第37号
2013.12.22
福岡聖書研究会
☆ 聖書講話担当者以外はイニシアル表示にしています。
☆ ごあいさつ
秀村 弦一郎
オランダの宗教学者ヘンドリク・クレーマーが2ケ月間日本のキリスト教事情を調査しての報告書「日本の教会に対する批判」が残されていることを知りました(教団宣教研究所「確信される教会」所収)。彼は日本のキリスト教に対して率直な感想を語っています。
「日本の教会は、かつて西洋の宣教師から与えられた概念、型、構造にあまりにもキチンと嵌まり込み、それに固執しすぎている!だから、日本の教会は一般からは、真に自己中心的、閉鎖的生き方をしていると見られているのである。… 要するに、諸君の間には、あの原始教会に見られるような、聖書的な自由闊達さが見られない。キリスト者とは、その少数にひるまず多数を誇らず、ひたすら真実な信仰によって預言者的に生きるものではないか。諸君の間では、教会生活と日常生活とが分離しているが、これは大きな誤りだ。教会は日常生活の只中にあってこそ生きていくべきものなのだ。… どうして日本のキリスト者は、同信の友と教派を超えて交わりをしないのか。せいぜい3~40万しかいないプロテスタントのキリスト者が、小奇麗に分裂したまま、それぞれの分派活動に専心している一方、宣教師たちがせっせと別の教会をこしらえている。この図はまさに奇妙キテレツと言わざるを得ない。否、愚の骨頂だ!… 私には、こんな日本の教会のバラバラな状態では、伝道が進歩するとは到底考えられぬ。
伝道とは何か。日本を旅行して気づいたことだが、日本の教会は伝道と言えば、直接伝道しか考えていないようである。私はこの誤解を是正したい。伝道には、説教を中心とする直接伝道と、信徒の生活による間接伝道とがあるが、日本の現状では、直接伝道よりも間接伝道が特に必要なのである。日本のように社会的、経済的、また文化的に高度に開けた国においては、西洋諸国の伝道のやり方、すなわち鳴り物入りのキャンペーン型伝道が成功するとは到底思えない。諸君は日本の住民であり、文化的で知的な環境に生活しているのだ。自分の社会的風土を誤解しないでくれたまえ。」
「私は無教会の諸君と語る機会をもった。色々と話し合った後、私は最後に訴えた。『諸君は日本において最高の知性を備えられた方々である。諸君はキリストの御用を勤めるためにまたと得難い宝である。しかし、無教会とか、教団とかいうことは、もはや第二義的なことではないか。大事なことはキリストの御名がこの日本で崇められることである』と。
私は繰り返して訴えたい。現代日本は、全キリスト教会の一致した証言を期待しているのであって、その分裂した叫び声を聞こうとしているのではない。日本を心から愛する一介のオランダ人として私は心の底からこのことを諸君に訴える。」
この提言が残されたのは1960年ですから50年経過していますが、事情は少しも変わっていないのではないでしょうか。4年後に迎える宗教改革500年を機にカトリックとルーテル教会の歴史的和解プログラムが進められているやに伺いますが、彼のいう日本のキリスト信徒の一致が実現する日はいつになるのでしょうか。そのために無教会にどういう貢献ができるか、課題として考えさせられます。
また、彼の言う“間接伝道”とも関係すると思われることに、“牧会”の問題があると思います。無教会は牧会に無関心ではないかという声を聞きますが、牧師さんたちがやっておられるような家庭訪問の類もさることながら、問題は一人一人の相手に寄り添う姿勢ではないでしょうか。独りよがりで、自己中心的な対応が多いように思われなくもありません。無教会が大切にしている日曜礼拝での“聖書の学び”において、まずは考えねばならないと思わされています。
何故聖書の学びを中心に置くのかといえば、聖書の記事を通して生けるイエス・キリストに出会うことが出来るからでありましょう。聖書のどのページにもイエスの福音を発見することが出来ます。そのように読まれ、語られているか?
今年も私たちの集会に少なからぬ方が初めて来られました。ホームページや会場の広報誌を見ていろんな方が来られています。そしてその多くの方は1回限りです。生涯ただ1度の福音に接する機会となっているかもしれません。そこでどれだけ福音の中心が分り易く伝えられているか、重い課題を与えられています。無教会における“牧会”の基本はこの点にあるのではないかと思わされています。
この1年も貧しい集会の歩みを主はお護り下さいました。病気や怪我などでお休みされる方が続出し、聖書講話の担当者も激減、万一に備えて今井館から録音による聖書集会用のCDを購入して備えたほどでした。しかし主の御憐みにより、1回もそのお世話にならずに済みました。今年もTW(フィリピン)、TW(徳島)両兄をお迎え出来たほか、天神集会のSI兄、経堂聖書会のSA兄に助けていただいたことは感謝でした。集会は主の御赦しと皆様のご支援なくしては守りえないことを改めて思わされたことでした。
クリスマスを迎え、皆様の上に主の御恵みが豊かにありますよう、お祈り申し上げます。
☆ メッセージ (50音順、今年はマ行から)
クリスマスを迎えて
HM
主の御名を賛美します。
「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるが良い(Ⅰペテロ5:7)」
日々、祈りとともに「御言葉はわが足のともしび」(蓮見和男著)を読みながら御文を学ばせていただき、なぐさめと力をいただいています。
今年は試練に満ちた年でした。3月末に運輸倉庫会社を退職し、半年以上求職活動を行いましたが希望の職に就けず、11月より個人代理店として新しくインターネットコンサルティングの仕事を始めることとなりました。
10月まではアクロス別室にて、家庭集会の様なこじんまりとした形で次男や、時々はYさまの御兄妹と共に「聖書物語」を読ませていただいておりました。
週末の営業が特に重要となる為、今後は殆ど集会に参加することができなくなりそうですが、実業の中で御心を尋ねて行きたいと思っています。
この1年の感謝をこめて
YM
主の御名を賛美いたします。
今年もクリスマスを迎え、お祝いすることが出来ますことを心より感謝いたします。
主人Mが7月散歩の途中に転び、思いもかけない脳内血腫で緊急入院いたしました。それから4ケ月の長い病院生活をいたしましたが、その間主人はリハビリにより、歩くこと、自分の身の回りのことが出来るように鍛えられました。現在は杖を突いてではありますが、自分のことは自分でどうやらできるようになり、10月末にやっと退院してまいりましたが、私ども二人でどうやら生活し、その暮らしを楽しんでいます。
その間いつも変わらぬ愛情を、またお祈りを下さり、秀村さまはじめ集会の皆様のお助けにより、くじけそうな私共を支えていただきました。本当にどんなに感謝しても足りないくらいです。それにも増していつもお助け下さる神様は、どこから見ていて下さるのかと、ただ頭が下がるのみです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」との御言葉が思われます。どこまでも感謝を忘れずに従い行くのみです。
十字架の言葉
SM
今年一年での日本の現状をみますと、顕著なことは、東日本大震災の回復が緒についていないところに、伊豆大島を中心に襲った台風26号による被害をはじめ、各地に発生した風水害による河川氾濫で住宅や工場が流出して、住む家を奪われ、財産を奪われ、生活を奪われた人々が多く発生したことであります。また、福島原子力発電所4号機の停止事件と水素爆発に起因した放射能汚染処理、それに続く全国五十数ヶ所に及ぶ原子力発電所の行末の問題等、今後に亘る不安定、且つ重要問題が日本の上に全く未解決のまま横たわっておるのです。これは被災地の方々にのみ発生した問題でなく、日本国民全体に対する神様の警告と思われてなりません。
日本のみならず、地球温暖化による人為的な災害で見られるように、人類全体への警告とも思われます。11月になってもフィリピンのタクロバン市とマニラの南方諸島を中心にする台風30号による被害があり、そのような自然災害を人類への警告として見ることができます。被害にあわれた地域の人々のみならず、人類の一員として天の降した警告として、深く受けとめるべきであります。
わたくし一個人の生活から見ましても、昨年(2012年)7月の肺炎の手術以降、本年1月までの7ヶ月の入退院生活、それ以降の自宅療養生活10ヶ月を通じて、神様に対して背く人間の一人として深く神様に打たれ、自分の罪、人としての存在を痛く知らされて、神様にすがる自分の再発見となりました。その間集会を休み、集会員の皆様に心配をおかけしました。
集会の講話(週報を読む)は、秀村弦一郎さん、渕上明さんが継続され、会の皆様全体の祈りによって生命をつなぎ得ました。また、集会以外の方の講話のうち、SI氏(3月23日)、MA氏(10月27日)、TY氏(11月10日)の三氏の講話に出席出来てうれしかった。三氏の話は、I氏が使徒言行録についてと、A氏が「悔い改めよ」と題したルターの宗教改革について、Y氏がイザヤ書46章を主題としての講話でありましたが、三氏に共通するお話の結論は、人類一人一人は罪人である存在で、「イエス・キリストの十字架による贖罪によって、その罪人が生命を与えられ、生きている間から死して後も永遠に新しい生命によって生きていくことができる喜び」を讃美したものでありました。
また1月に退院ののち、わたくしが与えられましたのは、新渡戸稲造先生の「修養」という著作でした。新渡戸先生の「修養」によってわたくしは病気回復とともに「生命を取り戻すよろこび」を知らされたと感じております。それについて少しく記してみたいと存じます。
先生の「修養」は若い青年学生に対する激励の文ですが、その言葉のうちに次の言葉を読みました。「道徳の歴史中で最も人の目に立つものは、ゴルゴダの山上でキリストがはりつけ(磔刑)に処せられたことであろう。これは犠牲の最も大なるものである。己の生命を捨てて初めて大いなる命を得、小我を捨てて初めて大我を得るのである。克己して己に克ち終えた時、初めて真の己に達するのである。」また、「キリストが十字架についてあらゆる恥辱と苦痛をなめても、自分の信ずるところを守り、全く身を殺した時は、すなわち全く己に克った時で、全然己に克った時は、すなわちいよいよ世界に打ち勝つ時である。彼が最後に『我世に勝てり』と叫んだ時は、克己の最高の模範を示した時であった。」と書いておられます。
わたくしも、キリストに従って行って、神への絶対服従、イエスのみ教えに従う行動をとり、彼の跡に従う。イエスに全く服従するのが、救いに導かれる道であることを深く教えられました。感謝です。アーメン平安!
聖書の言葉
SM
昨年からの父の病気には、福岡・天神両集会の皆様、各地の信仰ある方々の深いお祈りを頂き、心から感謝申し上げます。
私は、長らく聖書集会から離れ、不満や愚痴などの多い、神様の教えからも離れた生活を送っており、こんな自分は集会に参加する資格もない、と感じておりました。しかし、父に付き添って再び出席させて頂くうちに、私のような弱い人間だからこそ聖書の言葉を聞く必要がある、と思うようになってきました。今後もまたよろしくお願いいたします。
一年の感謝
TM
クリスマスおめでとうございます。
また一つ年を重ね、93歳になりました。健康に恵まれ、毎週集会に参加させていただいております。
先日、町内会バス旅行で志賀島に参りましたが、海を眺めて心が広々と心地よい思いをしました。周りの人々とも良い付き合いをさせていただいております。これもすべて神様のお恵みの賜物と深く感謝しております。
主にある皆様方のご健康と祝福を心からお祈りいたします。
集会の恵み
KM
今年も、毎週の聖書集会や九重集会で、日々の罪に気づかされ、そして許され、力を戴くことが出来、感謝です。特に今年の九重集会は福岡でありましたので、母と共に出席する恵みにも与りました。
悩みや疲れがあっても、集会を終えて家路につくとき、心も軽く気分も良くなります。
先日、Y先生のお話の中で、「聖書の真理は重荷を軽くする」と言う言葉がとても心に残りました。こんな私でも重荷を担って下さる神様に感謝いたします。
私の周りにも重荷を負って苦しんでいる人たちがいます。どうかその方々もお救い下さいと、心からお祈りいたします。
正直な思い
SM
この原稿を書くのは私には何だか重荷なのです。何故かというと「研究会だより」に相応しい聖書的な文章は私には書けないからです。
毎月の婦人会でも集われる方々の研究発表が難解で「すごいなァ」と感心する一方、ずっと違和感を覚えておりました。
でも先日の婦人会では敬愛する姉妹が「初心に還らねば…」とご自分のこととして語られたのが印象的で強く心に響き、ふとバプテスマを受けた時のことが思い出されました。それは2月の寒い日でしたが、バプテスマ槽での浸礼式は不思議な体験でした。水の冷たさも寒さも全く感じることなく、心に熱いものが溢れ、涙がこぼれたのを覚えています。「これが始まりだ」とイエス様に従って行く一歩を踏み出したのですが…。あれから聖書の学びはどうにか続けているにもかかわらず、相変わらずの日々を送っている自分なのです。
本当に私はクリスチャンといえるだろうか、「新生」しているのだろうかと自問しては悩みます。そんな折以前の週報を読み返している中に「イエスと共にあって日々新たにされていくことが、ルターの言う全生涯の悔い改めなのです。」の一文がありハッとしました。信仰は恵みとして与えられたもの、悔い改めもまた与えられるものだと教えられ、本当に感謝でした。どうしようもない自分を見つめるのではなく、どんな時にも救い主イエス様を見上げ、信じて生きようと思いました。
主のご生誕を感謝いたします。
節目・雑感
TM
「艱難辛苦、身に受けて、七十(ななとせ)踏みし、罪多き僕なり」
「羽ばたく小さな天使達、育む姿に夢追いて、活力得ながら我甦る」
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8・12)を携えて、火の粉を絶ちながら前を向いて歩みたく思います。早や我々を取り巻く四季折々の営みと濁流に飲まれ過ごして来た一年を顧み、来る年への平安といまだ癒されない東北罹災地復興加速を願わざるを得ません。
この5月下旬、夫婦でさいたま・大宮在住の娘の所を訪問前に、今は亡き次兄夫婦が眠る多磨霊園・救世軍共同墓地に2年振りの墓参と同時に、そう離れていない所にある内村鑑三の墓地を初めて訪ね、二人で頭を垂れた。著書では幾度となく接した若き日の志・英文に刻された墓碑銘「自分は日本の為に・日本は世界の為に・世界はキリストの為に・凡ては神の為に」に肌で接し、心が洗われる思いであった。4月から9月までのNHKこころの時代シリーズで放映された「内村鑑三のことば・道をひらく」の映像を見る機会は逸したが、テキストを回毎に読み通した。どの章も「若き日につくり主を覚えよ」とあらゆる分野にチャレンジ・実践された即行動力に、心を引き寄せる章ばかりであった。
その過程の中、最後の章は、今日本が抱えている病根を示唆していたかのように、今から100年前、内村が当時の出来事の流れに正面切って実践、闘い抜いた足尾銅山・鉱毒公害の取組みであった。世に地震・津波・竜巻・洪水・火山噴火等々、天的災害は避けて通り難いが、しかし人的災害は避けなければならない。企業が私腹を肥やすなりふり構わず垂れ流す公害災害は万人を路頭に迷わす悲惨極まる人的災害であると断罪している。国民の豊かな営みを当然の如く快適に過ごさせる為、国を挙げての国土乱開発・科学技術の急速な進展による起るべくして起こった過去近年の弊害等々、挙げればきりがない。しかしながら、罹災地住民が苦悩続けるこんな大変な時期に「復興は着実に進み、放射能汚染水漏れも安全にコントロールされている」と世界にきっぱりと発信し、前回状況とは異なるオリンピック2度目の日本開催決定を勝取り、かなりの国民は何を言ってるの、と戸惑いを隠せないようである。直面する深刻な難題を後回し、日本崩壊へと加速して行くのではと危惧する日々である。一刻も速やかに段階的原発依存の解消と次世代自然エネルギーへの転換を進めてほしいと内村の警鐘に接し、改めて想いを強く募らせている。
本年の感謝と祈り
KA
先ず第一に、聖日のご講話を担当して頂きました秀村弦一郎様を始めとする講師の方々に深謝いたしております。
さて、2012年のクリスマス集会は、わたしにとって最大の喜びと感謝の時になりました。それは、事情があってこれまで帰福出来ないでいた次男一家が、思いがけず福岡聖書研究会の大変恵まれたクリスマス祝会に参加できたからです。これを機縁に、神様にしっかりとつながる家族に成長させて頂くことを、わたしは切に祈っております。
<主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。>(使徒言行録16:31)
次の感謝は、父・TMの召天20周年の記念会を開いて頂いた事です。席上、父が戦地で肌身離さず精読したという旧い聖書の実物を、初めてご出席の皆様に披露できました。後日談ですが、当日出席した父の孫の一人から電話があり、わたしにNHKテレビの「内村鑑三のことば」を紹介してくれました。これまで、聖書とか信仰とかについて表だって口にした彼ではなかったので、わたしは大変驚き、やはり父の聖書の実物の実力だろうかと喜んでおります。
最後に、本年11月12日で満105歳を迎える母・TMの為に夏冬グループホームを訪れて頂き深謝いたしております。職員の方々からは、「聖歌隊」と呼ばれて大変喜ばれております。母も、大声で「主の祈り」を皆様と唱えることができました。
皆様、今後共にどうぞよろしくお願い申し上げます。
『日本人の宗教と信仰』について
大園 正臣
我々日本人の信仰と宗教につき、キリスト教を基軸に概観し検討してみましょう。先ずキリスト教は理論ではなく事実であり、実験です。その特質の第一は歴史的宗教で、歴史的に過去にあった事柄です。(紀元前2千年ごろメソポタミアを中心に展開された、アブラハム、イサク、ヤコブ及びヨセフの生活や信仰に関する最古の物語や神の約束に対する信仰を伝えるものです。)之と違い仏教は偉人が考え出した(インド哲学)ことを信じる宗教です。即ち、仏教は釈迦無牟仏一人の思想教訓に始まりますが、キリスト教はアブラハム以来イエス・キリストまで、少なくとも四千年間に起り生きた歴史に基づきます。生ける神は、言葉より事実を持って教えます。理想を説かず、実例を持って教え、全く実証的です。一方日本の神道は甚だ曖昧で全くいい加減です。何でもかでも神(自然を含めて死んだ人間をも、正に八百万の神様)になり、その中身はご利益宗教です。天照大神を祀ると言う伊勢神宮の歴史は精々約2千年位で、戦前特に明治時代以降,国家神道の頂点として、国民に対する思想統制や無謀な戦争の推進に大変大きな役割を演じ果たして来ました。しかも神様を祭る神社にまで神宮庁で官幣大社等で等級を付ける有様、始末です。特に、薩摩藩土佐藩長州藩肥前藩を中心にした明治維新政府は特別に天皇(人間)を神としてこれを強力に推進し、明治憲法と教育勅語を発布して国粋主義の時代に入り、更にシナ事変、満州事変、太平洋戦争と続けて来た正に狂気の時代でした。神道を利用して国家権力で国民を強制して、信仰の自由は皆無でした。之に反する国民を、強権を持って禁止弾圧迫害して来たのです。そしてキリスト教を実質的に禁止迫害して来ました。日本では以上の様に、人間が人間の創り主(創造主)として、人格の根源として畏れおののく真の神様を、真実の神様を、残念ながら大多数の国民は知らされず、持つことが禁止されて来たのです。人間が勝手に造ったものは神様ではありません。これでは、人間の自由も、尊厳も、正義も、平和も維持できません。権力者が勝手に利用する神は、人を正しく護り導くことが出来ず、何も出来ません。正しい神観と信仰の自由が保障されなければ、民主的な国民には成れません。自由な人格であるべき人は、雁字搦めに政治権力で長い年月敗戦後新憲法が出来るまでは、信仰の自由は抑えられ禁止され、その上天皇を神として礼拝を強制されて来たのです。この為に真の信仰を持つことが出来ず、多くの不自由不安と悩みに苦しみました。またキリスト教を受け容れる事を阻止して来たのです。実際、今日まで日本人の自殺者の多さはその何よりの証拠の一つです。
人は生まれながらにして誰も多くの悩み事(重荷)を持っていますが、これ(苦難、罪等の重荷)から救い出し解放され、自由の霊を与える者は、『真の神による罪の赦し、メシアによる救いです。救い主を持ち信仰する事です』。神様はこの為にイエス・キリストをこの世に遣わし、約三十年の生涯の内約三年の尊い教えと御業の生涯の後、十字架で死を遂げられ、三日後に復活されて昇天され聖霊となられたのです。イエス様のこの十字架の死と復活により、これ等全ての問題を解決して下さいました。即ち、イエス・キリストを信じる者に罪の赦しと復活の希望の歓びが与えられ、観念的な人格の自由が、生命的な自由と平安へと生き返えったのです。
キリストは世界万民の救い主であり、キリストにあって新たに創られた人として、人種,民族、階級、性別、障碍者、健常者その他一切の差別をなくし、強者、弱者、最劣等の能力の者も、同じ創造主である神と、同じ救い主であるキリストを持つのですからその様な人の自由と権利を奪い、その様な人を侮辱すれば、その人の創り主である神と救い主であるキリストを侮辱することになります。キリスト教はこの様な神観と人間観を持っており、真の自由と平等とヒューマニズムを人々に与えます。これが民主主義の土台(礎)、基本です。その様に人の心を新たに作り変え、新たに生まれ変わるのです(回心)。神様からこの世に遣わされたイエス・キリストの愛と恩寵に感謝する信仰を持ち心の平安を保つことが大事です。そうしてまた神様からこの世に遣わされたイエス・キリストの愛と恩寵に感謝する生き方をして行く者です。イエス様(神)は愛です。こうしてキリスト教は使徒パウロ以来現代まで二千余年も、ヨロッパ大陸、南北アメリカ大陸を中心に世界の大多数の人々が信仰し伝道されている(宗教)であります。今日では隣の中国大陸においても多くの人々が教会や家の集会でイエス様の教えを学び信仰を告白している状況にあります。私達の住む日本もイエス様を主なる神様として受け容れ従い、信仰して行くと、明るい未来が開けると確信致します。
野の花の装い
AO
今年の4月、「福岡植物友の会」に入会しました。早春から晩秋にかけて6回の観察会に参加しての感想は、“神様は何と多くの植物をそれぞれの形に豊かに創造されたのでしょう!!”ということです。
今まで気付かなかった道端の小さな草にも名前があり、よく見ればかわいい花をつけています。芽が出て成長し、花をつけ実が成り、種を鳥や他の動物やまたその他の方法で運んでもらう。また、次の地に落ちた種が新しい命をつないで行きます。その中にあって、すべてに神様の細かい配慮があり秩序が保たれていることが感じられます。会の先輩の方々が教えて下さいますので、今まで見過ごしていた草花が身近になりました。そして「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6章29節)という聖句を実感しています。また、会の人との交わりのなかで自分の愛のなさ、罪深さにも気づかされました。
今年もイエス様の誕生を集会の皆様と一緒にお祝いすることができますことを感謝します。昨年末よりしばらく集会をお休みしましたが、9月より復帰する事ができました。これはイエス様のお招きと皆様のとりなしのお祈りのお蔭と心から感謝しています。
これからもイエス様の十字架の死と復活を信じて生きたいと思います。
最後になりましたが、皆様の主にあるご平安をお祈りします。
福岡聖書研究会に参加して
AK
今年の四月、ETV特集の内村鑑三の番組を見ていたところ、今井館聖書講堂が映りました。興味をもってインターネットで検索したところ、今井館のHPに福岡聖書研究会のHPのリンクが載っていました。それがきっかけで、今年になってから数回、福岡聖書研究会に参加させていただきました。
まだ数えるほどしか参加できていないのですが、毎回とても心に響くものがあり、自分一人で聖書を読んでいては気付かなかったところや、単に読み飛ばしていた箇所について、深く味わうきっかけをいただいております。今年は、研究会に参加したことがはずみになり、新共同訳の旧約1502頁、旧約続編382頁、新約480頁の、合わせて聖書の2364頁をなんとか数カ月かけて全部読むことができました。ただし、読んではみたものの、おおまかな内容を把握しただけで、とてもその一つ一つを深く味わい、読み解くには全然至っていません。毎回、聖書研究会において、聖書の一語一句を大切にし、本当に自分のこととして、魂の糧として、生きる指針として受けとめるとはどういうことか、秀村先生や渕上先生や、先日徳島から来てくださった吉村先生から、教わっております。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記八章三節)とあるとおり、聖書研究会や日々の自分で読む聖書の言葉は、貴重なマナ・魂の糧だと思うようになりました。生涯聖書を座右の書として読みたいと思います。また、このような貴重な場をいつも提供してくださっている福岡聖書研究会の皆様に感謝しております。
コロサイの信徒への手紙から
NK
この1年神様が共にいて下さいましたことを感謝します。福岡聖書研究会の礼拝が守られました事をありがとうございます。
2013年10月13日から「コロサイの信徒への手紙」の学びが始まりました。この日の題は「キリストによる創造と和解」です、1章1節から23節迄。
「コロサイ信徒への手紙」はパウロが獄中から書いた4つの書簡のうちの一つで、今のトルコにあたるところにパウロの弟子であるエパフラスによってクリスチャンの群れが生まれたそうです。そのころ、この地域全体を席捲していた「グノーシス」の思想に惑わされそうになっているコロサイの人たちへの手紙です。イエス様の十字架の出来事から20年経っている紀元55年から56年頃に、ティキコという人に持たせてコロサイに届けた手紙が基になっているということです。
レジメに載っているコロサイ教会があった所の写真を見ると、小高い丘と草原で、当時のものは石一つ残っていないとの事でした。しかし、ここにクリスチャンの群れがおり、また私たちのように神様を讃美し、礼拝し、聖書を学んでいたと思うとその風景に心惹かれるものがあります。じっと写真を見ていると声が聞こえてくるようです。
この日の学びの中で二つのことが心に残りましたので書きます。
一つは13節の「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」これが福音であり、神様の救いの内容だとパウロは言うのです。私は福音という言葉の意味がちっともわからなかった。しかし、今自分が歩んできた道を振り返ると、確かにそこは「暗闇」だったと断言できます。自分のことしか考えられない、自分をなんとか高くしようとして虚しい努力をして、力尽きて倒れた時のことをはっきり思い出すことができます。もう自分の力ではどうしようも無くなった時、神様の救いの手が伸びてきて苦しみを拭い去ってくださったのです。
もう一つは17節「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」のところです。15節から20節は讃美歌になっており、2つの内容が書かれています。
1、 キリストは天地創造の万物が生まれる前からおられた最初の存在である。
2、 最初に復活された“頭”であるということです。
神が世界に関わられる時の仲立ちであるイエス様、世界はイエス様の仲立ちによって救いが到達する場所だとのことでした。ここでは、「先在のキリスト」のことを教えてもらいました。
わたしはそこにいた
主が天をその位置に備え深淵の面に備え
深淵の面に輪を描いて境界とされたとき (箴言8:27)
私が実感した先在のイエス様について書きたいと思います。
暑い夏の午後公園のベンチに座って祈っていたときのことです。祈り終わると背後からとても涼しい風がさぁーっと吹いてきて背中を包んでくれました。風に吹かれていると「わたしはここにいる、わたしはここにいる」という神様の声を聞いたようでした。
ある日礼拝に行く日に親族の行事に出るように強く言われて困って下を向いていたとき、そうだ神様に聞いてみようと思った瞬間、「行かなくてもいい」という返事が返ってきて.本当にびつくりした時。
腹を立てて家事をしていて、急に腹立ちが申し訳ないという思いに変化したとき。
いつも共にいて私のおぼつかない歩みを見守ってくださる神様、聖霊様、イエス様ありがとうございます。
神様からのおくりもの
AS
今日は秋晴れの良い天気です。
今年を振り返り いちばん“緊張”しましたことは婦人会で担当させていただいたことです。聖書のどの箇所を選んだら良いのか、さっぱりわからない私でしたが、皆様のアドバイスのおかげでマタイによる福音書7章6節“豚に真珠”の箇所を学ばせていただきました。図書館へ行ったり書店へ行ったりなど、つたない準備をさせていただきました。
その時 ふと例会、婦人会でいろいろな準備をしてくださる皆様の暖かいお心に改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。ありがとうございました。
今年の私は ''神様からのおくりもの“豚に真珠”を通して いろんなことがあっても、しあわせな 2013年でした。
詩人尹東柱を慕いて
YS
2013年は2月の朴槿恵大統領就任時に始まり9月まで6回訪韓しました。特に3月は9日から11日まで「福岡尹東柱の詩を読む会」のメンバーとソウルにある延世大学図書館との尹東柱特別展を見るために行ったことが印象深く残りました。
今回は尹東柱(1917~1945)の遺族で弟・尹一柱氏の子息である尹仁石氏が自筆原本など全ての資料を寄贈されたことによる記念の特別展であったため、初めて詩人が残した詩の原本を直接見ることが出来ました。永久保存のために今後見ることは出来ないため、最後の機会となりました。尹仁石氏から伺った話の中で、忘れられないことがありました。
それは文益渙牧師が語っていた話で、新約聖書の人物になぞらえて尹東柱をイエス・キリストとし、いとこで同じく獄死した宋夢窐を洗礼者ヨハネ、弟の尹一柱氏をパウロのようだと言っていたとのことでした。
尹東柱の詩に「十字架」がありますが、その幸せなイエス・キリスト…そっと静かに血を流すでしょう…と書かれています。
尹東柱はキリストに従った殉教者の一人とも言えるでしょう。その死に追いやった我々日本人の罪は許されないかもしれませんが、私も一人の日本人として、その詩人尹東柱が「序詩」に込めた思い…全ての死に行く人々を愛さねば…一節のように愛に生きる、キリストの教えに従って行くという思いに満たされました。
5月は仁川市の聖書研究会のGK先生にお会いして江華島の孤児院を一緒に訪問し、交流できたことも思い出深く残りました。
これからも韓国への旅は続いて行くことでしょう。
感 謝
ST
昨年(H24年)9月末から、聖書研究会の礼拝、聖書を読む会、婦人会に参加させて頂いております。以前より、内村鑑三先生のお名前と無教会と云うこと、熊本に暫く滞在されていたと云うこと等は存じていて、当会との出会いを待っていたところ、昨年やっと願いがかないました。
この一年、聖書の一箇所一箇所を秀村先生始め講師の先生方が丁寧に読み解いて下さり、難解な聖書がより身近なものとなり、感謝の時を過ごすことが出来ました。
5月にはA様のお父上のお墓参りに参加させて頂きました。その際に見せて頂いた、戦争に持参された分厚い聖書が物語っている戦争の恐ろしさと、神様の守りの力強さは、深く心に刻み込まれました。
又、九重聖書集会でのS先生の講話「サマリアの女とイエス」では、先生の軽妙な語り口で、人はそれぞれ神様から与えられた賜物があり、それに感謝して生きる大切さを教えて頂き、日頃からあたふたしている私にとって力強いメッセージとなりました。
最近ではローマの信徒への手紙8:28~30、渕上様講話、解説(バルト)で「人間は、実際に実存的に一回的に一義的に不可避的に絶望的に『私は何ものか』と言う問いに突き当たった時に神を愛する・・・。」表現はなんとも難解なものですが、深く感銘を受け、共感することが出来ました。
