こしたため、神殿守備隊長に拘束されてしまいま 
                         
                        す。パウロ殺害を主張するユダヤ人の群衆に向かってパウロは、自分が熱心なユ 
                         
                        ダヤ教徒であったことを弁明し、ダマスコ郊外での回心の経験、異邦人伝道者と 
                         
                        して召命を受けたことを話したのでした。 
                         
                         
                        使徒言行録は、ここから終わりに至るまでパウロの受難が述べられます。彼の 
                         
                        弁明の記事は5回に及ぶ等、受難の記事は使徒言行録の4分の1を占めています。 
                         
                        彼の受難は召命を受けた時に予告されていましたが(使徒9:15~16)、全世界 
                         
                        伝道の為に彼が飲み干さねばならない盃だったのです。イエスの受難の相続人 
                         
                        (ロマ8:17)となったのでした。 
                         
                         
                        彼の受難を通して、私たちにまで福音の恵みが到達していることを憶えて、 
                         
                        感謝に満たされます。  (秀村記)  
                         
                         
                        2017年5月21日(日) 集会 
                         
                        「悪と戦え」 エフェソの信徒への手紙 6:10~20 
                         
                        講話:松尾晴之、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        罪とは、「的外れ」のことであり、神ならぬものを神とすることが罪でありま 
                         
                        す。富や権力を神とし、欲望の奴隷となることが罪なのです。さらに、現代にお 
                         
                        いては自分を自分の人生の主人公として生きることは、当たり前のように受け止 
                         
                        められていますが、御心を訊ねる謙虚さをもたないならば、傲慢に自分を神とし 
                         
                        ている点において「罪」なのです。 
                         
                         
                        パウロはキリストと一体となることを家族像になぞらえて具体的に説いており、 
                         
                        その結びとして「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」と求めて 
                         
                        います。「悪魔の策略」は、狡猾な誘惑によって私たちを神から引き離し、罪を犯 
                         
                        させようとして来ます。クリスチャンの戦いとは、人間を相手にするものではなく、 
                         
                        暗闇の支配者、悪の諸霊を相手に行う霊的な戦いであり、「神の武具を身に着け」 
                         
                        ることで対抗できるのです。「神の武具」とは、真理の帯、正義の胸当て、平和の 
                         
                        福音を告げる履物であり、さらに悪の放つ火を打ち消す信仰の盾、救いの兜、霊の 
                         
                        剣である神の言葉です。 
                         
                         
                        そして“霊”に助けられて祈り続けることを求めています。「闇は光に勝たな 
                         
                        かった」とあるように、キリストと一体ならば、初めから私たちの勝利は約束 
                         
                        されています。悪魔はその正体を知られないように私たちに近づいて来ますが、 
                         
                        キリストを自分の主人として依り頼み、“霊”の助けにより祈ることで、必ず 
                         
                        勝利します。私達は一人ではないのです。      (松尾記) 
                         
                         
                        2017年5月14日(日) 集会 
                         
                        「求めれば与えられる」 マタイによる福音書 
7:1~14 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                        「裁くな」と教えられたイエスほど酷い裁きを受けた人はいません。神に仕える 
                         
                        べき最高法院の人々が、神の子を裁いて殺害したのです。本来裁く権限は神以外に 
                         
                        ありません。周囲の人々を裁く私たちを、イエスは神に扮する“役者(偽善者)” 
                         
                        と言われます。自らを神の地位に付ける罪人だ、と。 
                         
                         
                        「自分の裁く裁きで裁かれる」とあります。罪の存在である私たちは、死の裁き 
                         
                        を受けて当然ですが、罪のないイエスが死を甘受されたということは、私たちの罪 
                         
                        を代わって担われたとしか考えられません。十字架を仰ぐとき、罪赦された自分を 
                         
                        そこに見出します。神の裁きである十字架に、義と愛が溢れており、それを受ける 
                         
                        ことだけが求められています。 
                         
                         
                        勿論「豚に真珠」という感性であってはなりません。預言者が世の不義を裁いた 
                         
                        こと、パウロの「聖徒は世を裁く者である」(Ⅰコリ6:2)との教えなどに学ば 
                         
                        ねばなりません。 
                         
                         
                         山上の垂訓で告げられてきた“祝福の到来”の結びは、“求めれば与え 
                         
                        られる”です。時間がかかったり、思いもよらぬ別の形になることはあ 
                         
                        っても、祈り求めるものは最善の形(“聖霊” ルカ11:13)で必ず聴 
                         
                        かれる、というイエスの約束です。イエスの到来こそが、祝福の到来で 
                         
                        した。「律法と預言者」によってイスラエルに顕された神の愛が、全人 
                         
                        類に及びました。黄金律「人からして欲しいことを彼らにもせよ」は「己 
                         
                        の如く隣人を愛せ」の真髄と申せましょう。     (秀村記)  
                         
                         
                        2017年5月7日(日) 集会 
                         
                        「召命に応える」 出エジプト記1章 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        出エジプト記1章では、創世記のまとめに続いてエジプトでのイスラエルの人々 
                         
                        の苦しみが語られます。飢饉のためエジプトに行ったイスラエルの人々ですが、エ 
                         
                        ジプトで夥しい数となります。王朝が変わり、それまでイスラエルの人々に融和的 
                         
                        であったファラオからイスラエル人を敵視するファラオに代わってしまいました。 
                         
                        苦役を与えることによってイスラエル人を減らそうとしましたが、その数が減るこ 
                         
                        とはありませんでした。そのため、ファラオは生まれてくる男児を抹殺しようとし 
                         
                        ました。しかし、二人の助産婦が子ども達を助けます。これは、助産婦たちが神を 
                         
                        畏れていたからですが、神は、この二人に祝福を与えられます。この例のように、 
                         
                        神は適切な時期にその助けの手を伸ばされるのです。 
                         
                         
                        私たちの日々の生活の中でも、なぜ自分がやらねばならないのか、疑問に思いつつ 
                         
                        行わなければならない時があります。また、神の助けはなかなか現れません。しかし、 
                         
                        神は適切な時期に助けの手を伸ばされるのです。 
                         
                         出エジプト記から何を学ぶのか、人それぞれに違うかもしれませんが、モーセの置 
                         
                        かれる立場を考えると、神からの召命について考えざるを得ません。神の召命があっ 
                         
                        た時には、それに応えること、神を信じてついて行くことが大切なことではないでし 
                         
                        ょうか。その時、現代の私たちには、主イエス・キリストの導きと助けが準備されて 
                         
                        いるのです。                         (渕上記)    
                        
 
                         
                        2017年4月30日(日) 集会 
                         
                        「思い煩うな」 マタイによる福音書6:25~34 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:宮崎禎子 
                         
                        
                        「衣食のことで心配するな。神は野の花や空の鳥ですら養っておられるではない 
                         
                        か」とのイエスの教えにより、私達は日々の思い煩いから解放され、霊の自由と平 
                         
                        安へと誘われます。 
                         
                         
                        生活の維持はイエスに従った弟子たちや女性の群れには切実な問題でした。職業 
                         
                        や家族を捨ててイエスに従った彼らの生活は困窮したに違いありません。ただ父な 
                         
                        る神から臨む助けのみが支えでした。自然界の営みを示しつつ、イエスは神の愛に 
                         
                        よって生かされることを彼らに証言されたのです。造り主なる神は花や鳥すら慈し 
                         
                        み、護り給うて揺らぐことはない、この神の愛を保証するわたしに一切を委ねよ、 
                         
                        と。 
                         
                         
                        “天に宝を蓄える”生き様に徹するならば、困窮に陥ることを覚悟せねばなりま 
                         
                        せんが、神が養って下さるのです。この恵みを知らぬ人々(異邦人)は、自分の手 
                         
                        によって自らを支えるしかありません。それは偶像(マモン)に仕えることです。 
                         
                        ここに、「まず神の国と神の義を求めよ」との教えが迫ってきます。では、具体的 
                         
                        にはどうすればいいのでしょうか? 
                         
                         
                        「神の国」、「神の義」を求めるとは、夫々「み国を来らせ給え」「み心をな 
                         
                        させ給え」と祈ることに他なりませんが、この祈りはイエスの愛に抱かれずに 
                         
                        は祈ることができません。これらの祈りを祈れ、と教え給うたイエスの恵みの 
                         
                        中に私たちは既に抱かれているのです。安心して一切をイエスにお委ねして日 
                         
                        々を歩むことが求められていると思います。(秀村記)  
                         
                         
                        2017年4月23日 特別集会 
                         
                        「闇を砦として~上野英信先生の問いかけ」 ヨハネによる福音書1:5 
                         
                        講話:犬養光博先生、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        今年は炭鉱記録作家・上野英信先生没後30年です。先生はクリスチャンではあり 
                         
                        ませんが、私の筑豊46年の歩みの中で、現実社会を通して信仰を学んだ先生の一人 
                         
                        です。  
                         
                         
                        先生は消えゆく炭鉱の数々を巡り、失業者や生活困窮の中にある坑夫の家族と共 
                         
                        に歩まれ、その一人一人の魂に語りかけられました。「地の底の笑い話」の巻頭言 
                         
                        には「歌は唖にききやい/道やめくらにききやい/理屈やつんぼにききやい/丈夫な 
                         
                        やちゃいいごっばっかっい(いいことばかり言う)」は、光の中に生きていては光 
                         
                        は理解できない、闇の中にあって初めて発見する道理・倫理があると書かれたので 
                         
                        した。 
                         
                         
                        先生の絶筆「筑豊よ/日本を根底から/変革するエネルギーの/ルツボであれ/ 
                         
                        火床であれ」は先生の夢(ロマン)を遺言されたともとれますが、闇の中にいる人々 
                         
                        (地下の坑内で酷使されていた“馬車馬”に生まれ変わりたいと言ったという明治の 
                         
                        女坑夫の驚くべき連帯感!)にこそ救いをもたらすマグマがある、と信じておられた 
                         
                        のではないでしょうか。イエス・キリストは、闇の中の人々と共に歩まれた先生と共 
                         
                        に歩んで下さったと思います。 
                         
                         
                        そして、今日急を告げる様々の問題に対して、キリスト者としてどうある 
                         
                        べきか、を先生に問われます。イエス・キリストは闇の中に輝いておられ、 
                         
                        勝利される(ヨハネ1:5・口語訳)お方であることを心に刻みたいと思い 
                         
                        ます。                      (秀村記) 
                         
                         
                        2017年4月16日(日) イースター集会 
                         
                        「富の問題」 マタイによる福音書6:19~24 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:秀村興子 
                         
                        
                        経済問題はこの世に生きる私たちにとって実に重いテーマです。富を積み上げ 
                         
                        ることは自立の手段ですが、富に頼って自己拡大を図り、そこに“いのちの充足” 
                         
                        を求めることに繋がるからです(自己神化の罪)。「富のあるところに心もある」 
                         
                        と、イエスは人生の目的をどこに置くかを問われます。「地上にではなく、富は 
                         
                        天に積みなさい」と。 
                         
                         
                        “天に富を積む”とはどうすればいいのでしょうか?“施し”だ、とされても 
                         
                        います(ルカ12:33、マタイ19:21)。しかしここでイエスは、澄んだ目を通 
                         
                        して光を心の中に持つことだ、と言われます。即ちマモン神(富)の支配から離 
                         
                        脱して神の支配に奪還していただくこと、心にイエスを迎えることを求められて 
                         
                        います。イエスこそが光なのですから。 
                         
                         
                        「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」との言葉は、神にのみ仕える生涯を 
                         
                        送られた唯一の人イエスならではの言葉です。私たちには富を離れて神にのみ仕 
                         
                        える(奴隷となる)ことは不可能です。そして、何とかしてそうありたいと悪戦 
                         
                        苦闘します。しかし、イエスは弱い私たちをそのままで良しとして受け容れてく 
                         
                        ださいます。私たちの罪を赦し給うたことが、十字架と復活の出来事を通して明 
                         
                        らかにされました。 
                        イースターの本日、私たちは復活のイエスによる恵みの支配の中に入れていた 
                         
                        だいていることを感謝せずにおれません。イエスに従う日々でありたいと祈ります。 
                         
                                                     (秀村記) 
                         
                         
                        2017年4月9日(日) 集会 
                         
                        「わたしに従いなさい」 ヨハネによる福音書21章 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門 
                         
                        
                        ヨハネ福音書は20章で一応終わり、21章は復活のイエスのエピソードになって 
                         
                        います。イエスの弟子達の多くは漁師でしたが、漁の場面に復活のイエスが現れ 
                         
                        た時、ペトロとヨハネは対照的な行動をします。ペトロは湖に飛び込んでイエス 
                         
                        の許に来ますが、ヨハネは船に乗って帰ってきます。直情的なペトロと冷静なヨ 
                         
                        ハネの違いが示されています。 
                         
                         
                        イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と三度も尋ねられます。ペトロが 
                         
                        イエスを三度否認したのと呼応するかのように。そして、「わたしの子羊を飼い 
                         
                        なさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われ 
                         
                        ます。これは、福音の伝道を命じられたのですが、また、「行きたくないところ 
                         
                        へ連れて行かれる。」と、ペトロが悲惨な死を遂げることを予告されます。最後 
                         
                        に「わたしに従いなさい」と言われます。イエスの言葉は真実に満ちており、そ 
                         
                        の正しさは誰もが理解出来るものですが、悲惨な死を覚悟してまで、イエスの言 
                         
                        葉に従うのは容易なことではありません。イエスを通して私たちに力が与えられ 
                         
                        て初めて出来ることです。 
                         
                         
                        ヨハネ福音書の初めに「光」という言葉が出て来ますが、その光こそ、主イエ 
                         
                        ス・キリストをあらわしており、私たちは、その光に導かれて生きていくことに 
                         
                        なり、罪が赦され、新しい人間に生まれ変わることにより、この世の苦しみから 
                         
                        救われることになるのです。             (渕上記) 
                        
 
                         
                        2017年4月2日(日) 集会 
                         
                        「ナホム書(上) 神は悩みの日の砦」 ナホム書1章 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:原サイ子 
                         
                        
                        ナホム書は僅か3章と比較的短いものですが、紀元前七世紀当時、古代メソ 
                         
                        ポタミアに君臨していたアッシリア帝国の滅亡を預言しています。おそらくア 
                         
                        ッシリアの全盛時代、アッシュルバニパル王の時代に預言されたものと考えら 
                         
                        れます。 
                         
                         
                        アッシリアは、紀元前2000年頃から1400年もの長い歴史を持ち、アッシュル 
                         
                        バニパルの在位期間(BC668-BC627)に中東およびエジプトを支配し、最盛期 
                         
                        を迎えていました。アッシュルバニパルの死後、アッシリアはわずか18年で完 
                         
                        全に滅亡しました。その滅亡は、最盛期当時にはほとんど誰も予測できなかった 
                         
                        ことと考えられます。 
                         
                         
                        アッシリアの横暴、そしてその崩壊は、多くの人にとって苦難をもたらしたと 
                         
                        考えられます。ナホム書は、そうした困難な時代においても、「主は恵み深く、 
                         
                        苦しみの日には砦となり/主に身を寄せる者を御心に留められる。」(ナホム1:7) 
                         
                        と述べ、信仰のある者にとっては神が魂の砦となり、勇気の源となることを指し 
                         
                        示しました。 
                         
                         
                        また、単にアッシリアに対する怒りの審判というに留まらず、アッシリアや人 
                         
                        々の心の奥底に働く「よこしまな事を謀る者」(ナホム1:11、原語「ベリヤアル」 
                         
                        =サタン。Ⅱコリ6:15参照)をこそ問題とし、神が必ずサタンや罪を裁き滅ぼすこ 
                         
                        とを宣言しています。神の力ある御業と、神こそが真の心の拠り所=砦となること 
                         
                        を学びたいと思います。                 (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2017年3月26日(日) 集会 
                         
                        「パウロのエルサレムへの船旅」 使徒言行録21:1~17 
                         
                        講話:市村昭三、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        第3回伝道旅行の帰途、パウロ一行はエーゲ海、地中海の島々(コス島、ロ 
                         
                        ドス島)を経由する船旅を続けます。そしてパレスチナのティルス経由プトレ 
                         
                        マイオスで船を降りて、陸路カイザリアからエルサレムに帰着したのでした。 
                         
                         
                        立ち寄った先々で出会ったキリスト信徒たちは、異口同音にパウロのエルサ 
                         
                        レムに行きを引き止めました。彼らは霊によってパウロの身の危険を察知した 
                         
                        と言います。他方パウロもエルサレム行きは霊に促された(20:22)と言って 
                         
                        います。彼のエルサレム行きの強い決意は、何ゆえでしょうか? 
                         
                         
                        それは、使徒会議で取り決めた“貧しいエルサレム教会の信徒への経済的援 
                         
                        助”の約束を果たす目的だけではありません。パウロたち異邦人キリスト者は、 
                         
                        エルサレム教会の霊的なもの(福音)を分けてもらったのだから、エルサレム 
                         
                        教会に仕える義務がある、とパウロは考えていました。エルサレム教会は福音 
                         
                        の原点であって、異邦人キリスト信徒はエルサレム教会と具体的交わりを持つ 
                         
                        ことが重要だ、と。異邦人教会からの献金を受けとって、エルサレム教会は異 
                         
                        邦人協会に自らを開いて欲しい、と考えていたのです。更には、エルサレム教 
                         
                        会と異邦人教会が手を携えて、世界伝道を目指すことがパウロの遠大なビジョ 
                         
                        ンでありました。 
                         
                         
                        今日私たちも、このビジョンに命懸けで取り組み推進したパウロたちの活動 
                         
                        の恩恵を受けているのです。             (秀村記) 
                          
                         
                        2017年3月19日(日) 集会 
                         
                        「主の祈り」 マタイによる福音書6:1~17 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        2世紀の教父テルトゥリアヌスが「全福音の要約」と評した“主の祈り”は、 
                         
                        全能の神の御子イエスが教えられた祈りですから、必ずきかれると信じること 
                         
                        ができます。 
                         
                         
                        超越的支配者である―「天におられる」―神を、「父よ」とひとことで親し 
                         
                        く呼ぶことは、御子イエスならではの教えでしょう。その父は「わたしたちの」 
                         
                        父であって、全人類の願いを聴かれるのです。 
                         
                         
                        祈りの前半3つは、“神を愛せ(22:37)”との教えに通じます。神を愛す 
                         
                        るとは、その御名が聖とされ、その御心の成就を祈ることに他なりません。人 
                         
                        の罪によって汚されている神の名誉が回復されることを祈ることは、悔い改め 
                         
                        を祈ることでもあります。そして、イエスの到来によって地上に臨んだ神の支 
                         
                        配(み国)の完成を祈れ、と教えられたのです。 
                         
                         
                        後半の3つは、私たちが生きていく上で欠かせない実際問題が採り上げられて 
                         
                        います。「明日のことを思い煩うことなく(6:34)」日毎の糧をその日その日 
                         
                        に求めること、生きていく上で不可欠な“赦し”による和解(イエスの十字架に 
                         
                        よる和解の恵みが基盤)に歩み続けること、そしてサタンの攻撃から護っていた 
                         
                        だくこと、といずれも切実な祈りです。 
                         
                         
                        施し、断食と併せて祈りについてもユダヤ人は偽善に陥っていました。神の国 
                         
                        の民は神に向かって真実に生き、善い業は世から隠れることを望むべきだ、と教 
                         
                        えられます。                     (秀村記) 
                        
 
                         
                        2017年3月12日(日) 集会 
                         
                        「愛敵の教え」 マタイによる福音書5:33~48 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        山上の垂訓の頂点とも言えるイエスの教え「敵を愛し、自分を迫害する者 
                         