色々と取り上げればきりがないのですが、聖書研究会の講師の先生方、フィリピンのY先生、徳島のY先生、天神聖書集会のI先生、沢山の神様から祝福された先生方からのメッセージをお聞き出来た事は素晴らしい恵みの一年でした。
最後になりますが、歴史ある聖書研究会に導いて下さった神様、そして研究会の皆様に深く感謝申し上げると共に、社会的にも個人的にも多くの重荷を背負った方が、沢山いらっしゃる事を思い、神様からの愛と癒しがあります様に、多くの方々が救われます様に、日々祈る者でありたいと思います。
新預言と福音の廃刊について
MT
関根先生の「預言と福音」誌は夫の父が召されました後、父の机の上を整理して目につき、父に代わって私に送って頂くよう御願いして読み始めたのでした。暫らくして先生が旧約聖書の改訳に専心される事になり、個人発行をおやめになって集会発行とされ、「新・預言と福音」誌となりましたが、続けて読ませて頂きました。
無学で信仰の薄き私にとりましては多分に難しゅうございましたが関根先生が出しておられた頃の巻頭言に「エクレシアの中の小さき人々がやはり神の目に重さを持つのだ」と書いておられたお言葉に励まされて学んで参りました。私にとり無くてはならない大切な書であり、廃刊は残念でなりませんが、長い間の御導きに心より感謝している者でございます。
148号に「ヨブとイエス ―『荒野の誘惑』による比較」と言うN様の御講解を読み大層感銘を受けました。
イエス様が伝道を開始される前に荒野でサタンに誘惑される話があります。塚本先生の御解釈として、荒野の誘惑の意義について「神は聖霊に満ち溢れたイエスをして直ちに伝道せしめ給う事なく、まず荒野に追いやられて悪魔の手に渡し、そこで四十日間悪魔に試みられしめたもうた。誘惑である以上、悪魔が勝つか、イエスが勝つかそれは神にすら全然予知することを許されないものでなければならぬ。 思えばなんという思い切った神の措置であろう。神ならぬ誰にこんな大胆な離れ業が出来ようか」と。塚本先生の解釈の特徴はともするとあらかじめ結論が分かっているように読みがちなこの挿話を「悪魔が勝つか、イエスが勝つか、それは神すら全然予知することを許されないものでなければならぬ」と言って結果はイエス自身の自由な決断に委ねて読もうとされていることです。
神ご自身がイエスを誘惑に引き込み給うたのである。(中略)彼は受身であった。神に強いられてやむを得ず荒野にゆかれたのであつた。彼は多分幾度も「お父様私を試みにあわせないで下さい」と言いて祈られたことであろう。しかし神は之を聴き入れ給わずして彼を悪魔の手に渡し給うたのであろう。しかしここに~彼が自らの弱きを知り「心ははやっても体が弱い」ことを知って悪魔に怖じ恐れつつ最後まで神に縋りつつ悪魔との試合に立ち向かわれし所に~ここに彼の大勝の理由が隠れていた。(イエス伝研究第一巻聖書知識社181頁)
この解釈によればイエスは最初から確信的にサタンとの戦いに勝ったのではなく、神に縋りつつサタンと戦った事になります。関根先生の解釈も表現は違いますが、根本的には塚本先生と同じ受け取り方だと思います。
「イエスはサタンがあなたはメシアだということを言われ、メシアの力を発動せよ、と言われる。それに対してイエスは神の子たる事は否定はされない。しかしその答えは低くなった、弱くされた者の答えである。イエスはメシアたることの力を使おうとされない。人の子たることを必死になって主張しようとされている。彼は我々の側に徹底的に立って下さった。(中略)われわれ人間と等しくなり神なきところに落ちて下さった。(サタンに試みられるとは神に棄てられたということである)荒野の試みは十字架の死と同じくイエスの生涯の低さに他ならない」(伊藤進筆記「マタイ福音書講義」)
こうして塚本、関根両先生が解釈されたように神ご自身がイエスを試練に遭わせられ、いわば弱さを生きるように導かれたとすれば、それはヨブに対して神のなさった事と重なります。ヨブも強い義人から徹底的に自分の弱さを知らされて、初めて神との関係を正しく生きることができる身にされたのでした。
と、まとめていらっしゃる事を読ませて頂き、ヨブ記を読むときいつもどうしてと考え込んでいたことを良くわからせて頂き、感謝でございました。
クリスマスを間近に、イエス様の来たり給いましたお恵みを心より感謝申し上げたく存じます。
賛美歌の始まり
SH
今年も皆様とクリスマスを迎えられて感謝です。集会では、M様、M様が入院され現在は家庭療養中のご様子です。どうぞお大事に。神様のお守りと御平安をお祈りします。
賛美歌はキリスト教の礼拝と切っても切れないものですが、教会に集まって人々が歌う賛美歌を始めたのがルターであると知る人は、必ずしも多くないようです。宗教改革の信仰と思想を歌い上げる賛美歌は、文字を読めない民衆たちもそらんじて歌ったことから、宗教改革の広がりに大きな影響を与えました。人々の心を揺さぶる歌には、説教などの言葉とはまた違った、直接的な力があったとも考えられます。ルターは自ら一つの賛美歌を作詞作曲しました。詩編130編に基づく「深みから私はあなたを呼ぶ」という讃美歌です。そこで、詩編130編について「みことばはわが足のともしび」蓮見和夫著により説明したいと思います。
「私たち皆、深い淵、大いなる悲惨の中にいます。しかし、多くの場合、自分が今どこにいるのか知りません。信仰者すらも決して高い所にではなく、深い淵にいるのです。こうして私たちは高き神を深い淵から仰ぐのです。「深い淵」それは単に不幸や禍ではありません。不幸にはやがて浮かぶ瀬もあります。しかし、この深い淵には出口がありません。それは人類の根本的悲惨 罪そのものだからです。それは幸福の真直中にもポッカリと口を開けています。それは私たちの失われている姿で「虚無」という名をもっています。そして、この虚無よりの逃げ道は上にしかありません。「呼ばわる」以外に方法はありません。私たちはただ「考え」たり「信ずる」だけではなく、この深い淵から、声を大にして呼ばわらなくてはなりません。信仰の根本的姿は、「呼ばわる」ことです。誰に?「あなたに」。生ける神を「あなた」として呼ぶのです。しかし、もし神が私の叫びに耳を傾けて下さらなければ、たといどんなに大声で呼んでも、ひとりごとにすぎないでしょう。祈りは神の聞きとどけがあって成立します。神中心です。そのいつくしみに信頼して呼ばわるのです。そして信頼する者は待つことができます。しかし、信じて待つ者は、決して慌てません。「主には、いつくしみがあり豊かなあがないがあるからです」私たちが深い淵からもとめるもの それは、このいつくしみにほかなりません。」
低き祈り
KH
イエス様のご降誕を心からお祝い申し上げます。
今年も1年間御護りのうちに過ごさせていただきましたことを神様に感謝申し上げます。特に日曜日ごとの集会で、夏の九重集会で、御言葉を学び、共に賛美し祈ることが出来ましたことは私の宝物です。お許しくださいました神様と語ってくださいました講師の先生方に心から御礼申し上げます。
日々起きる出来事も、神様がお働き下さって、私共では為しえないと思うことも一番良いように収めてくださいましたことも感謝でした。
また、集会の小林さんに誘われて主人と共に3人で老人施設で生活しておられるU
さんをお訪ねした折に、Uさんが祈ってくださいました。「お訪ねくださる方がいてとてもうれしく、感謝です。」とのUさんの低き祈りに、喜んでいただけたことに、私は大変心を打たれ、慰められました。
取るに足りないことででしたが、私は喪失感を憶え、傷ついていたようでした。Uさんの祈りを通して神様が働いて下さったのだと思われ、Uさんにも神様にも感謝を申し上げねばなりません。
日曜の聖書講話で渕上様がローマ書8:18~39「神の愛」でバルトの言葉を紹介して下さいました。
「自分に見えるものだけを見るだけなら、我々は辛抱して待ちはしないであろう。われわれは楽しげにあるいは不平を鳴らしつつも、在るもので何とか満足するであろう。われわれが満足しえないということ、在るものはわれわれの存在の中で決して調和に達しえないということ、在らぬものに対する秘かな期待がわれわれの中にいつまでも残るということ、― このことはわれわれが神とキリストの霊によって懐くあの不可視的な希望からして説明される。」という言葉でした。
不可視的な希望は見えない希望。イエス・キリストによって述べられている希望です、と説明して下さいました。見えない世界、愛に溢れた豊かな信仰の世界に触れて、大きな喜びを折々にいただきますことを本当に感謝しています。
耐え難い重荷を負っておられるお一人お一人にイエス様が共にいて下さって慰め、勇気を与えてくださいますように。内戦のため、飢餓のため、難民となってさまよう人々に、東日本大震災の故に、その他の災害の故に生きていくのに困難を抱えている方々の上に、神様の御愛が届きますように切にお祈りいたします。
良きクリスマスと新年をお過ごしくださいませ。
一人での信仰
渕上 明
福岡聖書研究会に参加して4年が過ぎました。当初は、毎週の講話に参加するだけで精一杯でしたが、いつの間にか講話の一部を担当させて頂くようになりました。聖書についての知識は乏しく、貧しい講話となっているのではないかとしばしば思うところです。今年は、「ローマの信徒への手紙」について、お話させて頂きました。バルトの「ローマ書」と内村鑑三の「ロマ書の研究」を手がかりにお話しましたが、難解な部分も多く、どこまで正しくお伝え出来たのかは自信がありません。しかし、福岡聖書研究会の方々が暖かく見守って下さっており、今後も一緒に学んで行ければと考えています。
永年公務員として働き退職した後、現在は知的な障がいをもたれた方々が入所されている施設で働いていますが、果たしてどこまで主の御心にそった対応が出来ているのかいつも悩むところです。時に重度の障がいをもたれ、自分では意思表示の出来ない方々への対応は正しく出来ているのか、日々自問自答しているところです。
我が家では、キリスト者は私だけという状態が続いており、典型的な日本人である妻との価値観の隔たりは大きいものがありますが、妻は多くの日本人の考え方がよく分かる存在でもあります。妻と話していると、多くの日本人にとって御利益のあるものが宗教という考えが強いことがよく分かります。
しばしば意見のかみ合わない場面も出て来ますが、気持ちが落ち着いた時には妻のために祈ることにしています。妻も神によって私に与えられた存在ですから。
☆
集会の記録
今年の礼拝での講話担当者、司会者、聖書講話は次の通り。●は特別集会です。
[講話担当者] [司会者] [講 話] [聖書の箇所]
2012年
12/23●秀村弦一郎 KM「マリアの讃歌」 ルカ1:46~55
引き続き 日曜学校クリスマス(TY)、昼食感話会
2013年
1/ 6 渕上 明 KH「神の裁き」 ローマ書2章
13● 横川 知親 AK「子どもとイエス様」 マタイ19:13~15
20 秀村弦一郎 NK「ゲッセマネの祈り」 マルコ14:12~42
27 秀村弦一郎 KH「イエスの逮捕と最高法院の裁判」マルコ14:43~65
2/ 3 渕上 明 KM「義人はいない」 ローマ書3:1~20
10 秀村弦一郎 NK「ペトロの否認」 マルコ14:66~72
17 秀村弦一郎 HM「ピラトの前のイエス」 マルコ15:1~20
24 秀村弦一郎 KA「十字架と死」 マルコ15:21~37
3/ 3 渕上 明 KH「ただ信仰によってのみ」 ローマ書3:21~30
10 秀村弦一郎 KM「イエスの埋葬と復活」 マルコ15:38~16:20
17 秀村弦一郎 HM「イザヤの召命」 イザヤ書6章
24● SI NK「十二使徒の再出発」 使徒言行録1:3~18
31 秀村弦一郎 KA「審きと救い」 イザヤ書1、36~37章
4/ 7 渕上 明 KH「信仰は奇跡である」 ローマ書3:31~4:12
14 秀村弦一郎 KM「終わりの日の平和」 イザヤ書2章
21 秀村弦一郎 NK「裁きと霊による清め」 イザヤ書3~4章
28 秀村弦一郎 KA「神のぶどう畑」 イザヤ書5章
5/ 5 渕上 明 KM「イエスによる義」 ローマ書4:13~5:11
12 秀村弦一郎 SM「インマヌエル」 イザヤ書7章
19 秀村弦一郎 NK「主を待ち望む」 イザヤ書8:1~9:6
26 SI KH「五旬節の奇跡」 使徒言行録2:1~13
6/ 2 渕上 明 KA「永遠の命」 ローマ書5:12~21
9 秀村弦一郎 KM「残りの者」 イザヤ書9:7~10:27a
16 秀村弦一郎 NK「平和の王」 イザヤ書10:27b~12:6
23 秀村弦一郎 SM「全地の支配者」 イザヤ書13~20章
30 秀村弦一郎 HM「万民救済の宴」 イザヤ書21~25章
7/ 7 渕上 明 KH「神の恩寵」 ローマ書6章
14 SI KA「ペトロの説教」 使徒言行録2:14~42
21 秀村弦一郎 KM「終わりの日の救い」 イザヤ書26~27章
28 秀村弦一郎 NK「貴い隅の石」 イザヤ書28~29章
8/17~18 ●九重聖書集会2013
SI NK「パウロの最初の説教」 使徒言行録13章
MS 同上「マルタとイエス」 ルカ福音書10:38~42
同 上 KO 「サマリアの女とイエス」 ヨハネ福音書4:1~26
9/ 1 秀村弦一郎 SM「立ち返りと安息」 イザヤ書30~31章
8 渕上 明 SH「人間の限界」 ローマ書7章
15 秀村弦一郎 KH「我らの王」 イザヤ書32~33章
22 秀村弦一郎 KA「主の栄光」 イザヤ書34~35章
29 SI SH「ステファノの説教」 使徒言行録7章
10/6 渕上 明 KM「霊によって生きる」 ローマ書8:1~17
13 秀村弦一郎 AO「キリストによって生きる」コロサイ書1:1~23
20 大園 正臣 SM「エフェソ伝道の成果」 使徒言行録19:8~20
27● MA NK「悔い改めよ」 マルコ1:14~15ほか
11/3 渕上 明 KH「神の愛」 ローマ書8:18~39
10● TY SI「私達の重荷を担って下さる神」イザヤ書46章
17 秀村弦一郎 KA「キリストは秘められた奥義」コロサイ書1:24~2:19
24 SI AO「ステファノの殉教とエルサ
レム教会に対する迫害 」使徒言行録7:54~8:3
12/1 渕上 明 SH「神の計画と憐み」 ローマ書9:1~29
8 秀村弦一郎 KM「新しい人を身に着ける」コロサイ書2:20~4:18
15 大園 正臣 NK「エフェソでの騒動」 使徒言行録19:21~40
22● 秀村弦一郎 SM クリスマス祝会、日曜学校クリスマス(TY)、
昼食感話会
☆
聖書講話抄録
上記礼拝で語られた講話の抜粋です(日付順)。
なお、福岡聖書研究会では毎日曜日の聖書講話をハガキ1枚に纏めて(講話担当者が書く)高齢で出席できない方や病気等で欠席の方に「週報」として届けていますが、秀村、渕上のものは週報として記載されたものです。
マルコによる福音書 秀村弦一郎
「ピラトの前のイエス」(15:1~20)
死刑にすべき危険な反逆者として最高法院から送られてきたイエスに対するローマ総督ピラトの問い「お前がユダヤ人の王か」に対して、イエスは「ご意見に任せる(塚本訳)」と答えられます。イエスは王(霊なる王)であるが、王(この世の王)でないのです。この一言以外、告発や尋問には無言を通されました。苦難の僕(第二イザヤ)の預言通りに。
ユダヤ人宗教家たちの訴えが、イエスの人気に対する妬みからであることを知ったピラトは、イエスを無罪にしようとします。過越祭で実施される特赦を発動しようとしますが、宗教家たちに扇動された群衆は、暴徒バラバを赦してイエスを十字架にかけろ、と叫び続けます。罪のないイエスが処刑されることによって一人の罪人が命を得たのは、十字架の前触れの出来事でした。
処刑の為に引き渡されたイエスを兵士たちは侮辱します。自らを救う奇跡的な力を発揮できないと分ると、茶番劇をしたりして愚弄、イエスの預言が実現したのでした。
イエスがピラトの前に引き出されたのは夜明けで、九時には十字架につけられるという、十分な審理も行われない乱暴な裁判・決定でした。この場面に登場する全ての人の中に私たちは自分自身の罪を見ると共に、沈黙を守られるイエスに神の使命を果たされる方の栄光を仰ぎます。無信仰のバラバを始め、全ての人の罪を担い、赦される神の使命を。 (2/17)
「十字架と死」(15:21~37)
十字架のイエスを包み込んだのは、人々の嘲りでした。
罪状書きの「ユダヤ人の王」はローマの総督ピラトが侮辱に皮肉を交えて書いたものでした。ゴルゴタを通りかかった人々も、最高法院のメンバーたちも、神殿を3日で建て直し、十字架から降りて来る筈ではないか、と侮辱します。彼らが共通して言ったことは「他人は救ったのに、自分は救えない」ということでした。人を救おうとされる神の愛を嘲笑したのです。ここに人の罪は絶頂に達しました。
凄惨な十字架の上でイエスは「エロイ、エロイ…」を大声で叫ばれます。この叫びが詩編22編冒頭の言葉であることから、古来イエスはこの詩編の全体を暗誦しようとされたのだ、と解釈されてきました。詩編の後半は神讃美と感謝ですから、イエスは従容として死なれたのだ、と。しかしそうではありますまい。イエスは本当に神に見捨てられたのです。その恐るべき深淵の中からの絶叫でした。
人間には決してこの深淵を覗くことをさせ給わない神が、イエスをそこに突き落とされたのは、イエスが「神の子」であればこそ。イエスは絶望の中からも「わが神、わが神」と神に縋りついておられます。ここにも「神の子」としてのイエスの真実(Pistis)を仰ぎます。
神がイエスを捨てたということは、自己を捨てたということ。神の自己犠牲に私たちは担われているのです。 (2/24)
「イエスの埋葬と復活」(15:38~16:20)
イエスの死は終わりではありません。予告された通り復活と再臨が続くのです。それはイエスが神と共にあるからで、十字架上の死を機に、全地の暗黒、神殿の破壊、百人隊長の告白、埋葬と、神が働かれる時が来ます。
神への接近を遮断していた神殿の幕が引き裂かれます。神に直接まみえることが出来る新しい時代が来たのです。また、イエスの死に立ち会った百人隊長は「この人は神の子であった」と告白します。イエス受洗の折天が裂けて、また山上の変貌の折に聞こえた、「愛する神の子」との声は神の声でした。十字架によって初めて人間が、しかも異邦人がイエスを「神の子」だと告白するに至ったのです。
安息日を前にして、大急ぎでイエスを埋葬したのは、敵対していた議員の一人でした。十字架と復活の証人となった婦人達と同じく、神は必要な人物を起こされました。
足かけ3日の安息の後、イエスは甦られました。復活は人が神の栄光の中に共にあることですが、人知では理解不可能なこと、霊に於いて信ずべきことなのです。天使による告知がそのことを暗示しています。
逃げ去った弟子たちも前進するものとされます。イエスがメシア(救い主)であることが明言される時が来たのです。十字架はこの世の価値を逆転させるもの、私たち罪人もイエスの復活に合わせられるものとされたのです。 (3/10)
ローマの信徒への手紙 渕上 明
「 ただ信仰によってのみ 」(3:21~30)
「ローマの信徒への手紙」の中で、最も中心となるのが、この「信仰による義」を書いている部分です。ここでは、神の義について述べられています。神の義、神の愛は神の側から人に対して一方的に与えられるものです。私達は、信じることにより神の義、神の愛の中にいることが出来ます。つまり、人は信仰によって義とされるのです。しかし、神は人の目に触れるものではありません。神を信じるということは、大変な冒険でもあります。人の目には大変不確実なものの中に、飛び込んでいくことを意味します。
神はイエスをこの世に送られ、贖いの業を通して神の義を示されました。神の義は、人間の能力をもってしては、理解することは出来ません。ただイエスの業や言葉を信じることから、神の信実にふれることが出来ます。私達は、イエスを信じることにより、神に義なる者と認められるのです。
神の愛は一方的なものですが、それを受けるためには、身を低くすることが求められます。この世的な名誉や賞賛は全て捨ててしまわなければ、神の前に立つことは出来ないのです。それは、キリスト・イエスが示されたとおりです。
また、神は唯一のものであり、ユダヤ人だけの神ではなく、ギリシア人の神でもあり、すべての人の神であると述べています。神はすべての人にとって唯一だからです。イエスを通して、また神の唯一性が示されるのです。 (3/3)
「霊によって生きる」(8:1~17)
内村鑑三は「ロマ書の研究」で、ロマ書8章は新約聖書の中心であると述べ ています。確かに7章までは、人間の罪の問題とキリストの贖いを中心に話が進められて来ました。8章では神ご自身が聖霊として私たちの内に下られ、私たちの中にあるその霊によって私たちを救われると述べられています。聖霊が私たちをその内側から変えるのです。
バルトによれば、キリストを信じ、キリストの霊を受け入れることは、単にキリスト教を信じるということではなく、宗教を超えたものを自分の中に受け入れることを意味します。人間の理性や合理主義だけでは解決しない問題も、 霊によって解決されます。イエスの生涯を人間的な理性によって理解しようとすれば、人は躓くでしょう。理性は現実世界である肉の中にあり、肉の中からでは理解不可能なことです。
私たちの歩みは、神の子を認識することによって、「霊に従って」なされます。14節から17節にかけては、人が神やキリスト・イエスと共に生きることが出来ると語られています。私たちはこの世では様々な苦難がありますが、霊による時、 私たちは苦難の中に示される私たちの生の意味を知ることが出来るのです。また、苦難の中で神を知るということは、私たちの上になされた神のみ業です。
8章は神の霊による恵みについてパウロが高らかに述べており、キリストを信じることの喜びに満たされます。 (10/6)
「神の愛」(8:18~39)
ローマの信徒への手紙8章の後半では、神の愛について熱く語られています。まず現在の苦しみは、これから与えられる神からの栄光に比べれば、取るに足りないと述べています。その栄光は神の御業によって与えられるものです。また、それは苦難の後に与えられるものです。イエスと共に苦難を受ける者はイエスの兄弟となることが出来るのです。
人は時間の中に生きていますが、時間の中に生きる人間も、永遠の未来の萌芽を秘めています。現実の生の中にも永遠が秘められているのです。それは、霊によって与えられるものでもあります。霊は、人と神との間を執りなしてくださる存在です。
人は、見えるものだけで満足出来るなら、現実の世界に安住して、何も辛抱して神の栄光を待つ必要はありません。しかし、それだけでは満足できない人、それだけでは何かしら心の中にうつろなものを感じる人にとっては、キリストと霊によってもたらされる希望が必要となります。すべての人は神の愛を受ける機会を持っています。
神の愛は一方的に神の側から与えられているのです。復活されたキリスト・イエスによって、私たちも神の栄光に与ることが出来ます。そして、イエス・キリストにおける神の愛は、人間に対する神の愛と神に対する人間の愛との合一であり、この愛によってわれわれの愛は勝利するのです。 (11/3)
使徒言行録 大園 正臣
「人の手が作った物などは神ではない」(19章の学びから)
パウロのエフェソでの熱心な長期の伝道努力の結果、エフェソを中心にアジア州(現在のトルコ共和国)で広く勢い良くキリスト教を広める事が出来ました。がこの為 大きな反動で、由々しき騒動が起った。原因はキリスト者が増加した為、逆にアジア州を中心にアルテミス神殿に参拝する人が激減し、そこで多くの人が参拝者相手に、巡礼者に女神の像や神殿の模型を作り、売っていた銀細工師達の仕事が減って、生活が困難になったのです。即ち職人達に銀細工を注文していた親方のデメトリオは、自分の仕事仲間に、我々はこの仕事で生活して来たが、この所伝道者パウロが、『人の手が作った物などは神ではない。』と言って、アジア州全土で多くの人々を騙した為に我々の仕事も信用も無くなり、物品が売れなく成ったのです。更にこの町の偉大な女神アルテミスの神殿も顧みられなくなる。町の人々はこれを聞き大変怒り、大声で叫び騒ぎ出した。更に『エフェソ人のアルテミスは偉大な方』と叫び、町中に大勢の人が繰り出して、大混乱に陥り暴徒化して行った。そして大群衆になった彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕え、一団となって広く大きな野外劇場になだれ込みました。パウロは群衆の中に入り説得しようとしたが、出来ませんでした。この騒動は町の有力な書記が仲介に入り説得して事なきを得ました。がこの事の原因は一体何で何処にあったのでしょうか、考えてみたいと思います。まずエフェソはそもそも広く深く拝金的で偶像礼拝に満ちた大都会で人々はその中にどっぷりと浸っていたのです。いわばご利益宗教の都市でした。(現在の経済優先の日本に近い)この中に新しい真の神を拝するキリスト教が入ると、それに反対する勢力と正面衝突したのです。そこには生活の基盤が無くなる多くの人々がいました。信仰の自由が保証されるか又政治権力で抑えない限り新旧の勢力間で衝突が起こり、勢力争いが起こります。これは世界各地で起こった歴史です。その結果生き残るのはご利益宗教(偶像礼拝))ではなく、活ける真の神の信仰です。真の神様は生きて働くお方で、人の手で造った死んだものではなく、主(神様)は人が作った、ものも言わぬ像等ではなく、生きて働く豊かな愛と恵みのお方です。また神様は「天はわたしの御座で地はわが足台」にされる力強く巨大なお方で、人が作った小さい神社や神殿には住みません。お住まいは天の御座です。この真の神様の御子が救い主イエス様で、人を差別せず、愛と献身のお方で私達の罪を贖って下さる方、メシアです。全てのものを創られる創造主で、私達には見えない聖霊(活きた神様の救いの霊)です。即ちイエス様は私達の義であり、聖であり、贖いです。この騒ぎを起こしたエフェソの状況は大変良く日本の状況と似ています。日本は、江戸幕府が崩壊(黒船の外国船に驚き内部から崩壊)してから、薩長土肥中心の明治新政府は国家統治方法、手段として、天皇制を中心に強力に進め、人間天皇を神(大君)とし、強力な国家権力で国民を従わせ、礼拝までさせた上に、更に無謀な侵略戦争を進めて来ました。その結果は残酷極まりない沖縄戦更に広島、長崎への原爆投下を招き、無条件降伏しました。一旦、旧勢力は減殺され破滅しました。が、まだ敗戦から70年も経たない現在、何らの心からの反省謝罪更に敗戦の総括も不十分なままに、現在目下自民党政権にある人々はこの国民主権の人権尊重の平和憲法を改悪し又天皇を元首としようと企てている有様、状況です。私達クリスチアンは力を結集して使徒パウロを見習い、信仰の自由を守り、真の大君であるイエス様とその十字架の福音を広く多くの国民に伝えて、住み良い平和な日本に又近隣諸国(特に中国)と平和共存して行く国家にしなければなりません。そして心から畏れ戦く真の神様(主イエス)を中心とした平和な国にして行く事です。金ぴかに飾りだけの人の作った神様は子供騙しで、明らかに神様ではなく、張りぼてです。これでは日本の国民として自殺行為です。日本で自殺者(多くの悩み重荷を負い、救いがなく重荷に負けて自殺へ)が多い理由は愛なる救い主イエス様を救い主として信仰せず、偶像礼拝のご利益宗教に陥って、歪な生存競争が激しいためではないでしょうか。新しい年を迎えるに当たり心を新たにし、新しい希望に満ちた年を迎える事が出来ます様に心からお祈りします。良いクリスマスと輝かしい新年をお迎えしイエス様に出会えます様に、又皆様の上にイエス様からの恵みが豊かにあり、光輝く新年になります様心からお祈りして終えます。
尚、山形県小国町にあるキリスト教独立学園の創立者、鈴木弼美先生は嘗て「高度成長政策は神の刑罰だ」と言われましたが、正に至言です。 (12/15)
☆
特別集会(講話要旨の文責・秀村)。
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2012年クリスマス祝会
昨年は12月23日(日)にクリスマス祝会をもちました。 礼拝では「マリアの讃歌」と題してルカによる福音書1:46~55を学びました。講話:秀村弦一郎、司会:KM。
天使から受胎告知を受けた処女マリアは、不安に騒ぐ心を持って親類のエリサベトを訪ねる。エリサべトは聖霊に満たされ、マリアの胎内の子を「わたしの主」と告白した。その応答としてのマリアの讃歌は新約の息吹を示すもの、「マニフィカート」としてバッハなどの名曲にもなっている。
この讃歌はハンナの祈り(サムエル上2:1~10)を彷彿させる。神によって胎を開かれ、サムエルを宿した感謝の祈りである。二人共神の力によって驚くべき幸いを得たのであった。
この讃歌で著しいのは、主によってこの世の価値観が逆転されることが歌われていることである。旧約の時代には明確ではなかったことが、イエスの到来によって眼前に明らかにされた。健康なものには医者は不要、病んでいる者の為に来たのだ、と言われるイエス。貧しいものが幸いを得、病人は癒され、悲しみ苦しみの中にある孤独な魂は力を得た。最大の逆転はイエスの十字架である。敗北の死が、全人類の救いとなった。マリアが歌った通り、神はアブラハムとその子孫に約束された愛を、忘れられることはなかったのである。
クリスマスに当たり私たちに問われることは、神の愛の内に留まっているか、イエスに出会っているか、である。
引き続き日曜学校クリスマス、昼食感話会をもちました。
▲
TY先生を迎えての礼拝
1月13日(日) 司会:KA
1年振りにフィリピンで伝道しておられるTY先生をお迎えしました。最初に昨年伝道に行かれたタイ北部の様子をスライドで、またDVDで日比聖書教会の若者による活気溢れるクリスマスも拝見、「子どもとイエス様」と題して、次の講話を伺いました。
タイ北部の山岳部族(カレン、アカ、首長などの少数民族)には驚くほどキリスト教が浸透している。掘立小屋のような教会だが、礼拝には人が溢れている。特に多いのが子ども。タイに限らず東南アジアの教会には子どもが多い。そんな教会の伝道に一番役立つのが手品なのだ。 世界中を回って子どもの大切さを教えられた。教会の元気の源は子どもである(国もそうだが)。一番元気がないのが日本、子どもがいない(教会に来ない)。イエス様は、弟子たちが排除しようとした子どもを大切にされたが、子どもは“宝”。教会の主役は子どもでなければならない。 茨城に韓国から来て開拓伝道している牧師がおり、7年で大きな教会に育っている。ここも子どもを育てている。日本の大学を出た優秀な人物だが、驚くのは彼の“謙遜”。「人生をイエスに“明け渡し”ている」という姿勢に教えられる。 フィリピン伝道は33年になる。妻も9月重篤に陥ったが護られ、多くの方々の祈りと助けによるものと感謝している。
感話会、昼食会ももちました。子供達はじめ皆に手品も教えて貰う楽しいひとときでした。
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SI氏を迎えてのイースター礼拝
3月24日(日) 司会:NK
イースター礼拝としてSI氏(天神聖書集会)を迎え、「十二使徒の再出発」と題して使徒言行録1章を学びました。なお、I氏にはこの後も継続して奇数月に使徒言行録をお話しいただいています。
イエスの死後挫折していた弟子達が再出発した契機はイエスの復活であった。女達が天使から聞いた「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」との言葉に、イエスの弟子達に対する愛が示されている。特に、3度も主を否認したペトロが、イエスに見捨てられていないという保証を表している。
弟子達にイエスは「あなた方に平和があるように」と言われた(ヨハネ20:19)。神が共におられる状態(平和)が約束されたのであり、弟子達は罪人をも赦し給う神の愛を知った。
同時に「あなたがたを遣わす」(ヨハネ20:22)と言われた弟子たちは、福音を伝える者とされた。第二の召命である。
それは十字架と復活に接してイエスの本当の姿(愛)、自分達の本当の姿(罪)が分って初めて可能になったことであった。
イスカリオテのユダが裏切り者として特記されているが、他の弟子たちも罪人であることに於いては五十歩百歩、私たちの姿をも示している。その罪を克服する道として、イエスは「自分の十字架を負って私に従いなさい」と教えられた。神を信じ得ないことが人間最後の十字架であり、その十字架を負って(不信のままで)イエスに従うことが、救いである。
再出発した弟子達は復活の主の証人であると共に、復活の主が共にいて下さることの証人でもある。復活の主は今日、霊に於いて私達と共にいて下さるのである。
▲ 九重聖書集会2013
8月17日(土)~18日(日) 会場:福岡大学セミナーハウス(福岡市中央区)
別府聖書研究会、天神聖書集会との共催。
講話 SI氏(天神聖書集会)
「パウロの最初の説教」 使徒言行録13章
MS氏(なにわ聖書研究会主宰)
「マルタとイエス」 ルカ福音書10章38~42節
「サマリアの女とイエス」 ヨハネ福音書4章1~26節
今年は会場を福岡市内の至便な場所に移しましたが、部分参加も含めて九州各地から52名の参加となりました。お二人の講師からの充実したお話しを伺うことが出来、大変恵まれた2日間を過ごしました。年に一度顔と顔を合わせての交わりの時を持つことが出来ることは、貴重なときでもあります。
S氏の講話については特別寄稿をご覧ください。
なお、I氏の講話は天神聖書集会発行の「南の風」135号に掲載されています。
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MA氏を迎えての礼拝
10月27日(日) 司会:NK
東京から経堂聖書会のMA氏を迎えて、「悔い改めよ―『95箇条の提題』第1項、2項から―」の題で、宗教改革記念日に相応しい講話を伺いました(マルコ1:14~15ほか)。
マルチン・ルターの時代、人々は現世に於いて犯した罪を償う行いを果たし終えないと天国に行けないとされ、逆に生前に課せられた償い以上の善行を積んで天国に行った人々(殉教者や聖人等)の償いの余剰は宝として天に蓄えられるとされた。教皇はこの宝を自由に引き出すことが出来、これを天国行きを保証するものとして販売していたのが贖宥状(免罪符)であった。ここに目を覆う腐敗が生じていた。
ルターはこれに対して「教会の真の宝は、神の栄光と恵みの最も聖なる福音である」とし、1517/10/31ウイッテンベルクの城教会に95箇条の提題を貼り出したのであった。
提題の最重要テーマとして、その第1~2項には「悔い改め」が採り上げられている。悔い改めは心の向きを(神の方に)転換することであるが、ルターは全生涯の悔い改めを述べた。イエスは伝道活動の最初に「悔い改めて福音を信ぜよ(マルコ1:16)」と告げられたが、その福音はイエスその人。
イエスと共にあって、日々新たにされて行くことが、ルターの言う全生涯の悔い改めなのである。
私たちは自分の力では悔い改めることは出来ない。修道院時代のルターが(内村鑑三も)苦しんだのはこの問題であった。イエスはその弱い私たちに無償の恵み ― 十字架と復活の福音 ― として悔い改めを与えて下さるのである。
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TY氏を迎えての集会
11月10日(日) 司会:SI氏(天神聖書集会)
今年も徳島からTY氏を迎えて、「私たちの重荷を担って下さる神」の題でイザヤ書46章を中心に学びました。天神聖書集会との合同集会で、参加者32名。
私たちには誰にも重荷がある。家庭問題・障害などの個人的な重荷から原発や飢餓・戦争のようなスケールの大きな重荷まで。そして最大の重荷は死である。イザヤ書46章では冒頭で、偽りの神々(間違った宗教)は重荷になるという。しかし真の神は私たちを背負い、重荷を担って下さるのである。しかも老化して段々荷が重くなるようなことがあっても、死に至るまで担って下さる。聖書が今日まで廃ることなく読み継がれているのは、これを信じることが出来るからである。
イエスは「重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われた(マタイ11:28)。罪に苦しむ私たちも十字架の赦しによってその重荷から解放されることは、バンヤンが「天路歴程」で十字架が見えた時肩の荷が下りた、と書いているとおりである。
闇(=重荷)の中に光(=命)があった、との創世記の冒頭から、イエスの十字架と復活に至るまで、聖書は一貫して「私たちの重荷を担って下さる神」を語っている。
イエスは罪を赦し、従う者には死んでも彼と同じ栄光を与えて下さる。その為に地上に来て下さったのである。そして日々聖霊を注いで私たちに力を与えて下さっている。
引き続き出席者が自己紹介・感話を述べ、昼食懇談会ももちました。
☆ 行事など
▼ 傘寿祝会 2月3日(日)
SHさんと当日大阪から来られたMTさんの傘寿をお祝いしました。これからもお二人の健康が護られ、主の御祝福が豊かでありますように。
▼ TM氏宅での集会 4月17日(水)
今井館録音CDの塚本虎二「先生に学んだこと」を聴く小集会をもちました。
▼ 召天者記念会 5月12日(日)
今年は召天20年のTM兄を憶えて中央霊園(福岡市郊外)を訪ね、記念会をもちました。TM兄の著書「死のかげの谷を歩むとも」は戦地でのキリスト者の貴重な証言ですが、この日ご遺族から戦地を持ち歩かれた聖書などを見せて戴き、感銘を受けました。その他にも「私の回心の記」「永遠の幼女」「愛の負債」などの著書が残されています。
▼ TM姉訪問 7月26日(日)
入居しておられる老人施設にM姉を有志で訪問、同居の皆さんともご一緒に讃美歌などを歌い、かき氷をご一緒にいただきました。105歳になられ、クリスマスにも訪問する予定でしたが、11月に肺炎で入院されたため延期しています。ご加祷下さい。
▼ 婦人会
毎月原則第3水曜日に秀村宅で。毎回10人前後が集まり、聖書の学びを継続しています。
▼ 聖書を読む会
昨年に続き月1回土曜日午後に10人前後で小さな会を続けています。4年目に入り、マタイ福音書を読んでいます。会場は西南コミュニティセンター。
1月 病人の癒し(8~9章) 8月 エルサレム入城と宮清め(21章)
2月 十二使徒(10章) 9月 皇帝への税金(22章)
3月 種蒔きのたとえ(13章) 10月 十人の乙女のたとえ(25章)
4月 五千人の供食(14章) 11月 最後の晩餐(26章)
5月 変貌の山(17章) 12月 イエスの裁判(27章)
6月 ぶどう園の労働者のたとえ(20章)
☆ 特別寄稿
九重聖書集会2013 講話(1) MS 2013.8.17(土)
マルタとイエス (ルカによる福音書10:38~42)
38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
(1)
こちらの夏の集まりには、初めて寄せていただくことになりました。クリスマスの集まりには、二度ほどお伺いしたことがございます。
今日は、ルカ福音書の5節からなる短い一こまだけの所をお話し致します。今読んで頂いた所の題は新共同訳では「マルタとマリア」となっています。表題は人が色々とつけるわけで、初めから聖書には区切って題はついておりません。最初は章・節も分けてなく、後に聖書を編集したり、本の形にする人達が入れたわけです。ことに印刷機が発明されましてから、近代の初めですが、それまで無かったものが色々加わることになりました。中世の終りには章だけを区切ることは致しましたが、節に分けるのは非常に手数がかかるわけでして、これはルターよりもう一世代昔の人、フランス人がいたしました。
ですから色んな題がついておりまして「マリアとマルタ」とか「マルタとマリア」とか色々です。私は「マルタとイエス」と致しました。といいますのは、ここで言葉を出しているのはマルタとイエスだけなのですね。マリアは一言も言わない。ただ座って聞いているだけなのです。ですからこの話を作り上げているのはマルタとイエスなので、そういう題をつけました。
これはルカの特種です。マタイにもマルコにも無いわけで、もちろんヨハネにもありません。ルカがこれは大事なエピソードだと確信して、ここに取り込んだわけであります。これはイエスがエルサレムに向かって旅をする中で起こった出来事として描かれております。ユダを含めて十二人の、後に使徒となるような人たちをはじめ、大勢連れて歩いているわけです。とすると、そういう人たちも話を聞いていたかもしれません。けれどそういった人達がごちゃごちゃと言ったとして、御霊を受けるまでは勘違いばかりしているのが彼らの常でして、為になることはあまり言っていないので、ルカはそういう話はみな割愛しまして、ここではマルタとイエスに絞っています。ここは非常に簡潔に書かれています。
(2)
38節に「一行が」というのは、イエスの一行、十二使徒達もいますし、その他女の人達が、ガリラヤからずっと後を追って一緒になって来ています。その中にはかなり位の高い人の奥様もいるわけで、そういう人達がぞろぞろとついていて、目標はエルサレムです。エルサレムの神殿に参って、その後イエスは十字架におつきになるわけですが、弟子達には、まだ何が起こるかよくは分からない。しかし、何かが起こるに違いないとイエスについて行っております。
「一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。」
マルタとマリアというコンビはほかにも出てきます。ヨハネ福音書にも一つのエピソードが出てきます。ラザロという弟(多分弟ですが)が死んだ。それをイエスが復活させられるわけですね。ここではそういうこととの関連は一切無視しまして、マルタがいきなりここに出て来ております。
「マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」ふつう家に迎え入れるのは、その家の主人です。お客様をもてなすのは主人の役目です。奥様も家の人たちも皆手伝いますが、中心は主人です。マルタがイエスを迎え入れたとあることから、この家はマルタが女主人であって、マルタの夫はいないんだという事がわかります。それはヨハネ福音書のマルタ、マリア、ラザロが出てくる所でも、マルタがイエスを迎えて、先に入口の所まで来ているわけですね。それ以外に主人が迎えることはありませんし、後に顔を合わせることもありません。要するに家族はマルタ、マリア、ラザロという三人だという事と、それはエルサレムに近い村である事が分かります。ここではある村と書いてあります。マルタにはかなり裕福らしい雰囲気が漂っておりますので、一軒家を持っていただけではなくて、あちこちに、少なくとも二箇所くらいは家を持っていたと考えても悪くはありません。それでイエスがエルサレムに向かわれる旅の途中に、一席設けて食事を差し上げお慰めするために、「どうぞお立ち寄り下さい」と前もって伝え、イエスも楽しみにしておられ、またマルタ、マリアも楽しみにしていたと考えることができます。
ある村とはどこなのか、サマリヤか、ガリラヤか、あるいはユダヤに入ってベタニアか、ということになりますが、書かれてないので決めるわけにはまいりません。しかし何処でもいいわけでして、そこで起こった事柄が問題であります。マルタがイエスを迎えた、主人はマルタである、そしてマリアはいたが他に人はいなさそうです。そしてイエスは道中マルタとマリアが受け入れてくれることを喜んで、お立ち寄りになっておられる。一日の道を歩いて来ておられて、かなりお疲れになっておられることも確かでしょう。おそらく夕方近い頃と考えて良いと思います。
全員が招きを受けました。先生だけいらして下さい、お弟子さん方はどこかで食べてきてくれと言っても、今とは違いまして街角にうどん屋があるわけではありませんから、一緒に来る主な弟子達は招いたでしょう。女の人については、どこかで米を貰って鍋を借りてご自分でお作り下さい、くらいのことは言っても失礼になりませんが、男の人にそれを言ってもなかなか致しかねるわけでしょう。したがって、マルタのご馳走になるのは十二使徒とイエスということになるわけです。少なくみても十三人ですね。結構忙しいわけです。もちろん鉢が十も二十も並んで、きれいな料理が日本の料理のように並ぶわけではありませんで、かなり大きな皿に盛ってある所からそれぞれが自分の食べる分だけを取り分けるのであります。それでも普通の所では食べられないようなご馳走が出たことは間違いありません。
(3)
この箇所を、ほかにマルタとマリアが登場する所も背景に置いてこの場を考えますと、マルタとマリアの様子がよく分かって来ます。
マルタの方がマリアより年上であることは確かです。年齢は書いてありませんが、私の推測では三十代半ばになっているかもしれません。四十ということになると、当時ではもう寿命の終りに近づきますので、そこまではいっていないでしょうけれども、非常に機転が利いて頭の回りも早い。イエスが何をおっしゃっても、パッと受け答えが出来る、そして心に浮かんだことはすぐ口に出る、非常に率直なたちの女性であります。しかもここで大勢の人達を迎えてご馳走してさし上げるというんですから、料理もうまい、色んなおいしい料理をイエスに差し上げることができる。家事には辣腕である。家事に長じていることを自慢にもしていたでしょう。しっかりした女性であり、しかも明朗であり、おそらく体はちょっとふっくらしている方だと私は思っています。夫がいないことは確かですが、かつて結婚した事もあったであろうと思います。所帯持ちもいい、料理も上手、しかも体もしっかりして元気そうという女性をユダヤの男性が放っておくことはないので、これは必ずいたに違いない。おそらく元の夫は病気で亡くなったと考えても悪くないかもしれません。非常にしっかり者で、ちょっと小太りの三十代と考えればいいでしょう。
マリアの方は、他に出て来た所と照らし合わせても、いつも言葉が少ないですね。殆んどものを言わない。聞くのが専門でありまして、しかもマリアはどうやら結婚していないようであります。はっきり分かりませんけれど、多分二十歳の前後五つ位の間と考えていいでしょう。十五歳以上二十五歳以内、それより上という事はまず考えられません。そう考えてみますと、マリアとマルタは仲のいい姉妹でありますけれども、非常に性格も違い、見た目もだいぶ違う。しかし、イエスに対しては絶対に信頼を置いているという二人であるということがわかります。しかもここで、マルタはもてなしの為せわしく立ち働いていたが、マリアは主の足元に座ってその話に聞き入っていた。足元に座っているというのは物事を聞く時の一つの姿勢です。イエスももちろん座っておられます。
しかし、ユダヤは男性中心ですから、ふつう男性の先生、律法に詳しい教えを説く人は、直接女性に話しかけるということはしないわけです。男性には話しかけます。アメリカで作ったイエスの映画を思い起こしていただければいいと思いますが、会堂でも女性はすだれのような仕切りの外で話を聞いているんですね。先生はその中で旧約聖書を開けて話をします。男性は中に入っている、しかし、女性は中に入ることも出来ずに、一枚すだれの様なものを置いてその外で聞いている。日本でも、江戸時代に限らず明治に入りましてからも、お寺に行って和尚様の話を聞くということは女性も大いに致しておりましたが、特殊な人は別にしまして、その他の教えの話はあまり聞きませんでした。
エルサレムの神殿もそうでありまして、女性の庭は女性だけで、仕切りがあってその中は男性しか入れない、更に仕切りがあってその中は祭司しか入れない。更にその奥には大祭司一人しか入れない、という風にしてありました。異邦人は女性の外側に仕切りがあって―
下にレンガみたいなのが並べてあるんですが― その外側にしか行けない。監督がいて注意しました。神の教えは全ての人に当てはまると書かれていても、その教えを説く場は、それぞれの性別、民族によって区別されていました。しかし、マリアは自分の家であり、ご馳走を差し上げるからということもありますが、教えを聞くつもりで、耳を傾けているわけです。
そこにマルタが来てイエスに一こと言うわけですね。「そばに近寄って言った。」言葉をかけたのはマルタが先です。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」というのは、思うのが当然であって、気が付きそうなものだが、もっとはっきり言えば、「先生、とんと気が付かれませんね、どういうことですか」というわけです。そこまでは言わなくても、イエス様もお分かりの筈だということでしょう。「手伝ってくれるようにおっしゃってください。」これは言わなくても分かっていることを、わざわざ付け加えているわけです。言葉の勢いでここまで言ってしまったわけですね。当時でもお客を大勢家に招くということは、普通の家では再々あるわけではありません。またちょっと行けばレストラン街があって、今日は何にしようか、洋食にしようか、そばにしようかというような事にはならないわけでして、そういう店は殆んどありません。お祭りの時は別として、食べ物を出す店などは無いわけです。料理屋などはおそらく一軒も無かったと思われます。マルタは台所で腕によりをかけて、イエスをはじめ、十二使徒達も家の中に入って来ているというので、大忙しです。火加減から味付けから、皿を十三人前並べ、小さい皿も用意しないといけませんし、それに盛り付けるための大きな皿も、それぞれに何種類か盛り付けて、そして盆で客間に運んでいくということになるわけですが、それを一人でやらねばならないとなると、ちょっと小言も漏れることになります。
何か問題があって、一言文句を言いたいという時には、その人の生地が出るわけでして、ここでもマルタは自分の生地を丸ごとさらけ出しているわけです。マルタはもともと思ったとおりのことを率直に言う人で、隠し立てをしません。しかも、その言い方を見ますとイエスとは初対面ではなく、自由に何でも聞いて貰えるし、何を話しても怒られはしないという関係が、イエスとの間にはすでに成り立っているという事が分かります。これも明るい口調で話していると考えていいでしょう。親しい人間関係だということが前提されます。そこで自分のことを述べているわけです。
日本ではなかなかそうはいきません。イエス様はお客様ですから。文句を言うにしても、こういう調子ではなかなか言えないわけです。特に台所で一生懸命料理をしていた主婦が、こっちにきたかと思うと、お迎えしたお客様に向かってずけずけものを言っているわけです。もっと控えめに言わないといけません。けれどマルタはそうではない。思ったとおりのことを口に出しています。日本では、客の前ではぶつぶつ言わないで、一人でサービスして、客が帰った後で手伝わなかった妹に辛くあたるとか、あるいは、この次からきっちりしろと言って聞かせるとかになりましょう。しかしマルタは非常に率直に自分の思った通りを言っているのです。イエスの心の中を考えるということはせずに、マリアが来てちょっと手伝ってくれるのが当たり前なのに、あっちに行って自分だけ座ってイエス様のお話を聞いているというのはあんまり調子が良すぎる。料理を出すときだけでも手伝ってほしいというのが彼女の心に溢れているわけで、その外のことには心が回らない、それで自分の気が済むまで言ったわけです。イエスに対してとがめだてするようなことさえ口にしているわけですね。イエスはそこまでマルタが言わなくても分かるのですが、マルタは言ってしまった。
人をもてなしたり、そのほか人に親切にする場合には、相手の身になって親切をするというのが大事な事柄でして、親切をするのに自分の気が済むようにするというのは、あまり親切とも言えないと思います。例えば病院へお見舞に行く場合に、小さい子どもを二人連れて行きますと―
相手がその子どもを見たいから連れて来てと言えば別ですが小さい子どもは連れて行かないものです、無理してでも家で誰かに預かって貰って一人で出かけていくのが普通でしょう―
子どもが泣いたり大声を出すかもしれない、それは病人の気持を乱すこともあるわけです。ですから、親切は相手の気持を第一に思い図らないといけないのでして、自分中心というのは親切になりません。
そして、妹のことにふれて、「私の妹は、私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と言っております。ここはちょっと言葉が落ちているんですね。私の妹が私だけを後に残してもてなしをさせている。後に残してが訳で抜け落ちております。後に残して、という言葉が大事なことがわかります。つまりイエスが来られて、どうぞお入りください、と応接間にお招きしてお座りいただくまでは、台所でマリアも一緒に手伝っていたわけです。ところが私だけを後に残して、ということを表しているわけで、イエス様がおいでになったら、お客様を一人放っておくわけにはいきませんから、お客様の相手は誰か家の者が行って、「お疲れでございましたでしょう」とか、「今日は暑い日でございます」とか、その場にふさわしいことを申し上げねばなりません。これはどこの家でも、人数が少なくてもするでしょう。「もうじき出来ますからちょっとお待ちください。マリアもこっちおいで」くらいで引き取ってもいいのですが、マリアは向こうへ行って話を聞けばその方が楽ですから、おそらくかなり手伝わされて、十三人前のおかずというと相当なものですから、ちょっと疲れたのでしょう。ですから、これはいいわ、と思ってマリアは座って良い話をついでに聞いていたわけでしょう。そうしますと、後に残して、という言葉が抜けているということが、この場を表すのに大事な言葉が欠け落ちたという可能性は大いにあるわけでして、聖書は一言でも抜かしてはならないと思います。
(4)
マルタ姉妹はお金持ちですから家も広いと思います。台所と客間とはちょっと離れているわけです。それでも料理を作って、いく皿も並ぶので、その匂いはスーッと家の中に流れていって、今日の料理は何かということはわかります。
イエスも、別に匂いを嗅ぐつもりでなくても、勝手に匂いがしますから、「あ、じゃがいも」―じゃがいもはありませんね、手に入りません、あれは南アメリカですから―
今日は何かということは分かります。マルタは料理の最後を仕上げねばならない時に、それをストップしてほかの事に気を散らして、台所を離れて、マリアを連れ戻しに来たわけですね。それでイエスはおっしゃいます。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」マルタ、マルタと重ねて言っておられますのは、イエスの心が激しく動いておられることを示します。怒っておられるわけではありません。そうではなくて、マルタが一生懸命に料理を作っているのに、その料理作りに心を一つに出来なくて、こちらで話を聞いている妹のことにまで気をやって、どうしても妹を取り戻し手伝わせようという気になって、こっちに飛んで来た、と。それは料理を作るのに一つ心になっていない、その気持を憐れんでおられるわけです。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」つまり、台所のことと、こちらで話を聞いている妹のことと、その二つに心を乱して、呼んでこなくてはいかん、と心が乱れている、ということです。
そして、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」ここを普通どうとるかといいますと、こういうことになります。
イエスはマルタにこうおっしゃった。「あなたの奉仕は劣っている、妹の方がえらい。ご馳走はいらない。そんなにたんとご馳走はいらない。私の話を聞くほうが大事だ」と。これはあけっぴろげの言い方になりまして、マルタに対して失礼になります。ですが、そういう含みをイエスはここで言っておられる、と取れそうな文章になっているわけです。「必要なことはただ一つだけである。」前後関係から何を必要だとおっしゃっているかというと、イエスの話を聞く方が大事で、これが大事な一つだけであると、マルタに向かって言っておられる。あなたは料理を作っている、ありがたい、だけども、話を聞く方が大事なのだ、と。
でも、それなら初めからご馳走を作っている時に、妹が来た時に、マルタももうやめてこっちおいで、こっちに来て話を聞きなさい、とおっしゃらればいいが、そうは言われないのですね。イエスは料理も楽しみにしておられるのです。イエスはみんなが話を聞くのを喜ばれるわけではありません。みんなが話を聞いて、料理が一皿も出なかったら、何のために、お上がり、と言われたかさっぱり分からない。それはかえって失礼なことで、おいしいご馳走が出て、十二人の弟子達もいただいて、これからの伝道の力も出るというのでなければ、せっかく呼んで貰った値打ちが無い。呼んだ方も呼んでおきながら料理も出さずに、話だけ聞いているというのでは一体何だということになります。イエスも料理に期待しておられますし、マルタもそのつもりで腕によりをかけて一生懸命に家事労働にいそしんでおります。イエスがここでご馳走よりも話を聞く方が大事だと、しかも「マリアは良い方を選んだ」とありますね。マリアが良い方なら、マルタは悪いほうです。そうでしょう?あなたは悪い方を選んでいるのだと、そんなの放っておいてこっちにおいで、と言ったら、料理が出てこないのでイエスも困るから、それは言えないから言わない。マルタが放っておくわけはないので、もう盛り付けをすればいいだけになっているのですから。
ここの所を今申し上げましたようなストーリーとして考えますと、マルタは非常に気の毒です。そしてマルタに対しては、イエスの心にある考えは、妹を良く見て姉の方を落としている。これは失礼がひどすぎると思います。
(5)
イエスはそういう態度をとられるでしょうか。それは違うと思うのです。ではどうして狂ってくるのか、それが問題です。狂って来たのは、マルタが一つ心で美味しい料理をイエスに差し上げたいと思って、一生懸命料理に体当たりしている時には、「マルタ、マルタ、今良い話をしているんだから、あなたはもう料理よろしい、こっちにおいで、焦げてもいいし、もうはずしておいて半煮えでも構わん」と、おっしゃったのならイエスも大したものですが、そうは思われない。やはり、やりかけた以上は立派な料理に仕上げて欲しい。それがマルタに対する期待で、マルタがイエスにして差し上げられる一番よい事です。「おやめ」とはおっしゃらなかった。楽しみにしておられる。腹がヒクヒクしていたに違いないと私は思います。
イエスは(イエスに限りませんが)全ての人から同じ奉仕を受けたいとは思っておられません。Aという人からはAという人が一番すばらしいものを自分にしてくれればいいし、Bという人からはBという人が自分に対してなしうる最大の奉仕をしてくれればいいとイエスは考えておられるに違いない。マルタもマリアも違った奉仕をして差し上げるわけですが、それがイエスは嬉しいとしておられたのに違いない。
じゃ、なぜたしなめられたか。それは、マルタがせっかく料理で一つ心になって奉仕をしようと思っていたが、妹が座って話を聞いて手伝いもしない、はじめは手伝っていたのに、途中でお客様の方に行ってしまって、こっちに帰ってこない。ひとこと言ってこっちに帰って来た方がいいのにと、台所に立ちながら、自分がみじめになってきた。そして最後のところが大事ですから、仕上げるまでには、焦がしてはいけないものは焦がしてはいけないし、火を通さないといけないものは火を通さないといけませんし、料理は最後のところが一番大事なんです。ところがマルタは最後のところが危なっかしく、最後のところがフラフラしている。そしてこっちに飛んで来た。当時のことですから、ガスを止めてというわけにはいかないので、火がついていればついたままで、飛んで来て妹を引張っていこうと思ったわけでしょう。そういう料理にとって危なっかしいやりかたをしていることについては、イエスも気を乱された。そこで「マルタよ、マルタよ」というように、二度もおっしゃったのは、イエスも気が動転されたと考えてもよいでしょう。
イエスは「あなたは悪い方を選んだ、あるいは劣っている」と比較をしておられるのではありません。この「良い方」というのはいけません。良い方というと、良い方と悪い方、良い方の良いは、英語ならベター(better)にならないといけないでしょう。ここはbetterではないのです。形容詞は原級ですから、いうならばgoodですね。goodだとどうなるかというと、話が大きく変ります。マリアはおいしいご馳走を頂いているのだから、食べているのだから、ということです。マリアは良い方ではないのです。美味しいご馳走です。良いものを食べているのだから、です。ここを比較級に聞こえるように、英語でも比較級にしてあるのもありますし、比較級でなくても比較級に相当するようなウエイトをかけて、強調してあるものもあります。それはいけないわけでして、マリアが良い方ならマルタは悪い方ということになります。つまり、イエスの教えを聞くことは良いが、接待は悪いと、サービスからいえば百点と五十点位とはおっしゃらないとしても、かなり落差があるというのだと、接待をやろうと一生懸命朝から買出しをして、用心をして焦がさないように煮過ぎないように、色んなものをそれらしく料理している姉の方は上がったりです。イエスは料理のことも見て知っておられます。ですからそんな言い方をされるはずがない。もとのギリシャ語ではそこは比較級の形容詞は使ってありません。原級です。英語ではgoodでbetterではない。ですから、ここはマリアはおいしいご馳走を選んだ、選んでいるのだからそのままにしておやり、というわけです。お説教を聞く方が良い方で、台所で先生にご馳走する仕事をしているのは、良くない方と考えるのは大間違いです。イエスがそんなことをおっしゃるはずがないし、その形容詞が比較級でないということが、ちゃんと日本語でも表われればはっきりします。ここでは良い方というのがいけないので、おいしい一皿、おいしいご馳走を選んだと、こう言ったら良いわけです。
イエスは、それぞれの人がそれぞれの性質にかなった良い仕事をイエスにして差し上げれば、それを何でも喜んで受け入れて、それを清め、それを高められます。ホワイトカラーの方がブルーカラーよりも立派なサービスをして差し上げられるとか、知的労働が肉体労働より上だというようなことをお考えになることはありません。この頃は男の仕事が女の仕事よりも上だとはあまり考えないでしょうが、戦争が終った頃までの日本人の男性は、女の仕事より男の仕事は上だと当然のように考えておりました。しかしイエスにとっては、かいがいしいマルタも、静かなマリアもどちらもイエスを喜ばせて差し上げるという親切をいつもしてくれる女性として尊重しておられたわけです。
(6)
これは一般の家庭でも、親が子どもを見る場合でも言えることです。大勢子どもが居ましても、それぞれの子どもが親に対して尽す親孝行、親の為にする仕事というのは皆違います。勉強が良く出来る子どもは学校で全部優を貰って優等賞でも貰って、卒業の時には卒業の代表になって挨拶の言葉を述べるとか、親もそこへ行っておれば嬉しくなるような、そういうことで親を喜ばせるでしょう。弟は、そうではなく運動会の時には走って必ず一等の旗の下にあって、兄貴は最後に走ってくるのですが、弟のほうは運動会の時だけは立派な賞品を貰って帰るという風にして親を喜ばせるでしょう。親切にいつも肩を叩いてくれる子どももいます。この頃は男の子が三人もいる家などめったにありませんが、昔は、子どもは沢山産んだものです。産める限り産みました。私の母も九人産みました。三人死んで今六人残っています。男が四人で、女が二人残っています。それだけいますと色々あるわけでして、色んなところで役に立つわけです。イエスも弟子が皆同じように自分に尽してくれるのは、かえって嬉しくない。皆違っているのでありがたい、嬉しい。
イエスが常日頃から人に対してどういう風にお考えになっておられるかということが、この一こまでもはっきり分かるわけです。