                        のために祈りなさい(5:44)」は、実行の困難さから、古来私たちが罪人 
                         
                        であることを突きつける断罪者の役割を果たすものとされました。しかし、 
                         
                        私たちはその実行可能性を問う前に、この言葉は真理である、と良心の深い 
                         
                        ところで共鳴を感じ、ひれ伏さざるを得ないと思います。   
                         
                         
                        この教えは“隣人愛”の教え(レビ19:18)をその本質において徹底させ 
                         
                        たもの、即ち、イスラエルの民に限定されていた“隣人”を全ての人に(迫 
                         
                        害者にまで)拡げたと理解出来ましょう。父なる神は被造物の全てを愛して 
                         
                        おられ、私たちにもその愛を共有することを求められるのです。罪の故に隔 
                         
                        絶している神の愛に満たして頂ける道が切り開かれたのが、イエスの十字架 
                         
                        と復活の出来事でした。神の愛が恵みとして与えられており、私たちは受け 
                         
                        るだけでいいという福音です。 
                         
                         
                        イエスは愛敵の具体化として、祈ることを教えておられます。これも私たち 
                         
                        の力に余ることですが、パウロは“御霊が執りなして下さる”、と言いました 
                         
                        (ローマ8:26)。この恩恵にも支えられて初代の信徒たちは迫害の嵐を乗り 
                         
                        越え、遂にローマ帝国が福音に満たされるに至ったのでした。 
                         
                         
                        衝撃的な愛敵の教えですが、先立つ“誓うな”、“復讐するな”の教えと共 
                         
                        に、神の超越的愛の到来を宣言するイエスの福音として、受け取ることが許さ 
                         
                        れているのです。                  (秀村記) 
                        
 
                         
                        2017年3月5日(日) 集会 
                         
                        「イエスの復活」 ヨハネによる福音書20章 
                         
                        講話:渕上明、司会:横山宜和 
                         
                        
                        私は長い間、イエスの復活がなぜ必要なのか疑問でした。イエスが私たち 
                         
                        の罪を背負って命を捨てられたことによって、私たちの罪が贖われ、私たち 
                         
                        に新しい命が与えられることで十分ではないかと思ったのです。それで主イ 
                         
                        エス・キリストの役目は終わられたのではないかと思っていました。しかし、 
                         
                        この世に復活し、肉体を持った姿で現れられたのには意味があったのでした。 
                         
                        イエスの語られた復活については、弟子達始め人々は深く心に留めていませ 
                         
                        んでした。特にトマスは実際に目に見える形のあるものしか信じようとしな 
                         
                        い人でした。イエスは、わざわざそのトマスの許へ肉体のある姿で来られま 
                         
                        す。そこまでしてトマスを救おうとされたのです。トマスは実際にイエスの 
                         
                        体に触れ、初めて信じます。イエスはたった一人の人のためにでも、その救 
                         
                        いの手を差し伸べられます。          
                         
                         
                        ヘブライ人への手紙11:3には、「この世界が神の言葉によって創造さ 
                         
                        れ、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないこ 
                         
                        とが分かるのです」と記されています。イエスが神の子であることは、 
                         
                        目で見て信じることは出来ません。しかし、イエスの言葉の力により信 
                         
                        じることが出来るのです。ヨハネ福音書は、他の福音書ほど、たくさん 
                         
                        の事象を書いてはいません。ヨハネは、イエスが神の子であり、イエス 
                         
                        の名により永遠の命が与えられることを信じるために十分であると思わ 
                         
                        れるものを記載したのです。        (渕上記) 
                         
                         
                        2017年2月26日(日) 集会 
                         
                        「律法の本質」 マタイによる福音書5:17~32 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:松尾晴之 
                         
                        
                        律法は人間に対する神の愛を文字で示そうとしたものです。モーセに示され 
                         
                        た十戒「あなたは殺すことはないであろう」等に、神の御旨が顕れています。 
                         
                        律法の本質は“神の愛”であって、断じて揺らぐこと無く、必ず完成されるの 
                         
                        です。 
                         
                         
                        人間はこの本質を見失い、自力での業としての律法遵守に力を注ぎますから、 
                         
                        形式的な細かい掟を追加・発展させました。人間のことも良くご存知のイエス 
                         
                        は、それも廃止することなく、神は完成してくださる、と言われています。そ 
                         
                        れは、聖書を知らぬ人々が持つ“良心”や他の宗教にも及ぶに違いありません 
                         
                        (矢内原)。イエスに出会うことによって初めて、このように測り難い神の愛 
                         
                        に目が開かれるのです。 
                         
                         
                        パウロは律法からの自由(信仰によって義とされる)を説きました。しかし 
                         
                        律法が廃棄されると、キリスト教徒に旧約聖書は無縁となり、接続すべき根を 
                         
                        失ってしまいます。イエスの父なる神は旧約の歴史を導き給うた神です。旧約 
                         
                        に示された神の御旨への接続を重視したこと、パウロも同様でした。 
                         
                         
                        「しかし私は言う」とイエスは繰り返されますが、まず採り上げられている 
                         
                        のは“殺人”と“姦淫”。いずれも人格を傷つけるものです。“いのち”と、 
                         
                        それを育む“家庭”に重きを置かれるイエスの心が表れています。一人も“い 
                         
                        のち”を失うことのないよう、私たちを死から奪還して下さるイエスは“永遠 
                         
                        のいのち”を与えて下さいます。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2017年2月19日(日) 集会 
                         
                        「『エドム』への審判と隣人への倫理」 オバデヤ書 
                         
                        講話:鎌田厚志、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        オバデヤ書は旧約聖書で最も短く、一章だけの書です。エドムに対する審判が 
                         
                        その内容です。ですので、偏狭な民族精神や「憎悪の歌」だと単純にまとめる見 
                         
                        解もありますが、これは「エドム」をどのように受けとめるかによります。 
                         
                         
                        エドムはユダ王国の南にあった国で、ヤコブの兄・エサウの子孫と伝えられて 
                         
                        います。内村鑑三は、エドムの神の名前が伝わっていないことや聖書中の記述か 
                         
                        ら、エドムの無神論的・物質主義的傾向を指摘し、イスラエルとの対照性を論じ 
                         
                        ました。矢内原忠雄は、オバデヤ書を世俗主義に対する批判として読む時に最も 
                         
                        その意義がわかるとし、「短刀の鋭さと珠玉の閃きが認められる」と述べています。 
                         
                        神をみずからと無関係とし、神を無視して生きるエドムの傲慢さは審判を受けると、 
                         
                        オバデヤは預言しました。そして、その経済力や世俗的な知恵や軍事力にもかかわ 
                         
                        らず、エドムは滅亡しました。 
                         
                         
                        エドムが裁かれた最大の理由は、兄弟であるユダの首都・エルサレムが異国の攻 
                         
                        撃を受け陥落した時に、傍観し加担したことでした。オバデヤ書は、隣人の苦境を 
                         
                        傍観してはならないという倫理を明確に述べます。このことは、自己責任論が蔓延 
                         
                        している今日の日本にとって、深く考えさせられる内容と思います。終りの日には、 
                         
                        神を愛し隣人を愛する生き方が、神を無視し隣人の苦境を傍観する生き方に勝ち、 
                         
                        広まっていくという希望をオバデヤ書は与えてくれます。    (鎌田記) 
                        
 
                         
                        2017年2月12日(日) 集会 
                         
                        「地の塩、世の光」 マタイによる福音書5:13~16 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:村上思門 
                         
                        
                        イエスの弟子はこの世の者ではありません。しかしこの世に生きており、この世 
                         
                        と関係を持っています。天に国籍を持つ者としてこの世でどう生きればいいのでし 
                         
                        ょうか?ユダヤの人々は膨大な律法にその基準を置きましたが、イエスはただ「地 
                         
                        の塩、世の光である」とだけ言われています。 
                         
                         
                        “塩”は食物の腐敗を防ぎ、また調味料の効用を持ちます。イエスの弟子は義を 
                         
                        もって腐敗の世を清め、和解をもって平和を齎します。塩は役に立っているときは 
                         
                        形を失っています。自分の存在を無くして他者を活かすのです。 “光”は暗黒を 
                         
                        照らし、また道しるべとなります。イエスの弟子は正義をもって悪を審き、愛をも 
                         
                        って迷う者を導きます。その光は自ら発するのではなく、イエスの光を受けて輝く 
                         
                        のです。「わたしは世の光である」と言われたイエスの光を。 
                         
                         
                        イエスに従うものは“地の塩、世の光”とされています。殊更自己を主張しなく 
                         
                        ても世に無くてはならないものなのです。数は問題ではありません。その貴重な役 
                         
                        割を失ってはなりません。辛い味を失ったら塩は役立ちませんし、物陰に置かれて 
                         
                        は光も存在価値がありません。 
                         
                         
                        イエスの一方的な愛によって、本来その資格を持たない私たちが“地の塩、世の光” 
                         
                        とされました。「光の子として歩みなさい」(エフェソ4:8)とありますが、日々イ 
                         
                        エスを心にお迎えして歩み行きたいものです。              (秀村記) 
                        
 
                         
                        2017年2月5日(日) 集会 
                         
                        「イエスの死」 ヨハネによる福音書18:38b~19:42 
                         
                        講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        ヨハネによる福音書では、イエスの死は淡々と語られています。「エリ、エリ…」 
                         
                        という十字架上でのイエスの言葉の記述もありません。他方、ローマ総督ピラトと 
                         
                        のやりとりが詳しく記されています。ピラトはイエスを赦そうと考えていましたが、 
                         
                        ユダヤ人たちの言葉「この男を釈放するならあなたは皇帝の友ではない」に恐れを 
                         
                        感じて、イエスを彼らに引き渡します。保身のためです。祭司長たちも、「皇帝の 
                         
                        ほかに王はありません」とピラトに言います。神に敵対する発言ですが、祭司長た 
                         
                        ちも自分たちの地位を守りたかったのです。 
                         
                         
                        内村鑑三の不敬事件と対比すると、祭司長たちの信仰の薄さが明確になります。 
                         
                        こうした姿は、現代でもよく見られますが、イエスは神からの使命を達成されます。 
                         
                        イエスはすべての人の罪を一身に引き受け、この世での死を迎えられます。 
                         
                         
                        自分自身を振り返っても、ピラトや祭司長たちと同じ行動を取ってしまうことが 
                         
                        あり得ると思います。そうした人の心の奥にある罪をイエスは自らが屠られる羊とな 
                         
                        って、私たちの罪を贖ってくださったのです。 
                         
                         
                        イエスは、最後に愛する弟子に母マリアを託します。イエスは決して母 
                         
                        マリアを忘れている訳ではないのです。先ず、父なる神を愛すること。 
                         
                        次に、父母を始め、自身の身の回りにいる人を愛すること。このことの 
                         
                        大切さを教えてくださっているのです。      (渕上記) 
                         
                         
                        2017年1月29日(日) 集会 
                         
                        「パウロのクリスヤン相手の唯一の説教(遺言説教)①」 使徒言行録20:17~24 
                         
                        講話:市村昭三(天神集会)、司会:秀村興子 
                         
                        
                        最大の伝道拠点エフェソをパスしてミレトスに来たパウロは、60km(徒歩3日) 
                         
                        離れたエフェソに使いをやって、エフェソとその周辺の教会の長老たちを呼び寄せ、 
                         
                        決別の説教をします。この説教は、彼のクリスヤン相手の唯一の説教であり(異教 
                         
                        徒やユダヤ人相手の説教はありますが)、エフェソの人々に限らず、彼の宣教によ 
                         
                        って生まれた異邦人教会全体への遺訓ともなっています。著者ルカは彼の3回に及 
                         
                        ぶ伝道旅行最後の場面に、遺言とも言える説教を記したのです。 
                         
                         
                        パウロは “謙遜の限り、涙を流しながら、主に仕えて来た”(19)と言っていま 
                         
                        す。イエスの十字架に顕れた“へりくだり”に基づくが故に、誇り高い男である彼が、 
                         
                        他者への奉仕としての謙遜を説き、実行することが出来たのでした。 
                         
                         
                        そして、“福音を証する任務を果たすためには、命すら惜しいとは思わない”(24) 
                         
                        と言います。彼には福音の世界伝道のヴィジョンがあり、その為にエルサレム教会と 
                         
                        異邦人教会が一致団結しなければならないとの思いがあり、危険を冒してまでもエル 
                         
                        サレムに献金を携えて行こうとしたのです。 
                         
                         
                        私たちもイエスに出会うとき、何がしかの使命を魂に刻印されます。それはどんな 
                         
                        に小さくとも、夫々に与えられた福音のための使命を果たすものとしていただけるよ 
                         
                        う、祈りたいものです。              (秀村記) 
                         
                         
                        2017年1月22日(日) 集会 
                         
                        「神に委ねる―フィリピンに遣わされて37年―」 ペトロの手紙一5:7 
                         
                        講話;横川知親先生(日比聖書教会)、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        54年前フィリピンをワークキャンプで訪れた木村利人(リヒト)青年は、現地の 
                         
                        人々の敵意に満ちた対応に、どう対処したらいいか分からず、行き詰っていました。 
                         
                        日本軍がフィリピンの人々に甚大な被害を与えたことを知らなかったのです。やが 
                         
                        てフィリピンの人々の心の傷を知って深く恥じた彼をフィリピンの人々は許してく 
                         
                        れました。このとき彼が作った歌が「幸せなら手をたたこう」。1964年坂本九によ 
                         
                        って歌われて大ヒット、世界中で歌われるようになっています。霊南坂教会員であ 
                         
                        る84歳の彼は、行き詰った時に赦された経験が心の原点になっていると言っています。 
                         
                         
                        私にとって昨年は最悪の1年でした。家族が次々病に倒れたのです。2月に息子、 
                         
                        3月に妻が夫々重篤に陥り、死を覚悟したのですが、日本の病院に連れ帰ったりして 
                         
                        いるうちに私も娘も倒れてしまいました。健康保険がないフィリピンでは金銭的にも 
                         
                        危機に陥るのです。主の御憐れみと皆さんのお祈りによって11月には何とか回復する 
                         
                        ことができました。 
                         
                         
                        昨年教えられたことは「全てを主に委ねよ」であり、「常に喜びなさい(フィリピ 
                         
                        4:4)」です。私たちは誰ひとり問題のない人はいません。どうしようもなくなるこ 
                         
                        とは屡々です。しかし、主の愛が私たちを抱いて下さっていることを信じるとき、喜 
                         
                        んで「手をたたこう」を歌えるのです。          (秀村記) 
                        
 
                         
                        2017年1月15日(日) 集会 
                         
                        「ペトロの否認」 ヨハネによる福音書18:1~38 
                         
                        講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        ペトロの否認の話は、キリスト教に特に関心のない人にも知られています。レン 
                         
                        ブラントの絵画などで知っている人も多いのではないでしょうか。ペトロは、イエ 
                         
                        スに何処までもついて行きます、イエスのためなら命も捨てますと約束します。し 
                         
                        かし、イエスは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだ 
                         
                        ろう」と予言されます。その時にはペトロはイエスのその言葉を気にも止めなかっ 
                         
                        ただろうと思われます。イエスを逮捕するためにやって来た大祭司の手下に剣で打 
                         
                        ってかかっています。イエスが逮捕され連行された時、連行された大祭司の屋敷の 
                         
                        中にまで入っています。 
                         
                         
                        しかし、自分がイエスの弟子であることが知られそうになった時、三度、そうで 
                         
                        はないと言い張ります。その時、鶏が鳴くのです。マタイによる福音書では、イエ 
                         
                        スの言葉を思い出し、「外に出て、激しく泣いた。」と書かれており、ルカによる 
                         
                        福音書では、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」と書かれています。どの 
                         
                        ような表情でペトロを見られたのでしょうか。決して叱責するようなまなざしでは 
                         
                        なかったはずです。慈愛に満ちた、また憐れみを覚えたまなざしでペトロを見られ 
                         
                        たに違いありません。 
                         
                         
                        人はすべて弱い存在です。誰もペトロを非難することは出来ません。真の強さを 
                         
                        獲得するためには、自分の弱さを悟り、主イエス・キリストに頼らざるを得ないの 
                         
                        です。                         (渕上記) 
                        
 
                         
                        2017年1月8日(日) 集会 
                         
                        「祝福の到来」 マタイによる福音書5:1~12 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田厚志 
                         
                        本日から山上の垂訓を学びます。 
                         
                        
                        イエスによって「おめでとう!(幸いである)」と言われる人は、“心の貧しい人々” 
                         
                        を始め、地上に依り頼むものの無い人です。神に依り頼み、天に望みを置く人です。 
                         
                        イエスは端的に不幸の中にある人々に対して、深い憐れみをもって愛の呼びかけをさ 
                         
                        れたのでした。生ける神の子が、神の祝福は今こそあなた方に臨んでいるのだ、と宣 
                         
                        言されるのです。 
                         
                         
                        8つの幸いな人々が列挙されていますが(3~10)、自分のことを“柔和で謙遜” 
                         
                        (マタイ11:29)とも言われたイエスと同じ性質の人々と申せましょう。そして最 
                         
                        後に、列挙された祝福の原則を具体的場面に適用して、イエスの弟子として苦難・ 
                         
                        迫害に耐え忍ぶよう、励まされています(11~12)。 
                         
                         
                        おめでとう、と言われる訳は、天の国は彼らのものだから、と言われます。“地を 
                         
                        継ぐ”といい、“天にて大きな報い”といい、終わりの日の審判で実現する価値の転 
                         
                        倒が約束されています。しかし、約束されている天の国は来世の希望に留まらず、現 
                         
                        世に於いても潜在的に実在し、イエスの現臨するところ部分的に実現しつつあるので 
                         
                        す。決して苦難に対する逃避(宗教はアヘンだという)ではありません。 
                         
                         
                        ここに宣言されているのはイエスによる「恵み」です。この恵みを受ける為に何ら 
                         
                        の条件も付されていません。イエスの到来というただ一つの事実によって、この祝福 
                         
                        が与えられたのです。私達は感謝して受けるのみでいいのです。   (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年12月25日(日) クリスマス祝会 
                         
                        礼拝ではローマの信徒への手紙3:21~26「二つの夜」を学びました。   
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        「きよしこのよる」はドイツ語でStille Nacht, heilige Nacht!(静かな夜、聖なる夜!) 
                         