どうしてそういう誤解を招くのか― 新共同訳も誤解のまま訳しています― 誤解が二千年も続いてきたかというと、それは、イエスの教えが西回りしたからです。ギリシャ哲学が行われていたギリシャへ入り、それから、ギリシャ哲学を受け継いだローマですね。その後もアメリカに渡って、やがて東へ回りかけましたが、それまでに西で受けた哲学の影響が、深く福音の中にしみこんだのです。本来の福音の持っている性質は、ユダヤ教徒あるいはユダヤ民族の考えが、イエスの福音の底を流れているわけでして、それは、霊と肉とを二つに分けるというのではありません。霊も肉も一つになって人間の人格が出来上がっているのです。体はどうでもよくて心だけ、つまり頭の方が良ければ、ほかは駄目でもかまわんと、成績さえ良ければいいんだと、入学試験に通って立派な大学に入って、入社試験、あるいは公務員試験でも受ければ、どこでも自由自在に合格する位がいいと考えるのは、これはギリシャ哲学の方からの流れに入るわけです。それは、霊と肉とを二つに分けるのですね。肉は貶める、霊は高める、そういう考えが特にギリシャでは、はやっておりましたが、ユダヤ人の考えとは合わないのです。そしてキリスト教はユダヤ教の伝統から生まれた宗教ですから、キリスト教の真理もやはり、ユダヤ教が真とする所を真としています。精神を偏って重んずるということはしません。また肉体を偏って貶めることはいたしません。復活は、霊だけが復活するわけではありません。霊も肉も復活するのです。使徒信条として、体のよみがえりとして、肉体の復活として、重要項目になっております(使徒信条までいきますと、かなりギリシャの方に近づいた後ですから、もう一つはっきりしませんが)。福音の真理の中では、体も心もその両方がそろってはじめて、人間は人間だという人格観があります。
西へ回った以上は、そして知的水準とその真理を表現する言葉のうまさと論理、それから、議論のこねあわせと言いますか、そういうものはやはりユダヤよりもギリシャの方が何倍も上手でありました。したがって、福音がギリシャの方に回りますと、やがてその影響を受けてギリシャ思想と一体となりまして、一種の習合的な、仏教でいうと習合ですね。神道で言いますと仏教化するのです。そういう状況になった。明治以後になって、それを二つに分けた。けれど、千年以上も一緒になってやっていたものを、無理に分けましたから、色々とおかしなことが未だに残っています。それから、それがやがて近代に入り、プロテスタントの世界になりましても、キリスト教は二つに分かれております。体を動かして忙しくする、外的な活動の方に重点を置く社会派と、静かに心を澄まして、落ち着いて、専ら神の福音のみに耳を傾けるという福音派、片方は多忙派と言うと、他方は静粛派と言ってもいいでしょう。片方が社会問題を重視するというなら、そんな問題はやがて消えていく問題である、もっと永遠の問題が大事だという風に考える福音派の方が正しいという見方もありましょう。けれど、イエス・キリストの福音はその影響を受けた、そこから生まれたユダヤ教がそうであったように、心も体も救われなければならないというのです。勿論、今の体のままでというわけではありません。けれども、復活体となって体を持たなければいけないわけです。
そう考えますと、このわずか5節しかない38節から42節までの箇所は、出てくる人間、口を開いているのは、マルタとイエス、どちらも一回ずつですね、たった一回ずつ。マリアは何も言わずにじっと座っている。マリアが何か言うと、ちょっとまずいですからね。何を言えばいいのか、何を言わせたらいいか、マリアが言いそうなことはちょっと頭に浮かんで来ませんから、何も書いていないと思うのですが、いずれにしても、この5節に表われている話は、この物語の書かれた紀元一世紀から現代に至るまで、今なお誤解されていると言っていいほど、深い真理を含んでいると思います。
それが福音の本質に関わる重大な問題の核心において、間違った方向にぶれているのではなかろうかと、私はつくづく思う次第であります。イエス・キリストはマルタの働きをも愛し、マリアのじっと座って耳を傾けてくれる、その心をも愛し、両者からそれぞれ肉を養い体を養い、また心を養い慰めてくれる、その栄養をイエスは喜んで受けておられる。この箇所がルカだけに残されており、ルカはむしろ女性の福音書と言われるように、女性について描くことが優れていると言われている点は、この5節を学び直すだけでも十分であろうと思う次第であります。以上で話を終りまして、ひとこと感謝を致します。
〔お祈り〕
天のお父様、今日ははるばると九州までお招きを受けやって参りました。まことに暑い、これまでの八十年間余りの生涯において味わったことのない、本当に厳しい暑さがこの夏は日本中を覆っております。その中、こうして涼しい場所をしつらえられ、そしてご一緒に、あなたの御子イエス・キリストが、愛する女弟子二人を前にしておっしゃったひとこと、またイエスに申し上げたマルタの率直なひとこと、そのことが私達に大事な真理を、また改めて考え直してみる機会を与えて下さったことを、本当に嬉しく感謝に思う次第です。あなたの福音がともすれば間違った道に捻じ曲げられ、ともすればあなたが本来かくあれかしと思われなかった方向に、福音が曲げられて進むことが何回あったことでございましょう。この箇所は今でもまだ間違った方向に捻じ曲げられているあなたのみ心を、そうではないぞと、私達に知らせてくれる箇所であろうと私は存じます。とりわけ、炊事も洗濯も買い物も掃除も、すべてを一人でするようになりまして九年間、そのことを思い出すたびにこの箇所の真理がはっきりと打ち出されていないことを思い、イエスは正しい方向を示しておられるとつくづくと思うものでございます。福音が、福音書があなたの御子イエス・キリストの真理を誰でもが分かる言葉で、しみじみと、そして幾度でも学び直し、学び返し、そして、正しい道をまた探り歩むことが出来るように描かれていることを、私達は感謝をもって見返すのでございます。どうか、今回の学びも、明日解散する時まで、あなたがここにおいで下さいまして、様々なことを私達にお示し下さいますよう切にお願い申しあげます。ひとことの感謝と願い、主イエス・キリストのみ名を通してみ前におささげ致します。
九重聖書集会2013 講話(2) MS 2013.8.18(日)
サマリアの女とイエス ヨハネによる福音書4:1~26
1さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――
3ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4しかし、サマリアを通らねばならなかった。5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16節イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
(1)
只今お読み下さいました、サマリアの女とイエスとが対話をしている所をご一緒に学んでみたいと思います。
ヨハネ福音書は、4つある福音書の中では一番新しく書かれたものです。ヨハネ福音書は非常に遅れて書かれたと言われていましたが、だんだん解ってきたことは、思っていたよりも早く書かれたのではないかということです。1934年にヨハネ福音書の断片がオックスフォード大学の24歳の学生によって発見されました。それはハドリアヌス帝時代の書体で書かれたものでありまして、カイロから120マイル離れた小さな町で見つかったのです。ヨハネ福音書は今のトルコのエペソ辺りで書かれたと考えられています。紀元1、2世紀の頃に、その断片がカイロ近くの小さな町で見つかったとしますと、1世紀の終わりまでには、エペソで完成していなければならないわけで、もっと言えば紀元80年頃には出来ていたのではないかと考えられるわけです。もちろんこれからも、いろんなパピルスが見つかるでしょうから、年代についてはまだまだ流動的であると思います。しかし、どうやら私達が思っているよりも古く出来たものだと考えていいというのが、この頃学者が言っていることです。
イエスは弟子たちを連れて自分の故郷であるガリラヤへ行かれるわけですが、その道筋は二つ可能です。一つはエルサレムからまっすぐ北に行って、サマリアを縦断する道筋です。ナザレの里にかなり近いところに出、便利がいいわけです。ただしサマリア人とユダヤ人とは当時あまり仲が良くなかった。500年以上も仲が悪かったのです。もう一つは、サマリアを通らずに、ヨルダン川を東側に越えて北に行き、サマリアは避けて、サマリアを越えたところで、またヨルダン川を渡って、ガリラヤへ行くというのが、当時のユダヤ人が取るコースでした。けれどもイエスにとっては、ユダヤ人、サマリア人の隔てもないわけですし、最初の道筋の方が距離から言っても近いのです。エルサレムからナザレの村へ行くとしますと、サマリアを縦断すれば直線で100キロ位、4日位の行程です。ヨルダン川を東へ渡って、サマリアを避けて行きますと、150キロの距離はあり、6日間の旅路ということになるわけです。4節で「サマリアを通らねばならなかった。」とありますから、他から強制的な条件がかかって、どうしてもサマリアを通らねばならないということが、イエスに迫っていたと考えられます。近いからというだけではなくて、サマリアを縦断してまっすぐ北に行くということを、神から命ぜられたと考えた方がいいのではないかと思います。そこでこのサマリアの女と出会われることになるわけです。
時は夏でありまして、あの地方には木もあまり繁っていませんから、ほとんど日陰はありません。ところどころ木は生えていても、どこででも木陰で休めるというわけではありません。ただ、シカルというサマリアの町の少し離れたところにヤコブの井戸と名付けられた井戸がありました。乾燥したところを旅しますと喉が渇くわけで、イエスはその井戸に立寄って水を飲もうと決めておられたのでしょう。疲れて井戸のそばに座っておられたとあります。正午頃であるとありまして、一番暑さも厳しい時間です。後に出てきますように、弟子達は、近くのシカルという町まで、食べ物を得るために出かけて行っておりました。おそらく、皆ワイワイ言いながら。その町までは900mぐらいと言われております。イエスは、その井戸の端に腰掛けて待っておられた。井戸辺にはおそらく木が2、3本は生えておりましょう。日陰も多少あってイエスは弟子たちが食物を得て来るのを待っておられた。
7節には、「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。」とあります。サマリアの女が一人水汲みに来ました。普通水を汲みに行く時は一人では行かないものでして、だいたい女の人達がお喋りしながら行くわけです。そして、普通は少し日が傾いて涼しくなる時に水を汲みに行くのですが、このサマリアの女は一人で真昼間に、水を汲みに来たというのです。
シカルの井戸というのは、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあります。町の近くにヤコブの井戸、シカルの井戸― 古い聖書ではスカルの井戸― があったわけです。
その土地はヤコブが買って子供のヨセフに与えた土地です。ヨセフはエジプトへ行ってエジプトで亡くなります。ヨセフの亡骸はシカルの町に埋葬する為に、エジプトからここまで運んで来られたことが、ヨシュア記24章32節に書かれています。
この井戸はとても古く深い井戸でして、30m以上深さがあったようです。普通の10m位の井戸ならば、10m位の紐で汲めますし、あるいは木に桶をぶらさげて汲むこともできますが、30mもありますとそうはできないので、これは紐でつるべを下ろさなければなりません。当時のつるべはおそらく皮で作ったものでありましょう。水を汲むのにも30mと言いますと手で繰り上げても時間もかかり、労力もいります。
イエスは女が水を汲みに来たのを見て、「水を飲ませてください」と頼まれました。イエスも喉が渇いておられたのは、午前中は一滴も飲まずにずっと旅を続けておられたからだと思います。弟子達は揃って、イエス一人を置いて町の方へ出かけて行っております。従ってここではイエスが一人おられるところに、サマリアの女が一人やってきたわけです。井戸端に男性が一人いる。水を汲みに昼間は来ないという事を知っている。近寄って行くと、水を飲ませてくださいと言う。この男性も少し変わった人だと思われましょうし、また水を汲みに来た女性にしても、めったに来ないのに、たまたま来た私に頼むとは一体どういうことだろうか。服装を見ても、その言葉からしてもユダヤ人で、サマリア人ではないと女性はすぐ気がつきます。これは何か良からぬ考えを心に抱いている男性ではあるまいかと疑ったでしょう。そこで驚いて反問するわけです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と。警戒心が内にこもっています。ユダヤ人の男性が一人でいるサマリア人の女性に声をかけることはめったにないのです。当時のサマリアとユダヤは仲良くありません。それも年季が入っておりまして、もう500年位仲が悪いのが続いておりました。
(2)
日本では今は仲が悪い土地など無くなったと言いたいのですが、必ずしもそうではありません。私は新渡戸などの研究をかなりいろんな方面からしていますので、新渡戸稲造に関係した土地へは行っております。盛岡で生まれまして、盛岡が新渡戸稲造の故郷であることは確かです。けれども新渡戸稲造のお父さん、お祖父さんがいた場所はどこか、そして死んだのはどこかといいますと、これは十和田です。十和田の町の何にも無かったところを開いて、十和田湖から溝を掘って、水を引っ張って、たくさんの田んぼを作って、何も無かった野原が何千人か暮らせる町になったのです。
それは新渡戸家が開いたのでして、今のような便利な機械のない時代に、人力で、牛や馬の力を多少借りてやったわけです。ことに十和田湖の水を引っ張ってくるのは随分の距離がありますので、その間の工事は非常に難航を極めました。十和田のあたりは、当時南部藩、つまり盛岡藩の領地でありまして、そこを盛岡が制圧していたのは当然ですが、もう少し西の方へ行きますと津軽藩の領地になるわけです。津軽は、南部藩から家老クラスの重臣が仕えていた殿様に反逆して、チャンスを見計らって独立したのです。独立というと格好がいいですが、殿様の力が無いのを見定めて、南部が行かないうちに徳川家康の許に家来になりますと言いに駆けつけて、領土を安泰にして貰ったのです。ですから津軽藩と南部藩とは江戸時代を通じてものすごく仲が悪かった。今はそんな事は無かろうと思うのですが、何か事があるとそういう事がひょっこり出てきます。津軽藩―
今で言う青森県の西半分ですが― ともとの南部藩の東半分も合わせて青森県にしておりますから、青森県は新渡戸稲造は青森県で生まれた、盛岡ではないと言うんです。けれども、ちょっと調べればわかるわけです。住んでいた家の後は残っておりますし、そこには井戸もあるわけでして、おそらくその水で産湯を使ったに違いないと思われます。新渡戸稲造が盛岡にいたのは満7つ8つまでですから、仲がいいも悪いも知らないことでありますけど、当時も仲が悪かった。従って、南部藩から北へ向かう道は津軽藩の道と通じるようには絶対にしない。両方は行き来はしないというのが通例であった訳ですね。それで今となっても、そういう風習は残っております。
十和田にも、そこに道を開いたり、川を掘って水を通した、そういう土木工事をする時に使った道具が保存されており、新渡戸記念館にあります。新渡戸稲造は自分が持っていた日本語の本3000冊程を十和田の方へ与えました。これはちゃんと公の図書館にしてよと言って与えたのですが、もらったのが新渡戸稲造の甥で、これがずるずると自分の物にしたままで新渡戸が死んでしまったので、今でも所有権はおそらく十和田の新渡戸家の持ち物だろうと思います。盛岡の人たちはこの貰った本を私物化しているというので、腹を立てているわけです。
系図についても、新渡戸家の系図は盛岡の新渡戸家が昔からの系図を持っていまして、それは立派なものです。ところが、その系図を借りて― 親類ですから貸してくれと言われれば貸さない事はない訳で、貸したのですが―
長い間持っておりまして、それをうまく曲げて繋がるように線をちょっと引けばお終いです。新渡戸稲造は津軽藩の中で生まれたのだと伝説みたいなものを作っているといったこともあります。
新渡戸稲造が生まれた場所は、今は盛岡市の生誕地跡の公園になっています。そこには多磨墓地に椅子に座っている新渡戸稲造の非常にいい格好の銅像がありますが、それと同じ鋳型で鋳た同じ青銅のブロンズ像が座っています。その他には別に何もありませんが、十和田のお祖父さんが住んでいた所の方は、お祖父さんが亡くなった後、この地を開いた方々だからと言うので、新渡戸神社を作って、この町を開いたお祖父さんとお父さん(お父さんが死んだあとお祖父さんが死にます)を祀っているのです。お祖父さん、お父さんの銅像だけでなく新渡戸稲造の像も立っています。(新渡戸稲造はまだ赤ん坊で、盛岡で暮しておぎゃぁおぎゃぁ言っていたわけですから、作らなくてもいいのに。そして新渡戸稲造が成人してちょっと痩せてすんなりしていて―本当はもうちょっと肥えているのですが―かっこいいのが立っています。)知らない人が行きますと、三代の銅像が立っているので、十和田の方が新渡戸の生誕地と思うかもしれません。
お祖父さんはそこの地に埋められています。一部のお骨は久昌寺(きゅうしょうじ)という盛岡の先祖代々のお寺に埋められています。そちらにも分骨して埋めてあるわけですね。という具合で、今もって青森県(十和田)の新渡戸稲造についての考えと、岩手県の新渡戸についての考えは合わないのです。明治以後藩が消えてからもう百五十年経ちますのに、この両県の人たちが目くじらを立てているのは、甚だ胆の小さいことで、世界を馳せ歩いて平和に努めた新渡戸稲造の後の人とも思えないわけです。しかし、昔からのいわれというのは、一遍に整理がつかないのです。何も無ければいいのですが、何か起こりますとそれがまた芽を出してくるわけです。
(3)
サマリアとユダヤとはそれどころでは無いわけでして、サマリアの方が先に異教の人たちに制圧されます。紀元前722年にアッシリアが侵入して、サマリアの全土を制圧します。アッシリアの兵隊は王の命令によって、サマリアの主な人をアッシリアに移します。全人口を移したと言いますが、何十万もの人を動かすというのは難しいので、主な人を全部移したのでしょう。その後、周辺の5つの異民族が入って土地を耕すなどすることになりました。残っていたサマリア人と、異民族が結婚することになります。そのことがユダヤ人にとっては軽蔑の種になるわけです。ユダヤにもアッシリアが攻めて来ましたが、アッシリア軍を追い払ってその時は占領されませんでした。しかしその後バビロニアによって制圧されまして、ユダヤも滅ぶわけです。しかし、ユダヤは捕囚されましても、その間信仰を失うことなく、むしろ信仰を一段と深めたということがありまして、やがて解放されました。紀元前538年に、まだ60年経つかたたぬうちですから、元の栄えていた時の事も覚えている人もチラホラは生きている、そういう状態の時にエルサレムに戻りました。
エズラ記、ネヘミア記にありますようにエルサレムへ戻って、元のような立派なものは無理ですが、神殿を再建いたしました。その時にサマリア人は、ユダヤ人が戻ってきてエルサレムの神殿をもう一回造るというので、これは手伝わねばならないと、北から来てお手伝いすると言ったのですが、ユダヤは断って追い返したのですね。サマリアは紀元前722年に亡んでそれから190年近くたっていますから、代も何回も変わっていますし、異民族と血を交えているし、信仰の方も怪しいものだと言うんで、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していました。それで、お手伝いは結構ですと追い返したので、それが揉め事の一番の発端と言われています。
それは紀元前538年から500年位の事で、今、紀元1世紀の中頃、30年頃としますと、530年は経っているわけです。それだけ経ちますと、江戸時代どころではなく、室町の初め頃に遡りますから、仲の悪さは根が深いと言っていいわけです。サマリアの方は、ユダヤはエルサレムに勝手に神殿を造ったのだから自分達も神殿を造ろうと、たいして大きなものではありませんが、ゲリジム山(881m)の上に祠を造りました。ところが、ユダヤが独立していたこの頃、紀元前129年にヨハネ・ヒルカヌスという支配者がサマリアを攻めまして、その神殿を壊してしまいます。壊したあとに作られた「集会の書」(旧約聖書続編)にはシケムに住む悪者どもと書いてありまして、サマリア人もペリシテ人(異邦人)の類だと述べられているのです。
イエスもそのことはご承知でして、「水を飲ませて下さい」とおっしゃったんですが、相手の女性がすんなり「はい、どうぞ」と言って水を汲んでくれないで、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか、おかしいではありませんか」と反論することはよくお分かりです。先祖代々対立して来たことを彼女は言っているのだというわけです。その女性がこの井戸まで、シカルの町から900m来る道で、おそらく食べ物を求めに行った弟子たちとすれ違っていると思われます。井戸へ行く道が何本もあるわけではありませんから。従ってイエスを見た時に、この人は先程出会った連中達の親方だな、大将だなとピンときたはずです。そこで、ユダヤ人に違いない、すぐには聞く訳にはいかないと言うので、「どうして水を飲ませて下さいと言うんですか」という言葉使いが出てきたわけです。ユダヤ人がサマリア人の女性に直接口をきくというような事はしないはず、という事が話題になります。
(4)
サマリアの女が「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った背景には、色々と入り込んだ、先祖代々の500年間以上のしがらみがこもっているわけです。勿論イエスもそれをご存知です。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」とあります。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」これはよほど心得て聞けば解りますが、女性には分からないのです。あなたの方から頼んで水を下さいと頼むことだろうとおっしゃった。イエスの様子を見てもイエスはつるべ一つ、袋一つ持っておられない。井戸の水を汲むには30mという長い紐が要るのですが、そんな紐もお持ちでない。なんと訳のわからん変なことを言う人だと思ったのでしょう。そこで質問をもう一回繰り返します。女は言った「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです、どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。」と。女はイエスのなりを見て、水は汲めそうにない、何も持っていないし、この水を一体どこに入れるんだと質問をするわけですね。この女性は非常にハキハキした、昨日お話したマルタのようなしっかり者であるという事がわかります。歳もかなり取っているわけでして、二十代というよりもむしろ三十がらみといったほうがいいでしょう。井戸は深くて30mもあるのです、どこから手に入れるのですか、生きた水をどうして手に入れるのですか、とイエスに尋ねました。また、「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」この辺ではこの井戸しか水は出ないのですから、乳をだす動物等もこの井戸の水を飲んで乳にしてくれるんだ。あなたは何も持たずに水をくれると言っているけど、おかしいじゃありませんかと、問いかけたわけです。ヤコブより偉ければ、ヤコブがくれたこの井戸から水が汲めるだろうけれど、まさかヤコブより偉くはないでしょうということが、含みとしてあります。
イエスは答えておっしゃいます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」これも一遍聞いただけでは、何の事が言われているのか、胸に落ちない言葉で、サマリアの女は良くわかっていません。けれど、自分は水をちゃんと取れるんだと言っているようだから、それを信じたふりをして、女も言います。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスは自分の話をずっと進めておられますし、女性の方は聞いたものの納得がいかない、一応聞いて受けた事にして、それが実現すれば自分も得だから、その線に乗って話を進めているのですが、まったく浮かぬ顔をして話しているということは、イエスにも見て取れるわけです。その顔を見て、ああ、わたしの言う事をこの女性は分かってないな、話を乗せて返事をしているな、なかなか頭のいい女だなと、イエスもご承知の上で話をしておられる。
(5)
私は大阪の船場の真ん中で生まれたのですが、先祖は京都で西陣の帯を織っていました。でも失敗しました。大塩平八郎の乱が起こる頃です。日本中で飢饉が起こって、米の値段が上がり下がりするんですね。大阪で米相場が立ちますので米は全国から大阪へ送られてきまして、今の中之島のホテルや市役所がある辺りに米相場の場所もあったのです。京都で帯で儲けた金を大阪のコメ相場に出したのです。そんなことはやるべきことではない、相場なんかに手を出すとスッテンテンになります。飢饉で米の値段が急に上がっているというので、手をだしたんですが、ガタンと下がりまして、もはや帯を織る事ができなくなりました。家をたたみ、店をたたんで一族がバラバラということになって大阪へ出てきました。
それは江戸の末期でありまして、それから大阪でボツボツ商売を起こして大正の中頃に亡くなった私の曾祖母が頑張りました。 これがなかなか女傑でして、結婚しても家を起こすのに役に立たないとすぐ旦那を追い出すんですね。5回ぐらい旦那を追い出したのです。江戸時代は強い女性は、女性の方から男を追い出すという事をやったわけでして、いつも女性ばかりが追い出されていたのではないのです。それを見て育ったので、祖父はそのお婆さんがおりますから、そんな怖いお母さんが居るところへ結婚してきても、お母さんが睨んでおりまして、これは駄目だとなると、嫁を追い出すわけですね。私の祖父は7回結婚しています。5回追い出す所までは、曾祖母自身が筆で書いたのが残っています。その後もう2回あったわけで、最後の7回目が私の祖母でありまして、祖母と祖父は年が20歳離れています。なんでこんなに離れているのか若い頃から疑問でしたが、聞いても言ってくれません。亡くなってから筆で書いた「わらわの一代記」を見ますと、5回追い返した所までは出てくるのです。小説もどきの追い返しもありまして、これはおそらく近松の作品かそれに類するような本が一杯あったでしょうから、それを見習って追い出す手立てを横取りして、実行したんだろうと思います。自分で書いているのですから間違いない。例えば、嫁をお伊勢さんへお参りにやらすと、道中危ないので番頭について行け、そして何泊も途中泊まらねばならないから帰りのどこかで手をかけろというわけです。知らん顔して戻ってくると、しばらくして様子が変で解ります。お前どうした、といってすぐ追い返します。そんなこともあった訳でして、随分悪い事をしていますから、潰れるのも無理ないと思います。
(6)
16節から段替わりになっていますが、話題が一変して、真の礼拝という内容に入ります。今までは水をどうして汲むか、あなたは水を汲む道具を持ってないのではないかと女性は言いますし、イエスの方は、わたしが与える水を飲む者は絶対渇かない、その人の内で泉となって永遠の命に至る水がわき出ると言われるものですから、そんな水が体の内からわいて出るのなら、汲みに来ることも要らないから、貰えるなら貰っても損にはならないと、ダメ元の返事をサマリアの女性はしたわけです。
ところがイエスはそこで話題を女性の夫の話に変えられます。女性は夫のことは何一つ言っていません。もう三十半ばで一回も結婚せずにその年でフラフラしているという女性はいない、夫はいて当たり前ですから夫の話に変えられたわけです。
イエスは「夫をここに呼んで来なさい」とおっしゃいました。女は答えて「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ、あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と。夫がいないと言ったが、それは嘘ではない、成程その通りだろう。あなたはこれまで一人の夫にずっと連れ添って来たのではなくて、五人の夫とは別れて、今いるのは六人目である。しかし六人目の夫とは正式の結婚の手続きをとっていないということです。
そこで具合が悪いのは、日本で連れ添うといえば、結婚して一緒に暮らしているということになります。今連れ添っているのが夫ではないというのは、同居するという意味で、役所に届けてあるかどうかはともかく一緒に暮らしているということです。イエスはそのことを言っておられるのです。今連れ添っているのは夫ではない、今一緒に暮らしているのは夫ではないとありのままを言った訳だとイエスはおっしゃいました。女性の方は自分の夫の事はイエスに何も言ってない、五人の夫がいたが全部追い出したということをイエスは赤裸々におっしゃった、それにはビックリしたわけですね。しかも、今一緒にいるのは六人目であって、それは正式に夫としての待遇をしているわけではないということまでイエスはご存知で、この人は物を見抜く人だと。だから女は言った、19節「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」言わなくても物事を正しく見抜く人だと言うので、預言者だと尊敬の念を抱いたわけです。
この女性はさらに言葉を続けます、預言者ならばこの井戸がどういう井戸であり、そのいわれは知っているはずだ、預言者ならばここの礼拝についても、ユダヤのことも、サマリアのこともちゃんとわきまえているはずだ。話をそちらの方に流しました。夫の話はもうそこでストップしまして、また別の流れの方に、女性の方から変えたわけですね。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
自分達はこの山、ゲリジム山で礼拝をしてきた。神殿は壊されてもう無いけど、あなたがたユダヤ人は「こんなところで礼拝するのでなくて、礼拝するのはエルサレムである、と言っています。一体どっちが正しいんですか、どっちでもいいんですか、どっちもダメなんですか」という問いかけです。
従来のこの箇所の解釈によりますと、結局この女性は五人の夫を追い出した、ということは女性としては相当やり手であって、あばずれ女で、かなりきついことを言う。時には相当荒っぽい言葉も使う。新しい男性を見つけると前の夫は要らないから追い出して次の人を入れる。次のもまた要らないようになれば、また乗り換える。五人乗り換えて今は六人目だということですね。それを見抜かれてこの女は、何と言い訳してもダメだという気がしたのでしょう。悪い事をした事はもう見抜かれている、悔い改めて、そのしるしとして、生贄を神に捧げなければならない。生贄を捧げるのはどの場所がいいのか、ゲリジム山の頂上なのか、エルサレムのあるシオンの山なのかと質問した、という解釈です。これは一つの質問として出したわけでして、決して心から悔い改めたという事を表明しているわけではありません。
もう一つの解釈があります。サマリア人がアッシリアの軍隊に攻め滅ぼされて国が滅んだ後しばらくして、外から来た異民族と混血しましたが、それは五種類の異民族でした。五人の夫はそれを指している。今本当の神である第六番目の夫となる者に正式に嫁ぎ直さねばならないのだけれど、この女性は、その選び(礼拝)を誤っている、正しく礼拝をしなければならない、ととる解釈です。
女性が出したのは、この山で礼拝すべきか、エルサレムの神殿で礼拝すべきかという、サマリアのユダヤ教とエルサレムのユダヤ教と、二つに分かれているユダヤ教のどちらが正しいのかという、一種の神学問題と言ってもいいでしょう。どこで神を拝すべきかという事です。神はどちらにおられるのか、ゲリジム山に神殿の廃墟がありますが、その廃墟のところにおられるのか、あるいはエルサレムのまだ建設中で工事が行われている神殿におられるのか、というわけです。女性がどこで拝んだらいいのかという事を持ち出したのは、自分が夫を五人追い出して六人目と一緒にいるとするその事の質問をイエスが持ちかけられたのを、逃げようというんで、逃げ口上に神がどこにおられるかという問いに切り替えたのだという考え方もあります。そうではなく、このサマリアの女性こそこの神学問題を提起した最初の人物なのです。ヨハネ福音書で歴史にもからまる困難なこの問題をそれまで口にした人はおりません。