                        で、ベツレヘムでのイエス誕生の聖なる夜が歌われています。博士たちが喜びに溢れ 
                         
                        た静かな夜。しかしそれは束の間のことで、直ちにエジプトへの逃避を要する多難な 
                         
                        道が待ち受けていました。 
                         
                         
                        イエスの人生最後の夜は弟子たちと過ごされた宴席でした。本来喜ばしい過越を祝 
                         
                        う時でしたが、その席で人間の救いのためにご自身を与えると告げられます。イエス 
                         
                        の生涯の終着点は十字架だったのです。厳粛な夜、聖なる夜でした。 
                         
                         
                        神が御子を与えて下さったということは、私たちから見れば大変なお恵みを戴いた 
                         
                        ということですが、神の側から見れば、愛する独り子を人間の手に託したということ 
                         
                        ですから、計り知れない犠牲を払われたことでありました。十字架に至るイエスの全 
                         
                        生涯を想起するとき、クリスマスとは如何に大きな犠牲のときであったかと思わずに 
                         
                        おれません。 
                         
                         
                        神に背いて歩む私たちは死すべき存在です。しかし、“神はこのキリストを立て、 
                         
                        その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。”(ロマ3:25) 
                         
                        そして死から命へと奪還されたのです。神がどんなお方であるのか、はイエスを知る 
                         
                        ことによって初めて分かります。二つの夜は神がご自身を私たちに顕してくださった 
                         
                        驚くべきときだったのです。 
                         
                         
                        続いてこどもクリスマス会、昼食会をもちました。        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年12月18日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデの最後の言葉」 サムエル記下23~24章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        神に選ばれて王とされた卑賤の子ダビデの辞世の言葉は、神の霊によって生き、 
                         
                        歌った多くの詩編と同じく、麗しい歌となりました。揺るがぬ岩である神からの 
                         
                        知恵と権威をもって、ダビデ王朝の輝かしい未来を語っています。死を前にして、 
                         
                        朝の太陽のように(詩19:6)希望溢れる将来を仰ぎ見て喜ぶことが出来るのは、 
                         
                        神の約束を信じるが故でした。そしてその約束は、彼の子孫からイエス・キリス 
                         
                        トが“芽生え”たことにおいて真に成就したのでした。 
                         
                         
                        ダビデが人口調査をしたことに、彼にも強大な軍事国家を作ろうとする野心があ 
                         
                        ったことが顕れています。神は彼を悪の道(人口調査)に誘い込んだ上で、それが 
                         
                        滅びであることを、民の苦難(7万人の疫病死)という恐るべき結果によって示さ 
                         
                        れたのでした。それは預言者ガドを通して示された神の怒りによる死への道でした 
                         
                        が、「主の御手にかかって倒れよう」と告白した彼の信仰にゆえに、神は災いを 
                         
                        “思い返され”ます。罪による死ではなく、罪の贖いの道を備えられました。彼は、 
                         
                        後にソロモンが神殿を築くエブス人の土地を平和理に入手し、悔い改めの献げ物を 
                         
                        献げたのでした。 
                         
                         
                        ここでは動物の犠牲による贖いによって、神がダビデと民を救い給うたのですが、 
                         
                        私たちは神の子の贖いの死によって命へと救われています。クリスマスを前に、神 
                         
                        がみ子を私たちに賜ったことへの感謝を深くしたいと思います。
(秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年12月11日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデの感謝の歌」 サムエル記下21~22章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                        21~24章は「結び」として、ダビデ王国は神の恵みによってのみ成立する、と 
                         
                        いうことを述べています。それは私たちのエクレシアにも当てはまることであり、 
                         
                        暗闇の世に神の恵みが満ちていることを証することに、存在意義があるのです。 
                         
                         
                        まず、神の前に精算されていないサウル王が犯した罪が採り上げられます。ヨ 
                         
                        シュアが安堵を約束していた原住民ギブオン人をサウルが殺害した罪を精算すべ 
                         
                        く、ダビデはサウルの子孫7人を引き渡したのでした。厳然と揺らぐことのない神 
                         
                        の裁きの前に、王国には悔い改めが求められるのです。また、サウルが成し得なか 
                         
                        った難敵ペリシテ軍に勝利したのは、ダビデも家臣たちも武力によらず神の力によ 
                         
                        ってであったことが強調されています。神自ら戦い給うた恵みでした。 
                         
                         
                        「結び」の中心は「ダビデの感謝の歌」(詩編18編と同一)です。神は、あらゆ 
                         
                        る苦難から救い給う“岩”であり、全地の支配者。“主のほかに神はない”(32)、 
                         
                        “主は命の神“(47)と告白します。彼の感謝は、個人的なもの(2~20)に留ま 
                         
                        らず、王としての諸問題への対処に恵みを与えられたことにあります。彼の一生が 
                         
                        神の憐れみの下に歩むことを赦されたのは、“正しさ”と“清さ”を持つ“貧しい 
                         
                        民”として歩むことによってのみ可能であったのでした。このことが子孫にも及ぶ 
                         
                        との約束が与えられたことも、大いなる感謝でした。 
                         
                         
                        ダビデ最後の祈りとある詩編72編には“弱い人、貧しい人を憐れみ、その命を贖 
                         
                        い出す”王が歌われていますが、このダビデの歌と共に、遥かにイエス・キリスト 
                         
                        を指し示しています。私たちも王であるイエスに感謝を歌います。(秀村記) 
                         
                         
                        2016年12月4日(日) 礼拝 
                         
                        「イエスにより一つになる」 ヨハネによる福音書17章 
                         
                        講話:渕上明、司会:村上思門 
                         
                         
                        「イエスの祈り」(17章)は、イエスによって、私たちはここまで愛されて 
                         
                        いるのかと心を動かされるところです。イエスは、永遠の命について語られます。 
                         
                        それは、神とイエス・キリストを知ることだと述べられます。 
                         
                         
                        永遠の命とは、また、真理を指すことにもなるのだと思います。ヨハネによる 
                         
                        福音書18章で、イエスが逮捕され総督ピラトから尋問された時、「わたしは真理 
                         
                        について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は 
                         
                        皆、わたしの声を聞く」とのイエスの言葉に、ピラトは「真理とは何か」と聞き 
                         
                        ます。イエスは何も答えられていません。イエス自身が、真理であったからです。 
                         
                         
                        次にイエスは弟子たちのために祈られます。「わたしがお願いするのは、彼ら 
                         
                        を世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです(15)」と。 
                         
                        弟子たちが、苦難の道を歩むことがあっても、悪に捕らわれることなく生きてい 
                         
                        けるようにと言われているのです。また、「彼らのためだけではなく、彼らの言 
                         
                        葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします(20)」と祈られます。 
                         
                         
                        続けて、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、 
                         
                        すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてくだ 
                         
                        さい」と祈られます。イエスは、弟子たちだけではなく、弟子たちの言葉を聞い 
                         
                        てイエスを信じる人、それらすべての人々が一つになって生きていけるようにと 
                         
                        祈られているのです。私たちは、主イエス・キリストを通して、一つになること 
                         
                        が出来るのです。                     (渕上記) 
                        
 
                         
                        2016年11月27日(日) 礼拝 
                         
                        「パウロのエルサレム行きの備えと旅立ち」 使徒言行録20:1~16 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:秀村興子 
                         
                        
                        パウロの第3回伝道旅行の目的は、2度に亘る旅行で設立した各地の教会から 
                         
                        エルサレム教会への献金を集めることにありました。彼がそのことに熱心であ 
                         
                        ったのは、エルサレム教会を金銭的に支えるとの約束(ガラテヤ2:9~10)が 
                         
                        あったこともありますが、異邦人教会とエルサレム(ユダヤ人)教会が一致協 
                         
                        力して、偶像が蔓延る異邦社会を真の神の霊を注入して清める、というビジョン 
                         
                        をもっていたに他なりません。このビジョンは現代に通じるものであります。 
                         
                         
                        エフェソ(今のトルコ)での騒動の後、パウロはヨーロッパに渡ります。そし 
                         
                        てマケドニアの街々を巡って人々を力づけ、コリントに3ケ月滞在します。ここ 
                         
                        で彼の畢生の大著「ローマの信徒への手紙」を書いたのでした。 
                         
                         
                        献金を携えて彼はコリントからエルサレムに直行しようとしますが、ユダヤ人 
                         
                        による殺害の陰謀を恐れて、遠回りすることになります。トロアス(今のトルコ) 
                         
                        経由の旅の出発にあたって、各地区教会の代表者7人を連れていくことにします。 
                         
                        彼ら献金協力者代表は同時にパウロが産んだ異邦人信徒の良いサンプルという意 
                         
                        味でもありました。パウロのエルサレム教会との一致を熱望する気持ちが顕れてい 
                         
                        ます。 
                        トロアスでパウロの長話に居眠りした青年が3階から転落死するというエピソー 
                         
                        ドが記されています。失神していたのでしょうが、パウロが蘇生させたということ 
                         
                        になっているのは、ペトロ(9:36~)とのバランスをとったのでしょうか、人々 
                         
                        に“慰めを与えた”ことが強調されています。        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年11月20日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデのエルサレム帰還」 サムエル記下19:6~20:22 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        アブサロムの死を嘆くダビデに立ち直ることを強要するヨアブに従って、ダ 
                         
                        ビデは祝宴の席に着きました。彼は新しい力を受けて、神に仕える王として再 
                         
                        出発することになります。彼をエルサレムに帰還させようとの願いは、最初に 
                         
                        北方イスラエル諸部族の半分から起こりますが、彼はユダ族に動くよう要請し、 
                         
                        併せて将軍ヨアブをアマサに更迭します。こうして彼はユダ、エルサレムとの 
                         
                        結合を強め、反対者もいた北方イスラエルに対する統治力を強めたのです。 
                         
                         
                        エルサレム帰還の途上、まず現れたサウルの関係者(シムイ、メフィボシェト、 
                         
                        バルジライ)と和解して、ダビデは懸案であったサウルとの和解を達成します。 
                         
                        かつて彼を呪ったシムイを赦して、「今日」神の和解のみ業がなった(ヘブル 
                         
                        4:7、詩編95:7)と告げたのでした。 
                         
                         
                        ダビデ王家の支配が揺るがぬものとなるには、最後にシェバの反乱を乗り越 
                         
                        えねばなりませんでした。イスラエル10部族の中に残っていた、統一王国を拒 
                         
                        否して、嗣業の土地に固着する伝統的考えをシェバが主張、反乱者はアベルに 
                         
                        籠城します。アマサを殺害して司令官に戻ったヨアブは城壁を崩してシェバを 
                         
                        捕えようとします。町を破壊せずに反乱を鎮圧することが出来たのは、神が与 
                         
                        える平和を強く求めたアベルの賢い女の熱意によってでした。異邦の女による 
                         
                        和解の精神が、流血を厭わないヨアブに優ったのです。 
                         
                         
                        神との和解、人と人との和解を齎すのは、イエス・キリストの福音です。 
                         
                        「今日」私たちもその祝福の中を歩むことを赦されています。集会はその典型 
                         
                        です。                       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年11月13日(日) 礼拝 
                         
                        「いちじくの木に花は咲かずとも―闇の中の光」ハバクク書3:17~19 
                         
                        講話:吉村孝雄氏(徳島聖書キリスト集会)司会:小林典子 
                         
                         ハバクク書はバビロニアが攻めてきてユダヤが危機に陥った時代(B.C.6世紀) 
                         
                        を背景としています。苦難の中にあって、預言者ハバククは神に示された救いの 
                         
                        言葉を語りました。人間の言葉はすぐに消え去る軽いものですが、神の言葉は何 
                         
                        千年たっても揺らぐことのない重いものです。当時世を覆っていた不法・暴虐は 
                         
                        今日の問題でもあり、“いちじく、ブドウ、オリーブが花や実をつけない”闇の 
                         
                        中にあっても、“わたしは喜ぶ”という預言の言葉は私たちに希望の光を与えま 
                         
                        す。 
                         
                        
                        新約の福音の原点となった言葉“義人は信仰によって生きる(ロマ1:17)” 
                         
                        はハバククからの引用です(2:4)。また、イエスも引用されています(“石が 
                         
                        叫ぶ”など)。旧約も新約も根底に流れているものは変わりないのです。 
                         
                         
                        人間の知恵・批評・評論に力はありません。主にある喜びは、迫害に耐えて信 
                         
                        仰を守り続ける凄まじい力を与えてきました。生きるために必要な究極的なもの 
                         
                        を指し示しているのが聖書。私たちに必要なことは、ハバククがそうであったよ 
                         
                        うに、神から直接メッセージを受け取ることです。内村・矢内原…ではなく、彼 
                         
                        らが指し示したみ言葉に聴くことです。 
                         
                         
                        この混迷する時代にあって、弱い人、闇の中にいる人に、分かりやすい言葉で、 
                         
                        ハバククのように確信を持って、み言葉を取り次ぐことが私たちに求められてい 
                         
                        ます。                            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年11月6日(日) 礼拝 
                         
                        「 世に勝っている 」 ヨハネ福音書16:16~33 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田厚志 
                         
                        
                        イエスはこれから迎える死と復活について語られます。弟子たちは、最初そ 
                         
                        の言葉の意味が分かりませんでした。「父のもとに行く」や「しばらくすると、 
                         
                        あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るよう 
                         
                        になる」という言葉が理解出来なかったのです。 
                         
                         
                        イエスは、出産の苦しみと喜びにたとえて語られます。それは、イエスが十 
                         
                        字架上で死を迎え、弟子たちは悲嘆に暮れることになりますが、その後、イエ 
                         
                        スは復活し、弟子たちは喜びに満たされることが示されています。イエスの死 
                         
                        と復活により、私たちの罪が赦され、また、聖霊が送られることにより、イエ 
                         
                        スについて真に知ることが出来、それによって、私たちは新しい人間となり、 
                         
                        主イエス・キリストを通して、父なる神とつながることが出来るのです。 
                         
                         
                        イエスは、「わたしをひとりきりにする時が来る。」と言われます。イエス 
                         
                        が逮捕される時、弟子たちが皆逃げ去ってしまうからです。その時を迎えても、 
                         
                        「わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ。」と言われます。 
                         
                        イエスの揺るぎない言葉は私たちを圧倒します。 
                         
                         
                        最後のところで、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによっ 
                         
                        て平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出 
                         
                        しなさい。わたしは既に世に勝っている。」という言葉があります。人生の中 
                         
                        で苦しみに遭う時、この言葉を思い起こす人は多いのでないかと思います。私 
                         
                        たちは、主イエス・キリストにつながっている時、苦難をもたらす世に勝つこ 
                         
                        とが出来るのです。                   (渕上記) 
                         
                         
                        2016年10月30日(日) 礼拝 
                         
                        「アブサロムの死」 サムエル記下16:15~19:5 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:原サイ子 
                         
                        
                        アブサロムからダビデ討伐作戦の諮問を受けた顧問アヒトフェルは精鋭部隊 
                         
                        による奇襲作戦を進言しますが、ダビデの密使としてアブサロムの許に潜り込 
                         
                        んだフシャイは、全イスラエルを動員しての完全制圧を提言、これが採用され 
                         
                        ることになります。アブサロムは人望を得る策を選んだのでした。かくてダビ 
                         
                        デ軍にマハナイムの城を基地にした戦闘体制を整える余裕が出来、周辺の人々 
                         
                        からも食料などの支援を得ます。 
                         
                         
                        ヨルダン川の東、ギレアドの森林地帯での戦闘は組織力の弱いアブサロムの 
                         
                        大軍に対し、少数精鋭ダビデ軍の圧勝に終わります。ダビデ自身は出陣せず、 
                         
                        アブサロム殺害は禁じていたのですが、木に架かって宙吊りになったアブサロ 
                         
                        ムはヨアブに殺されてしまいます。乗っていた騾馬にも見放されたアブサロム 
                         
                        は、神に見放された者の姿を晒したのでした。 
                         
                         
                        良い知らせを待ちつつアブサロムの安否を気遣うダビデの許に齎されたのは、 
                         
                        アブサロムの訃報でした。勝利者ダビデは敵であった息子の死を深く嘆きます。 
                         
                        “わたしがお前に代わって死ねば良かった”という言葉に表される息子への愛は、 
                         
                        十字架の死に至るまで私達を愛し抜かれた父なる神の愛を指し示すと申せましょ 
                         
                        う。ダビデはアブサロムの死に合わされ、神の裁きの前に服する者とされたので 
                         
                        した。 
                         
                         
                        十字架と復活は、反逆者である私達を我が子として救い給う神の愛が徹底したも 
                         
                        のであることを示しています。            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年10月23日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデのエルサレム脱出」 サムエル記下15:17~16:14 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        反乱を起こしたアブサロムを避けてダビデはエルサレムを脱出しますが、ダビデ 
                         
                        に従ったのはエルサレムの守備隊で、忠誠を尽くすガト人イタイなどの外国人傭兵 
                         
                        が多くいました。エルサレムが敵の手に渡されるという事態は、エルサレムにあっ 
                         
                        て支配し給う神が見えなくなったことを意味します。従って“その地全体(全ての 
                         
                        被造物)が泣き”悲しんだのです。 
                         
                         
                        祭司ツァドクとアビアタルが担いできた神の箱を、ダビデは都に戻すように命じ 
                         
                        ます。それは、反乱が終わったら、エルサレムが真に神の都となって霊的支配が仰 
                         
                        がれるようになる、というダビデの祈りを顕しています。一行は嘆きつつオリーブ 
                         
                        山の道を辿りますが、ダビデの嘆きは絶望ではなく、神に触れた者の叫びでした。 
                         
                        弱さをさらしつつ、しかし神の赦しを得た者として裸で神の前に立つ彼(とイスラ 
                         
                        エル)を、神は人間の思いも及ばぬ目的に向かって導かれるのです。 
                         
                         
                        落ち武者ダビデの前にサウル家の残党が現れます。詐欺を働こうとするツィバ、 
                         
                        そして呪いを浴びせるシムイ。ダビデは呪いを受けつつ、この困難な事態を神から 
                         
                        出たこととして受け取ります。“呪いに代えて幸いを返し給う”ことを信じて。 
                         
                         
                        オリーブ山を行くダビデは、ゲッセマネ(オリーブ山)で十字架を覚悟されたイ 
                         
                        エスを予表しています。聴かれざる祈祷(詩編22編)をも最善に導き給うイエスの 
                         
                        愛に抱かれていることが、私達の希望であり喜びです。  (秀村記) 
                         
                         
                        2016年10月16日(日) 礼拝 
                         
                        「ベギンと大島サキ」 ルカによる福音書620 
                         
                        講話:中川憲次先生(福岡女学院大学)、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        12世紀のヨーロッパで修道院に入れるのは上層社会の女性たちに限られていたの 
                         
                        ですが、入れない女性たちが自前で20人位の擬似修道院を作りました。ベージュ色 
                         
                        のベールを用いたことから彼女たちはベギンと呼ばれました。ベギンは修道院のよ 
                         
                        うな規則は持たず、閉じこもらず、町での労働の成果は個人の財産とすることがで 
                         
                        きました。中心地となったケルンには4000人のベギンが居たといいます。やがて 
                         
                        異端として迫害されるようになり、15世紀には消滅したのでした。 
                         
                         
                        ドイツの神学者エックハルト(1260~1328)は、所属するドミニコ会からベギン 
                         
                        を正しく導くようにと派遣されたのですが、貧しいベギンたちの真摯な姿に触れて、 
                         
                        彼女たちを力づけるような説教をするに至ります。マルタとマリアの話(ルカ10: 
                         
                        38~40)はイエスに聴き入るマリアが良いとされる常識を覆して、労働するマルタ 
                         
                        の貴さ、マルタを経た上でマリアにならねばならない、と説きました。ベギンたち 
                         
                        こそそのマルタである(修道院の女性がマリア)、としたのでした。 
                         
                         
                        福岡女学院設立時に、アメリカから派遣されたギールを助けた大島サキは貧しさの 
                         
                        中、保母手伝いとして入った活水女学校で信仰を与えられ、ギールの右腕になったの 
                         
                        でした。ベギンたちと大島サキに共通するのは「貧」です。両者とも貧しさの極みに 
                         
                        あって「貧しい者は幸いだ(ルカ6:20)」といわれたイエスに出会っていたに違い 
                         
                        ありません。                         (秀村記) 
                         
                         
                        2016年10月9日(日) 礼拝 
                         
                        「父、子、聖霊 」 ヨハネによる福音書15:18~16:15 
                         
                        講話:渕上明、司会:横山宜和 
                         
                        
                        15章後半で、イエスは弟子たちがこれから遇うであろう迫害について予告されます。 
                         
                        イエスに従うことは、父なる神を知らない人々との決別を意味しますが、その際にイ 
                         
                        エスは弁護者、すなわち真理の霊を送ると弟子たちに伝えられます。この聖霊は、イ 
                         
                        エスの言葉を証しすると共に、まだ十分にイエスの言葉を理解出来ないでいる弟子た 
                         
                        ちに、弁護者(傍らにあり、助けてくれる者)として、イエスがこの世に現れたこと 
                         
                        の意味を教えてくれることになるのです。 
                         
                         
                        16章では、この弁護者である聖霊の働きについて語られます。父なる神とその独り 
                         
                        子イエスが、地上にこの聖霊を送られ、世の誤りを明らかにされます。三位一体は、 
                         
                        キリスト教の重要な教義ですが、現在においても、違った解釈をする宗派もあります。 
                         
                        アウグスティヌスは、聖霊は、父なる神とその独り子、主イエス・キリストの霊であ 
                         
                        り、これら両者と等しい実体のものであり、等しく永遠であると述べています。
 
                         
                         