一般的に女性はそういう方面には暗いというのですが、この女性が初めてそういう問題を出しました。イエスに言われてにわかに思いついたというわけではなくて、それまでもこの山の上の廃墟で、いろいろ捧げ物を捧げたり、生贄を捧げたりしているが、それは正しいのだろうか、それともサマリアを通り抜けて、あるいはサマリアを避けて東のヨルダン河の向こうを下ってエリコあたりからエルサレム神殿へ行く人もいる、その方が賑やかなようだけれど、エルサレムの神殿と、この山の上の神殿の廃墟とどちらが神を拝すべき場所なのかが、この女性のまっとうな質問であったと考えていいでしょう。この女性はイエスをだんだん信用するようになっています。ゲリジム山で神を拝せよということは、旧約聖書のどこにも書いてありませんで、拝すべき場所は申命記27章4節から26節ではエバル山と出ております。エバル山は、やはりサマリアにある山ですが、もっと高くて941mと言われています。この女性の質問は、当時のユダヤ人、サマリア人にとって先祖から持ち越された宗教問題の一つであります。どこで神を拝するか、拝する神が同じだとすれば、どこで拝するのが正しいのかという答えが必要な質問です。
イエスは言われた。21節「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」イエスは一つの宗教問題について決定的な解答を与えようとしておられます。ゲリジム山でもなく、エルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。いやもう来ている、あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。サマリア人から救いはやって来ない、救いはユダヤ人から来るのだ。
23節が一番大事です。神殿礼拝はもう終わりを告げる時が来たとイエスは宣言しておられるのです。どこでも神を拝することができる、その時がもう既に来ているという事を、イエスはおっしゃるわけですね。そのことを、あなた方サマリア人は知っていない。もちろんユダヤ人も今のところ知っていない。本当の礼拝は何処ですべきか、まことの神は何処にいますのかということは、今となっては明らかだという事をイエスはおっしゃるわけです。
(7)
23節「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」今はもうその時が来ている。今こそまことの神にまことの礼拝を捧げるその時が来ているのだ。父を霊と真理をもって礼拝するその時がもう来ているのだ、とイエスはおっしゃるのです。本当に神を礼拝するのは、心の底から、魂を広げて、そして霊をもって、まことをもって、真理をもって礼拝しなければならないと、諭しておられるのです。まこと、真理、真実、あるいは誠実は迷信の反対ですね。本当に心からです。恐れとか、祟りとか、十三番を避けるとか、黒猫をどうするとか、そんなことではなくて、心から自分の罪を神に告白して、神を礼拝するその時が、今来ているのだ、そのように礼拝すべき神は、ここの山の上にだけおられるのではないし、エルサレムの神殿だけにおいでになるわけではない。何処にでもおられるのだとイエスはおっしゃるのです。
では一体どこで礼拝せよと仰るるのかといえば、何処であろうとこの神がお創りになったこの天下、世界全体どこであっても、まことの心からの祈りを捧げる、あるいは告白をするならば、礼拝がそこに成り立つのである。だからお金や物は必要無い、神殿もいらない、お供え物もいらない。儀式もいらない、儀式の納金も必要はない。必要なのは本当に心の底から祈らねばならないと、自分が魂に覚えたことであって、また、心の底からこの度は感謝しなければならないという事を切実に痛感したその時であって、心の中に愛が溢れていれば別にエルサレムまで行かなくてもどこでも構わないというわけです。神に従えばそれでいいのであって、霊こそは滅びないものであり、霊こそは心の内に与えられている一番大事な高いもので、どこで拝するのかということが問題ではなくて、どの神を拝するか、いかなる神を拝するかが一番大事なのだという事を、イエスはサマリアの女におっしゃったわけです。これは驚くべき言葉です。ヨハネが、イエスの言葉としてこれを作ったとしても、あるいはイエスがサマリアの女に語られた言葉をその女が覚えていて後でヨハネに告げたとしても、これはあらゆる宗教を超越した言葉です。神はいずこにおいても拝することができる。神は一箇所だけではない、お札が張ってある所だけではない、また供え物がたくさん供えられている所に神がおられるわけではない。あるいは、神はある一定の日だけそこにおられる訳ではない。神はいつであろうと何処にでもおいでになるんだ、と。だから魂を開き、愛を開き、心をぶちまけて神を拝すれば、あるいは告白すれば、神はその真実によってそれを聞いて下さるんだというのがイエスのここでの教えです。サマリアの女はそこまで教えてもらえるとは思ってなくて聞いたのですが、イエスの返答はさらに先を進んでいまして、これに照らして言うならば、神を礼拝するのに教会堂は必要ではない、家であっても構わない、どこにでも神はおられる、おいでにならない場所は無いということになります。
驚くべき宣言を聞きましてサマリアの女もびっくりしたわけですね、それで申しました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」彼女は洗礼者ヨハネがそういう事を言っている事も耳にしていたかもしれません。メシア、キリストが来られることは知っている、いつ来られるか、どこへ来られるかはまだわからない。この女性はわからないのですけど、来られるということは聞いて知っている。「その方が来られるとき、わたしたちに一切の事を知らせてくださいます。」メシアがおいでになった時には、わたしたちにはっきりと、自分こそは実は、真の神が人となって現れた救い主であって、今ここにその道を説いているんだという事を知らせて下さるであろう、その事を私も信じている、とこの女性は言ったわけです。
そこでイエスが最後の一言をおっしゃいます。イエスは言われた「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
その方がと言いましたから、その方、メシアつまりキリストとは今あなたと話をしているこのわたしである、とイエスは言われたのです。
しかし、ここの箇所の訳は間違いでないにしても、イエスがおっしゃりたい事を本当に伝えてはおりません。イエスが彼女に言われる― 言われたでなく、言われる、です― 「わたしである」は「エゴー
エイミー」というギリシャ語が使われているのです。「エゴー エイミー」は実は神の御名であります。
その神の御名は出エジプト記に出ています。モーセがシナイ半島のミデアンの地で、そこの氏族長の娘と結婚し、山の中に入って燃える柴を見たという話が出エジプト記3章にありますが、そこで神が「モーセよ、あなたはもう一回エジプトへ戻って、イスラエルの民に告げなさい。イスラエルの民は全てエジプトから出て、自分達の先祖の、父祖の地へ戻るようにしなさい。その事を民に告げなさい」とモーセにおっしゃるのですが、モーセは「自分には到底一族を率いて行く力はありません。自分は現に追われてエジプトから逃げてここに来ているのですから、とてもそんな力は無い」と言うのですが、神は「いやあなたは救える、イスラエルの民を率いるだけの力はあなたに与えられる、ですからあなたは民を率いて出なさい。」そこでモーセは「では、一体、神のお名前は何ですか。わたしたちの先祖代々拝んできた神であるにしても、そのお名前をなんと申したらいいのですか」と聞いたので、神が名前を伝えられました。それは「わたしは在る」と、英語で言うと「アイ
アム」、ギリシャ語では「エゴー エイミー」なのです。旧約の古い訳では「在って在る者」「在りて在る者」と書かれています。それは、あらゆる一切の存在の根源である、そういう意味でしょう。それが神の名であった。モーセはそれを覚えて帰って、エジプトから民を率いて出ます。その名前をイエスはここで使っておられるわけですね。「わたしは在る」というのが最初に来ているのですから「それはあなたが話しているこのわたしである」と言うと、今そこにいるイエス、人間イエスということになりますから、それを返答としておっしゃったのではなくて、「わたしは在る」。つまり「わたしは在る」というのは、まことの神であるという事です。わたしこそは「まことの神である」。そのわたしがあなたと話しているという事が言えるわけですね。ですから「わたしは在る」というのはむしろ、神の名前としてイエスが自ら名乗られたとしてカギで、二重カッコのカギ(『エゴー
エイミー』=『わたしは在る』)で囲った方がいいわけです。
ヨハネ福音書では10箇所ぐらいそういう場所が出てきます。ちゃんと囲ってある所もあるのです。一貫して『エゴー
エイミー』は神のお名前、神名です。ここは、ただわたしであると言う事を言いたいのではなくて、「わたしは在る」。つまり神の名前、わたしこそはまことの神であると、イエスは女性に名乗られたわけです。
その事はイエスが逮捕される場面にも出ています。ヨハネ福音書18章4節から捕手達がイエスを囲み、捕まえようとする。イエスは起こることを何でも知っておられる。そこで「だれを捜しているのか」とイエスが問われると、5節「ナザレのイエスだ」と彼らが答えると、イエスは「わたしである」と― ここも「わたしである」というのは具合が悪いんで、『わたしは在る』。つまり『わたしは在る』とのたもうた神である、ということです―
言われます。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスは「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか、私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」そこは「わたしである」は二重カッコになっています。特別の称号であるという事を表しているのですが、「わたしである」でなくて「わたしは在る」と言うんですね。「わたしは在る」、「わたしは在りて在る者である」という神の名称です。ここで不思議に思うことは、イエスが「わたしは在る」と言われた時に皆、背後へ下がってひっくり返ったんですね。どうして名前を聞いたら後ろへ下がってひっくり返るのか?これが神の名称、まことの神の尊称であると言う事を捕手たちも知っていた。それまでもヨハネ福音書では何回も出てきますようにイエスは『エゴー
エイミー』『わたしは在る』という言葉が実は神の名前であり、現に話している自分自身のことをいうのだという事をここで表明されているのです。捕手はその事を知っていまして、ここにまことの神がついに人となっておられるのだと知り、その威厳に圧倒されたのです。ですから後ろへ下がって、ひっくり返ったわけです。でなければイエスが「わたしである」と言われただけでどうして後ろへ下がってひっくり返りますか。
そう考えますと、4章のサマリアの女との問答の箇所もこの訳では具合が悪い。それは「あなたと話をしているこのわたしである」ではただの返事になりまして、この、『わたしは在る』というわたしは、一切の存在の根源であるという、神ご自身が自らを名乗られた時のその尊称が、ここで使われていることが表われていませんから。それを表すとしますと、訳はどうしても「『わたしは在る』、そのわたしが今あなたに話している」としなければ、ここは話がうまく続かないですね。
女性は宗教のことは物知りですから、イエスが「『わたしは在る』、そのわたしがあなたと話しているんだ」と言うのを聞くと、その意味が分かったわけです。
イエスご自身が実は神の独り子であり、人となった神であり、今その教えを伝えて歩かれるのだという事を、この女性にも明らかに示されたのです。
また新しい聖書の訳が作業中のようですが、訳している人たちはそれが解るように訳してくれるかどうか、私は心配でなりません。また同じような、これだけの説明を加えねばならない訳だと、何の為に訳して、また三千円払って買わねばならないかですね。半端ものを作らないで欲しいなと思います。
(8)
このサマリアの女とイエスの物語ですが、イエスはたった一人だけのサマリアの女にこの話をしておられるのです。この後で昼食を買って弟子たちが戻ってきます。おにぎりか何か知りませんが、買って急いで帰る所で女とすれ違いますが、あの女はどうでしたかと聞かれて、イエスは簡単に弟子たちに話されたでしょう。そして、この女性も村で自分は凄い人に出会ったということを早速触れ回るわけです。次の段落で「この方がメシアかもしれません。」と言います。本当に人となられた神がそこに立っておられたという所まで一気には分からないにしても、イエスが単なる物知りや学者ではない事は良く分かっていたと思います。
このやり取り、イエスに尋ね、イエスが答えられると言うので13回やり取りしているのですね。ヨハネ福音書で一対一の二人が13回も問答を交わすのが載せられているのはこの女性だけです。その他に多いのは誰かと言いますと、昨日お話しましたラザロの復活で登場するマルタです。それからもう一人マグダラのマリアですね、イエスが復活された後で出会って言葉を交わします。しかしイエスが伝道しておられる間に一番長くイエスと話を交わしたのは、このサマリアの女性です。
ユダヤにも女性がおり、例えば母マリアも結構聖書のことは詳しく良く知っていて自分にも教えてくれたのに、イエスはどうして母マリアには言わずに、サマリアの女性にこんな大事なことを、もったいなくもおっしゃったものだ、という気がしなくもありません。しかしここで説かれていることは、神は木や石や其の他諸々の人間が手に入れた材料で作った建物の中に閉鎖的に住んでいるお方ではない、そこへ行かなければならないという事はない、もちろんそこにも居られるでしょう、しかしそこでなければならないと言うのは人間の思いが籠っているので、お創りになったこの宇宙のどこにあっても神はおいでになるのだという事を、イエスはここで示しておられるわけです。
紀元一世紀にこれが書かれたとしますと、世界のどの宗教にも存在しないような真に深淵、広大な神観、神についての思想が展開された。こういう神についての考えを展開し得るのは、神の御心を充分に知っている者以外は出来ない事でして、それは、イエスをおいて他にあるはずもございません。サマリアの女は名前も出ませんし、ここだけで、二度と登場しておりません。けれども非常に重要な箇所だと考えます。
現在のキリスト教を考えましても、無教会は別として、それ以外はここの箇所に沿って神を考えている訳ではありません。神を人間が造った建物の中に閉じ込めるという、イエスが教えられた神の道ではなくて、それとは違う人の道を横にへばりつけている感じがしなくありません。しかし、世の終わり、終末の時には神ご自身が現れ、イエスが終末を取り仕切られるわけでして、その時には今ある神殿、石や木で作った神殿は一切必要ありません。今、影絵の様なものしか見ていないのではなかろうかと思われるわけです。イエスはこの女性一人
― ユダヤ人が軽蔑するサマリア人― に、良くわからないのを承知の上で、この貴重な教えを与えられたという事を考えますと、まことの神が自らを示されるのは、決して民族とか、血族とかに頼ってでないことが分ります。本当の教えは、何ら関わりのない、血のつながりの無い民族の人であっても、しかるべき人に明らかにされるという事がここからもわかるわけです。
内村鑑三に私は出会ったことはありませんが、神に見込まれて、神を知らされて、それを真に受け止めて一生多くの苦労を舐めながらも、その間すがり奉って、死ぬまで歩んだ人だろうと思います。以上で終わります。
☆ 編集後記
今年の「福岡聖書研究会だより」も、集会の皆様からのメッセージ等に加えて、MS先生のご講話記録 ― 録音からの活字化をして下さったMW、NK子両姉に感謝
― を戴くなど、充実したものとなりました。分厚いものになってしまい、お読みになるのが大変だ、と思われるのではないかと危惧します。しかし、読み返してみると、全体の基調はガラテヤ書でパウロが言う“聖霊の実”―
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制 ― に満ちていると感じます。ゆっくりお読み下さいますようお願いします。そしてホッとしていただければ嬉しく存じます。
最後にお勧め図書を一つ。「原子力発電の根本問題と我々の選択 ― バベルの塔をあとにして」日本クリスチャンアカデミー編、新教出版社刊。
新しい年も皆様の歩みに主の御祝福、ご平安が豊かでありますように。(秀村記)
第33号
2009.12.20
福岡聖書研究会
目 次
ごあいさつ
集会の歩み
聖書講話(抄録)
メッセージ
特別寄稿
あしあと
編集後記
集会案内
ごあいさつ
秀村 弦一郎
クリスマスのお慶びを申し上げます。
この1年も主は私たちの貧しい歩みを祝福し、お守り下さったことを憶えて感謝したいと思います。
福岡聖書研究会の第1回の集会がもたれたのは昭和7年2月14日であります(福岡聖書研究会40年誌「祈りの花輪」・野村実
記)。1932年のことですから今年で77年、喜寿を越えたことになります。内村鑑三の召天(昭和5年3月)後ほどなく、その年の5月に内村先生追悼会を11人で開催、「またこんな集まりをもちたいものだ」と話し合われたのが実現したのでした。
戦中戦後の時代を経て今日まで、会堂無く、聖職者無く、制度無く、資金も無く、しかし変わることなく集会がもち続けられたことは驚くべきことと申せましょう。人間の頑張りでは到底為しえないことだと思います。神様のお許しにより、また多くの先輩方の信仰によって歩み続けることが出来ていることと、畏れをもって感謝したいと思います。
傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのない(イザヤ42:3)お方が憐みをもってお守り下さっていることを心に刻みたいと思います。
* * *
今年7月私たちは内村鑑三の93年前の祈りが成就していたことを知り、大変驚きました。
福岡聖書研究会の旧くからのメンバーであられたKYさんが召されたのですが、ご葬儀にあたって次のことを知ったのでした。
KYさんは上記の福岡聖研発足の中心人物であられた田中謙治氏の5女としてお生まれになったのですが、その名は田中謙治氏の要請により内村鑑三によってフィリピの信徒への手紙に因って付けられたのでした。
キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ:2:6~11)
ここは原始キリスト信徒たちの讃美歌であったと言われている箇所ですが、内村は祈りをもって赤子にこの讃美歌を贈ったに違いありません。KYさんはピアノを良くする方で(音楽教師もされました)、学生時代から晩年に至るまで福岡聖研の礼拝での讃美歌伴奏をずっと続けられたのでした。
そのお名前どおり実に謙虚な人柄でありましたが、伴奏という謙遜な姿で一生讃美歌を歌い続けられ、93年の生涯を閉じられたのです。内村鑑三の祈りが成就していた!
人間の思いを超えた神様の御祝福が現実のものとして確かにあり、それは人の気付かないところで進行するのでしょう。その平安に満ちて眠っておられたお顔は忘れ難いものがあります。
私たちの礼拝が長い年月守られていることに、KYさんをはじめ多くの天に帰られた先輩たちの祈りをいただいていることも憶えたく存じます。
☆
集会の歩み
今年聖日礼拝で講ぜられた聖書の箇所と講師は次の通りです。5人の講師により旧約、新約をほぼ交互に学びました。
講 師 聖書の箇所 期 間 開始年月日
大園 正臣 ミ カ 書 7章 1~2月 2007年11月
使徒言行録 3~12月
秀村弦一郎 ヨハネの手紙一 2~5章 1~4月 2008年 9月
ヨ
ブ
記 4~7月
マタイ6章(主の祈り) 9月
創世記2~3章(楽園喪失) 10月
ロマ書8章(神の愛についての凱歌)11月
イザヤ書53章(主の僕) 11月
ヨハネ黙示録21章(新天新地)12月
松尾 晴之 ルカ10章(マルタとマリア) 6月
松村 敬成 詩 編 3~11月
71編、 8編、90編、1編、51編
光石 栄 エゼキエル書20~28章 1~12月 2000年10月
以上の他に次の通り特別集会を持ちました。
▲ クリスマスの集い
2008年12月13日(土) 会場 西南学院大学博物館(ドージャー記念館)講堂
司会:KO氏
講演:MI氏「神の国の約束に生きる」
HE氏 バロックヴァイオリンによるコンサート
MI氏が神の約束・支配は揺るぎないものであることを自身の愛農学園、西表友和村などでの歩みを通して力強く証されました。引き続きHE氏によりバロックヴァイオリンでコレルリ、バッハのソナタ等が美しく演奏されました。最後に全員で讃美歌とDona Nobis Pacemを唱和しました。音楽会は新しい試みでしたが参加者一同(約120人)クリスマスの喜びに満たされました。天神聖書集会との共催。
▲ クリスマス祝会
2008年12月21日
講話:「イエスに出会う」秀村弦一郎
子供会クリスマス 松尾晴之
礼拝ではイエスの誕生物語(ルカによる福音書2:22~38)を学びました。
2千年前ユダヤの人々は、抑圧された闇の中にあって解放者としての救い主を求めていた。そこに与えられた喜ばしいメッセージは驚くべきものであった。「乳飲み子が飼い葉桶の中に寝ている!」という。救い主は権力・武力・富をもって支配する者ではなく、弱く貧しく、世の底辺にある者として現れたのである。
イエスの誕生物語の結びにシメオンとアンナが登場する。シメオンは救い主を見ることが出来るとの約束を信じ、待ち望んでいた。そして幼子イエスを抱いたのであった。イエスこそ万民の救い主、闇の中の光である。それは万人の罪を担う十字架の死を通して成し遂げられることである。イエスは「反対を受けるしるし」として誕生された。
イエスに出会わずして人は平和のうちに死ぬことは出来ない。人生の目的は「イエスに出会うこと=神の愛を知ること」であることをこの二人の老人が示している。
クリスマスはそのイエス・キリストが地上に来たり給うたことを感謝する日である。
引き続きこども会クリスマスと昼食感話会をもちました。
▲ TY先生を迎えての礼拝
2009年2月1日(日) 司会:秀村弦一郎
マニラの日比聖書教会宣教師であるTY先生をお迎えして「一粒の麦―フィリピンに遣わされて29年―」と題して、ご自身の歩みを通しての感動的な証を伺いました。
若い日英語を学ぶ目的で福岡の教会に通っていたが、宣教に来ていた米国人ウエインさんが海でおぼれた人を救って死んだ。その葬儀で牧師から「一粒の麦が死んで多くの実を結ぶ(ヨハネ福音書12:24)」の話を聞いたのがきっかけでクリスチャンになった。ウエインさんの両親が「息子は死んだが代わりに多くの子供を貰った」と私にも言ってくれたのが忘れられない。
新婚旅行で酷い目にあって二度と行きたくないと思っていたフィリピンに、何も知らずに(日本の戦争加害は私たちに知らされていない)派遣されることになった。神様は行きたくない道に導かれる。そして数々の不思議な出来事があった。医師から子供は出来ないと宣告されていたのに、示しを受けた牧師が派遣時に赤ん坊の為の物をくれたこと、夢で天使のお告げを受けた人が出産の入院費用を持って来てくれたことなどなど。
フィリピンの人々を助けるつもりで行ったが逆であった。良きサマリア人はイエスお一人、私が傷ついた旅人である。ガンに罹った妻の為に「そのガンを私に移して下さい」と祈ってくれてガンになったフィリピンの婦人もいる。そんな優しい心を持って単純に聖書を信じているフィリピンの人々を愛さずにおれない。フィリピンに骨を埋めるつもりである、と語られました。
▲ イースター集会・MI先生を迎えて
4月12日(イースター)
MI姉(日本基督教団福吉伝道所・MI牧師夫人)をお迎えしてイースター祝会をもちました。
「フィリピンに関わって」と題してご自身の若い日からの歩みを回顧しつつ、主の御導きにより様々な出会いを与えられ、多様な関わりを通して成長させていただいた、ローマの信徒への手紙5:1~11が指針となっている、と話されました。
I夫妻が大きな影響を受けたST先生との出会いのきっかけを作ってくれたのは、筑豊でも路傍伝道をされていた野沢治作氏であった。そして高橋先生の導きで愛農に導かれた。カネミ油症に関わって食品・健康問題に苦闘していた時である。このことがアジアや愛真高校へと活動範囲が広がるキッカケとなった。
最初に付き合った外国人はネパールの研修生。日本に馴染めず落ち込んでいた方が福吉の雰囲気がネパールに似ているということで喜ばれ、爾来良き友として交わりを続けている。
1989年、教団からの派遣牧師を訪ねてフィリピンを訪問し、人々の困窮に衝撃を受けた。5年後再度訪問して、過去の罪過のみならず今日も日本が人々を苦しめていることを知り(漁場を養殖場にしてしまう、大きな船で根こそぎ魚を取りつくす等)、また、支援する積りが多くの恵みをいただき、私にとってフィリピンは大切な存在。低い心を持ってこれからもフィリピンの人々に仕えて行きたい、と語られました。
▲YT先生を迎え合同集会
6月28日(日)YT先生をお迎えして、天神聖書集会・福岡聖書研究会の合同集会を開催、「三位一体=父・子・聖霊=」と題しての講話を伺いました。
キリスト教の中心を一言で語るとすれば、「『イエスがキリストである。そして私の主である』という信仰は聖霊によって与えられる。」ということ。聖霊は絶えず私たち一人一人のところにおられる(現臨される)キリストであり、また父なる神なのである、と力強く語られました。参加者44名、昼食会ももちました。
▲ 九重聖書集会2009
8月8日(土)~9日(日) 会場:福岡県八女市・みんなの館
講話 NW氏 Ⅰ「辺境の地での教育」
Ⅱ「ガリラヤ湖畔の沈黙」
HY氏 「試練について」
今年は福岡県八女市の自然に恵まれた「みんなの館」に会場を移し九重聖書集を開催しました。前キリスト教愛真高校長・NY氏とHY氏(佐賀聖書集会)の講話を伺いました(特別寄稿を参照下さい)。
九州各地から参加者40人、良い交わりのときともなりました。
また、こども会ももちました。
▲ TY氏を迎え合同集会
11月22日(日)
講話 「神の言葉とその力」 TY氏(徳島聖書キリスト集会)
今年もTY氏を迎え、天神聖書集会との合同集会をもちました。
Y氏は「神の言葉とその力」と題し、イザヤ書55:8~11にもある通り神の言葉にこそ力があり、また私たちの力ともなることを語られました。出席者34人。
私たちは人間の言葉の洪水の中にいる。しかし人間の言葉の賞味期限は短い。あっという間に忘れ去られる。それに対して神の言葉の賞味期間は長い。聖書は何千年も変わることなく神の言葉を語り続けている。それは力を持っているから。創世記の冒頭から神の言葉(光あれ)の力が示されている。
神の言葉の力は様々なあり方で顕わされてきた。
神の言葉を日本人に伝えるためにヘボンは多くの苦しみ・悲しみを乗り越えて来日、明治期に日本語訳聖書誕生のために与えられた力を尽くした。
視覚障害者であった好本督は神の言葉の点字化(世界で2番目に点字訳聖書を完成)を成し遂げた。ライトハウス(視覚障害者の施設)を作った岩橋武夫はヨハネ福音書9章(生まれつき盲人であるのは神の業が顕われる為)の言葉によって力を得た。 平和憲法の源泉も聖書の言葉にある。
しかし、今日の日本はみ言葉の飢饉である。キリスト者は0.8%に過ぎない。中国には1億人のキリスト者がいる(アメリカに次ぎ世界で2番目)。私たちは神の言葉を宣べ伝えなければならない。収穫は多いが働き人が少ない。
▲クリスマス講演会
12月19日(土)午後 会場 西南学院大学博物館(ドージャー記念館)講堂
司 会 秀村弦一郎
講師と演題 MI氏 「主は来ませり」
AT氏 「原初史(創世記1~11章)を読む」
なお、同日午前中にAT氏によるイスラエル発掘のスライドとお話の会ももちました。
▲ クリスマス祝会
12月20日(日) 1部;礼拝 聖書講話 (秀村 弦一郎)
2部;日曜学校クリスマス
3部;昼食・感話会
☆
聖書講話(抄録) (50音順)
福岡聖書研究会では毎日曜日の聖書講話をハガキ1枚に纏めて(講話担当者
が書く)高齢の方や病気等で欠席の方に「週報」として届けています。
下記のうち、秀村、松尾、光石のものは週報として記載されたものです。
使徒言行録とその時代背景について
大園 正臣
私は神奈川県(川崎、相模原、横浜)に住んでから現在まで約30余年間、主として創世記出エジプト記をはじめエレミヤ書など旧約聖書を関根正雄先生の著書を通して多く学んで来ました。そして現在、使徒言行録を学んでいます。それは何故かと言えば聖書は全体で約二千ページに及ぶ分厚い本でその学び方は、歴史的な流れに沿って筋書きを学ぶ事が、所々の美味しい箇所を選んで学ぶより良いと思うからです。また重要だと思います。今から顧みると聖書の読み方理解の仕方としては良かったのではと思います。今年からは新約に入りまず第一に使徒言行録を深く学ぼうとして三章まで来ました。この時代はAD40年前後で、ここでの主宰者は復活の主イエス様(聖霊なる神様)です。そしてその弟子達、使徒(復活の証人で生前のイエスと行動を共にした人達)のイエスの福音を証しして伝道して行く記録をルカ伝の著者ルカがルカ伝の続き(ルカ文書)として書かれたものです。ルカの思想、考えの基本は旧約聖書で預言された事が、基本的に新約に入ってそれが実現した、と言う筋書きで書かれています。また事象は全て偶然にではなく、起こるべくして起こったという事です。またこの様に新約聖書は旧約聖書の大きな流れに沿って一体をなしています。そして大事なことはイエス様の十字架の死と復活について(福音について)の証人となって行った事です。
イエスの死は死で終らずに三日目に復活しました。復活したイエスは、弟子達に聖霊があなた方に下る時、あなた方は力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となること、と告げ(命令、指示)ました。主の約束を信じて、弟子達はひたすら心を一つにして熱心に祈り続けました。ペンテコステの日に天から聖霊が激しく下って来ました。その日以来、召命を受けたペトロを始め弟子たちは、使徒と呼ばれ、エルサレムに於いて福音を大胆に力強く伝え始めました。多くの人々がそれを聞いて仲間に加わって来ました。その結果、預言されて来た約束が見事に成就して行く様が、ユダヤ社会にイエス様の福音に対する信仰が目に見えるように拡がって行ったのです。これらは主なる方が昔から十全な準備をされて来たからです。その主な事前準備としては
1)キリスト降誕の準備:神の御子イエス降誕は歴史上最大の出来事であり、人類救済の神の経綸は長い準備期間が終り、ここにその第一歩を踏み出したのです。
2)イスラエルによる準備:神様の審判によりバビロンに捕囚の身となり、解放されて帰還に際してバビロンに留まる人がまたローマ帝国内の他国にデアスポラとして各地で生活した人が大変多く出たこと。
3)ギリシアによる準備:アレクサンドロス大王の東征の結果、地中海世界へヘレニズム文化が広く普及し、ギリシヤ語が当時の世界共通語となったこと。コイネー(共通)と呼ばれる簡素化されたギリシア語が、日常語であったので、ヘブライ語聖書がこれに訳されて新約聖書は庶民のものとなった。当時のギリシヤローマ世界で誰でも良く理解されたこと。
4)ローマによる準備:ローマ歴代の皇帝によって平和の時代が200年間も続いて、ローマ帝国内で自由に宣教が可能になったこと。また交通網が発達し通商が盛んになりキリスト教は自由に宣教できたことです。
この様に歴史上大変恵まれ三拍子揃った時代が出現したのでした。神が世を救う為、聖霊を遣わされるために備えて下さった大変良い時代だったのです。これらが合い働いて、キリスト教は神様の祝福の内に出発する事が出来ました。
ヨブ記を学んで(5回の聖書講話)
秀村 弦一郎
1.