                        私たちは、聖霊の助けなしに、主イエス・キリストの言葉を理解することは出来ま 
                         
                        せん。父なる神と主イエス・キリストがこの世に送ってくださる聖霊の力によって理 
                         
                        解することが出来るのです。人間の理性によってだけでは、イエスの言葉は矛盾に満 
                         
                        ちたものとしか映らないでしょう。しかし、聖霊の力により人生の様々な段階に応じ 
                         
                        て、私たちはイエスの言葉の真の意味を知ることが出来るのです。  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2016年10月2日(日) 礼拝 
                         
                        「アブサロムの反乱」 サムエル記下14:1~15:16 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:秀村興子 
                         
                        
                        軍司令官ヨアブはダビデの心の変化に気づいて、3年間南方の地に隠れていたアブサ 
                         
                        ロムを連れ戻します。彼に依頼された賢い女はナタンのようにダビデに譬話をしますが、 
                         
                        預言者のような神の言葉ではなく、結果に具体的な見通しを持つものではありませんで 
                         
                        した。ヨアブの望み通り王国の混乱は回復したかに見えましたが、それは民衆の願望に 
                         
                        応えたものであって、次の混乱を準備することになったのでした。アブサロムに悔い改 
                         
                        めは無く、民衆は優柔不断に見えるダビデよりも決断力があると見えたアブサロムを好 
                         
                        んだからです。 
                         
                         
                        2年間王に近づくことを許されなかったアブサロムは、ヨアブを脅してダビデの赦しと 
                         
                        和解を獲得します。そして、直ちに王位継承者として武装した彼は、陰謀を用いて“イ 
                         
                        スラエルの人々の心を盗み取った”のでした。同調者を増やした彼はユダの聖所ヘブロ 
                         
                        ンに趣いて誓願を果たし、犠牲を捧げ、これをもって即位を宣言します。 
                         
                         
                        ダビデは顧問アヒトフェル(バト・シェバの祖父)にも裏切られるなど、ヘブロンのア 
                         
                        ブサロムが勢力を固めたことを知り、直ちにエルサレムを出ます。身の保全もさる事なが 
                         
                        ら、この特別な都が戦禍によって破壊されるのを避ける為でした。 
                         
                         
                        人間の思いが渦巻く中ひとり都落ちするダビデは、神にのみ依り頼み、民の救いを祈っ 
                         
                        たのでした(詩編3)。艱難の中にあって私達を救い給うイエスを指し示しています。 
                         
                                                         (秀村記) 
                         
                         
                        2016年9月25日(日) 礼拝 
                         
                        「エフェソでの騒動」 使徒言行録19:21~40 
                         
                        講話:市村昭三先生(天神集会)、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        パウロの伝道が進展していたエフェソで大変な騒動が起こります。ローマ帝国アジ 
                         
                        ア州の中心都市エフェソは、女神アルテミスを祀る壮麗な神殿を有する宗教都市でも 
                         
                        ありましたが、その模型などを作って利益を上げていた銀細工人デメトリオが、偶像 
                         
                        崇拝を禁じる教えを広めるパウロを攻撃するアジ演説をして、民衆をアルテミス神熱 
                         
                        狂に扇動したのです。パウロの同行者が捕えられ、野外劇場での大混乱に至りますが、 
                         
                        騒ぎはこの地方の高官たちによって収められたのでした。 
                         
                         
                        この出来事については疑問があります。パウロが被害を受けていないこと、皇帝礼 
                         
                        拝を司るような有力者がパウロを助けていることなどです。そして、パウロ自身が書 
                         
                        いた「エフェソで野獣と闘った(Ⅰコリ15:32)」や「艱難に会った(Ⅱコリ1:8)」 
                         
                        ことを併せて読むとき、この騒動はもっと根が深いものであったことが推察されます。 
                         
                         
                        キリストの福音は、偶像崇拝がもたらすエフェソの人々の経済的・精神的退廃を告発 
                         
                        するに止まらず、皇帝礼拝と衝突せずには済まなかったでしょう。そのような深刻な問 
                         
                        題を避けているのは、ルカの執筆目的がキリスト教はローマ社会に有害なものではない、 
                         
                        という主張にあったからと思われます。 
                         
                         
                        ルカは、ローマの高官といえども神がパウロを用いて進め給う福音の前進を押し止め 
                         
                        ることは出来ない(否、助ける事になる)と言外に語っていると思われます。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年9月18日(日) 礼拝 
                         
                        「アムノンとタマルの事件」 サムエル記下13章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        ダビデ王の長男アムノンは異母妹タマルへの激しい恋患いに陥り、従兄弟ヨナダ 
                         
                        ブの策略に乗って力ずくで思いを遂げます。しかしその瞬間、激しい愛が激しい憎 
                         
                        しみに変わって彼女を乱暴に追い出し、彼女は実兄アブサロムの許に身を寄せたの 
                         
                        でした。ダビデ家に潜んでいた王位継承の問題が、この憎しみを機に顕になったの 
                         
                        です。2年後アブサロムはアムノンに復讐を企てて殺害します。バト・シェバ事件 
                         
                        に続くこの事件により、事態はダビデ家の崩壊へと進んで行きます。 
                         
                         
                        一連の出来事の間、ダビデの優柔不断、受身の姿勢は混乱を食い止め、事態を回 
                         
                        復させる契機を逃してしまったように見えなくもありません。しかし聖書記者は、 
                         
                        罪のゆえに滅びへと突き進んで行く人々と、ダビデの姿を対比して描いています。 
                         
                        彼は息子への愛を貫く父、人々の罪を苦しむ者、神の救いだけにより頼む貧しい者 
                         
                        として立っています。 
                         
                         
                        バト・シェバ事件とは異なり、悔い改めの言葉がないこの事件では全てが泥沼の 
                         
                        中に落ちて行く感じがします。ダビデ家の人々の不信仰は悲惨です。しかし肉の思 
                         
                        いの渦巻く中にあって、王国の前進は神の意志と恵みによって与えられるのです。 
                         
                        王国の目標は繁栄にあるのではなく、神がこの世に来たり給うことを受け取ること 
                         
                        にあります。 
                         
                         
                        イエスの到来と再臨の希望が、罪の世の只中にあって私たち― 哀れなタマルも ― 
                         
                        の救いの根拠であります。                (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年9月11日(日) 礼拝 
                         
                        「バト・シェバ事件」 サムエル記下11~12章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田厚志 
                         
                        
                        王国の基礎が固まり、版図も拡がって、神の恵みの順風下にあったダビデ王が 
                         
                        醜悪な罪を犯します。この事件はダビデの姦淫であり、それを隠そうとして果た 
                         
                        せなかった彼は、バト・シェバの夫ウリアを軍の司令官ヨアブに命じてアンモン 
                         
                        戦の最前線に出して死なせるという、残忍な陰謀を用いたのです。神がイスラエ 
                         
                        ルのために戦い給うその最中に、神の聖さに逆らう肉の思いを露呈したのは、エ 
                         
                        デンの園での堕罪の出来事を想起します。肉の罪は仮借なく暴露されるのです。 
                         
                         
                        狂気に陥っていたダビデに罪を指摘したのは預言者ナタンでした。イスラエル 
                         
                        を子羊のように愛し給う神に反逆している“その男はあなただ”、と。ダビデは 
                         
                        直ちに罪を告白し(悔い改めの詩編51編)、ナタンは罪の赦しを宣言します。罪 
                         
                        と死との直接的関わりは姦淫の子の死という形で宣言されます。 
                         
                         
                        神に打たれて子は死にますが、その前後のダビデの豹変振りを部下達は訝りまし 
                         
                        た。愛児の死後、神を礼拝し立ち上がったダビデは古い自己に決別したのでしょう。 
                         
                        愛児の死はウリアの死に対する応報ではありません。それは神の愛児(イエス)の 
                         
                        死(十字架)をはるかに指し示しています。ダビデの礼拝はこのような恵みと憐れ 
                         
                        みの神への礼拝でした。 
                         
                         
                        ダビデが死の罰を免れたことは、「神の約束は撤回されない」ことによります。 
                         
                        人間の思いを超える神の自由な恵みによって約束の子(ソロモン)が与えられまし 
                         
                        た。                          (秀村記) 
                         
                         
                        2016年9月4日(日) 礼拝 
                         
                        「互いに愛し合うということ」 ヨハネによる福音書15章 
                         
                        講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        先日相模原市で障害者施設が襲われ、入所者19人が亡くなるという事件が起こり 
                         
                        ました。犯人は元施設の職員で精神障害も疑われる人でした。世間に大きな衝撃を 
                         
                        与え、マスコミも様々に取り上げましたが、いずれも断片的で事の本質には触れて 
                         
                        いないように思われます。障がいを持つ人も障がいのない人も共に生きることは、 
                         
                        「障害者基本法」にうたわれており、マスコミも共に生きるようにと報道しますが、 
                         
                        実態についてはほとんどの人が分からないのではないでしょうか。 
                         
                         
                        イエスは自らをぶどうの木に譬えて、イエスに繋がっているよう話をされ、イエ 
                         
                        スの愛のうちにとどまるようにと言われます。そして、「わたしがあなたがたを愛 
                         
                        したように、互いに愛し合いなさい。」と語られ、「これがわたしの掟である。」 
                         
                        と、更には「これがわたしの命令である。」と言われます。命令であれば、私たち 
                         
                        は従うしかないことになります。 
                         
                         
                        前述の事件について、「隣にいる」ことが、まず最初に必要であるとの感想を述 
                         
                        べられた方がいましが、良きサマリア人の話を持ち出すまでもなく、私たちはすべ 
                         
                        ての人と良き隣人である必要があるのです。イエスの「互いに愛し合いなさい。」 
                         
                        という言葉は、イエスの愛の中にいなければ実現出来ません。今回の事件も、私た 
                         
                        ちが、障がいがある人もない人も含めて、イエスの愛の内にあり、互いに愛し合う 
                         
                        必要を示されたものではないでしょうか。           (渕上記) 
                        
 
                         
                         
                        2016年7月31日(日) 礼拝 
                         
                        「世に勝つということ」 ヨハネによる福音書16:25~33  
                         
                        講話:香西信氏(岡山聖書集会)、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        イエスが十字架につく前の弟子たちへの遺言(14~16章)は「わたしは既に世に 
                         
                        勝っている」で結ばれている。人生の嵐の中にあっても、勝利者イエスが共にいて 
                         
                        下さる以上、悲しみが喜びに変わり、世に勝つことが出来る、という。 
                         
                         
                        「世」はこの世の支配者、即ちサタンの支配下にあるが、神の義は歴史を貫いてい 
                         
                        る。世を覆う不義・不正に対して神は厳然として審き給う。ただ、神の審きは直ちに 
                         
                        目に見える形をとるものではない。神の審きのスパンは長く、勝利のスケールは大き 
                         
                        い。このことを信じ、祈って待つことにおいて、私たちは世に勝つのである。 
                         
                         
                        パウロは「神の力」によって世に勝つ、と述べている(Ⅰコリント1:18~2:5)。 
                         
                        この世が頼る「知恵の言葉」に対して、「神の力」を頼りとせよ、それは「十字架の 
                         
                        言葉」である、と。十字架によって示された「神の力」は知恵のない者、弱い者に与 
                         
                        えられる。聖書の神が弱い者、貧しい者を愛されることは旧約聖書からイエスに至る 
                         
                        まで一貫している。 
                         
                         
                        イエスの十字架と復活は罪に対する勝利であり、それは確定し、今も続いている。 
                         
                        復活のイエスは今も聖霊を遣わして共に歩んで下さっており、私たちは喜びを持って 
                         
                        希望に生きることができる。そして、イエスが共に働いてくださることを信じて、伝 
                         
                        道に勤しむことが出来るのである。 (秀村記) 
                         
                         
                        2016年7月24日(日) 礼拝 
                         
                        
                        「パウロのエフェソ伝道」 使徒言行録19:1~20 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:三苫恵子 
                         
                         
                        パウロの第3回伝道旅行は献金集めが主目的でしたが、3年滞在したエフェソでの 
                         
                        活動が中心となりました。当時のエフェソはローマ・アジア州の中心都市です。皇帝 
                         
                        礼拝が強要されていたことから、パウロの伝道に政治面での衝突という困難があった 
                         
                        に違いありませんが、福音は危険な教えではないと言いたい著者ルカはそのことには 
                         
                        触れず、パウロがエフェソを追い出されたのも宗教的トラブルによるとしています。 
                         
                         
                        パウロが来た時のエフェソのキリスト信徒は、洗礼者ヨハネの教えとイエスの教え 
                         
                        のどっちつかずの状態でした。最初ユダヤ人の会堂で週1日教えていた彼は、妨害者 
                         
                        が出たのを機に、講堂で毎日教えることにします。それが2年に及びましたから、この 
                         
                        一帯の皆が真の福音を聴くことになりました。 
                         
                         
                        エフェソは政治経済の中心都市であると共に、宗教の坩堝の街でもありました。彼 
                         
                        は魔術と対決することになりますが、魔術に勝利するイエスの福音に恐れを抱いた人 
                         
                        々は膨大な量の魔術書を焼きます。如何に魔術が浸透していたかが分かりますが、こ 
                         
                        れは日常に様々な形で占いや魔除けなどが深く根を下ろしている現代の私たちの問題 
                         
                        でもあります。 
                         
                         
                        彼が成果を挙げた異邦人伝道の拠点であるエフェソは、キリスト教の歴史に重要な 
                         
                        役割を果たします。イエスの弟子ヨハネが活動し、後にキリスト教の重要な教義を定 
                         
                        めた公会議(A.D.431年)の開催地ともなったのでした。 (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年7月17日(日) 礼拝 
                         
                        「王国の基礎とメフィボシェト」 サムエル記下8~10章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                        南北のイスラエルを統一してエルサレムをその都としたダビデは、周辺の国々を 
                         
                        制圧します。ペリシテ、モアブ、ツォバ、アラム、ハマト、エドムとの戦いに勝利 
                         
                        して代官をおいて支配、分捕り品や貢納品を神の幕屋に納めました。また、義と公 
                         
                        平をもって民を治め、統治組織も整えたのでした。 
                         
                         
                        彼の闘いは外敵との戦争だけではありません。国内の分裂・動揺から耐え難い辛 
                         
                        苦に陥りました。しかし歴史を導き給う神が“行く先々で勝利を与え”給うことを 
                         
                        信じることによって苦境を突破することが出来たのでした(詩編60)。成果はダビ 
                         
                        デによるのではなく、神に帰すべきことなのです。 
                         
                         
                        ダビデはヨナタンの遺児メフィボシェトに恵みを与えます。王と食卓を共にする 
                         
                        に止まらず、サウル家の所有地を回復してやり、その旧臣に収穫を管理させたので 
                         
                        した。メフィボシェトの子孫は長く繁栄します(代上8:34)。憐れみをもって治 
                         
                        めたダビデは、ヨナタンとの契約を果たしたのでした。 
                         
                         
                        障害者であったメフィボシェトの謙遜・真実(19:25~31)と、弱者への義と公 
                         
                        平を尽くしたダビデの温情・愛は、神に敵する者、“死んだ犬”のような私たちと 
                         
                        主イエスの関係を写し出します。イエスはご自身の約束により、死に値する私達の 
                         
                        罪を赦して食卓を共にして下さるのです。ダビデと共にあることで充分だと言った 
                         
                        メフィボシェトと同様、私達にはイエスの許に留まること以上の幸いはありません。 
                         
                                                      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年7月10日 (日) 礼拝  
                         
                        「道 真理 命」 ヨハネによる福音書14章 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        ヨハネによる福音書14章では、道、真理、命と言う言葉が出て来ます。イエスが 
                         
                        父なる神の許に行く唯一の道であること、イエス御自身が真理そのものであること、 
                         
                        また、永遠の命に至るにはイエスを通してでなければ不可能なことが語られていま 
                         
                        す。トマスもフィリポも長い間、イエスの弟子としてイエスの言葉を聴き、イエス 
                         
                        のなした奇跡を見てきたにも拘らず、イエスと父なる神との関係を理解することが 
                         
                        出来ませんでした。私たちは目に見えるものしか信じることが出来ません。イエス 
                         
                        の弟子たちは、イエスの奇跡を目の当たりにしても信じることが出来ずに、フィリ 
                         
                        ポはイエスに、「わたしたちに御父をお示しください。」とまで言っています。 
                         
                         
                        イエスはまもなく地上からいなくなるが、父なる神の許に行き、イエスを信じる者 
                         
                        のために場所を用意すると言われます。また、父にお願いして「弁護者」(パラクレ 
                         
                        ートス)を遣わすと約束されています。「弁護者」とは「真理の霊」であり、この霊 
                         
                        によって私達は内側から真の信仰に導かれるのです。 
                         
                         
                        また、「平和」(シャローム)という言葉は、相手の幸運を祈る言葉ですが、イエ 
                         
                        スが与えられる「平和」は、心の平安を含め、真の平和、世界の平和の実現を表して 
                         
                        います。 
                         
                         
                        つまり、私たちは、主イエス・キリストを通してのみ、平和を実現し、正しい道を 
                         
                        歩み、世の真理を知ることが出来、永遠の命に到達出来るのです。  (渕上記) 
                        
 
                         
                        2016年7月3日(日) 阿部光成氏を迎えての集会 
                         
                        「イエスに『気づき』を与えて救われたカナンの女」  
                         
                                          マルコによる福音書7:24~30 
                         
                        講話:阿部光成氏(経堂聖書会)、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        イエスはユダヤの人々に「神の国」の福音を宣べ伝えましたが、ユダヤ人指導 
                         
                        者や同胞はもとより、弟子たちも理解しませんでした。その徒労感もあってでし 
                         
                        ょうか、ユダヤを離れて異邦の地ティルスに身を隠そうとされますが、一人の女 
                         
                        が悪霊に憑かれた娘の癒しを懇願します。イエスは「まず子供にパンを与える、 
                         
                        子犬にはやれない」と拒絶されました。先にユダヤ人に救いを与えるのだ、異邦人 
                         
                        にはその後だ、と。 
                         
                         
                        女の「食卓下の子犬もパンくずをいただく」という機知に富んだ応答に、ユダ 
                         
                        ヤ宣教に行き詰まりも感じておられたイエスは、新たな進むべき道に気づかれた 
                         
                        と思われます。それは全人類を救うための十字架の道。この後イエスは受難を3 
                         
                        回予告されることになります。 
                         
                         
                        女は「主よ」といって跪きましたが、ダビデの妻になったアビガイル(同じく 
                         
                        「主よ」と跪いた)を想起します。放浪の旅にあったダビデがアビガイルの機知 
                         
                        によって血を流す罪から救われたとき感謝した(サムエル上25:23~35)ように、 
                         
                        人間イエスもこの“気づき”に感謝されたのではないでしょうか?イエスの生涯 
                         
                        に於ける貴重な一齣となりました。 
                         
                         
                        ルターは、カナンの女のようにどんな状況にあっても祈るべき、と教えました。 
                         
                        私たちの“気づき”は悔い改め。私たちは「全生涯悔い改め」を生きるのです。 
                         
                                                      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年6月26日(日) 石原絹子先生を迎えての特別集会 
                         
                        「沖縄戦を語り継ぐ -平和の祈り- 」 マタイによる福音書5:9 
                         
                        講話:石原絹子先生(日本聖公会沖縄教区・司祭)、司会:小林典子 
                        
                         
                        沖縄戦が始まった1945年4月、私は7歳(小1)で、母、兄(小3)、3歳と1歳の 
                         
                        妹と共に沖縄南部・玉城村で防空壕で暮らしていました(父は応召、やがて戦死)。 
                         
                        乳幼児は邪魔だという日本軍によって防空壕から追い出され、母子5人激戦地と 
                         
                        なった南部戦地を逃げ回るうちに、母と兄は爆弾で、2人の妹も目の前で死んで 
                         
                        しまいました。私も夥しい死体の山の上を歩いていて気を失いました。私を救っ 
                         
                        てくれたのはなんと“鬼畜米兵”の衛生兵。放心状態の私の目に留まったのは米 
                         
                        兵の胸に揺れる十字架でした。十字架は不思議にも、独り生き残った私のその後 
                         
                        の人生を変え、生きる力、生きる希望を与えてくれたのでした(後に聖公会の司 
                         
                        祭になった)。 
                         
                         
                        戦争被害者として“語り部”をしていますが、私たちは同時に加害者であった 
                         
                        ことも認めねばならないと思います。そして政治に危険な動きが急を告げる今、 
                         
                        「騙す者だけでは戦争は起こらない、騙す者と騙される者とが揃わなければ戦争 
                         
                        は起こらない。戦争の責任は支配者と国民の両方にある。」との伊丹万作(映画 
                         
                        監督)の言葉を噛み締めたいと思います。 
                         
                         
                        イエスは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる 
                         
                        (マタイ5:9)」と言われました。私たちの周囲に小さくとも平和を作り出すこ 
                         
                        とが求められています。そして護るべきは憲法9条。本土の皆さんにも沖縄の闘い 
                         
                        を理解し、共に担っていただきたいと願います。      (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年6月19日(日) 礼拝 
                         