義人ヨブに臨んだ苦難(1~2章)
ヨブ記の主題は「神義論」。悪人が栄え、義人が不幸になる。道義は地に落ち、無垢な幼子が殺される。この世界に神の義はあるのか?
極めて今日的でもあるこのテーマを巡って、神と格闘する個人の魂が、3人の友人との問答を通して深く描かれる。
ヨブが異邦人であることに旧約聖書の懐の深さを思わされる。
歴史家カーライルは聖書の最高峰である、と言う。
義人ヨブに理不尽にも患難が襲う。それは天上での神とサタンの賭けから始まった。しかしヨブはそのことを知らない。そして4段階にわたって降り掛かった不幸(財産を失い、子供を失い、病に罹り、妻を失う)にも係らず神を信じる姿勢を変えない。サタンの考え及ばぬ驚くべき信仰である。
この信仰者の姿はイエス・キリストを指し示していよう。イエスほど理不尽な目に遭われた方はいない。これ以上ない義人(罪と無縁な神の子)が十字架という極刑に処せられた。そして神に見捨てられたそのどん底で「わが神、わが神、何ぞ我を見捨て給いし・・」と神に縋られたのであった。
そのイエスと出会うことによって私たちは救われる。一方的な恩恵によって。
しかし、イエスを知らぬヨブは神に自己の義を訴えて苦闘することにならざるを得ないのである。(4/19)
2.ヨブと3人の友人との弁論
第1回(3~14章)
黙す3人の友人を前にヨブは自分の生を呪う嘆きの言葉を発するが、ヨブの苦しみは患難の中にあって神の光を見失い、絶望の闇に陥ったからであった。
深い嘆きの中にあるヨブに対する友人たちの基本的な考えは「応報思想」である。幸・不幸にはその原因があると。
そして「応報思想」は信仰の「幸福主義」と深くつながる。信仰は義であって、その実りとして幸福をもたらす筈だと。友人たちの語るこの思想、自分の幸福を求める(自己神化)信仰は、天上でサタンが指摘したものであった。
これを主張する友人達に対しヨブは自己の義を楯に神の義に迫る。友人との第1回の対論を通して、①神と自分の間に仲裁者を求める、②死の彼方に神の恵みを見る、等の新たな境地に至る。冷酷とも言える友人達の発言に対して必死に応答し、神に問いかけるヨブの真実は徐々に彼の信仰を深める。
「応報思想」は普遍的に見られる思想であり、旧約聖書にも明記されている(十戒など)。しかしイエスは弟子たちが盲人を前にその原因を問うたとき言われた。「本人の罪の故でも両親の罪の故でもない(応報思想否定)。神の業がこの人に現れるためである(ヨハネ9:3)」と。イエスは幸も不幸も、全てのことを神の栄光のために用いて下さるのである。(5/7)
第2回(15~21章)
ヨブに対する友人たちの弁論は回を重ねるにつれ慰めや励ましの言葉を失い、厳しい叱責となってゆく。その内容は相も変わらぬ応報思想(信仰においては幸福主義)である。
ヨブは義と信じる自分へ不条理な仕打ちをなし給う神と格闘しつつ、神に怒りの神(審きの神)と併せ執り成しの神(惠の神)の二面を発見する(16;18~22)。驚くべきヨブの信仰!そして遂に死後陰府に来たり給う「贖い主」に希望を見出すに至る(19:23~27)。ヨブの、またヨブ記の転換点であるが、イエス・キリストを指し示すものでもある。
愛なる神を知るものは応報思想で不条理を割り切ることが出来ない。そして不条理に出会う時、それでもなお神を信じ抜けるかが問われる。ヨブは直面したこの問題(神義論と信仰の幸福主義)の解決には贖い主を必要としたのであった。
「贖い」とは失われた存在を、代価を払って取り戻すこと。私たち人間は本来愛なる神と共に永遠の命の中にあるべきであるが、罪のために死に渡されている(失われている。これぞ不条理の極み)。そこから神は独り子イエスの死という代価を払って私たちを贖い出して下さった(ロマ3:23~25)。
そして私たちが不条理の中に生かされているのは、その贖い主に出会わんがためなのである。(5/31)
第3回(22~31章)
ヨブと友人たちの弁論も3回目となり、友人たちは寡黙になってくる。僅かにエリファズが応報思想を別の視点から語る程度である。友人たちは理論(神学)的な神を語るが、ヨブは人格的な生ける神を求めて苦闘を続ける。
贖い主としての神に希望を見出したが(19章)現実には救いに至ることがないヨブは、再び自分の潔白(義)を主張し、義人を不幸に陥れる神に義があるのか、を神に問う。不幸を招いたのはヨブの罪だ(応報思想)と言い張る友人たちとはもはや議論にならない。神の知恵に注目もする(28章)が、遂には自己の義を楯に、神に敵対しようとするに至る(31章)。
それはヨブの神に対する深い信頼を顕わしているが、同時に自分を神の如き者にせんとする危険な状況でもある。もはや解決は神ご自身の登場を待つしかなくなったのである。
ヨブの言う「義」の高い倫理性はイエスの山上の垂訓に匹敵する。私たちはヨブのように自分の義を堂々と主張出来るであろうか?否、私たちはヨブが示した罪(自己神化)の存在に他ならない。ヨブ記は驚くべき深い問題を指摘している。
イエスはヨブが仰いだ贖い主として、私たちを罪と死から救い出して下さった。そしてイエスに招かれた者は、山上の垂訓に示された祝福に与ることが出来るのである。(6/14)
3.神の顕現とヨブの応答(32~42章)
エリフの弁論(32~37章=後代の加筆)では苦難の意義を神の教育目的とし、その神は人には測り知れないものという。
さて、自分の潔白と義を携えて神に挑戦したヨブ(31章)に対して神は竜巻の中から答えられる。それはヨブが問題にした神の義について一言の言及もなく、創造者として宇宙を経綸される圧倒的な力を示されるものであった。ヨブは神から自立せんとして無に帰し、混沌に陥っていた自己を発見する。
神は再度の応答で、その混沌(ベヘモット等)を打ち破り、愛の対象として万物を造られたことを示される。ヨブも神の被造物として神の愛(肯定)の中に抱かれていた。それまで知識としては理解していた神の愛を初めて体験し、悔い改めて信じるものとなる。ヨブが苦闘した問題(神義論)は問題でなくなった。神は圧倒的な支配力で自然を運行しておられ、また人間の歩みも導いておられる。その原理は愛。義人に苦難が襲うこともあろうが、全ては神の栄光のためにある。
神の義はキリストの十字架と復活の出来事に於いて鮮明に顕わされた。自己主張によって愛なる神の支配から逸脱して(無と混沌の中に)いる私達を、一方的な恩恵によって奪還して下さったことに神の義が示されているとは驚くべきこと。ヨブの問題解決はその深い消息を指し示している。(7/19)
4. 補足 =H.S.クシュナー著「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記―」を巡って
アメリカでベストセラーになり世界に広く翻訳されたこの本をキリスト教書雑誌「本のひろば」でも推薦される方が何人かおられたので、これを機に読んでみた。
著者クシュナーはユダヤ教のラビであるが、難病で長男を13歳で失う。何の落ち度もない子供を死に至らせる神は義しいのかを問い、悩む。ヨブの神義論に繋がる。
著者はヨブ記を巡って3つの命題を掲げる(ユニークな分析は興味深い)。
①
神は全能であり、世界で生じるすべての出来事は神の意志による。
②
神は正義であり公平であって、人間それぞれに相応しいものを与える。従って善人は栄え、悪人は処罰される。
③
ヨブは正しい人である。
そして3人の友人たちは①と②を認め③を否定、ヨブは①と③を認め②を否定する。驚いたことに著者のヨブ記理解は②と③を認め、①を否定する、というのである。
創世記冒頭にあるように神は混沌を秩序あらしめて宇宙を創造されたが、まだ創造の途上にあるのであって、世界には神の手の及ばぬ混沌の部分が残っている、という。例えば地震、ハリケーンなど、そして人間社会に起こる様々な理不尽。著者もヨブもその被害者である、と。
そこで、理不尽な出来事にあって苦難に陥ったものは神に助けを求めよ、神は苦難の中にあることを良く分かって下さり、寄り添って力付けて下さる、というのである。
多くの読者がこの本によって慰めを得たそうであるが、私はヨブ記の解釈としてのこの意見には賛成出来ないと思った。
著者のいう神は「困った時の神頼み」の神であり、人間に仕える存在ではないか。結局のところ人間中心であり、自己神化の罪の問題は片付いていないのである。
イエス・キリストの十字架と復活のほかに罪の問題の解決は出来ない。キリストの福音以前に止まっているユダヤ教の限界というべきか。
しかし、この本により却ってキリストの福音の素晴らしさが浮き彫りにされる。
「 マルタとマリア」
―ルカによる福音書10:38~42―
松尾 晴之
イエスは十字架へと向かう旅の途中でベタニアに立ち寄られた。マルタという女がイエスを家に迎え入れた。マルタはマリアの姉、復活したラザロの姉であり、イエスはこの兄弟姉妹とは特別な親しさがあった。
マルタはもてなしの為にせわしく立ち働き、マリアは主の足下に座って、その話に聞き入っていた。間もなくご自身が天にあげられることをご存知だったイエスは、残されたわずかな時間に永遠の命へと至る主の愛を伝えようとされていた。マルタはイエスをもてなすことだけを思い、手伝わないマリアを不満に思い、また、そのことを咎めて下さらないイエスにも憤りを感じて、「何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」とイエスに訴えた。
イエスはマルタにやさしく答えた「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
イエスはもてなしの為に御言葉を聞かずに立ち働くマルタを憐れんでおられた。本当に必要なことは主と共にいること、御言葉に触れていること。ここにも神から一方的に与えられる愛が示されている。ただひとつ必要なことは、主の愛を受け取ることである。(6/21)
「詩編」を読んで
松村 敬成
私は今年(2009年)から旧約聖書の詩編を学んでおります。詩編の箇所は感じるままに選んでおります。今までに71編、8編、90編、1編、23編と読んで来ました。 昨年まで新約聖書の「イエスのたとえ話」を3年半、32回に亘って続けて学んで来ました。 詩編を読んで感じることは、旧約時代には見えざる神を求めて暗中模索のように―
赤子が母の乳房を慕って泣くが如く―、見えざる神を求めて訴えている姿であります。 その底には神への絶対的信頼が感じられます。 良きにつれ悪しきにつれ、神の存在を疑わず、讃美・感謝・祈り・悔改めを神に捧げています。罪を犯し、悔改めの祈り(41編や51編等)も 同じ罪に悩む私には強いインパクトを与えます。
詩編全体を読んで感じることは、神(=創造主)の無限性と、人の有限性であります。そんな宇宙の塵にも等しい人間を、神は創造の頭として作られた(創世記1章27~, 詩編8編5~)との思想です。人間には全くその主張すべき権利(勲功)がないのに、神は一方的な選び(=恵)によってご自分の民とされたと言うのです。(参照、申命記7章6~15)
これは新約聖書でしか理解できない事でして、新約聖書で、神はその独り子なるイエスを、己に背く人間を救うために人の形で人の世に降し給うたと言うのが新約聖書の福音であります。そしてイエスは地上にある間、神の国の消息を人々にわかり易く地上の事物をたとえにして語り給うたのであります。
旧約・新約夫々補いあって神の国の消息を伝えております。旧約では見えざる神に向かって、人の方から
讃美、祈りで呼び掛けておりますが、新約では神の方から人間に呼び掛けているのを感じます。特にイエスのたとえ話は人間常識を超える神の国の法則を語っているので、虚心坦懐に耳を傾けたいと思います。新約聖書から旧約聖書を読んできて、新約聖書のイエスのたとえ話が一層良く分かる様に感じております。
エゼキエル書の学びから
光石 栄
○「
火と剣・流血の町 」 21:33~22:31
21:33~37はアンモンに対する火と剣の審判です。アンモン人が神に対し反逆し、その罪の結果として招いたものです。アンモンはエルサレムの占領を見て嘲っていましたが自らもバビロン軍によって滅亡へと向かいます。
死する者の中でイエス・キリストに従うものは剣の襲来を受けて死んでも生きるのです。(ヨハネ福音書11:25参照)
22:1~31はイスラエル民族の罪の状況が列記されていて、根本は「神に背いた罪」です。殺人、姦淫、偶像崇拝、安息日を汚すこと、高利を取り、弱い貧しい人々を虐げること等が書かれています。(16まで)次に溶鉱炉の中で、銀、銅、鉄、鉛、錫を含む鉱石が集められる「金滓」の譬が記されています。金滓は残った者の救いを預言しています。(22まで)
イスラエルは国民大多数が乱れており、エゼキエルは石垣の破れ口に立って見守る者がいないと嘆いています。事実はエルサレムではエレミヤ、バビロンでエゼキエルが見守っていたのです。(31まで)
バビロン捕囚の意味について考えてみる。これはイスラエル民族が再復興するために取られた神様の配慮でしょう。最後にはイエス・キリストが十字架につかれて全人類の贖いとなられた。これは神様の大きな御計画です。 (5/24)
○「諸外国に対する預言 ― ティルス ― 」26:1~27:36
フェニキアのティルスはエルサレムの北西に位置して地中海に臨む海洋国で通商貿易によって繁栄してきました。エルサレム陥落の翌年(BC586年)バビロン王ネブカドネツァルが軍勢を率いてティルスの城壁を壊し攻撃しました。ティルスは島の上に都市があり、陥落まで12年を要したのですが、最後には大水に覆われて廃墟となり無に帰したのです。(26章)
ティルスは世界の富を集め、最高の材料で豪華船を作り、乗組員も優秀で、エジプト、ペルシャ、イスラエル、タルシシュと広く世界と交易し、銀、鉄、宝石、織物、乳香、羊、馬等全産物を商いました。しかし、バアルの神を拝み真の神に仕えず、物質文明でありエルサレムが陥落した時は嘲笑し、奢り高ぶる国でした。
神はティルスのためエゼキエルに命じて哀歌をうたわせました。エゼキエルには「神を聖としてひざまずく信仰」がありました。加藤虎之丞氏(別府聖書研究会)から「フェニキアの船に比べて、いとも小さなノアの箱舟、モーセを守った葦の小舟、ガリラヤ湖畔の小舟は沈まない。神が共にいますから。」と教えられました。(27章)(11/1)
☆ メッセージ (50音順)
心の目が開かれるように
KA
「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」
(ペテロの第一の手紙4:1~2)
この聖句に私は病気の苦しみの答えが教えられていると思います。私は今年に入ってから視力が弱くなり、聖書もよめなくなり、左目は見えず、右目も視力が0・3にまで落ちました。糖尿病網膜症ということで、手術には不安がありましたが、思い切って手術をうけました。手術時間は15分間と短く、その間私は祈りながら全てをお任せしていました。
一日おいて眼帯がとれた瞬間、光が・・・医師の顔が・・・病室がハッキリと見えました!