                        「ナタン預言とダビデの祈り」 サムエル記下7章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田厚志 
                         
                        
                        神と共にあって安らぎを与えられたダビデは、神の箱に相応しい神殿の建築を思 
                         
                        い立ちます。しかし預言者ナタンはこの願いに反する神の託宣を受けました。神は 
                         
                        神殿に住む必要は無い、神が選ぶ指導者と民とが一つとなって神の民イスラエルを 
                         
                        実現するとき、平和を与えるのだから、と。 
                         
                         
                        更に進んで王国の将来が約束されます(ナタン預言)。ダビデ家によって王位が 
                         
                        継承され、その王国は永遠に堅く据える、と。王位は権力の継承ではなく、神自ら 
                         
                        父と呼ばれ、王はその子と呼ばれる、神の慈しみ(ヘセド)の実現なのです。「ダ 
                         
                        ビデ契約」と言われ、神の国の王座と真の王の到来が、被造世界の中に刻印された 
                         
                        のでした。そして遥かな先に、父なる神の独り子が到来されることを指し示してい 
                         
                        ます。 
                         
                         
                        ナタンを通して与えられたみ言葉に対して、ダビデは感謝の祈りを捧げます。民 
                         
                        とダビデ家にみ言葉の実現を祈願しますが、その根底には、神こそがイスラエルの 
                         
                        主であることがあります。この祈りは、イスラエルがダビデ王国なきあとも神の民 
                         
                        として有り続けることにまで、及んでいるのです。 
                         
                         
                        神はダビデの“耳を開き(特愛の囁きで)”、“あなたの為に家を建てる”と言 
                         
                        われました。私達が神に家を建てるのではなく、神が私達に家を建て給うのです。 
                         
                        恵みは神から。私達が世の煩いに神を見失うと時も、真の王であるイエスが私達の 
                         
                        耳を開いて、恵みの中に導き入れて下さいます。        (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年6月12日(日) 礼拝 
                         
                        「全イスラエルの王ダビデ」 サムエル記下5~6章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:原サイ子 
                         
                        
                        サウル側についていたイスラエル各部族の長老たちがダビデに油を注ぎます。ダ 
                         
                        ビデはユダに加え全イスラエルの王となったのです。かくて、出エジプト以来の神 
                         
                        の約束どおりイスラエルは神の民として新たな出発をしたのでした。 
                         
                         
                        ヘブロンでの5年半を経て、ダビデは都をエルサレムに移します。ここは南北を 
                         
                        結ぶ要衝の地にあり、南北イスラエル統一に最適の天然の要害でした。妨害する先 
                         
                        住のエブス人から奇襲作戦で奪い取ったのですが、以後仇敵ペリシテを始め周囲の 
                         
                        民を制服して、勢力範囲を拡げていきます。 
                         
                         
                        ダビデはエルサレムを政治的な中心地と共に宗教的中心地とします。バアレ・ユ 
                         
                        ダに仮置きされていた神の箱をエルサレムに運び上げて、彼が建てた幕屋の中心に 
                         
                        安置します。神の箱は出エジプトに由来し、神による12部族統一の象徴です。ダビ 
                         
                        デは神を王国の支配者として迎えることを、エフォド(祭司の前垂)を着けて喜び 
                         
                        踊ったのでした。 
                         
                         
                        神こそが王国の中心ですが、その神は王国の発展途上にあって未だ従わない多く 
                         
                        の者をも受け容れられます。そして神を知るものへ導こうとされるのですが、神の 
                         
                        道具であるダビデは苦難を負うことになります。サウルの娘ミカルによって蔑まれ 
                         
                        たように。彼は人の罪を担わされるのです。 
                         
                         
                        私達もイエスを心の真ん中にお迎えする時、バルティマイの躍り上がる喜び(マ 
                         
                        ルコ10;50)に溢れます。               (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年6月5日(日) 礼拝 
                         
                        「律法の完成」 ヨハネによる福音書13章 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        イエスが弟子たちの足を洗う場面を最初に読んだ時、大変驚きました。人が神の 
                         
                        足を洗うのであれば、普通に受け入れられることですが、神の子であるイエスが人 
                         
                        の足を洗うことは他の宗教では考えがたいことです。謙遜という言葉がありますが、 
                         
                        イエス御自身の姿に、謙遜という意味の本質的な姿が示されているように思います。 
                         
                        そこには、神への謙遜と共に人への謙遜のあり方が示されています。 
                         
                         
イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)とあり、 
                         
                        ここまで愛されていることに心を動かされます。ただ愛するのではなく、「愛し抜か 
                         
                        れた」と書かれています。 
                         
                         
イエスは弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える」と言われます(34節)。 
                         
                        それは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがた 
                         
                        も互いに愛し合いなさい。」というものでした。新しい掟を与えるという言葉は、古 
                         
                        い掟をなくして、新しい掟に置き換えるように思われがちですが、そうではなくこれ 
                         
                        までの律法の完成が示されているのです。この言葉を、もしすべての人が守るならば、 
                         
                        まさしく神の国がこの世にもたらされることになるのです。 
                         
                         
ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」と述べますが、彼の弱さのため出来ま 
                         
                        せんでした。そうした私たちの弱さを含めて、主イエスは私たちを愛して下さるので 
                         
                        す。                            (渕上記) 
 
                         
                        2016年5月29日(日) 礼拝 
                         
                        「深い淵から」 詩編130編 
                         
                        講話:犬養光博先生、司会:横山宜和 
                         
                        本日は松尾道晏・達子ご夫妻(召天40年と35年)を記念してのお話を伺いました。 
                         
                        
                        29歳で結核を病み42歳で召される迄の13年間病室にあって松尾道晏兄は苦闘の日々を 
                         
                        送っておられました。それは身体の苦しみだけでなく、同じ病院に入院しておられた達 
                         
                        子さんによってキリストの福音に目を開かれる一方、赦せない肉親への感情に苛まれて 
                         
                        いたからでした。しかし達子さんとの会話で、そのような自分を赦せない状態のまま 
                         
                        (あるがまま)受け容れて下さるイエスに出会われました。そこに至るにはお二人の 
                         
                        「誠実な」日々の歩みがあったのです。問題を誤魔化さず、真実に歩むことなしに救い 
                         
                        に到達することはあり得ません。神は愛であると共に義なる神でありますから。 
                         
                         
                        道晏(みちやす)兄は「キリストのエクレシアは、苦しみの担い合い、喜びの分かち 
                         
                        合いです」と言われました。そのように生きられたご夫妻はエクレシアの在り方を教え 
                         
                        てくれます。信徒兄弟の「信仰」だけでなく、その人の全体を受け入れることが出来て 
                         
                        いるかが問われます。 
                         
                         
                        達子(みちこ)姉は「主よ、わたしはあなたです」と祈られました。イエスが私たち 
                         
                        一人一人の中に生まれて下さる、との消息が語られており、パウロの「キリストがわた 
                         
                        しの内に生きておられるのです。(ガラ2:20)」に通じます。ご夫妻の証しを改めて 
                         
                        心に刻みたい、そして、詩編130編の詩人と共に、贖いの主を褒め歌いたいと思います。 
                         
                                                      (秀村記) 
                         
                         
                        2016年5月22日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデとイシュ・ボシェト」 サムエル記下2~4章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        神の託宣によりダビデはヘブロンに移住し、ユダの王に即位します。他方で生き残って 
                         
                        いたサウルの息子イシュ・ボシェトもイスラエル(北の諸部族)の王になります。サウル 
                         
                        の従兄弟で軍司令官であるアブネルに擁立されたのでした。彼の王位は2年でしたが、サ 
                         
                        ウル家は力を落として行きます。 
                         
                         
ダビデ軍とサウル軍の衝突を経て、サウル王家の衰えを感じたアブネルはダビデに従う 
                         
                        ことにしますが、ダビデ軍の司令官ヨアブ(ダビデの甥)にあっけなく殺されてしまいま 
                         
                        す。更にアブネルの死に震え上がったサウル家の残党によってイシュ・ボシェトも暗殺さ 
                         
                        れてしまったのでした。 
                         
                         
アブネルの死を知った時ダビデは激しく怒ると共に悲しみ、アブネルへの挽歌を歌いま 
                         
                        す。また、イシュ・ボシェトを殺した輩も許さず、イシュ・ボシェトを手厚く葬りまし 
                         
                        た。 
                         
                         
ダビデの全イスラエル統一への道は揺らぐことなく前進しますが、彼はその途上の苦難 
                         
                        を耐えねばなりませんでした。彼は自ら策を弄すことなく、神に従うことに徹します。ま 
                         
                        さに“神の摂理と人間の混乱によって”歴史は進行するのです。 
                         
                         
「あらゆる苦難から私の命を救われた主は生きておられる」とのダビデの言葉(4:9) 
                         
                        は、イエス・キリストにあって私たちの告白となりました。生ける主は私たちの最大の苦 
                         
                        難である罪を十字架上に担い、死から復活の命へと救い出して下さったのです。一方的な 
                         
                        恵みとして!                            (秀村記) 
 
                         
                        2016年5月15日(日) 礼拝 
                         
                        「パウロ、第二次伝道旅行を終えて、アンティオキアに帰る 」 使徒言行録18:18~23 
                         
                        
                        講話:市村昭三、司会:秀村興子 
                         
                         
パウロは1年半のコリント滞在を終えて、海路エフェソ経由で帰途に就きます。かくて 
                         
                        3年余に及んだ第二次伝道旅行(A.D.49~53)を終えることになります。 
                         
                         
パウロはエルサレムに向かいますが、それはエルサレムでの使徒会議で決めた役割分担 
                         
                        (パウロは異邦人伝道を担う)に基づいて活動してきたことを報告して、自分に与えられ 
                         
                        た使命の承認を求めることが目的であったと思われます。自身無駄に走っているのでない 
                         
                        ことも確認したかったでしょう。そしてエルサレムから母教会アンティオキアに戻りました。 
                         
                         
しかしここに詳しいことが書かれていないのは、多分その目的は果たせなかった(教会か 
                         
                        ら歓迎されなかった)ことを示唆していると思われます。 
                         
                         
帰還の船出にあたって彼は誓願の髪を切った、とあります(18:18)。ユダヤ人の掟に 
                         
                        基づくナジル人の誓願だと思われますが、エルサレム教会との和解のために誓願を立てたの 
                         
                        でしょうか(髪を切ったことの解釈は様々。聖書大辞典の解釈による)。この和解は彼にと 
                         
                        っての大きなテーマでした。 
                         
                         
彼の命懸けの西欧世界への伝道が、巡り巡って私たちにまで福音の光が届けられることに 
                         
                        繋がりました。神の救いのご計画が現在に至るまで、そして現在も、着々と前進しているこ 
                         
                        とを仰いで、感謝に溢れます。       (秀村記) 
 
                         
                        2016年5月8日(日) 礼拝 
                         
                        「 弓の歌 」 サムエル記上31章~下1章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        サウル軍は装備と兵力に勝るペリシテ軍に圧倒され、ギルボアの山に追い上げられま 
                         
                        した。まずヨナタンたちサウル王の3人の息子が殺され、深手を負ったサウルも剣の上 
                         
                        に伏して絶命します。“同じ日に皆死んだ”のは、サムエルの預言通り(28:19)神の 
                         
                        定めによるものでした。 
                         
                         
サウル達の遺体をペリシテ人は乱暴に扱いますが、かつてサウルに救われたヤベシュ 
                         
                        の住民(11章)は遺体を取り戻して丁重に葬ります。救いを与えてくれた油注がれた者 
                         
                        に彼らがしたことは、イエスのために新しい墓を用意したアリマタヤのヨセフ(マタイ 
                         
                        27:57~60)を想起させます。 
                         
                         
ツィクラグに戻っていたダビデの許にサウル達の死を伝えたのはアマレクの若者でし 
                         
                        た。彼がサウルのとどめを刺したと聞いたダビデは、即刻部下に彼を殺させます。王国 
                         
                        成立に際して異教徒の介入を完全に断ち切ったのでした。 
                         
                         
“勇士らは倒れた”と繰り返される有名な「弓の歌」。ダビデが親友ヨナタンを哀悼 
                         
                        すると共に、敵であったサウルをも“愛され喜ばれた者”と讃えているのは、彼らが王 
                         
                        国を担うべく神に選ばれた者だからです。悲しみと怒りを基調としつつ、サウル親子へ 
                         
                        の愛と喜びの勝利が歌われており、イエスの福音
―新しい愛と喜びの音信― を指し示 
                         
                        しています。 消えることのない私達の苦悩と涙を癒し給うイエスの愛は、ヨナタンの 
                         
                        弓のように決して退くことはないのです。            (秀村記) 
 
                         
                        2016年5月1日(日) 礼拝 
                         
                        「 イエスは世の光 」 ヨハネによる福音書 12:27~50 
                         
                        講話:渕上明、司会:小林典子 
                         
                        
                        イエスは「今、わたしは心騒ぐ。」と言われます。神の子であるイエスがこのような 
                         
                        弱々しい言葉を言われるのは不思議な気がしますが、イエスが人の体をもってこの世に 
                         
                        来られたのは、神の思いを伝えると同時に、私たちの中にある弱さをも含めて、人はど 
                         
                        う生きるべきかを示されるためであったと思います。苦しみの中でたとえ迷いが生じた 
                         
                        としても、父なる神に祈り、その御旨に従うよう教えておられるのです。「わたしは地 
                         
                        上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」とも言われていま 
                         
                        す。主イエス・キリストは、すべての人を救う道を既に用意されているのです。 
                         
                         
しかし、「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好む」人たちもいます。ヨハ 
                         
                        ネによる福音書では、光という言葉がしばしば出て来ますが、イエスは、「わたしを信 
                         
                        じる者が、だれも暗闇の中にとどまることがないように、わたしは光として世に来た。」 
                         
                        と言われています。それだけではなく、「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者が 
                         
                        いても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うため 
                         
                        に来たからである。」とまで言われています。 
                         
                         
イエスの言葉は正しく、一点の曇りもありませんが、人がそれに従おうとしても、こ 
                         
                        の世の誘惑に負け、しばしば罪ある者となってしまいます。それでも、イエスの言葉を 
                         
                        受け入れる者には、救いと永遠の命が与えられるのです。(渕上記) 
                         
                         
                        2016年4月24日(日) 礼拝 
                         
                        「アマレクからの戦利品」 サムエル記上29~30章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田厚志 
                         
                         
                        ペリシテ・ガトの王アキシュはダビデをイスラエルとの戦いの護衛隊長にしますが、 
                         
                        裏切りを恐れたペリシテの武将たちの主張を受け容れてツィクラグに返します。ダビ 
                         
                        デはイスラエルと戦うという最悪の事態から救われたのでした。アキシュは彼を“ま 
                         
                        っすぐな、神の御使いのような人間”と言います。ダビデは彼の言う通りの神に従順 
                         
                        に従う人物なのです。 
                         
                         
ツィクラグに帰ってくると、アマレク人に襲われて町が焼かれ、女子供は連れ去ら 
                         
                        れていました。ダビデは神の示しに従って直ちにアタレクを追撃、略奪された全てを 
                         
                        (女子供も)取り戻した上、アマレク人の家畜も分捕りました。 
                         
                         
そして常識を破る戦利品の分配を行います。疲労のため戦いに落伍していた兵達に 
                         
                        も、反対する“ならず者”を抑えて平等に分け与えたのです。何故なら“主が戦って、 
                         
                        主が与えて下さった物だから”といいます。サウルが勝利を自分の手柄とし、民を強 
                         
                        者と弱者に差別したのに対して、ダビデは王の務めである公平と正義を貫いたのでし 
                         
                        た。彼は更に戦利品をユダの長老達にも送り、逃避行を守ってくれた人々に報いまし 
                         
                        た。これはダビデがユダの全地を支配する前触れであり、放浪が決して無駄ではなか 
                         
                        ったことを示しています。 
                         
                         
ダビデの分配方法は、常識破りの報償「ぶどう園の労働者(マタイ20:1~16)」 
                         
                        の譬え話を話されたイエスの支配原理を予表しています。それは万人への「愛」です。 
                         
                                                      (秀村記) 
 
                         
                        2016年4月17日(日) 礼拝 
                         
                        「エンドルの口寄せ」サムエル記上27~28章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:原サイ子 
                         
                        
                        サウルの手から逃れるため、 ダビデは敵地ペリシテ・ガトの王アキシュと主従 
                         
                        関係を結びます。ツィクラグの町を分封地として受け、自ら統治を始めました。そ 
                         
                        して、ここを拠点に南方の遊牧民を討伐しますが、ここにダビデ王国の萌芽を見る 
                         
                        ことができます。アキシュとは平和裏にことを進めて信頼を得つつ、その間に着々 
                         
                        と王国の備えをしたのでした。 
                         
                         
ペリシテの大軍がシュネムに集結したのを見てサウル王は震え上がり、神の託宣を 
                         
                        求めますが与えられませんでした。心慄くサウルは律法違反(レビ19:31)として追 
                         
                        放した筈の口寄せ女を訪ねて、夜変装してエン・ドルに行きます。口寄せ女に呼び出 
                         
                        されたサムエルの霊はサウルを厳しく叱責し、彼の最期を告げます。王国の成立に深 
                         
                        く関わったサムエルは、死後も預言者として神の審きを見届け、語ったのでした。 
                         
                         
サウルが神に捨てられたのは何故でしょうか?彼は神を信じましたが同時に民を恐れ、 
                         
                        自分の意志で行動を決めました。ダビデが己を空しくして神への絶対的服従を貫いたの 
                         
                        と対照的です。神と富とに兼ね仕えることはできないのです。サウルと同名で、同じベ 
                         
                        ニヤミン出身のパウロは、自分の罪を認めて神の義と憐れみに依り頼んだ真実の人でし 
                         
                        た。矢内原先生曰く、パウロは「悲哀の人」、サウル王は「悲劇の人」と。 
                         
                         
イエスも人の罪(サウルの罪も!)を担う地上の歩みに於いては、比類なき「悲哀の 
                         
                        人」でありました。                   (秀村記) 
 
                         
                        2016年4月10日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデの逃避行②-アビガイルの謙遜」 サムエル記上25:1b~26:25 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        マオンに多くの羊を飼っているナバルという裕福な人がいました。羊の毛を刈る 
                         
                        祝いの日、祝宴のお裾分けに与らせて欲しいとやって来たダビデの従者を彼は追い 
                         
                        返してしまいます。ダビデは報復を決めて兵を連れて出発しますが、これを知った 
                         
                        ナバルの妻アビガイルが贈り物を携えて願ったので、ダビデは報復を思い止まりま 
                         
                        した。そして祝宴後にこのことを知らされたナバルは、恐怖のあまり体が硬直して 
                         
                        死んでしまいます。ダビデは賢婦人アビガイルを妻とし、結局この富める者の土地 
                         
                        と財産を無血で手に入れたのでした。 
                         
                         
ナバルは神の掟を知らぬ“愚か者”で、サウル王の権力が弱まる中を高慢に生き 
                         
                        ていましたが、サウルの時代は終わりダビデが有能な羊飼いであることに思い及ば 
                         
                        なかったのです。 
                         
                         
ダビデを未来の王と認識したアビガイルは、流血の罪を犯さぬようにと懇願し、 
                         
                        ダビデに聞き入れられました。自らを“ご主人様の僕たちの足を洗うはしため”と 
                         
                        いう彼女の謙遜が流血によらぬ主の戦いという新たな恵みの出来事を齎しました。 
                         
                        和解と平和の道を歩むのが新しい王の特質なのです。エン・ゲディでのサウルとダ 
                         
                        ビデの和解(24章)と同じ出来事が繰り返されたこと(26章)にこの特質が強調され 
                         
                        ています。 
                         
                         
弟子たちの足を洗い給うたイエスの謙遜によって、私たちも和解と平和の道を歩 
                         
                        むことが許されているのです。               (秀村記) 
 
                         
                        2016年4月3日(日) 礼拝 
                         
                        「自分の命を憎む」 ヨハネによる福音書11:45~12:26 
                         
                        講話:渕上明、司会:横山宜和 
                         
                        
                        今日の部分では、有名なナルドの香油やイエスのエルサレムへの入城の話が書か 
                         
                        れています。また、最後の部分ではギリシア人が登場し、イエスの救いがユダヤ人 
                         
                        だけではなく、世界中の人にもたらされることを伝えています。 
                         
                         
                        イエスはラザロを生き返らせたことにより、いよいよ祭司長たちから危険視され 
                         
                        る存在となります。世俗の権力を持つ者にとって、真実を述べる存在は危険なもの 
                         
                        となります。 
                         
                         
                        また、ナルドの香油の話にあるように、イエス・キリストの愛は型にはまったも 
                         
                        のではありません。金銭よって人を助ける道も必要ですが、イエスの愛はそこに留 
                         
                        まりません。イエスの愛のその広さ、深さは人の理解を超えたものです。 
                         
                         
                        イエスは驢馬に乗ってエルサレムに入城されます。弟子たちは、イエスの死後に 
                         
                        起こるイエスの復活と福音を知るまで、その意味を理解することが出来ませんでした。 
                         
                         
                        イエスは「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人は、 
                         
                        それを保って永遠の命に至る」と言われます。この世の生を否定するような意味に 
                         
                        とられても仕方ないような言葉ですが、ここで言われているのは、この世の命に過 
                         
                        度に執着することなく、神の御心に従って生き、神の望まれる時が来ればこの世か 
                         
                        ら立ち去り、神の御許に行くことが大切であることを述べられているのです。そし 
                         
                        て、それはイエス・キリストを通してのみ出来ることです。(渕上記) 
                         
                         
                        2016年3月27日(日) イースター 礼拝 
                         
                        「ダビデの逃避行②-ダビデとサウルの和解」サムエル記上23:1~25:1a 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:三苫恵子 
                         
                        
                        ダビデはペリシテ人に襲われるユダの街ケイラを救いますが、サウル王と結託 
                         
                        したケイラを去り、放浪の旅を続けます。彼はその一進一退を神の声に従って決 
                         
                        めます。ペリシテを撃つことは神のみ旨ですが、嗣業の地ケイラは滅ぼさない、 
                         
                        というイスラエルの王たる者の知恵を与えられています。 
                         
                         
                        ヨナタンと再会(最後の出会い)して結んだ再度の契約はサウルとの和解の道 
                         
                        備えとなりました。また、マオンの荒野で神の介入によってダビデは窮地を脱し、 
                         
                        サウルとの和解に導かれたのでした(詩編54編はその折のダビデの祈り)。 
                         
                         
                        エン・ゲディの洞窟に潜んでいたダビデが、サウル殺害の絶好のチャンスにそ 
                         
                        れをしませんでした。油注がれた者に手をかけることは断じてあってはならぬこ 
                         
                        とです。サウルの前に平伏して殺意のないことを切々と訴えるダビデに、サウル 
                         
                        は声を上げて泣き、ダビデのために神の恵みを求めます。二人の間に和解が成立 
                         
                        したことは、王国の本質に関わる重要なことでした。サムエルは二人の和解を見 
                         
                        届けて死にます。彼は王国の誕生に当たって、神と人の、また人と人の和解を祈 
                         
                        り求め続けていたのでした。  
                         
                         
                        二人が“わが父(12)”“わが子(17)”と呼び交しているのは神と王・王国の関 
                         
                        係を表していますが、遥かに神と十字架上のイエスの関係を写しています。私たち 
                         
                        は十字架と復活に顕わされた究極の和解の許に生かされているのです。(秀村記) 
                         
                         
                        2016年3月20日(日) 礼拝 
                         
                        「パウロのコリント伝道」 使徒言行録18:1~17 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖研)、司会:長澤澄子 
                         
                        
                        学問の街アテネでの伝道に失敗したパウロが次に訪れたコリントは活気ある商 
                         
                        業の街でしたが、道徳的には堕落していました。ここに彼は1年半滞在して多く 
                         
                        の信徒を獲得し、教会を建てました。内村鑑三の「福音は観念ではなく生活・生 
                         
                        命に関わるところに根付く」、関根正雄の「世俗の中の福音信仰でないと本物に 
                         
                        ならない」との言葉を想起します。 
                         
                         
パウロがここで出会ったアクラとプリスキラ夫妻は、協力者としてパウロを支 
                         
                        え続けます。共にテント職人であったとあり、パウロの職業について記されてい 
                         
                        る唯一の箇所です。伝道者としてのパウロは自活・独立の道を選んだのですが、 
                         
                        シラスとテモテがフィリピからの支援金を持ってきてからは、福音宣教に専念す 
                         
                        ることにします。初めは会堂で、次にその隣のユストの家で福音を語り、多くの 
                         
                        人が信じたのでした。 
                         
                         
ユダヤ人たちに“律法違反を唆している”とローマ総督ガイオに訴えられるという事件 
                         
                        が起こります。ガイオが、ローマはユダヤの宗教事情には関与しない、と却下しました 
                         
                        ので、パウロは事なきを得ましたが、彼の活動は決して順風満帆では無く、多くの苦難 
                         
                        に会いました。コリントの信徒に宛てた手紙によって、彼が如何に苦労したかが読み取 
                         
                        れます。活動をやめようとした程でしたが、“恐るな、わたしがあなたと共にある”と 
                         
                        の神の声によって宣教を続けることができたのでした。神が支え、導き続け給うたので 
                         
                        す。                              (秀村記) 
                         
                         
                        2016年3月13日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデの逃避行①―アヒメレク」 サムエル記上21~22章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        ヨナタンと別れたダビデはサウル王からの逃避行を始めます。先ず訪れたの 
                         
                        はノブの祭司アヒメレクで、祭司にのみ許されていた供えのパンを貰ったことは、 
                         
                        神の霊に従って歩む長い旅の基盤となりました。以後彼は祭司の助けを得続けま 
                         
                        す。なお、アヒメレクの一統(エリの子孫)はサウル王の命によって殺害され、 
                         
                        その子アビヤタルのみが生き延びてダビデに仕えることになったのでした 
                         
                        (2:31~33の預言が実現)。 
                         
                         
ガト(ペリシテ人の町)の王に身元を見破られたダビデは身の危険を感じ、狂 
                         
                        気を装って逃れますが、その時彼が作ったとされる詩編34編には、困難・危険か 
                         
                        ら救い給う神の恵みへの讃美が歌われています。試練を経ることによって、貧し 
                         
                        い者を守り給う神を宣べ伝える者にされる、とも。 
                         
                         
逃れたダビデは洞窟の多いアドラムに隠れますが、ここで反体制的人間400人 
                         
                        の頭領となります。サウルが威嚇によって3万人を集めたのに対して、ダビデは困 
                         
                        窮者の「良い羊飼い」としての王の道を歩み始めたのです。そして預言者ガドの声 
                         
                        に従い、ユダの地に出て行きます。それは、将来統治する地を熟知するに止まらず、 
                         
                        苦難を通して、神のみが王であって地上の王は神に仕えるものとしてのみ存在する 
                         
                        ことを、神の王国の秘儀として学んでいくことになったのでした。 
                         
                         
私たちも困難に陥ったときに周章狼狽することなく、イエスを避け所として、安 
                         
                        んじて歩みたいと思います。                (秀村記) 
 
                         
                        2016年3月6日(日) 礼拝 
                         
                        「イエスの涙」 ヨハネによる福音書11:1~44 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        
                        ヨハネ福音書11章ではラザロの死と復活が取り上げられています。ラザロの死 
                         
                        を知った後、多くの人が見守る中イエスは心に憤りを覚え、涙を流したとありま 
                         
                        す。「心に憤りを覚えて」と書いてあり、イエスが父なる神と同じように人の命 
                         
                        を復活させる力があることをユダヤ人たちが分かっていないことへの憤りとの解 
                         
                        釈もあります。しかし、ここではイエスが心を強く動かされたとの解釈が良いの 
                         
                        ではないでしょうか。 
                         
                         
イエスはなぜ涙を流されたのでしょうか。イエスが人と同じように人の死を悲 
                         
                        しんで涙を流されるのは不自然なことのように思われます。人としての身体をも 
                         
                        たれたイエスが、人と同じように涙を流されたとの解釈もありますが、ここでの 
                         
                        イエスの涙は、罪によりエデンの園を追われたわれわれ人間の持つ悲しみや苦し 
                         
                        みを感じて流された涙であったのではないでしょうか。 
                         
                         
私たちは生きる中で様々な苦しみや悲しみを味わわざるを得ません。それらは私 
                         
                        たちの中にある罪の故ですが、イエスはその人類の抱えた苦しみに対して涙を流さ 
                         
                        れたのではないでしょうか。 
                         
                         
この後、イエスはすべての人の罪を背負って十字架上での死と復活を遂げられま 
                         
                        す。 イエスの涙は私たちのこの世での苦しみに対して流されたものであり、その憐 
                         
                        れみと恵みにより私たちは救われるのです。       (渕上記) 
 
                         
                        2016年2月28日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデとヨナタン」 サムエル記上19~20章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田厚志 
                         
                        
                        サウル王は息子ヨナタンと家臣にダビデ殺害を命じます。ヨナタンはこれを直ち 
                         
                        にダビデに伝え、また父を諌めて、ダビデを殺すことはしない、と誓わせました。 
                         
                        神の前でのこの誓は最後まで守られることになります。悪霊に襲われて槍を投げて 
                         
                        も、夜に新妻ミカルと共にいる所を襲わせても、ダビデを殺すことは失敗に終わり 
                         
                        ました。 
                         
                         
ミカルの機知でサウルの手を脱したダビデはサムエルの許に匿われますが、捕え 
                         
                        ようとしたサウルは、恍惚状態(預言の霊と紙一重ですが異質)に陥って、果たせ 
                         
                        ませんでした。 
                         
                         
サウルの心中を図りかねたダビデとヨナタンは、ダビデ不在の会食の場での王の 
                         
                        反応を見て、サウルの本心がダビデ殺害にあることを知ります。ヨナタンはこれを 
                         
                        事前に決めた方法でダビデに知らせます。遂に二人の別れの時が来ました。 
                         
                         
ダビデは死を恐れ(20:3)、ヨナタンも死を覚悟しています(同14,15)。二人は 
                         
                        主にある友情の契約を交わし、死を賭してイスラエルの主にある存続を願ったので 
                         
                        した。栄光を神に帰す二人は、和解者である神の恵と憐れみを体現しています。 
                         
                         
ダビデは、危機・困窮の中にあるとき、神のみに目を凝らし(見張り)、神の真実 
                         
                        (力)に信頼を寄せて、救いを待ち望みました。そして、その祈りは讃美へと変えら 
                         
                        れたのでした(詩編59編=ミカルの許でサウルに見張られていたときの詩)。神の愛 
                         
                        と真実は揺らぐことが無いのです。(秀村記) 
                         
 
                         
                        2016年2月21日(日) 礼拝 
                         
                        「ダビデとゴリアト」 サムエル記上17~18章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        羊飼いの少年ダビデが巨人ゴリアトとの一騎打ちに勝利して、ペリシテの大軍を 
                         
                        敗走させました。神に捨てられたサウル王に出来なかったことを成し遂げたのです。 
                         
                        それは、ダビデがこの戦いを神の名誉に関わるものと受け止め、“主の戦い”を戦 
                         
                        ったことによるものでした。なんと、サウルを始め周囲の制止を振り切って、武器 
                         
                        によらず石一つで勝利したのです。 
                         
                         
                        イスラエルの王は、素手で= 命を捨てて =羊を守る羊飼です。ダビデは「選ば 
                         
                        れた者」として民のために立ち上がり、「捨てられた者」の恐怖のなかに喜びを齎 
                         
                        したのでした。慰めることに続いて「捨てられた者」に希望を与えること、これが 
                         
                        「選ばれた者」の第二の勤めでした。闇の中に光として来たり給うた人類の王イエ 
                         
                        ス・キリストを予表しています。 
                         
                         
                        ダビデの度重なる勝利は、初めサウルを喜ばせましたが、女達の褒め歌がサウルを 
                         
                        刺激しました。妬んだサウルを悪霊が激しく襲います。槍で刺そうとしたり、長女と 
                         
                        の縁談を混乱させたり、最前線で戦わせたりと、ダビデに酷い処遇をしますが、謙虚 
                         
                        にそれに耐えたダビデは次女ミカルとの結婚に漕ぎつけたのでした。サウルは生涯ダ 
                         
                        ビデを憎み続けます。 
                         
                         
                        王子であるヨナタンは自分自身のように(マタイ22:39最も重要な掟)ダビデを愛 
                         
                        しました。ダビデを愛したミカルと共に、この兄妹がサウルとダビデの間に立ち、荒 
                         
                        れ狂うサウルを和解の霊によって守ったのです。       (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年2月14日(日) 礼拝 
                         
                        「神の棄却と選び」 サムエル記上15~16章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:横山宜和 
                         
                        
                        遊牧民アマレクの聖絶を命じられたサウル王はそれに従わないで勝手な供儀を行 
                         
                        ったばかりか、自らの戦勝碑まで立てました。聖絶は、悪い影響を受けて神の王国 
                         
                        が混沌に戻ることを避ける為の神のみ心だったのですが。神への不従順を繰り返す 
                         
                        サウル。神はサムエルにサウルの廃位を告げられます。 
                         
                         
                        同時に神は新たな王の選びをサムエルに命じられます。油注がれたのはベツレヘ 
                         
                        ムに住むエッサイの末子・羊飼いのダビデでした。主の霊が彼に激しく下るように 
                         
                        なります。他方でサウルは、主から来る悪霊に悩まされ、竪琴奏者を招くことにし 
                         
                        ますが、選ばれたのはダビデでした。サウルはダビデが大層気に入り、太刀持ちに 
                         
                        取り立てます。油注がれた者(メシア)の最初の仕事は病を癒し、慰めることでした。 
                         
                         
                        “主が共におられる”ダビデと悪霊に苦しむサウルの対比は、神の選びと同時に起 
                         
                        こった棄却の現実です。神の選びと救いは、そのように罪の世界に到来します。そし 
                         
                        て闇と光は併存します。この状態はこの後も長く続きますが、神への従順に徹するダ 
                         
                        ビデによって王国の基盤が築かれたのでした。 
                         
                         
                        千年後ベツレヘムに生まれ給うたメシアは一人の女性から(ナルドの)油を注がれ 
                         
                        ました。罪の闇から私達を救い出すべく十字架に死なれたイエスは、彼に従う者に光 
                         
                        の中を歩ませて下さる王です。どんな困難の中にあっても“主が共におられる”こと 
                         
                        を憶えて、希望に生きたいと思います。            (秀村記) 
                        
 
                         
                        2016年2月7日(日) 礼拝 
                         
                        「良い羊飼い」 ヨハネによる福音書10章 
                         
                        講話:渕上明、司会:原サイ子 
                         
                        
                        イエスは自らを羊飼いに、私たちを羊に譬えます。また、神は門番に譬えられ 
                         
                        ています。私たちは羊飼いに従って門を通って羊の囲いに中に入り、神の恵みに 
                         
                        与ることになります。  
                         
                         
しかし、ファイリサイ派の人々はイエスの言葉が何のことか分かりませんでし 
                         
                        た。理解するためにはイエスの言葉を素直に聞くことが必要でしたが、自分たち 
                         
                        の立場を守るために、奇跡を見たにもかかわらず、イエスの言葉を信じようとは 
                         
                        しませんでした。信じたくなかったからです。 
                         
                         
イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも 
                         
                        導かなければならない。羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と言 
                         
                        われています。異邦人である私たちも含めて、誰もがイエスに導かれて一つの群 
                         
                        れとなることが出来るのです。そればかりではなく、今はイエスに導かれる羊で 
                         
                        はない人たちもイエスを受け入れることにより、イエスに導かれる羊となること 
                         
                        が出来るのです。「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受け 
                         
                        るためである」と言われています。これは、イエスを受け入れ信じれば私たちの 
                         
                        中に聖霊が宿り、その聖霊が拡大することにより、神の恵みがますます豊かにな 
                         
                        ることを意味しています。 
                         
                         
主イエス・キリストこそが、真の牧者であり、羊である私たちは主イエス・キリ 
                         
                        ストを通して、救いを受けることが出来るのです。       (渕上記) 
                         
                         
                        2016年1月31日(日) 礼拝 
                         
                        
                        「アレオパゴスの演説」 使徒言行録17:16~34 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:三苫恵子 
                         
                         
アテネは偉大な哲学者たちの精神的遺産が蓄積された街でしたが、同時に人々 
                         
                        は三千にも及ぶ神殿や神々の像があることを誇っていました。パウロにはその宗 
                         
                        教的敬虔は完全な倒錯と写ったのです。そして議論好きの人々を前に、アレオパ 
                         
                        ゴスの評議所でキリストの福音を語ることになりました。 
                         
                         
パウロはまず街で見た「知られざる神」を採り上げますが、彼はアテネの人々 
                         
                        を軽蔑することなく、彼らの信仰を認めています。私達も見習うべきことと思い 
                         
                        ます。 
                         
                         
パウロは3つの主題を述べます。①神は世界の主である。神は神殿も祭儀も必要 
                         
                        としない。②人間は神の被造物であり、神を必要とする。③神と人間とは近い間柄 
                         
                        である。神々の偶像は無意味である、と。そして悔い改めを呼びかけ、審判を予告 
                         
                        します。更に、福音の中心であるイエス復活の宣教をしましたが、アテネの人々は 
                         
                        これを受け容れませんでした。 
                         
                         
パウロ自身はアテネ宣教を失敗だとしています(Ⅰコリント2:3)が、著者ルカは、 
                         
                        神の創造から救済に至る福音の全貌が述べられているこの演説を、第2回伝道旅行の 
                         
                        頂点に位置づけています。世界的視野に立つものであることが“万物”、“すべて” 
                         
                        と繰り返し述べられていることに表れています。 
                         
                         
福音はギリシャ世界とヘブライ世界を織り成しつつ前進して行くことになりますが、 
                         
                        両者が最初に出会い、衝突したのがこの時であったのです。  (秀村記) 
 