「目に光を与えるものは心をも喜ばせ
良い知らせは骨を潤す。」(箴言15:30)
「目の見えなかった私が、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)
退院後、聖書を開くとちゃんと読めるようになっていました。この経験を通じて、自分を護ってくださったイエス・キリストの恵みを実感致しました。今の私の祈りは、「心の目が開かれること」、即ち、パウロの以下の祈りです。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」(エフェソ1:17~18)
昨年のTY氏講話を聞いて
NA
一年前吉村孝雄氏の講話を拝聴した時の感動が今も鮮明に残っております。
①
メディアの危機感はいつも感じておりましたが、代弁して戴いたと嬉しく感じました。
②
希望の講話、希望の讃美歌で涙がポロポロ出て、自分にも涙があるのだと感動し、絶望の中自分が死んでも微々たるものでも意味あるものを残してもらえると信じ、希望をもって参りました。
③
地球の寿命についてはカルチャーショックでした。その後アクロス4F国際会議室の一般参加を許される講座(特に環境問題)は積極的に参加し、前向きに生きている積りです。
以前から聖研の松村様のお手紙等は再生紙、再々生紙等でいただき、行動で教えられました。
今年もお知らせを戴き、どんなお話を伺えるか楽しみにいたしており、秀村様の細やかな配慮に感謝いたしております。
神の言葉はとこしえに立つ
AO
主の聖名を讃美します。
草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ
(イザヤ書40章8節)―10月19日朝拝より
今年も神の言葉に支えられ、イエス様を仰いで罪多き歩みを続けてまいりましたが、お恵みのうちにクリスマスを迎える事ができますことを感謝します。
私は2年ほど前から左目が見えにくくなったと感じていましたが、白内障が進んでいることがわかり、6月に左右の目の手術を受けました。結果は視力が著しく改善され、聖書や讃美歌の小さい文字も読めるようになりました。色も鮮やかに見えます。新しい命をいただいたと心から感謝しています。
また、私どもは一昨年から家の住み替えを計画し実行してきましたが、今年の3月無事に新しい住所に転居する事ができました。その間いろいろな困難がありましたが、イエス様の「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタイ7章7節より)という御言葉に支えられ、日々の聖句に支えられ乗り越えることができました。設計、施工その他にかかわってくださり、お世話になったすべての方々に心から感謝します。
今年は7月にKY先生を天に送って集会は寂しくなりました。長い間の讃美歌伴奏のご奉仕を心から感謝します。今はご主人様、ご両親はじめ集会にゆかりのある方々も共に、天にあってご平安を心からお祈りします。
皆様に主にあるご平安が豊かにありますようお祈りします。
『信仰と真実』について
大園 正臣
私達唯一の真の神(イエス・キリスト)を信じて生活をして行く者にとって、一番大事なことは、誤魔化しの無い、口先だけでその場限りの人に諂い、迎合するような生き方、権力的な遣り方、生き方ではなく、打ち砕かれた謙遜で嘘が無く生きて行く生き方であると、私は強く思います。
私は約十年ばかり大変長く掛って集会でエレミヤ書と格闘し苦闘しながら学び、貧しく不充分な聖書講話でしたが無事に終える事が出来、大変感謝でした。
エレミヤは旧約学者である浅野順一先生が一言で言っています様に、真実な預言者でありました。またその為に悲哀の預言者でした。
真実とは一般に倫理的道徳的な響きがし、嘘が無い偽りが無い(裏表のない)ことです。信仰にとって命であり上辺の表面的形式的では駄目だと言うことです。エレミヤ書5:1に「広場で尋ねてみよ、一人でもいるか正義を行い、真実を求める者が。」残念ながら多くの人の中にもいないのです。今日の日本の大都会東京の多くの人がいる場所で尋ねても見つけ出す事は非常に難しいことだと思います。エレミヤは真実と言うことの意味を深く掘り下げた預言者でもありました。
そもそも私とエレミヤとの出会いは、大学に入学して程なく矢内原忠雄先生の『余の尊敬する人物』(岩波新書昭和三十三年版)の中です。この時まで私は聖書も讃美歌も全く知らない未開のいわば野蛮人の青年でした。
矢内原先生発行の雑誌『嘉信』の「信仰と真実」の中に、人に対して真実な心を持たぬ者が、神とキリストとに対する関係もまた人間相互に対する関係も、人格的関係たることにおいて同一である。それ故に人間関係における真実は真実なる信仰を持つ上において大変重要である。と言っておられますが至言であります。人間関係における真実は真実なる信仰を持つうえで大変重要です。
三谷隆正先生は.真実なる一生にまして神の祝福に値するものは外にないと言っておられます。また藤井武先生も信仰と真実を重視され、虚偽を大変嫌われました。そして信仰の土台を真実に置いたのです。と言うのは、真実を欠いた信仰は救い様が無いからです。私はこれからの信仰生活においても真実を最も重視して、大事にして信仰の道を歩こうと思います。これに勝る神様に祝福される道は外に無いと強く思うからです。そして栄光を全て神様に帰して行きたいと強く思います。
終わりに世界の中で唯一真のクリスチャンであるイエス・キリストの生き様により多く充分学びながら,イエス様の生き方に半歩でも一歩でも近づく事が出来る様に心し努力して行きたいものと強く願い思います。
どうか皆様の上にイエス様の恵みが豊かにありますように心からお祈りします。
賛美歌そして祈り
NK
平安がありますように。
昨年より福岡聖書研究会で学ばせてもらい、一年になります。
人間社会の中で居場所を探してウロウロと歩き回って、歩き疲れていた私に、神様は「ここに座りなさい」とアクロスのセミナールームに席を用意し、導いて下さいました。席に座ったものの、「何故私はここにいるのだろう」と自分がこの席に座っていることに答えを探しているのが正直な気持ちでした。
全く信仰の基盤が無い私は、賛美歌を素直に歌えませんでした。
聖書を学ぶ事と、賛美歌を歌う事が私の中で結びついてなかったのです。
しかし、賛美歌を歌っていると、その詩が何か私に訴えかけてくるのです。
ある時「ガラリヤの風かおる丘で」賛美歌57番を歌っている時、涙が止まらなくなってしまいました。この歌を歌うと、イエス様がお弟子さんたちとお話されている様子や、エマオの道を歩いておられる情景が自然と浮かんでくるのです。
私は九重集会に参加する時この歌を皆で歌いたいな~と言う思いがありました。
神様は私のこのささやかな願いを聞いてくれました。歌えて本当に嬉しくて、また泣けてきました。
いつか自然と私の中に賛美歌を歌う事に対する抵抗が無くなっていました。
神様が用意してくれた席に座れたことで、私にはもう一つの大きな恵みを受けました。それは祈りです。私は何と祈っていいのか解かりませんでした。
それで神様に「私に祈ることを教えてください」と頼みました。
今は朝起きると7時ぐらいから毎日祈りの時を持ち、聖書を読んでいます。
私が不思議だと感じているのは、どうしようもない落ち込みや、恐れにとらわれている時でも、日曜日の午前中皆様と共に祈りの時をもつ事で、心が軽くなっている事です。そのことを、ある方に話したら「それは、神の恵みですよ」と言われました。
全く状況は変わってないのに、心は変わっているのです。
今は「何事も思い通りに行けば嬉しいけど、そうならなくてもいい」という気持ちです。
最後になりましたが、私が嬉しい時(長男の結婚)悲しい時(母の死)秀村様を初め集会の方々に暖かい励ましを頂いた事や、お声をかけてもらったことに心より感謝いたします。
感 謝
MT
「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」
クリスマスの御祝いを申上げます。
私は近年耳は遠くなるし、物忘れもひどくなりまして、教友の皆様に御迷惑をお掛けする事が多い者ですが、毎週神様の御呼び出しに与り礼拝に出席を許され、講師の皆様の御講話、御証しに与り、豊かな御恵に感謝を深く致しております。
七月に夫の姉、KYが召されまして、秀村弦一郎様には懇ろな告別式を司って頂きましたが、CK様には東京から駆けつけてくださり、奏楽をして頂きますし、集会の皆様を始め多くの方々に御出席頂き、御祈りを頂きまして、本人はもとよりでございましょうが、家族・親族一同
心より有難く感謝申上げて居ります。
元気な間は、集会のオルガニストとして、心を込めて力強く伴奏を致しておりました姿が今も瞼に浮かんで参ります。病中も御励ましを頂きまして、誠にありがとうございました。
皆様に主の御平安豊かであります様、御祈り申上げます。
御旨のままにお導きください
MT
あのころは苦しくて、ただ夢中で神様にすがりついていただけなので、何を言ったのかは覚えていないと母は申しましたが、私は確かに母から聞いたのです。「そんなこと私に分からない。神様の御心が人間の知恵で分かるのなら、それは神様じゃないでしょ」。弟の事について私が投げかけた質問に対する彼女の答えでした。弟は自分を神様に捧げたいと会社を退職し、東京で神学を学んでおりました。ある日、43度の高熱を出し、入院したとの知らせを病院から受けて、京都から駆けつけた私たちの前には意識も朦朧となった弟が横たわっておりました。病名は脳脊髄膜炎でした。医師から予後不良だと伝えられました。弟と母の苦闘の生活はそのようにして始まったのです。数ヵ月後、弟は髄膜炎からは奇跡的に回復し、退院することができました。家族一同ほっと安堵いたしましたが、それも束の間のことでした。退院直後に弟は鬱病になり、それから五年の間、暗黒の世界の中で毎日を生きることになってしまったのです。他人は勿論のこと、母親を別にして、家族にも心を完全に閉ざし、自分の中から出てこようとはしませんでした。病状は好転せず、精神病院で過ごす日も多くなっていきました。70才を越えていた母にも本当に辛い五年間だったと思います。でも彼女は弟の唯一の受け皿としての役割を担って必死に彼に対応していました。そんな或る日私は彼女に聞いたのです。「弟はこの世の幸せを全て捨てて神様に仕えるために神学大学に入ったのでしょう。やっと退院したら、今度は鬱病。死ぬまで治らないかもしれないのよ。神様が存在するのなら、そのことを通して私たちに何を伝えようとしてらっしゃるわけなの」彼女の答えは当時の私には衝撃に近いものでした。困難の中にいる時、神様の思いを尋ねても答えはいただけない。何が起ころうともただ主に従って歩いていく。あるべき信仰の姿をそこに見たと思った瞬間でした。
人の目で見れば、弟、母、そして家族にとって、苦しく辛い五年間でした。でもその五年間は実は最も神の祝福に満たされた五年間でもあったのです。神様は本当に不思議な形で、私たちの家族を支え、憐れみをかけてくださっていたのです。25年に亘ってイエス・キリストを拒否し続けていた父が、死を前にしてイエスを自分の主として告白し、一月後に平安の内に天に召されました。父が亡くなる日の前夜には弟が父の病床にやってきました。それまで父を避け続けていた弟でしたが、その晩はずっと父に寄り添い、父のうわごとに優しく答え、手を握り続けておりました。そして彼は心の暗闇から救い出されたのです。それ以来、病気は再発することもなく、今日まで教会で奉仕し、神と人とに仕えております。
昨年の四月に牧師に躓いたことから教会を離れ、霊的にホームレス状態にあった私でしたが、その間、亡き母の声が鋭く私に迫ってくるのを感じていました。「あなたは真正面から神様に向き合ってきたのか。あなたの目は神様ではなく、牧師を見ていたのではないか。あなたと同じ人間でしかない牧師に過剰な期待をして、その人を裁いてしまったあなたは一体何者だというのか」と。そのような状態の中で私は福岡聖書研究会へと導かれました。集会の皆様に温かく迎え入れていただけたことは本当に感謝です。また今年の九月の敬老の日には私が躓いた教会の牧師さんが私を訪ねてきてくださいました。お会いした瞬間に彼に対して私が持っていたつまらない拘りは大きな喜びと感謝の気持に変えられていました。彼は教会のことには一切触れずに私のために祈りを捧げてくださいました。神様は二人の和解の時を準備してくださっていたのです。人一倍強いエゴを持つ私には難しいことかも知れませんが、母のように主に従って残された命を生きて行きたいと願っています。どうかあなたの前に私を打砕き、私の思いではなく、あなたのみ旨のままに私をお導きくださいと祈るばかりです。
感 謝
SH
今年も皆様と共にクリスマスを迎えられて感謝します。
私は、山登りが好きで、いつもは近くの里山(標高300~500m)を主に登っていますが、今年の夏休みに大山まで足を延ばしました。
そこで、次の様な文章が目に入りました。
『広野へあこがれる心 それは、何か人の心の奥底についてあるものの様に思われる。広野とは如何なる処か。
私の興味は、次第にこの言葉に集中してきた。調べてみると、広野とは、原来、「語る」という動詞から出ている。声の有る処という意味になろうか。それは、如何なることか。広野とは、人無き声無き処であると誰もが考えるであろうのに、私は不思議に思ったので、更に調べ、更に考えてみた。私が朝早く、一人遠く広野に出るのは、全く人里離れた静かな処が欲しいからである。静かに祈り、一人聖書に親しみたいからである。然るに声の有る処というのは、どういう意味であろう。私は、やがて、その意味が分かった。それは、神語る処 神の声の有る処 という意味である。神の声である。』
そこで、いつも夏休みに九重で九州各地から皆さんが集まって、集会が行われていたのだと思いました。
「見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び。」詩篇133-1
この美しい短い歌はシオンの山 エルサレムの各地から巡礼に上って来たイスラエル人がそこで心を一つにして礼拝する祝福された姿を描いています。兄弟たちとはここではイスラエル人の同胞のことで「一つになって住む」場所はシオンの山 エルサレムのことです。しかし、キリスト者にとって「兄弟たち」とは、肉体的な血の関係による同胞でなく キリストの血によって贖われた兄弟姉妹であります。「一つになって住む」場所はキリストの体である教会であると解釈されます。教会は信徒の交わりであるからです。「一つになる」とは、信仰の一致 霊の一致であります』と、ありました。私もその中に加えて頂き、皆様と共に主を賛美し、御言葉を学ばせて頂いていることを感謝します。
「ルターの時代、バッハの時代に触れる旅」に参加して
秀村 弦一郎
2年前に今井館で「無教会はルターの信仰から何を継承しているのか」という感銘深い講演を伺ったYT先生(ルーテル学院大学名誉教授)が案内して下さる「ルターの時代、バッハの時代に触れる旅」が催されると聞き、滅多にない機会と思って参加させていただいた。そして思いを超えた学びと体験の恵みをいただき、感謝は言葉に尽くせない。
若い日からルター・宗教改革の研究を志して留学されたほか何度も講演や研修などで訪問・滞在してこられたルターとバッハゆかりの地は徳善先生の「庭」そのもの、短期間に効率よく2度と訪問できないような場所、ルターとバッハが見、歩んだ跡を辿らせていただいた。
今日遠い日本でイエス・キリストの福音の恩恵に与かっている私たちであるが、この地で500年前に起こった出来事がいかに大きな神の恵みであったことか、肌で理解させていただいた。また300年前のバッハの作品を通してその喜びが今日も全世界の人々に証されていることの素晴らしさを思わずにいられない。グリューネバルトやクラナッハの絵画に深く封じ込められた信仰表現も印象深いものであった。旧東独の田園風景や歴史ある建築物の美しさにも圧倒された。
そして同地のキリスト教の状況についても考えさせられることがあった。
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500年前マルチン・ルターが歩み、席に着いたアウグスティヌス修道院(エルフルト)の一室でワイマールから来られたエルザ・ウルリケ・ロス牧師の話を聴く機会を得た。壁が出来た後、州政府の方針により旧東ドイツの人々は乳児の保育段階から無宗教を強要されて育てられてきたという。教会は苦難を耐えつつ信仰を守り牧師を育て続けた。
1989年の壁崩壊後教会をめぐる状況が好転するかと思いきや、人々は豊かな生活を求める方向に走ったほか教会の財政基盤の窮乏、イスラムや福音派の成長など別の形で旧東ドイツ地区の教会は苦難の中にある、日本が少しずつではあるが信徒が増える傾向である(ロス牧師の理解)のに対してドイツは信徒が減っているとの話であった。
そのような中、今後の教会の課題としてロス牧師が挙げられたことが印象的であった。それは「キリストへの集中」。(社会事業など教会の為すべき事の見直しも挙げられたが。)
ルフトハンザ機中で学生時代に求めた古い岩波文庫の「キリスト者の自由」を久しぶりに読み、ルターの文章の力強さに圧倒された。その力強さは「キリストへの集中」にあると感じたところであった。一修道士が新時代を切り開くに至ったあの宗教改革におけるエネルギーの源泉は、旧い教会の抱える諸問題・誤謬に対するイエス・キリストの十字架と復活の福音への集中による一点突破にあることを思わされた。
日本の教会・無教会も老齢化など様々の課題を抱えている。どこに問題解決の足場を据えるのか?それはロス牧師が語られたとおり、ルターに学び「キリストへの集中」にこそあるのであろう。
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ドイツの教会は教会税により運営されているそうである。礼拝時の出口献金もあるが、それは僅かなもので主な財源は教会税という。所得税の8~10%が徴収され(政府が2%抜く)、教会の会堂維持費や人件費に充てられる。平均一人3万円納めるとのこと(旧東ドイツでは政府が徴収してくれなかったため、教会自身で集めた由)。
しかし、ドイツも信徒が年々減少しており、今や旧東ドイツ地域ではクリスチャンの比率は約15~30%、旧西ドイツ地域でも約50%とのことである。すでに教会税の収入が減り、牧師不足も相俟って教会維持が難しくなっている所もある由、信徒減少が進むと将来どうなるか?ドイツの教会の前途も容易ではないと伺い衝撃を受けた。
興味深かったのはドイツ教会には「信徒奉仕者」という制度があり、ボランティアで牧師補助の役割を果たすという。研修・訓練によってレベルが6段階あり、その最上級レベルの「信徒奉仕者」は礼拝の説教が可能である(徳善先生も会社経営者の紳士の説教を聞かれたことがある)とのこと。これは無教会に通じるところがある。
ポスト教会税ゼロ時代のドイツの教会に日本の無教会(会堂も持たず、人件費も不要)も参考になるのではないか、と思ったことであった。
三人のご婦人を天に送って
KH
昨年から今年にかけて、私たちの福岡聖研に長年にわたり出席なさっていた、三人のご婦人を天にお送り致しました。
ATさん(’08.5.28)97歳 CEさん(’08.9.5)92歳
KY先生(‘09.7.7)93歳です。
KY先生はご自宅でピアノを教えて居られましたが、集会ではお父上の田中謙治様を助けられて、女学生の頃から讃美歌の伴奏をしてくださっていたそうです。
田中様のお宅でなさっていた集会では、エレクトーンに近い一番後ろの席にお座りになっていて、私はその隣の席にいつも座らせていただきました。はっきりとした意見を持たれていて背筋の伸びる心地よさがあって、とても親切にして下さいました。讃美歌伴奏の後継者を育てようと、娘のピアノを指導してくださったこともありました。お近くだったので、時折ご自宅におじゃまして、ピアノのレッスン室でおしゃべりさせていただくのが、好きでした。
CEさんは、包容力のある方で、いつも暖かく接して下さいました。マザーテレサを愛し、カトリックの修道院に入られていたこともあるそうです。奉仕の精神に富み、愛真高校や独立学園では大きな援助をしていただき、金田福一先生など伝道者の先生をお泊めしたり、拡大写本をお作りになったりされていました。送ってくださったマザーテレサの「日々のことば」は朝毎に聖書の後に読んでいるとお便り下さいました。「平和を求める祈り」も素晴らしく、長いこと私の座り机のビニールカバーに挟んで読み返しました。薬院にある大きな家から老人施設に入られてからも、同じ施設に居られるクリスチャンの方々と聖書の学びの時を持って居られたようでした。晩年「うつになってしまいました。」とおしゃっていたころがありました。その頃、河野進さんの詩をこよなく愛して居られました。お子様やお孫さん達お一人お一人のために祈っておられました。伺うといつも喜んで下さって、その暖かさに私が励まされて帰って来たものです。集会出席の頃は、2時間もかけて大牟田から来られていたTさんを、ご自宅に招いてお昼をご一緒されているようでした。
ATさんは東京の大学生の頃、内村先生の集会に出席されていたそうです。大牟田からお医者様のM先生とお二人で、毎週集会に通って居られました。M先生がお亡くなりになられてからは、お一人で、膝がお悪くなっていたので杖をついて通って居られました。高校の家庭科の先生を長年なさり、やさしい先生だったそうです。晩年は神奈川県の相模原の息子さんのご家族と一緒に生活されました。お倒れになるその日迄、週報のお礼のはがきを下さっていました。大牟田のお宅のお座敷から見る畑の風景はとても豊かで、この土地をTさんは愛して居られたのだと思いました。
お三人共、ご自分らしく生きてこられた方でした。愛と包容力に富み、しかも信仰を守り通され、その立派な姿に、親しみと愛情を感じながらも、すがすがしい女性の先輩たちの生き方を示していただいたと思わされました。戦後生まれの軟弱な私には、先輩達のような生き方ができるか心もとないけれど、お交わりいただいたことをかけがえのない大きな恩恵だったと感謝の念を深くしています。ありがとうございました。
「無教会青年全国集会」に参加して
松尾 晴之
クリスマスおめでとうございます。
主の御名を賛美します。
5月5〜6日の二日間、名古屋において開催されたキリスト教無教会青年全国集会に参加して参りました。
全国から集められた26名の若い仲間たちが共に喜びを持って主の御名を賛美し、また「信仰を持って生きるとは」というテーマについて語り合い、学びのときを与えられ感謝でした。
その中で、改めて与えられた学びは「伝道とは喜びの分かち合い」ということです。
オブザーバーとして参加された徳島聖書キリスト集会のTYさんの講話では「信仰は生きて行くことすべてに関わっていて、道ばたの花を見ても、何を見ても神様を感じることができる」「生きておられる神が圧倒的に迫ってきて自分を変えてゆく」ことが証しされました。
また、ゴスペルを学び、共に大きな声で主を賛美する時間を与えられ、まさに参加した全員で喜びを分かち合うことができました。
この集会の準備いただいた方、参加されたすべてのみなさま、祈りにより経済的にもこの青年全国集会に参加できるように支えていただいた福岡聖書研究会ほか、すべての方に感謝します。
なによりも、導いていただいた神様に感謝いたします。
8月より久留米勤務になり週末にも出勤しています。集会には殆ど参加できなくなりましたが、日々祈りにより、イエス様につながっていることを感謝しております。
老いの日に
HM
主の聖名を讃美いたします。そしていつもの様に集会の皆様と共にクリスマスを迎えられますことを心より感謝いたします。
自然災害・経済不況・就職難等々今年も様々な問題を含みながらの年末の様です。そんな中で大事なこととして「神を愛し 隣人を愛しなさい」との戒めを思います。でも実際には特に老年になると自分の心とは裏腹に人に迷惑をかけたり許して頂かねば仕方ない様な事ばかり仕出かしている様に思います。そんな日々の中でやはりキリストは一番身近な扶け主でいて下さいます。いつでも許しを願い祈ることによって悲しみや不安から遠のいて平安を頂いていることに気付きます。そしてイザヤ書の中で神様は身近な言葉でその御愛を示し強い支えを与えて下さっていると思います。
わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ書 46章4節)
人生の終着点
松村 敬成
昨年(2008年)1月交通事故により1ヶ月入院、以来すっかり気力体力の衰えを実感するようになりました。昨年まで年間30回近く九州の山々に登っていたのに、事故以来殆ど山には行っていません。思えば1991年、T先生の傘寿(80歳)を記念して2回九重山(1回は6月に平治岳、2回目は11月に久住山)に登ったのと(参照・南の風106号(1991年12月)NT「福岡の無教会の信徒有志による山登り」、2006年10月、KH氏(2006.6.28逝去、生前あちこちの山に案内してくださった方)の追悼記念で、SH姉、AO姉と共に九重連山の大船山に登ったのが最後に近い登山となりました。
先のT先生との登山後、T先生が急に弱られて、1999年に亡くなられたのを痛々しい思いで見ておりました。私も80歳になりますので、そろそろ自分の終末を考える時かなと自覚しております。コヘレトの言葉(古い聖書では伝道の書)12章1節(これも古い訳で)「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ、即ち悪しき日の来たり、年の寄りて、『我ははや何も楽しむところなし』と言うに至らざる先」を覚えるこの頃であります。それにしても若い日にキリスト教との出合があったことを感謝しております。登山にしても若い元気な時は、邪魔になっていた杖(ストック)が足腰が弱ってくると頼りになるように、若い時はキリスト教は飾りの様に思っていたものが、老年になり、死期が近づいてくると何よりも頼りになってくるのを覚えます。キリスト教は死んでも死なない永遠の命を約束するものだからでしょう。
私は屡々、内村鑑三の言葉『来世があるから現世に意味があるのだ。もし、現世がすべてなら、この世界は何とつまらないものか。』を引きましたが、人生の終末期を迎え、来世に対する希望を強くしております。私共の集会からも多くの先輩が天に召されました。現在では地上に残っている方々(30名弱)より天での在籍者の方々(50数名)の方が多くなりました。わたしも何れその方々に加わることでしょう。信仰を与えられたクリスチャンは死を恐れず、希望をもってその日を迎える事が出来る幸を感謝しています。
この一年
YM
主の聖名を讃美します。
この一年神様のお守りと、お恵みのうちにすごさせて頂き、クリスマスを迎えることが出来感謝しております。
今年は8月に九重聖書集会があって、出席させて頂きました。今までの場所と違って「みんなの館」という、旧尾久保小学校の跡地で、素晴らしい景観に包まれた、木造校舎を改造した建物でした。
お話は前愛真高校長のNW先生と佐賀の独立伝道者HY先生の聖書講話がありました。W先生は愛真高校の経験から、辺境の地での教育について話されました。辺境の地で若い人々に、聖書を中心にした教育をして、反対に若い人々から励まされた様子を話されました。今回は愛真高校の関係者(卒業生や父兄)も多く、和やかな雰囲気でした。Y先生はご自分の経験からの話で、感銘深く伺いました。
この一年、婦人会に出席して、自分で聖書の勉強をする事を学びました。私は婦人会の当番で、イエスのたとえ話「ブドウ畑の労働者」(マタイ20章1~16)を学びました。イエスの譬え話は深く読めば読むほど、神様の愛が示されました。今までは聖書を通り一遍に読んでいたことを反省させられました。 毎週の週報に次の週の(講義)予定が記されているので、今後は少しずつでも予習して出席しようと思っています。
貧しい婢ですが、神様の愛の内に止まりたいと思っています。 子犬も食卓から落ちるパン屑を頂くように(マタイ15章21~28)
退職時の所感
光石 栄
今年4月をもって職業人としての最後を迎えて退職となったことは感慨無量である。1955年(S30)佐賀商業高等学校を卒業して日本酸素(株)に入社し60歳まで勤務、以後関係会社2年、大分の協力会社10年の勤務で退職した時は72歳になっていた。その54年間、会社の
方針に忠実に従い、家族とともに生計を立てながら独立を維持した。
異邦人の使徒パウロも自主独立を重んじ職業をもって手ずから働いたと書いてある。『その職業はテント造りであった』(使徒言行録18・3)とのことである。
職業をもって給料を戴き生計を立てていくことは人間として絶対に必要である事を実感した。職業人としては所属企業の方針に従って企業存立のために貢献することと、その仕事の公共性、社会性があるのかと言う指針に従って判断し生きてきた。職場内では人間関係を重視し困難にチャレンジしていき、協力精神を失わず、前向きの生き方をしてきた。仕事の上で窮地に陥ったことは幾十回に及んだが、神様が守ってくださって、事なきを得ている。
職業人として終止符を打ち自由な身になったが、今までのような目標が突然に目の前から消えて、空虚となり絶望感に襲われる。元来、私は悪に走りやすく、誘惑に弱い偽善者だ。自分の利益になるようにうまく立ち回り、人を裏切りずるく動く人間である。家の貧しさもあったが、悪に傾き他人への迷惑より自分の有利になる事を喜んでしていた。
しかし、神は遂にわたしを捕えられて見逃されず、御自身の正しさを顕された。私が24~5歳のときであった。私が悪をなして挫折落胆していたとき、キリストの十字架の贖いを示され、内村鑑三先生、矢内原忠雄先生の著作を示してくださった。『私は、神の教会を迫害したのですから使徒たちの中でもいちばん小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日の私があるのです。』(Ⅰコリント15:9~10)このパウロの言葉通り、信徒となる値打ちのない私ですが、神の恩恵によって今日の私は生きているのです。
小倉のIY集会、東京のMT集会、仙台の仙台嘉信会、福岡聖書研究会、天神聖書集会、別府聖書研究会、九州各地の集会の信仰の人々に導かれて、横道にそれれば引き上げられて今日があるのである。
今、人生の四季(日野原重明医師の言葉)の最終ラウンドに来て老年期(冬)に突入している。神のお導きとキリストの贖いの御業に縋ることにより人生を全うする道があるだろう。
『だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。』(ローマ8:35)
今年の感謝
KM
今年も集会で講師の方々により、聖書の学びをさせていただきましたことを感謝致します。
日常の生活に忙殺され、つい「自分」のことが大切になって、本当に大事なこと、必要なことを忘れてしまっている罪を感じます。それと同時に「自分」の無力さも思い知らされます。
神様からの一方的な愛を素直に受け入れ、よりすがることで、罪深く弱い者でもいつも共におられ、聖霊によってとりなしてくださる事を信じ、感謝し、祈り続けて行きたいと思います。
来年も又、年老いた母と共に集会に出席させていただきたいと願っております。
皆様方のご健康と主にあるご平安を、お祈り致します。
恩恵に感謝
TM
今年も恩恵の一年であった事を感謝致します。
聖日には末娘の手を杖代わりに集会に参加させていただき、講師の先生方の心魂こめたお話を拝聴して、力を与えられ自然に笑顔の帰り道をいただいております。
神様は凡ての人をえこひいきなしに愛されて、いつも手を差し伸ばして、求める者を救って下さいます。
自己中心で、弱い信仰の私をも変わりなく引っぱって下さり愛して下さいます。最近多少足弱になりましたが、風邪も引かず健康を与えられて有り難く思っています。
どうぞ世の弱い人、悲しんでいる人々に慰めと力とをお与えください。
世界に平和を来らせて下さいますようにお祈り致します。
これからも前を向いて歩みたい・・・・・
TM
内を向いても外を向いても何と理不尽の出来事が多いことか、しかし神様は「心騒がせないで、祈りなさい」と我々に日々語りかけ、見守って戴いた一年でした。感謝です。
私事、今秋10月、34年奉職しましたお菓子の製造販売会社を退職致しました。農業界から身を転じ、工場・営業・販売の右も左も全く解らないまゝ、上司・諸先輩・社員の方々に叱咤激励されながら今日迄薫陶を受け、不備不足の多かった私なりに愛する現場を守り支え、精一杯努め、混迷不況の中、永年在職させて戴いた事に感謝でした。
業界全般に亘って、どの企業も売上・利益とも激減し、足元は手の打ちようもない現状にあります。私が勤め上げた職場も昨年10月、創業60年を機に族経営者若返りを図るべくトップの交代がありました。そして今秋、出先営業所をも含めた本体組織の大幅な刷新強化と人事刷新がなされました。出先営業所においては一足先に昨年6月、私に代わって託すべく若返りバトンタッチを進言し、実施致しました。取巻く経済・消費環境厳しい中、一企業も前途多難な船出となりました。
交代刷新の意味する所は大きな違いはありますが、目を外に向けて見ますと昨年は世界中から注目されたアメリカの政権交代がスタ-トしてから一年経ちました。
国内では、国民が今日迄支えざるをえなかった長期政権にとうとう我慢限界を超え真の政党云々ではなく、国民模索の政権交代の船出がついこの間、始動したところでもあります。消費者不在・国民不在の営みを続ける企業・国政の多い中、「遠きを図り、 いい社会・国政」を存続させる為には、「どんな境遇にあっても足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは飽くことにも、飢えることにも富むことにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることが出来る。」
このみ言葉・真意を我々にも企業にも国政にも問い正そうとしているように思えてならない。
職場を離れた今、これから新たな航路へ「遠きを図って、心を肥やす」歩みに向っていろんな事にチャレンジして行きたいと下地創りに励んで行きます。
☆
特別寄稿
九重聖書集会2009 講話(1) 2009 8.8(土)
辺境の地での教育
-ゲラルを追われるイサク-
創世記26章15~33節
NW (別府聖書研究会・前キリスト教愛真高校校長)
久しぶりに九重聖書集会に参加することが出来、嬉しく思っています。また先程、子どもさん達の足音がトントンと聞こえました。四人の子どもさんがこの会に参加して下さっていることは、とても意義深いことであると思います。それは、私もあの位の時、日曜日の集会や講習会に連れていって貰ったことを覚えていますし、私の子ども達も別府集会に参加させて頂いたことは、何ものにも代えがたい恵みとして幼い心に残っていると思います。こうして家族ぐるみで参加する会を持てること、そして愛真高校の卒業生が四人ここに加わっていることは嬉しいことです。
本当は、暫くは何も話さなく、聴く者でありたいと思っていました。というのは、愛真高校で生徒に1年間に50回近く話していますと、いつも何を話そうかということが頭から離れませんでした。2001年の4月に愛真高校に行きましたとき心に決めたことがありました。それは聖書以外のことはあまり話さない、できるだけ同じ聖書の箇所を話さないということです。そして最も苦労したことは易しく話す、短く話すということでした。
やっと、それから解放されたのですから、この1年間位は聞く人でありたいと思っていたのです。でもどうしたことか、こんな事になってしまいました。これは聖書から離れないために、こうさせて下さったのかも知れません。
(Ⅰ) 今回は創世記のイサクの話を中心に学びたいと考えているのですが、8年間、辺境の地と言っても良い場所で過ごさせて頂いた感謝を、お話ししたいと思います。
テキストに入る前に愛真高校が何故山陰の不便な地に出来たのかについて話をしてみたいと思います。キリスト教愛真高等学校は21年前に創立されたのですが、その背後には、山形の基督教独立学園があり、その創立の精神においてとても深い関係にあります。
それで、初めに基督教独立学園のことを話します。大変昔のことになりますが、大正の終わり頃、内村鑑三の下で聖書を学んでいた学生達が、何人か内村先生の家に遊びに行っていたときのことです。もうすぐ夏休みという時でしたから、内村先生が「きみ達、この夏休みはどのようにして過ごすのか」と尋ねられ、学生達は「特に何も計画していません」と答えると、先生は「二ヶ月もある休みを、若い者が計画もなく過ごすとはとんでもない」と言われたそうです。
そして、「君たち、日本で一番の僻地は何処だと思うか」と質問され、学生達が考えあぐんでいると先生はこの辺かなと言って、山形と新潟の県境あたりと岩手県の真ん中の北上山地あたりを指して「どうだ、夏休みの計画がないなら、一夏そこに行って暮らしてみるか」と言われました。丁度、イエス様が弟子たちを二人ずつ派遣したように、山形の奥地と岩手県の内陸に送り出しました。
内村先生がアメリカに留学していた時代に、日本に帰ったら、宣教師の入っていない山奥の純朴な日本人に、福音伝道したいとの願いを持っていて果たせなかったことを、若い学生たちに託したのでした。
1924年(大正13年)7月、これに答えて山形の小国には政池仁(理学生)と横山喜之(医学生)が出かけたのでした。奧羽本線の赤湯から今泉までは軽便鉄道で行き、後は徒歩で宇津峠を越えて小国に入ったようでした。そして子ども達に日曜学校をしたり、青年達に勉強を教えたり、村に溶け込んで生活して帰って来ました。