                         
                        2016年1月24日(日) 礼拝 
                         
                        「主の栄光を見る」 ヨハネによる福音書9:1~3 
                         
                        雪の中、1年ぶりに暑いフィリピンから横川知親先生(日比聖書教会)を迎え 
                         
                        ました。司会:長澤澄子 
                         
                        
                        フィリピン教会の奏楽者は、イエスに癒された人と同じく生まれながらの盲人 
                         
                        ですが、いつも明るく元気で皆に力を与えています。また、落ち込んでいるのを 
                         
                        見たことがない盲人の信徒も、福音の証人として存在しておられます。 
                         
                         
ニック・ブイジチさん(オーストラリア人、28歳)には驚きます(映像で紹介)。 
                         
                        牧師の子として生まれたのですが、両手両足が無く、10歳で自殺を考えた程でし 
                         
                        た。両親の愛で自殺を思いとどまり、神の愛に触れて、希望に生きるようになり 
                         
                        ます。何事にもチャレンジすること、最後まで耐え抜くことをモットーに、「諦 
                         
                        めなければ何でもできる」を実現しました。そして福音の伝道活動を始めます。 
                         
                        既に37ケ国、300万人が彼のメッセージを聞いています。イエスが共におられる 
                         
                        ところ、どんな困難にあっても、それは神の栄光を顕すために与えられたものだ、 
                         
                        と信じて歩むことが出来るのです。  
                         
                         
これらの人々によって主の栄光を仰がせて戴いています。 
                         
                         
主の栄光を最も輝かせたのは殉教者でした。何故日本にリバイバルが起こらな 
                         
                        いのでしょうか?日本に70年間殉教者がゼロであることと無関係では無いと思い 
                         
                        ます。私も危険なフィリピンでの伝道が36年目に入りましたが、いつ命を失うか 
                         
                        分かりません。終わりまで主の栄光を顕す者として用いられんことを祈っています。 
                         
                                                      (秀村記) 
 
                         
                        2016年1月24日(日) 礼拝 
                         
                        「見えないことに気づく」 ヨハネによる福音書9:13~41 
                         
                        講話:渕上明、司会:秀村興子 
                         
                        イエスが目の病を癒やすという奇蹟を行ったのが安息日であった為、ファリサイ派 
                         
                        の人々はイエスは神のもとから来た者ではないと言い放ちます。それは自分たちの 
                         
                        既得権益を脅かす存在が現れた為、自分達を守ろうとする思いからでした。 
                         
                        
                        癒やされた男は、最初はイエスを預言者と話しましたが、最後にはイエスは神の 
                         
                        もとから来た者であると主張します。ファリサイ派の人々の中にも、イエスの言葉 
                         
                        に耳を傾ける人もいました。しかし、イエスの言われた「見えない者は見えるよう 
                         
                        になり、見える者は見えないようになる。」という言葉を受け入れることが出来ま 
                         
                        せんでした。彼らは、律法を十分に学んでおり、神のことについてはこの男よりも 
                         
                        遥かに理解しているという自負があったのです。 
                         
                         
神の前には何よりも謙虚さが必要となります。イエスは「見えない」ということ 
                         
                        を自覚している人が罪のない人である、と言われます。自分の理性だけを信じて、 
                         
                        その中だけで正しく生きていくことは不可能なことです。「見える」と言って、過 
                         
                        去の律法にのみ頼っているファリサイ派の人々は、形式主義に陥り、神の恵みの本 
                         
                        質を理解出来なかったのです。
 
                         
                         
また、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。」とイエスは言われて 
                         
                        います。私たちは、気付かないうちに罪を犯しています。そのことを気付かせ、赦し 
                         
                        て下さるのが主イエス・キリストです。         (渕
上記)) 
 
                         
                        2016年1月10日(日) 礼拝 
                         
                        「サウルの不信仰」 サムエル記上13~14章  
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:小林典子 
                         
                        
                        サウルは王権を揺ぎないものにしましたが、まもなくペリシテ軍の大攻勢が始ま 
                         
                        ります。ここで軍功を挙げたのはサウルの息子ヨナタンでした。ペリシテ軍の駐屯 
                         
                        地ゲバを奪い、それに対抗してペリシテが大軍を配置したミクマス攻撃の先陣を切 
                         
                        ります。彼の勇敢な戦いぶりに鼓舞され、神の助けを得て武力に劣るイスラエルは 
                         
                        勝利することが出来たのでした。 
                         
                         
後にダビデの親友となるヨナタンは神に対して真実でしたが、サウルは困難に直 
                         
                        面すると神への信頼を貫き通すことが出来ませんでした。このペリシテとの戦いで 
                         
                        2つの失敗
― ①ギルガルで7日間サムエルの到着を待てと命じられていた 
                         
                        (10:8)のに反した ②飢えた兵士たちの律法違反(戦利品の羊、牛を血を含ん 
                         
                        だまま食べた)を執り成す祭儀を自分で取り仕切った(祭儀は祭司が行うべきもの)  
                         
                        ― を犯し、神から見放されるきっかけとなりました。  
                         
                         
サウルは神に従わねばならないことは分かっていました。2つの出来ごとのいず 
                         
                        れに於いても神に犠牲を捧げています。しかし直面する現実の問題の対処に当たっ 
                         
                        ては、咄嗟に自分で解決しようとします。失敗しても直ぐに悔い改めたダビデと違 
                         
                        って、神を信じ抜くことが出来なかったのです。 
                         
                         
イエスは「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」と教えられました。困難に直 
                         
                        面する時にこそ、イエスの愛を信じ抜きたい、そのような1年を歩みたいと思いま 
                         
                        す。                           (秀村記) 
 
                         
                        2015年12月20日 クリスマス祝会 
                         
                        「低く下り給うた神」 詩編113編 
                         
                        講話:秀村弦一郎  司会:鎌田厚志 
                         
                        
                        クリスマスはキリスト(Christ)への感謝の祭儀(mass)で、イエスの降誕を感謝 
                         
                        ・賛美する日ですが、何故イエスの降誕を喜び祝うのでしょうか?この疑問に答え 
                         
                        るには、まず神が如何なるお方であるかを知る必要があります。 
                         
                         
詩編113編によれば、神は時空を越えた並ぶ者のない存在です。私達の認識でき 
                         
                        る範囲は限られていますが、神は被造物である天を超えた方、小さな人間に理解で 
                         
                        きる方ではありません。そして創造された宇宙万物を愛して下さっています。 
                         
                         
しかし、神が愛しておられる世界に、塵芥の中に呻く弱い人々が存在しています。 
                         
                        人間が神に代わって支配しようとするからです。自分が一番大事、神より自分を愛 
                         
                        するのは全ての人の持って生まれた性ですが、この罪の心から様々な葛藤が生まれ、 
                         
                        戦争にまで至る暗黒が支配しているのです。 
                         
                         
人間の力では解決出来ない罪からの救出のために、神は御子イエスを地上に遣わ 
                         
                        されました。天を超えた高みから低いところ、それも十字架という最底辺まで下り 
                         
                        給いました。 
                         
                         
低いものを高く上げられるイエスの誕生を前に、母マリアは賛歌を歌いました 
                         
                        (ルカ1:47~55)。ハンナの祈り(サム上2:1~10)、詩編113編はその予表で 
                         
                        すが、私達も罪の暗黒から光へと救い出し給うイエスの到来を賛美するのです。 
                         
                         
・続いて子供会クリスマス、昼食会をもちました。(秀村記) 
 
                         
                        2015年12月13日(日) 礼拝 
                         
                        「サウル王の即位とサムエルの告別」 サムエル記上10:17~12:25  
                         
                        講話:秀村弦一郎 司会:鎌田良子 
                         
                        
                        サウルが神によって定められた王であることを公開するための即位式をサムエルが 
                         
                        備えます。ミツパで籤によりサウルが選ばれたのは、神が良しとされたことを民に示 
                         
                        すためでした。即位式が再度ギルガル(イスラエルのカナン定着の歴史的な地)で行 
                         
                        われますが、アンモン人に勝利したことによってサウルの戦争指導能力が優れている 
                         
                        ことが、全ての民に明らかになったことによるものでした。ミツパでの即位と異なっ 
                         
                        てサムエルは関与していません。サウルと民の合意より、民の広い承認を得たことに 
                         
                        よるものでした。 
                         
                         
サムエルの告別の辞がモーセ、ヨシュアの先例に倣って記されています。サムエルに 
                         
                        はダビデ王を任職するという大仕事が残っており、告別の辞は早すぎるのですが、サウ 
                         
                        ルの為の執り成しが述べられているのです。後にサウルを王としたことが誤りであった 
                         
                        ことが明らかになりますが、サムエルに責任は無い、とされています。 
                         
                         
ここで申命記の思想 ―①イスラエルは神ご自身の故に神の民とされた(12:22)、 
                         
                        ②主を畏れ、心を尽くし、真実をもって主に仕えよ(12:20)― が確認されます。こう 
                         
                        してイスラエルは王国となっても、純粋な信仰と心からの律法遵守によって生きることが 
                         
                        できる、とサムエルは言います。 
                         
                         
これは、救い主イエスに従い、新しい戒め(ヨハネ13:34)に生きるべき私たちの姿 
                         
                        を予表しています。 (秀村記) 
 
                         
                        2015年12月6日(日) 礼拝 
                         
                        「 神の業が現れるためである 」 ヨハネによる福音書8:39~9:12    
                         
                        講話:渕上明  司会:横山宜和 
                         
                        
                        弟子たちはイエスに、通りすがりに見かけた生まれつきの盲人について、どんな罪が 
                         
                        あって、この人は盲人として生まれたのかと問います。イエスは罪のゆえに盲人として 
                         
                        生まれたのではなく、「神の業がこの人に現れるためである。」と述べられます。この 
                         
                        箇所を読んで、イエスの言葉の正しさはそのまま認めることが出来ましたが、しかしな 
                         
                        お、イエスが奇跡を起こされるためだけに、この人が生まれつきの盲人として生まれて 
                         
                        きたのであるとするならば、この盲人に同情を禁じ得ませんでした。生まれてから数十 
                         
                        年もの間、苦しい思いをしてきたであろうこの盲人のことを考えると、何かしら割り切 
                         
                        れないものを感じます。 
                         
                         
「神の業が現れる」とは、どういうことなのでしょうか。この盲人は、共観福音書に 
                         
                        出てくる長血を患った女とは違った立場にいます。長血を患った女は、必死でイエスの 
                         
                        助けを求めようとしました。イエスの衣に触れることが出来れば、自分の病は癒やされる 
                         
                        と信じたからでした。しかし、この盲人の場合は、自分の方から助けを求めようとはして 
                         
                        いません。それはイエスの存在自体を知らなかったからです。  
                         
                         
盲人に対してイエスは自らその救済に乗り出されるのです。つまりこういうことではな 
                         
                        いでしょうか。イエスはいつも私達のことを見守って下さっており、本当に必要な時に手 
                         
                        を差し伸べて下さる。それが神の愛なのだと思います。     (渕上記) 
 
                         
                        2015年11月29日(日) 礼拝 
                         
                        「テサロニケとベレアでの伝道」 使徒言行録17:1~15   
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会) 司会:原サイ子 
                         
                        
                        フィリピ(ギリシャ)からパウロたちはテサロニケに行きます。途中アンフィポリス 
                         
                        とアポロニア(都会)を通過したとありますが、フィリピで信徒となった紫布の商人リ 
                         
                        ディアにテサロニケの婦人(紫布の客)を紹介されて、急ぎ同地に赴いたと考えられま 
                         
                        す(酒枝先生の解釈)。パウロの滞在は記されている3週間に留まらず、半年に及ぶと 
                         
                        推察されます(フィリピから何度も支援を受けている)が、その間にユダヤ人のみなら 
                         
                        ずギリシャ人や婦人たちも信仰に導きました。 
                         
                         
                        これを妬んだユダヤ人達が、ローマ帝国で禁じられている教えを広めている、と騒動 
                         
                        を起こしてパウロ達を追い出します。その時パウロたちを匿ったとして苦難を受けたヤ 
                         
                        ソンは、後にパウロの同労者となったようです(ロマ書16:21)。 
                         
                         
                        このユダヤ人たちはパウロ達が次に伝道活動をしたベレヤにまで押しかけてきて群衆 
                         
                        を扇動、パウロ達はアテネに向かったのでした。ここにユダヤ人のしつこさが表れてい 
                         
                        ます。彼らの信仰が三千年以上続いていること、多方面に優秀な人材を輩出しているこ 
                         
                        とも彼らのしつこさが齎したものです。 
                         
                         
                        テサロニケとフィリピの教会について、パウロは其々宛の手紙で“希望・喜びの冠” 
                         
                        と言っています(フィリピ4:1、Ⅰテサロニケ2:19)。パウロを愛して懇切に助けた 
                         
                        2つの信徒集団の間にリディアを始めとする交流があったことを知るとき、キリストの 
                         
                        愛の発露に触れて心が温まります。              (秀村記) 
                        
 
                         
                        2015年11月22日(日) 礼拝 
                         
                        「サウル、油を注がれる」 サムエル記上7:2~10:16    
                         
                        講話:秀村弦一郎 司会:三苫 恵子 
                         
                        
                        サムエルは預言者また祭司として、神の言葉に従ってイスラエルの民を導き、平和 
                         
                        をもたらしました。しかしペリシテの圧迫は変わることなく続いており、民は周辺の 
                         
                        原住民諸国に倣って強い王政を持ちたい、とサムエルに求めました。サムエルの下、 
                         
                        神による支配が祝福の基であることを知りつつ、民は人間の力を信じることしか出来 
                         
                        なかったのです。 
                         
                         
                        他国の制度を取り入れることなど考えもしなかったサムエルは神に祈りますが、神 
                         
                        の答えは意外にも民の求めに応じよ、というものでした。彼は民に王政のリスクも示 
                         
                        しつつ、神の声に従って王を置くことにしたのでした。 
                         
                         
                        王として神に選ばれたのは、弱小部族の真面目で気弱な美青年サウルでした。ロバ 
                         
                        を探しに出た先でサムエルに出会い、祭儀の食事を共にした後、油を注がれます。王 
                         
                        として選ばれたことが示されたのでした。霊を受けるなどサウルは別人になりました 
                         
                        が、神への信実という点では問題を残します。 
                         
                         
                        神が私たちの王(支配者)であることは揺らぐことはありません。しかし神は人間 
                         
                        社会が状況に応じて必要とする体制に対して、実に弾力的に対応されます。神の真実 
                         
                        は変わりませんが、被造物の変化には柔軟に応じつつ、最善に導き給うのです。イエ 
                         
                        スはどんな状況にあっても愛と真実をもって私たちを導いて下さいます。弱者と共に 
                         
                        居給うイエスこそ、真に全地の王であることを信じ抜きたいと思います。(秀村記) 
                        
 
                         
                        2015年11月15日(日) 礼拝 
                         
                        「ペリシテとの戦いと神の箱」 サムエル記上4:1b~7:1 
                         
                        講話:秀村弦一郎 司会:長澤 澄子 
                         
                        
                        パレスチナの内陸丘陵地に定着していたイスラエルの民は、南部の海岸方面に定着 
                         
                        した地中海から来た海の民ペリシテと戦うことになりますが、そこで役割を担ったのが
 
                         
                        “神の箱”でした。これは十戒が刻まれた石板が納められた箱で、“万軍の神”の象徴 
                         
                        とされていました。イスラエルは聖戦のシンボルとして神の箱を担ぎ出しますが、大敗 
                         
                        してペリシテ軍に奪われてしまいます。神の箱が置かれていた聖所シロは破壊され、祭 
                         
                        司たちも死んでしまいました。しかし、奪ったペリシテも、この箱の在るところ災害に 
                         
                        遭う羽目に陥り、結局神の箱はイスラエルに返され、田舎町に仮置きされたのでした。 
                         
                         
シロの乱れを起因として堕落したイスラエルを、神は先ず撃たれました。次に神は奢 
                         
                        り高ぶるペリシテの町々を次々に撃たれます。神は個別撃破をもって、歴史を導き給う 
                         
                        のです。 
                         
                         
神の象徴とされた“神の箱”は後にダビデがエルサレムに運び、ソロモンが神殿に納 
                         
                        めますが、バビロン捕囚時以降行方不明のまま今日に至っています。出エジプト以来一 
                         
                        つの役割を演じた神の箱の時代は終わりました。神は人の手で造られた物に収まるお方 
                         
                        ではありません。神の箱は私達の心に宿り給うのです。また、エリに預言された通り、 
                         
                        エリ一統が祭司を務める時代も終わりました。神は新しい時代を一人の人間サムエルを 
                         
                        もって開始されます。私たちの救いが一人の人イエスに依って齎されたことの予表であ 
                         
                        ります。                              (秀村記) 
 
                         
                        2015年11月8日(日) 礼拝   
                         
                         本日は1年ぶりに吉村孝雄氏(徳島聖書キリスト集会)を迎えて、天神聖書集会 
                         
                        との合同集会をもちました。吉村氏から「信仰、希望、愛― 旧約と新約から ―」 
                         
                        と題して次の講話(要旨)を伺いました。 司会:小林 典子 
                         
                         
「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る(Ⅰコリント13:13)」 
                         
                        は良く知られているが、この“信望愛”は人間の側で持つものだと理解されることが 
                         
                        多い。しかし聖書は、人間に先立って神が“信望愛”のお方であることを旧約から新 
                         
                        約まで一貫して語っている。 
                         
                         
人類最初の殺人者カインを神は殺すことなく、しるしをつけて護られた(創世記4: 
                         
                        13~15)。ここに神の愛が顕れているが、それは同時に神は忍耐して、人間が立ち返 
                         
                        る希望を持っておられることを示している。アブラハムは、神の信実を示され、それは 
                         
                        揺らぐことのないものと信じた(創世記15:6)。預言者のホセアやハバククは、絶望 
                         
                        的な状態の中にあっても、神は人間に希望を持って対して下さることを述べている。そ 
                         
                        して、変わることのない“神の信実”が私たちの只中に来てくださった。それがイエス 
                         
                        キリスト。 
                         
                         
私たちは、生きているこの世の有様を見るとき、絶望に陥らざるを得ない(特に最近 
                         
                        の日本)。しかし、神が揺らぐことのない“信望愛”のお方であるが故に、私達もその 
                         
                        神を仰いで“信望愛”に生きることができる。そしてこの世の勢力に飲み込まれること 
                         
                        なく歩んでいけるのである。 
                         
                         
礼拝に続いて感話会、昼食会ももちました。 (秀村記) 
 
                         
                        2015年11月1日 礼拝 
                         
                        「イエスは世の光」 ヨハネによる福音書8:12~38      
                         
                        講話:渕上 明 司会:秀村 興子 
                         
                        
                        今日の箇所でもいくつか人間の理屈では理解出来ない部分があります。その一つ 
                         
                        が「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」という言葉です。 
                         
                        言葉の論理からすれば、「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしは霊によって裁 
                         
                        く」あるいは、「~父の御心によって裁く」となりそうですが、「だれをも裁かな 
                         
                        い。」と言われています。これはイエスのこの世に来られた目的が、全ての人を救 
                         
                        済することにあるため、まさにイエスが「世の光」となられるためでした。 
                         
                         
しかし、ファリサイ派の人々はそのことを理解しませんでした。また、「罪の奴隷」 
                         
                        と言う言葉に対しても、イエスの言われる真の意味を理解することが出来ませんでし 
                         
                        た。彼らは、実際に目に見える世界の「奴隷」のことしか考えることが出来ませんで 
                         
                        した。人は元々、罪深い存在ですが、主イエス・キリストを受け入れることにより、 
                         
                        その罪から赦されるのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由に 
                         
                        する。」という言葉は、「真理」はイエス御自身であり、主イエス・キリストをその 
                         
                        まま受け入れることにより、罪の奴隷の身分から自由になることが出来るとの意味で 
                         
                        した。 
                         
                         
私たちは弱く罪深い存在ですが、主イエス・キリストがこの世に来られたことによ 
                         
                        って、その言葉を信じ、主イエス・キリストに自分の身を委ねることにより、罪ある 
                         
                        身から赦され、神の許へと行くことが出来るのです。    (渕上記) 
 
                         
                        2015年10月25日(日) 礼拝 
                         
                        「メリバの水」 民数記20:1~13 
                         
                        講話:渡邉信雄先生(別府聖書研究会) 司会:鎌田厚志 
                         
                        
                        モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は荒野の生活に耐えられ 
                         
                        ず、様々な不平不満を言い続けます。民が水を求めて騒いだのは40年に及んだ荒野 
                         
                        の彷徨の終わりでした(出エジプト1ケ月目にも同じ騒ぎが起こっています)。そ 
                         
                        して「岩に向かって水を出すよう命じよ」と神に言われたのに、モーセは杖で岩を 
                         
                        2度打って水を出します。反逆を続ける民を相手にモーセはどんなに苦労してきた 
                         
                        ことでしょうか。彼は怒って岩を叩いたのでしょう。 
                         
                         
モーセが望んでいた乳と蜜の流れる地(パレスチナ)に入ることを許されなかっ 
                         
                        たのは、このとき神に従わなかったからだ、と明記されています。「神の人」とま 
                         
                        で称されたモーセでさえ、神の前には罪を犯す“ただの人”なのです。ここに神の 
                         
                        厳しさを見ます。神は侮られるお方ではありません。私たちの救いのために独り子 
                         
                        イエスを十字架に架け給うた神の厳しさを心から受け止めなければなりません。十 
                         
                        字架は私たちの罪に対する罰である、と。 
                         
                         
生まれた時に殺されそうになったことに始まり、モーセとイエスは、重なる面が 
                         
                        多々あります。モーセはエジプトの肉鍋を慕う民を執り成して救い出しました。私 
                         
                        たちも自分の肉鍋を求めてやみませんが、イエスはその罪を執り成し給います。モ 
                         
                        ーセは死にましたが、イエスは活きて私たちと共にいて下さっていることは、この 
                         
                        上ない感謝です。 (秀村記) 
 
                         
                        2015年10月18日(日) 礼拝 
                         
                        「サムエルの召命」 サムエル記上2:12~4:1a 
                         
                        講話:秀村弦一郎  司会:横山宜和 
                         
                        
                        幼くして神に仕えて成長するサムエルに対し、祭司エリの二人の息子のならず 
                         
                        者ぶりは目に余るものでした。神に捧げられる生贄と献げ物は民の罪を贖うため 
                         
                        のものであり、エジプトから導き出された時、神から与えられた恵みの規定でした。 
                         
                        それをないがしろにするエリの息子達は民の罪の贖いを妨げて、民の中に住もうと 
                         
                        される神を拒絶したのです。故にエリの家系は神の御前から退けられることが必定 
                         
                        です。神の選びはエリの家から新たな者に移されることになります。 
                         
                         
少年サムエルは神殿で寝ていました。神のともし火が消えていないことを彼の存 
                         
                        在が暗示しています。サムエルに神が3度呼びかけられたことに、“神の言葉”の 
                         
                        到来の不思議さを感じます。そしてサムエルは、神の言葉として“両耳が鳴ること” 
                         
                        を聴きます。神の裁きが実現するということを。 
                         
                         
サムエルはこれを機に、神の言葉を聴いてそれに仕える者となりました。「主は彼 
                         
                        と共におられ、その言葉は一つも地に落ちることはなかった」、そして彼は人々に信 
                         
                        頼される預言者となったのでした。神の言葉の裁きと救いを同時に受け取って、それ 
                         
                        を守り抜いた最初の人物となったのです。 
                         
                         
“神の言葉”は絵空事ではなく、見られ、聞かれるリアルな現実です(イエスが神 
                         
                        の言葉を体現されました)。真偽を明らかにし、真理を行うよう私たちを導きます。 
                         
                        それは聖霊の働きであります(Ⅰヨハネの手紙4:1~6)。 (秀村記) 
 
                         
                        2015年10月11日(日) 礼拝 
                         
                        「罪の赦し」 ヨハネによる福音書7:40~8:11 
                         
                        講話:渕上明、司会:鎌田良子 
                         
                        
                        イエスをめぐって群衆たちの間で対立が生じます。イエスを予言者だと言う人、 
                         
                        メシアだと言う人、ただ人を惑わしているだけだと言う人もいました。しかし、誰 
                         
                        もイエスに手をかける者はいませんでした。これほど威厳を持って話す人に会った 
                         
                        ことがなかったので、イエスに敵対する考えを持った人もイエスを恐れて手を出す 
                         
                        ことが出来なかったのでしょう。また、イエスを逮捕するように命じられた下役た 
                         
                        ちも、イエスの威厳に満ちた言葉とその真理に触れ、何も出来なかったと考えられ 
                         
                        ます。 
                         
                         
今日の中心箇所は姦淫の女の罪の赦しです。イエスの言葉には矛盾したことが様 
                         
                        々出て来ますが、この箇所も例外ではありません。姦淫を犯した女は、婚約者がい 
                         
                        たにもかかわらず、他の男性と関係を持ってしまいます。当時のことですから、お 
                         
                        互いに愛し合っていたのに、結婚することが出来なかった者同士かもしれません。 
                         
                        しかし、結婚が重要な意味を持つことは、イエスも山上の説教などで述べておられ 
                         
                        ます。 
                         
                         
男女の愛と神の義、矛盾する場合も出てくるでしょうが、そのすべてを主イエス・ 
                         
                        キリストが解決して下さいます。女に言われた、「もう罪を犯してはならない」と 
                         
                        いう言葉には、「神に従って生きていきなさい」という意味が込められています。 
                         
                        こうして、私たちは、神を愛すること、人を赦すことを学ぶのです。 (渕上記) 
                         
                         
                        2015年10月4日(日) 礼拝 
                         
                        「サムエルの誕生とハンナの祈り」 サムエル記上1:1~2:11   
                         
                        講話:秀村弦一郎、 司会:原サイ子 
                         
                         
                        アブラハムの妻サライと同じく子宝に恵まれなかったハンナに子供が与えられた 
                         
                        ことから、物語は始まります。それは神の恵みによるものであり、サムエル記が語 
                         
                        る王国興亡史の“主役は神”であることが冒頭に示されます。しかし、神の恵みの 
                         
                        み業は直線的には進みません。それを阻む人間の罪が立ちはだかり、罪に苦しむ人 
                         
                        々に担われて進むのです。  
                         
                         
ハンナは夫のもうひとりの妻(ペニナ)から嘲笑といじめを受け、長く苦しんで 
                         
                        いました。夫たちと神殿で生け贄を捧げた折に、彼女はひとり必死に祈ります。 
                         
                        「男の子を授け給え、その子はナジル人(誓願者)として主に捧げますから」、と。 
                         
                        そして祭司エリに祝福され、神が共におられることを信じたのです。生まれたのが 
                         
                        サムエル。ハンナの祈りは聴かれ、サムエルの生涯は神のものとなったのでした。 
                         
                         
乳離れした(3歳位)サムエルはエリの許に託されます。そこでハンナが捧げた祈 
                         
                        りは、最後のダビデの感謝の歌(サムエル下22章)と共にサムエル記の基調を示して 
                         
                        います。強く富める者を低くし、弱く貧しい者を高くされる神がその恵みを貫徹され 
                         
                        ることへの感謝は、彼女の個人的体験に根差しつつ、王国の未来を預言するものとな 
                         
                        りました。 
                         
                         
ハンナの祈りは、十字架の苦難を経て神の国をもたらされたイエスを歌うマリアの 
                         
                        讃歌(ルカ1:47~55)の予表です。私達もイエスによってこの祈りへと導かれるの 
                         
                        です。                           (秀村記) 
 
                         
                        2015年9月27日(日) 礼拝 
                         
                        「フィリピにおけるパウロの受難」 使徒言行録16:16~40 
                         
                        講 話:市村昭三、司会:三苫恵子 
                          
                        フィリピでパウロ達は「この人たちは、いと高き神の僕です」と叫んで彼らにつ 
                         
                        いて回る女に出会います。彼女はギリシャの神の託宣を語る霊に憑かれていたので 
                         
                        すが、パウロはその霊を追い出します。ギリシャの神々やローマ皇帝が「いと高き 
                         
                        神」とされていた処で、真の「いと高き神」はイエス・キリストの神であることを 
                         
                        示したのでした。ギリシャ世界の神々をも制圧される神である、と。 
                         
                         
彼女は占いによって金儲けをしていた男達の女奴隷だったのですが、占いの力を 
                         
                        無くされて怒った男達によって酷い目に遭います。ローマ社会に禁じられていたユ 
                         
                        ダヤ教を広げようとしたという理由で、裁判もなく鞭打たれて投獄されてしまった 
                         
                        のです(ローマ市民権を持つパウロにこの扱いをしたのは法律違反であったので、 
                         
                        すぐ釈放されますが)。 
                         
                         
獄中のパウロとシラスが地震によって獄が開き鎖も外れるという奇跡によって救 
                         
                        われます。パウロたちが逃げずに看守を守ったことから、看守一家はパウロの伝え 
                         
                        るイエスを信じる者になります。前回のリディアに続き、パウロの宣教によるヨー 
                         
                        ロッパで2番目の信徒誕生となったのでした。 
                         
                         
パウロは短期間でフィリピを去ったとありますが、後にここの信徒に宛てた手紙 
                         
                        によって、滞在期間は決して短くはなかったと推察されます。親しい交わりを持ち 
                         
                        続け、信徒たちは彼を愛して多くの支援をしたことが分かります。(秀村記) 
                         
                         
                        2015年9月20日(日) 礼拝 
                         
                        「命にいたる水」 ヨハネによる福音書7:1~39 
                         
                        講 話:渕上 明、司 会:長澤澄子 
                         
                        
                        イエスは兄弟から仮庵祭に行くよう勧められますが、彼らと一緒に行くことは 
                         
                        されませんでした。彼らがイエスを真に理解していなかったからです。また、神 
                         
                        に定められた時が来ていなかったからでもあります。人の人生の中でも、時が来 
                         
                        なければ解決がつかないことがあります。時に不満や苦しみがあっても、神の定 
                         
                        められた時を待つことも大切なことです。 
                         
                         
しかし、多くの人が集まって来たところで、イエス御自身も祭りに行かれます。 
                         
                        イエスの名は、既にエルサレムの人々の中でも有名になっており、様々な評価をす 
                         
                        る人たちがいました。特にファリサイ派の人々や祭司長達は、自分たちの権益を守 
                         
                        る為にイエスを殺そうと画策していました。しかし、それは父なる神が許されませ 
                         
                        んでした。 
                         
                         
イエスは神殿において大声で「渇いている人は誰でもわたしのところに来て飲み 
                         
                        なさい」と言われました。大声で言われたのは、取りも直さず私たち全てへの呼び 
                         
                        かけでした。「わたしのところに来て」とは、「わたしを信じ、素直に受け入れる 
                         
                        ように」との呼びかけでした。そうして主イエス・キリストを信じる人は、ほとば 
                         
                        しる命の源を持つことになるのです。 
                         
                         
それは、聖霊によってなされる訳ですが主イエス・キリストの十字架上 
                         
                        での死とよみがえりの後、聖霊により、私たちは新しい人間に生まれ変 
                         
                        わり、尽きることない神の祝福が私たちの上に注がれることとなるのです。 
                         
                                                 (渕上記) 
                         
                         
                        2015年9月13日(日) 礼拝 
                         
                        「行いを伴う信仰(2) 」 ヤコブの手紙3~5章 
                         
                        講 話:秀村弦一郎、司 会:小林典子 
                         
                        
                        ナチと闘ったドイツの神学者ボンヘファーは、キリストの十字架によって成し遂 
                         
                        げられた罪人の義認こそ「究極的なもの」であり、キリスト教的生の根源であると 
                         
                        しました。そしてこの世の様々な現実を「究極以前のもの」としますが、「究極的 
                         
                        なもの」によって生きるキリスト者もそれと関わらなければなりません。イエス・ 
                         
                        キリストはキリスト者に「究極以前のもの」を受け容れる恵みを指し示している、 
                         
                        といいます。福音は「究極以前のもの」も含むトータルなものなのです。 
                         
                         
ヤコブの手紙は彼の言う「究極以前のもの」を取り上げて、キリスト者がこの世 
                         
                        に生きるに当って抱える様々な具体的課題についての教えを述べたもの、と申せま 
                         
                        しょう。3~5章には、舌をコントロールせよ、兄弟を裁くな、誇り高ぶるな、等の 
                         
                        訓戒や、富める者への警告が羅列的に記されています。 
                         
                         
花巻(岩手県)在住の斎藤宗次郎青年は内村鑑三の非戦論に感激して、兵役及び 
                         
                        (戦費)納税拒否を決意したことを内村に書き送りました。驚いた内村は直ちに宗 
                         
                        次郎を訪ねて、彼の考えを変えるよう説得します。宗次郎本人のみならず周囲の人 
                         
                        びとの被る不幸をも良く考えよ、等と。内村の宗次郎への対処はキリストの愛が発 
                         
                        露したものでした。 
                         
                         
ヒトラー暗殺を企てたボンへファーと、過激に走ることを諌めた内村と。「愛の 
                         
                        実践を伴う信仰(ガラテヤ5:6)」の顕れ方がワンパターンでないのは当然ではあ 
                         
                        ります。                     (秀村記) 
 
                         
                        2015年9月6日(日) 礼拝 
                         
                        「行いを伴う信仰 」 ヤコブの手紙1~2章 
                         
                        講 話:秀村弦一郎、司 会:秀村興子 
                         
                        
                        パウロの論敵であったイエスの兄弟・ヤコブの作とされたこの手紙を、ルターは 
                         
                        “藁の書簡”と言って評価しませんでした。彼はパウロの「人が義とされるのは、律 
                         
                        法の行いによるのではなく、ただ信仰による。(ロマ3:28)」を救いの中心的使 
                         
                        信と考えており、この手紙の主張する「行いの伴わない信仰は死んだものである。 
                         
                        (2:17)」に賛同出来なかったのです。しかし、この手紙の主張はパウロの教えに 
                         
                        対立するものではありません。取り上げている問題の領域が違うのです。 
                         
                         
パウロは、自分の道徳的功績(行い)によって救いを獲得しようとする人間(特に 
                         
                        律法遵守に依ろうとするユダヤ人)に対して、それはどんな人間にも不可能だ、一方 
                         
                        的な恵みとして救いの業をなし給うたキリストを信じることにのみ、救いがある、と 
                         
                        主張しました。そして、キリストを信じた者はその実として愛の行いを実行するのは 
                         
                        当然のことと言います。 
                         
                         
ヤコブにとって、パウロの言う前段、即ち、如何にしてキリストを信じるに至るか、 
                         
                        は問題の範囲外なのです。後段についての勧めであり、パウロの教えと一致しています。 
                         
                        キリスト信徒としての実践訓を羅列的に述べているのです。 
                         
                         
イエスも愛の行いの大切さを繰り返し教えておられます。「わたしに向かって『主よ、 
                         
                        主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけ 
                         
                        が入るのである。(マタイ7:21)」、等と。  (秀村記) 
 
                         
                        2015年7月26日(日) 礼拝 
                         
                        「パウロのフィリピでの伝道― 西洋世界での最初の教会」 使徒言行録16:11~15 
                         
                        講話:市村昭三(天神聖書集会)、司会:横山宜和 
                         
                        
                        パウロ一行は第2回伝道旅行で、アジア最西端(今のトルコ)の港町トロアスから 
                         
                        船でマケドニアのネアポリスに渡ります。ヨーロッパの最東端にパウロが足を踏み入 
                         
                        れたのです。彼らは近くの中心都市フィリピに滞在しました。 
                         
                         
パウロは伝道に当たって、行く先々でまず安息日にユダヤ人の会堂(シナゴグ)を 
                         
                        訪問していました。神のことを知っているユダヤ人達に、イエスの新しい教えを伝え 
                         
                        ることから始めていたのです。しかし、フィリピには会堂が無かったので、“祈りの 
                         
                        場所”として人びとが集まる川岸に行きました。そこでリディアという婦人がパウロ 
                         
                        の話に心を開き、一家で洗礼を受けるに至ったのです。彼女に強いられて、一行はリ 
                         
                        ディアの家に泊まり、活動拠点としました。 
                         
                         
かくてヨーロッパの地に最初の異邦人キリスト信徒が誕生し、教会が生まれたので 
                         
                        した。この教会はパウロを慕い、後に経済的な支援もしてくれています(フィリピ 
                         
                        4:16)。この後イエスの教えはローマ帝国に広く伝えられ、長い時を経てヨーロッパ 
                         
                        からアメリカへ、そして日本にも到達したのです。 
                         
                         
内村鑑三が「富士山頂から福音が露となって崑崙山脈まで至る」と夢を語りましたが、 
                         
                        日本の使命はここにあると思います。福音を伝え、また平和憲法の精神を拡げること。 
                         
                        これをもって全世界に仕えることを祈りたいと思います。(秀村記) 
 
                         
                        2015年7月19日(日) 礼拝 
                         
                        「永遠に変わらないイエス・キリスト
」 ヘブライ人への手紙13章 
                         
                        講話:秀村弦一郎、司会:李栄培 
                         
                        
                         真の大祭司であるイエスを信じて歩むべきことを述べてきた筆者は、最後に信仰 
                         
                        者への勧め―3つの倫理上の勧めと2つの信仰上の勧め― を記します。倫理上の勧 
                         
                        めは①兄弟愛、②結婚の純潔、③金銭を愛さぬことが挙げられています。其々に現世 
                         
                        を生きていく上はで困難を伴いますが、「決してあなたから離れることはない」と言 
                         
                        われる神を助け主と仰ぐことによって、これらを実現する力が与えられるのです。 
                         
                         
信仰上の勧めの基盤となるものは「イエス・キリストは永遠に変わることがない 
                         
                        (13:8)」ことです。万物は流転しますし、進歩が生命の特質であって、変わらな 
                         
                        いことは死を招きます。しかしこの法則は被造物のものであって、創造者である神・ 
                         
                        キリストは変わることがありません。被造物に対する愛、救済意思は絶対不変です。 
                         
                        これこそ、これのみが信頼に値するものなのです。それ故、①異様な教え(食物を重 
                         
                        する等)に惑わされず、イエスの許にのみ赴くべきであり、②神を讃美しつつ善い信 
                         
                        仰生活を送るべき、といいます。 
                         
                         
イエスは人を罪から救い出すために、ご自分を犠牲として血を流されました。旧約 
                         
                        の贖罪論を受け継いでいるように見えますが、旧約との根本的な違いは、犠牲となら 
                         
                        れた後、復活されたことにあります。永遠に変わることのない真の命を証されました。 
                         
                        信じる全ての人にその永遠の命を約束して、み許に招き給うイエスを讃美せずにお 
                         
                        れません。                         (秀村記) 
                                     
                         
                        2015年7月12日(日) 礼拝 
                         
                        「青年バルテマイの真実
」 マルコによる福音書10:46~52 
                         
                        
                        講話:阿部光成氏、司会:由良滋 
                         
                         
1年ぶりに東京から阿部光成氏(経堂聖書会)を迎えて天神聖書集会との合同集会。 
                         
                        昼食会ももちました。 
                         
                        エリコでイエスに盲目を癒されたバルテマイは中途失明の青年であったと思われる。 
                         
                        マルコ福音書に頻出するイエスの治癒奇跡物語の最後がこの記事だが、いずれもイエ 
                         
                        スは癒した者を社会復帰させている。彼はイエスに従ったとあるが、ずっとイエスの 
                         
                        伝道を手伝ったと思われる。多くの病人や障害者が癒されているが、名前が明記され 
                         
                        ているのはバルテマイだけ。マルコの属する信徒集団で著名な人物となり、名前が書 
                         
                        き残されたのであろう。マルコ福音書の成立時期(イエスの死後40年位)からみて、 
                         
                        この記事の頃は若者だったと推察される。見えない目を開いてもらった彼の真実な歩 
                         
                        みは神の恵みが齎したもの、万事が益となる(ローマ8:28)とある通り。私達も同 
                         
                        じ恵みの中にあるのである。 
                         
                         
イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われたが、“信仰”は“真実(ま 
                         
                        こと)”とも訳せる言葉・ピスティス。前田護郎先生は私達を救うのは私達の持つ信 
                         
                        仰ではなく、イエスの“まこと”である、との深い消息を教えてくださった(ローマ 
                         
                        3:22)。ルターは「信仰は神の働き」という。私達一人一人に相応しい信仰を神が 
                         
                        私たちの中に作ってくださるのである。それは一方的な神の恵み。神の恵みに大小は 
                         
                        ない。 
                         
                         
イエスの呼びかけに躍り上がって従いたく思う。       (秀村記) 
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