内村先生に報告すると、ふんふんと聞いていました。次の年も、その次の年も人は代わって出かけて行きました。岩手県の方は長く続かなかったようですが、山形の方はその後も続いて、内村先生が亡くなられた後も出かけています。1928年(昭和3年)夏に政池仁と一緒に出かけた人に鈴木弼美という青年がいました。彼はこの後、何回も山形の小国地方の僻地訪問を続けました。その時、鈴木弼美は東京大学の物理教室の助手として働いていました。ある日、奥さんに「東大を辞めてあの山形に行こうと思うが」とうち明けました。「あなたが行く所について参ります」といって、住居も売り払い山形の奥地、西置賜郡小国町叶水というところに、奥様と生後5ヶ月の娘さん、それに母親を伴って引っ越しました。1934年(昭和9年)5月のことでした。
そして、そこに家を建て、9月1日に、私塾「基督教独立学校」を創立し、生徒2名で始めたのでした。青年達に「霊魂の尊貴を自覚させ、基督教的独立人を養成し、どんな山間僻地の人でも崇高な生涯を送れる事を知らせるのが、学校創立の第一の理由である」と述べています。教養科目や英語などを教えながら、若者達がその土地で、何か産業を起こして生活して行ける道はないかと一緒に捜し、沢山のことを手がけました。私費で発電機を買い求め、小川の水で発電し、その電力でモーターを回し木工芸を考えたり、色々のことに挑戦しています。戦前にその部落には電気が灯りました。鈴木先生夫妻も村人に溶け込んで生活したのです。
1937年(昭和12年)から1943年の間に、二度召集されています。その間は自然休校となりました。
時は太平洋戦争末期へと突入しました。敵国の英語を教え、キリスト教を語る鈴木はスパイだとして捕らえられ、留置所に入れられました。でも村人は鈴木先生はそんな人ではないと嘆願して、敗戦の前に赦されはしましたが、厳しい監視の下に置かれました。
ところが日本が戦争に負けると、「民主主義だ、キリスト教だ」と今までとは180度変わり、「やっぱり鈴木先生の言われていたことは本当だった」と言って先生を慕い、聖書の教えを聞こうとする人たちが少しずつ与えられました。そのような1948年(昭和23年)に、新しい教育制度がスタートすることになり、新制高校を作ろうと思い立ち、男女共学、一学年の定員15名の学校を文部省に申請しました。すると「そんな小さな学校は前例がない」との理由で却下されました。困っていると、その時の東大の南原繁総長が文部省に出かけ「本当に良い教育は、この様な小さな学校によってなされるのかも知れない」と言われたそうです。その事があってか、程なくして基督教独立学園高等学校は認可されました。(実は鈴木弼美よりも10歳ほど年長の南原繁も、同じく内村鑑三の下で聖書を学んでいた人だったのです)。鈴木弼美が乳飲み子を連れて村に入って生活して15年、学生時代に山形の山村を訪ねた時からは20年以上の歳月の準備期間の後の創立でした。その事を知っていた南原総長は応援したのでした。こうして基督教独立学園高等学校はスタートしました。独立学園はその後も、教職員と3学年の生徒を合わせて100人以下であることを条件としていました。大変な時期がありましたが、とにもかくにも守られて、卒業生を送りだして来ました。
良い教育がなされる条件は、不便と思われる自然に囲まれる辺境の地であること、小さい学校であること、聖書を通して神様の静かな細き声を聞きつつ、人格と人格が深く関わり合える規模であることであると思います。
それから40年の歳月が経ちました。基督教独立学園には沢山の応募者があるようになりました。
独立伝道者の高橋三郎先生が山形は日本の東、北にある。西、南に同じ考えの学校があっても良いのではという思いの下に、祈り与えられたのがキリスト教愛真高等学校です。
基督教独立学園が日本の最も僻地に作られたのです。キリスト教愛真高等学校もこの世から離れた僻地、辺境の地に出来なければならなかったのです。
(Ⅱ)聖書を見ますと、イサクのことが創世記26章に書かれています。
その前半には、イサクとその一族は飢饉がその地方を襲ったとき、ゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクを頼って行き、妻を妹だと言ってペリシテ人の王アビメレクを騙した事や(7~11節)、神様の祝福を受けて種を蒔くと豊作で富み栄えた為、ペリシテ人が嫉むようになり、その町にいられなくなったことが記されています(12~14節)。
● 飢饉でゲラルに移り住む
イサクはリベカを妻として迎えた頃は、ネゲブ地方に住んでいたようです(創世記24章62節)。もとより雨の少ない地方ですから、しばしば飢饉が起こります。草を求めて移動する牧畜の民は農耕者と違い、経済的基盤が浅いのです。唯一の財産は羊や山羊、駱駝や牛の群ですが、日照り続きで牧草が茂らなければ、財産の維持どころか生活して行くことが出来ません。イサクとその一族にとって、生きるか死ぬかの一大事です。
それだけに、この困難に直面したイサクがどの様に対処するかは、信仰的にとても重大なことでした。
普通、遊牧民は草を求めてあちこちを移動しながら、羊や牛の肉や皮などを、町に住む人々が生産する農作物やその他の品物と交換して生活していたのです。町に定住する農耕の民は穀物などを作り、貯えも可能で経済的にも安定していました。飢饉のようなときには、まず遊牧民は取引関係のあった町に行き、生活の急場をしのぐのです。
イサクはアビメレクの所に身を寄せ、貯蔵されている食糧を、家畜などと交換して何とか食いつないだのです。
ゲラルの地も飢饉の被害を被っていたので、イサクの一族が食糧を手に入れるためには、いつもより多くの羊を提供しなければなりませんでした。そうして過ごしている間にも、羊たちは日に日に痩せ細っていきます。このままでは一族は亡んでしまうのではあるまいかという心配がイサクを襲ったことでしょう。
ここから抜け出すためには、かつて父アブラハムが飢饉を避けて、ナイルの水で常緑の国エジプトに行ったこと、しかも多くの富を得てカナンに戻ったことを思い起こし、エジプトに行けば、きっと道が開けるであろうと考えたのです。
●エジプトに下ってはならない
しかし、26章1、2節に次のようにあります、
1 アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。2
そのとき、主がイサクに現れて言われた。
「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。」
そのようなことを思いめぐらせていたとき、神様の御声が突然聞こえてきたのです。「エジプトに下ってはならない。私がお前に示す地にとどまるように」と。イサクの心の中を見抜いたかのように、その思いを制止されたのです。
エジプトの地、そこは豊かな地です。様々な偶像がこの世の権力と手を握っている世界です。アブラハムさえも失敗を犯した所です。生活の豊かさは色々の享楽と密着して人の魂をぐっと捕まえて離さない所です。飢餓線上にあるイサク達が行ったらどうなることでしょう。心を奪われ父アブラハムと交わした神様の約束に従う生き方を捨てる結果になるのは火を見るより明らかです。
イサクは目前の一族の生活問題で頭が一杯であったに違いありません。神様に祈ることさえ忘れていたのかも知れません。でもイサクが忘れても神様はイサクを忘れはしませんでした。これが「エジプトに下ってはならない」という御声だったのです。
信仰は神様と一人ひとりの魂の問題です。その御声の後半(3~6節)は父アブラハムと交わした契約と同じです。
3 あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。4
わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。5
アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」6
そこで、イサクはゲラルに住んだ。
これはイサクとの再契約であります。
エジプトに行くなと言い、この地にとどまるなら「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福する」。アブラハムに誓った様にイサクとも誓いを成就するという約束でした。
エジプトに行かないということは、この飢饉の中に留まることであり、生やさしい決断ではありません。しかしイサクは素直な人で御声に従いました。そしてリベカの信仰と勧めがあったのかも知れません。この一族の台所を担っているリベカの「神様がそうおっしゃるならそうしましょう。何とかなりますよ」という一言がイサクを決断させたと言えないでしょうか。
イサクの嫁探しの時、僕エリエゼルが早く出発しようとするのを、リベカの母やその兄弟が引き止めようとし、「お前はこの人と一緒に行くか」と聞いたときに、即座に「行きます」と答えたリベカです。
●妻を妹と言う
7 その土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。8
イサクは長く滞在していたが、あるとき、ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた。9
アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、10
アビメレクは言った。「あなたは何ということをしたのだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」11
アビメレクはすべての民に命令を下した。「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」
エジプトに下るなと言われた神様のご配慮は実に正しいものでした。アブラハムにも同じ失敗が二度ありましたが(創世記12章10~20節、創世記20章1~18節)、イサクは妻リベカを妹だと偽って自分の身の安全をはかったのです。それで自分の命は助かったとしても、一体妻はどうなるのでしょう。しかしアビメレクの方が正しく対処したことが書かれています。
この事は何を私たちに教えているでしょうか。信仰の父アブラハムにしても、その子イサクにしても、人間が考えてそれが良かろうと思う事は、この程度のことでしかないのだということ、そして、むしろ異邦人の王アビメレクの言い分は正しい事を、聖書はそれを隠すことなく書いているのです。
こうしたことを通して、アブラハムも、イサクも神様の前に真実に生きる者となるように少しずつ教育されているのです。
●イサク祝福を受け嫉まれる
12 イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、13
豊かになり、ますます富み栄えて、14
多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。
そこに住むことになったイサクは、ゲラルに幾ばくかの土地を得て、なれない手つきで種を蒔いて耕作を始めたのです。ゲラルの人たちは到底ものにはなるまいと思って眺めていたことでしょう、ところが百倍もの収穫があったのです。そこで残っていた家畜を次第に増やすことが出来、裕福になったとあります。イサクを祝福して神様が与えられたからです。
しかし、はっきりと書かれていませんが、イサクはその祝福をひとり占めにしたようです。「嫉むようになった」という言葉がそれを表しているように思います。賜った祝福の実(富)を感謝して、ゲラルの町のため、貧しい人たちのためにも用いたならば嫉まれなかったと思います。
神様の祝福により恵みを得たとき大切なのは、へりくだって慎ましくすることではないでしょうか。イサクにこの慎みが欠けていたと思われます。
●ゲラルを追われるイサク
15 ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。16
アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」17
イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。18
そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。19
イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、20
ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。21
イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。22
イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。
23 イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。24
その夜、主が現れて言われた。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。
恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。
わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす、
わが僕アブラハムのゆえに。」
25 イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。
とうとうイサク一族に対する嫉みは爆発し、井戸を塞ぎ、アビメレクは「ここから出ていってくれ」と最後通達を言い渡したのです。再び遊牧の民に戻されたのです。ゲラルの地での生活と違い苦労の連続です。しかし、その中で本当に頼るべきは生ける神であるということを学んで行くのです。
愛真高校は、自分たちが掘った井戸からの水を使用しています。何処に井戸を掘ると良いかを、地形や生えている植物、その他から当てる人がいますが、そのような人の指導で今の井戸は掘られたのです。イサクも井戸掘りの名人ではなかったかと思います。
イサクは追われて逃げて行き、そこでワディ(涸れ谷)に行って住み、井戸に恵まれます。羊も増え生活も安定するのを見たゲラルの人たちは、またイサク達を嫉み「この水は我々のものだ」と言い、そこを退けと脅される。また井戸を掘る。掘るところ掘るところ水が出て何とか生き延びることが出来、とうとうレホポト(広いところ)の地に来てほっとすることが出来ました。
こうした苦労はイサクに今一度、生き生きとした信仰を甦らせたのです。ゲラルの地で豊かに恵まれたときイサクの口に上らなかった感謝の祈りが、次々に追われて苦労した辺境の地でほとばしり出、祭壇を築いて礼拝したのです。
しかし、イサクはゲラルの地と縁を切って、更に進んでベエル・シェバの荒野に行きました。その時、主なる神はイサクに現れて彼を祝福されたのです。人が神に出会うのは、この世の逆境においてであり、荒野であり、辺境の地においてであります。この世のことに心が占領されない所で、静かに語るみ言葉に耳を傾けることがはじめて出来るのです。
●ベエル・シェバに住む
イサクがベエル・シェバにたどり着いてテントを張り、井戸を掘り、やれやれと思っていたとき、思いかけぬことが起こりました。
26 アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。27
イサクは彼らに尋ねた。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」28
彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。29
以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」30
そこで、イサクは彼らのために祝宴を催し、共に飲み食いした。31
次の朝早く、互いに誓いを交わした後、イサクは彼らを送り出し、彼らは安らかに去って行った。32
その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。33
そこで、イサクはその井戸をシブア(誓い)と名付けた。そこで、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている。
アビメレクの参謀アフザトと軍隊の長ピコルがやって来たのです。今度は文句を言いに来たのではなく友好条約を結んで貰いたいと申し出て来たのです。
何がこの様な変化をアビメレク達にもたらしたのでしょうか。それは自分たちが追い払っても追い払っても、全てを神様に委ね、次々とやって来る困難と苦労に落胆することなく導かれて行くイサクたちの姿だったのではないでしょうか。
「彼らの信ずる神は本当の神ではなかろうか」。イサクを導く神に畏敬の念さえ覚えたのではないでしょうか。敵対関係であるよりは友好同盟を結んでおこうと思わせたのでしょう。
生来、柔和なイサクはこうして周りの民族と平和を築いていったのです。これはヤーヴェの神の土着化ということが起こったということでもあったのです。
(Ⅲ)愛真高校に関係された山陰の二人の人について話をします。学校が出来るためには多くの人々の祈りがありました。具体的には、高校を作ろうという神様からの啓示があり、協力しようと動いて下さった人たち、経済的に支援してくれた方々、子どもさん達を送り出して下さった保護者の方々、薄給で職員として働いて下さる方々等、本当に数えきれないほどの事があり、今もその愛の連鎖が続いているのです。
しかし愛真高校が出来るに当たって神様のご計画は既に始まっていたということを、今日は時間がありませんので、少しだけ話します。
神様は二人の人を準備されていたのです。一人は、あの島根県江津の地に生まれた多田昌一氏です。1936年に青年多田昌一(26歳)は江津に腰を据え、その年の暮れにさや子夫人と結婚、一百姓として、浄土真宗が根強い土地でキリストの旗印を掲げ、愛と真実を求め続けて生きられていたというキリスト教愛真高校の前ページがあるのです。(『愛真』58号、並びに『石地を耕す』参照)。この様に、約50年の準備期間があって、愛真高校は人の思いを越えた摂理の中に創られたのです。
もう一人は奧出雲の地で、青年たちの教育に情熱を傾けて当たり、日登という土地に腰を据えて福音を伝え続けた加藤歓一郎氏であります。
1934年頃から奧出雲の小学校や中学校で教育に携わりながら、内村先生の語る聖書の学びに基づいて卒業した青年や婦人たちに多大な感化を与えたのです。昭和40年代から今日まで島根県の教育を担った人たちは、ほとんど加藤歓一郎先生の教えを受けた人たちでありました。
加藤先生が亡くなった後、聖書集会を続けた人たちと多田昌一氏の集会(山陰合同集会と言っていますが)、それと高橋三郎聖書集会が母胎となって愛真高校設立の具体的な働きがなされたのです。
よく福音の土着化ということが言われますが、一粒の種を蒔く前の土づくりは見えませんけれども実に大切であります。その事が神様の御計画に基づいてなされていたのです。
それは茨の生える荒野であり、水のない辺境の僻地でした。イサクの様に「8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(コリントⅡ4章8、9節)ということを素直に信じて、見えざる神を仰いでいる姿は、周りに畏敬の念を起こさせた事を私は島根の地でつぶさに見たのです。そのような半世紀に亘る福音の土着化があって愛真高校はキリストの旗印を掲げて歩み続けているのです。
この様に、神様に対して信仰が純化される為に必要であったのは辺境の地であること、そして継承するとはアブラハムの誓いを、新しく誕生した一人の人格が、神様と改めて誓うという事であります。そういう意味でベエル・シェバ(誓いの井戸)は忘れられない土地となったのです。
(Ⅳ)神様によって、荒野または辺境の地へ追いやられた記述を聖書の中に見てみたいと思います。
(1)アブラム、ウルからカナンへ
テラはアブラムとハランの息子ロトを連れてカルデアのウルを出て、カナン地方を目指してハランにやって来て、そこでテラは亡くなります。暫くしてアブラムは甥のロトを連れてカナンを目指します。これも辺境へと追いやられて行っているのです。そこで最も大切な事を神様はアブラムにされています。
(2)イスラエルの民の荒野の旅
モーセとイスラエルの民にとってエジプトを脱出した後の葦の海(紅海)での救いの出来事は、忘れることの出来ない恵みの体験となりました。そして「荒野」は、イスラエルの民が俗なるエジプトと区別されるという事のために、必要な困難、苦しみの場所でもあり、恵みに出会う場所であったのです。出エジプトは、民が「エジプトの肉鍋」を求めたように裕福な地から、貧しい辺境の地への脱出であったのです。
(3)イスラエル民の捕囚
北イスラエルはBC722年に、南ユダはBC587年にそれぞれアッシリヤとバビロンに捕囚となりました。この様な民族的な苦難と救済の体験は、その後の救済史的歴史観を決定した出来事でした。神殿のある地より離れたところに神様の恵みの力が顕わされているのです。
(4)五千人のパンの奇跡
初代信徒たちが共有している重要な思い出のパンの奇跡は、人里はなれた寂しいところで起こっています。群衆がそれぞれの住まいを離れ、イエス様に従ってついて行きました。そこでイエス様の言葉と業(讃美の祈りと愛の御業)の中に引き入れられたのです。 しかし、この感謝に満たされた者の数に驚くことはない。イエス様が殺され復活されて後、数世代でイエスの福音はローマ皇帝に脅威を感じさせるほどとなり、ついに国教となってローマ帝国を支配するに至るのです。実に5つのパンで5千人の人にパンを与えた奇跡は行われたのです。
(5)善いサマリヤ人
新約で思い出されるのは、サマリヤ人の話です。(ルカ福音書10章の30~36節)
エルサレムから「ある人」がエリコへ下って行く途中、強盗に襲われお金も奪われ、傷を負わされ倒れていました。すると、まずエルサレムから祭司が下って来ましたが、見て見ぬ振りをして通り過ぎます。レビ人が来るのですが、これも知らぬふりをする。次に来たのが、普段はエルサレムの指導者達からは馬鹿にされているサマリヤ人でした。ところがこの人が傷を負った「ある人」にオリーブ油とぶどう酒で応急手当をして、宿まで連れて行き、デナリオン銀貨2枚を出して、この男の面倒を見てやってくれと依頼するのです。帰りにまた立ち寄ると言って立ち去りました。本来は「隣人」であるべき神殿関係者2人が「隣人」であることを拒否したのです。イエス様は、傷を負ったある人の「誰が隣人となったか」と問うのです。
考えてみますと、サマリヤ人が隣人となれたのも、エルサレムとエリコの間の人里離れた辺境の地であったからだと思います。そして「ある人」は、2、3日後にサマリヤ人との再会をどれほど待望したであろうと思うのです。
傷ついた人々の為の救いの業は、神の居まし給う神殿でこそ行われるべきなのに、神殿から離れたところで、神の民と程遠いと思われたサマリヤ人によってなされているのです。これは「隣人」関係の成立について、初代の信徒の抱いていた考え方をよく表していると思います。
(6)イスラエル民の離散(デアスポラ)
ローマ帝国支配の紀元前2、3世紀の頃からユダヤ人はパレスチナを離れ散らばって行きました。エルサレムの神殿のない地で困難、苦難と向き合いつつ過ごす事は、見えざる神に信頼することとなりました。初代キリスト者もこのデアスポラの人々の住む地で、さらに迫害を伴いつつ福音は広がっていったのです。辺境の地で福音の種は芽生えているのです。
(Ⅴ)「聖なる所」とは何か。それは神様の臨在されるところ一般的には「神殿」であります。しかし聖書は、本当に「神殿」「聖所」が真の「聖なる所」であるか?という問題を投げかけていることが多いのです。(Ⅳ)で幾つかの箇所を上げましたが、まだまだ沢山その様な箇所があります。スロ・フェニキアの女の信仰の話。イエス様の下に来て話を聞いたのは罪人と言われる様な人々であり、およそ聖とは縁遠いと思われていた人たちです。「聖なる所」と言われている所を離れたところで、神様の「聖なる御業」がなされることの方が多いのです。神様が不在と思われる様な寂しいところでこそ、「聖なるもの」が激しく「俗なるもの」を襲うのです。福音がユダヤ人を離れ、異邦人へと伝えられたのも辺境の地で主に出会ったからではないでしょうか。そして、辺境の地の住人の異邦人に福音が伝えられることが、全人類の救いとなったのです。
辺境というのは必ずしも空間的・地理的な辺境をいうのではありません。自分がいつも中心あろうと思わず、低く、苦しみを担い、真実を求めるとき人は、自ずと「寂しい所」「人里離れた所」に立たされるのです。そこがその人の辺境の地であり、そこに於いて神様の恵みが示され、その場所が「聖なる所」なのです。
仕事をする人はその職場で、主婦は毎日為したことが目立たない平凡な家事の中に、生徒はその学びの中で、「寂しい所」に出会い、神様の助けを求める祈りをする時、サマリヤ人の姿をとったキリストが現れ、隣人となり、救いの御手を差しのべて下さるのです。
イエス・キリストは何処に居られるのでしょうか。イエス様は「あんな所からろくな者が出ない」と言われたガリラヤの出身であります(ヨハネ福音書7章41節)。「暗黒の地、ナフタリの地、異邦人のガリラヤ」(マタイ福音書4章15節)とまで言われた所で福音を述べ伝えたのです。それはエルサレムから遠く離れた辺境の地でした。
イエスの生涯は何処で終えられたでしょうか。エルサレムの門の外でした(ヘブライ13の12)。「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」と叫ばれて息を引き取られたのです。聖所とは程遠いところでした。
はじめにキリスト教愛真高校が出来るまでの事を話しましたが、そのような経緯の中で愛真高校が日本の中央でなく、最も辺境の地に建てられたことは実に感謝です。イサクが豊かさが残る町のゲラル、さらには肉鍋のエジプトではなく、追われ追われてたどり着いたベエル・シェバの荒野で、神様の恵みを得ているというところに深い神様の摂理があったのです。そして、イエスの恵みと御業も必ず辺境の地にて顕わされることを、私は愛真の地で確信させられました。
辺境の地で神様は真の教育をされる。不自由と思うその事の中で、神様は私たちに恵みを与えて下さる。その様なことを感じました。
九重聖書集会2009 講話Ⅱ 2009 8.9(日)
ガリラヤ湖畔の沈黙
ヨハネによる福音書21章1~20節
NW
1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2
シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4
既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5
イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7
イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8
ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 (ヨハネによる福音書21章1~8節)
ヨハネによる福音書は本来20章で終わっていたというのが通説です。それは20章30、31節が、この福音書が書かれた目的とも言える言葉であり、一度締めくくられているからです。ですから21章は誰かが後で書き加えたか、ヨハネが付記として書き足したかであろうと思います。
20章には、キリストの復活の知らせがマクダラのマリアによってなされ、弟子たちの驚き、マリアの喜び、そして弟子たちに姿を顕わされ「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われて聖霊をお与えになったこと。それとトマスの疑いについて書かれています。
でも21章は、復活のイエスに出逢った弟子たちは、喜んで立ち上がったのではない様な書きぶりです。その事について今日は考えてみたいと思います。
場所はティベリアス(ガリラヤ)湖畔、時は夜です。ここには7人の弟子がいたと書かれています(ペトロ、トマス、ナタナエル、ヤコブとヨハネ、その他に二人)。そこには重苦しい空気に支配されている感じがします。ペトロが「漁に行く」というと、特にやることがないから「わたしたちも一緒に行こう」とついて来たという感じです。その結果は一匹も捕れませんでした。ガリラヤ湖畔に沈黙が続いたのです。
この時までにペトロたちは復活されたイエス様に二度も出会っているのに、喜びに満たされていない。イエスの弟子になる前にしていた漁師に戻ろうとしているのです。
何故でしょうか。イエス様がおられなくなって弟子たちにぽっかりと穴が空いたような思いと同時に、イエス様が十字架に掛かって殺されるという時に、自分たちは何と申し訳ないことをしていたのだろうという自責の念に陥っていたのでしょう。
考えれば考えるほど、自分たちはなんと不甲斐ない者であったか!
●「誰が一番偉いか」と言い合って、イエス様に注意され、たしなめられたこと。
● 母親が頼んだことにはなっていますが、ゼベタイの子のヤコブとヨハネは「イエス様が王座についたときには、右と左において下さい」というのは、右大臣と左大臣の地位を与えて下さいと頼んだのです。それに対して
22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23
イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」(マタイ福音書20章22、23節)
ヤコブもヨハネも、イエス様が十字架に掛けられる少し前に、自分が「できます」と言ったことで、イエス様に会わせる顔がなかったのです。
● ペトロはもっと深刻でした。
ルカ福音書22章31~34節、54~62節に書かれているように、ペトロは「牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とまで言い切ったのです。するとイエス様は「鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われ、その結果はイエス様の予告通り、三度も、あのイエスという者と関係はないと言ってしまったのです。
ですからペトロは、イエス様の眼を避けたい気持であったと思います。「もう自分なんか弟子の資格は無い。人間をとる漁師にはなれない」。その思いが「わたしは漁に行く」という言葉にあったと思うのです。ほかの弟子たちも同じ気持ちであったと思います。
そのような弟子たちに近づき「網を下ろしてみなさい」と言われたのです。引き上げることも出来ないほどの大漁でした。主の愛しておられる弟子(ヨハネ)が先に「主だ」と分かったのです。それを聞いたペトロも「主だ」と分かり、裸で主の前に立てないと思い、上着を着て、どうしたら良いか分からず海に飛び込んだというのです。
この様な弟子たちに対して、本当の弟子となるため、イエス様の教育は続きます。
9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10
イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12
イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。(ヨハネによる福音書21章9~14節)
復活されたイエス様が、何かしら近寄りがたい思いでいるところへ、イエス様の方から近づいておられるのです。そして、イエス様が焼いた魚を食べるというのは、共に会食し、心を開いている事を示されたのではないでしょうか。
この出来事はルカによる福音書5章1~11節の「弟子の召命」の記事を思い出させます。そして再び、「神の国を伝え、人間を捕る漁師になる」ために立たせようとされているのです。
さらに、ペトロとの会話は続きます。
15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16
二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。20
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
(ヨハネによる福音書21章15~20節)
15節に「シモン、わたしを愛しているか」とありますが、ここで使われている「愛する」という語(ギリシャ語のアガパオーという動詞)は、神の愛、信仰からでる愛を指す言葉です。その聖なる愛で私を愛するかと尋ねているのです。
それに対してペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。今までのペトロの態度に比べるととても謙遜です。しかしこの場合に彼がイエス様に対して使っている「愛する」という語はフィレオーというギリシャ語で、人間的な心情的な意味での「愛」であります。
人間的な愛情は、有限であり、相対的に生きる自己から出るものであり、無限に続く保証はない。しかし聖霊によって与えられる、信仰に基づく愛(アガペー)は、神が絶対であり無限であり給う故に、普遍であり完全であります。その神の愛(アガペー)を持って愛するかと尋ねるのです。
16節に二度目に同じく、神様はアガパオーで尋ね、ペトロはフィレオーで答えます。
17節では、三度目は弱いペトロの所まで降りてこられて、ペトロの使っているフィレオーの語を用いて「わたしを愛するか」と尋ねておられるのです。 私たちの大祭司にあられるイエス・キリストが、わたしたちの弱さを知り憐れみ給うお方であることを、この対話から教えられます。
この様にイエス様が「知らないと言うであろう」と言われ、鶏が鳴く前に三度も知らないと言ってしまったペトロです。後悔と自責の念に押しつぶされて、ガリラヤ湖畔で沈み込んで佇み、沈黙する弟子たちの所におりてこられて、キリストの愛を注いで下さっているのです。その愛の極みは「友のために命を捨てる。これより大いなる愛はない」という事実です。
そして、ペトロが裸でイエス様の前に出られないところに問題がまだ残っているのです。エデンの園でアダムとエバが、取って食べるなと言われていた木の実を食べた後、裸では神様の前に出られないと思い、木の葉で覆ったとあります。裸のままイエス様の前に出ることが出来る者でありたく思います。
〔まとめ〕
ほかの弟子はいざ知らず、ペトロはあれだけはっきりと「どんなことがあってもあなたに従って参ります」と言ったそのすぐ後に、三度も「知らない」と言ったのです。主に出会って益々自分は弟子に相応しくないという思いが募ってきた。それが「わたしは漁に行く」という言葉の中に現れているのです。この様にイエス様から離れようとするペトロの前に、復活された主は立たれたのです。
そして、ベテランの漁師であるはずのペトロたちが一晩かかって一匹も取れなかったのに、不思議なことに網も破れんばかりの大漁に、弟子たちの眼は開かれて「主だ」ということは分かったのです。それなのに「主だ」という者はいない。一言もペトロ達を責めないイエス様の前で、湖畔の沈黙が過ぎて行きます。
弟子たちの信仰がイエス様と一緒に居るときは生き生きとし、しっかりしているように見えても、ひと度イエス様が十字架に掛かって居られなくなると、ペトロをはじめとするこの7人の弟子も、この姿になってしまうのです。これは信仰ではなく自分の決意なのでしょう。
以前に藤尾正人先生が愛真高校で『イエスをつかむ、イエスがつかむ』という題でお話しされたのですが、自分がイエス様をつかむのではなく、イエス様につかまれることだけが本当に確かな事であると思います。私たちも沈み込んでしまうとき、イエス様が近づいてつかんで下さっていることに気づく者でありたく思います。
そして、復活されたイエス様と出会い、復活された霊なるイエスを食することが真のサクラメントであり、生き生きとして信じ続けることの条件なのではないでしょうか。
さらに、ペトロとの対話を通してイエス様の気迫を感じるのです。一人の弱い躓きやすい罪人としてのペトロに、愛の権威を持って迫り、彼の中から新しい決意を引き出そうとしておられるのではないでしょうか。そして沈んでいるペトロにイエス・キリストの愛を注いで、三度「わたしの羊を飼いなさいと」と繰り返しておられるのです。ただ頑張れではなく、使命を与えて。
九重聖書集会2009 講話
2009 8.9(日)
試練について
コリント人への第一の手紙10章13節
HY (佐賀集会)
70歳を越え、自らの人生を振り返りますと、その時々に降り掛かってきた試練に対して、信仰的にどう対応してきたかについて,その理解を深めます。
その際、最も支えとなった聖句が上記聖句でありました。これは今日でも変わりません。
1.そもそも試練とは何か。
文語訳聖書が「試練」と訳して「こころみ」と訓読させています様に、「試みられる事です」。何のために試みられるのでしょうか。私は、キリスト信仰が本物であるか、偽物であるか、確かめられるとともに、それを通して信仰が鍛えられ、育まれるためではないかと、学び示されています。よってキリスト者には試練があって当たり前のことと、言えましょう。
2.聖書の中でどのように用いられているのか。
1、
神様より、試みられる場合~ヘブル11の17、他
2、
聖霊により、試みられる場合~行伝16の7、他
3、
人により、試みられる場合~マタイ16の1、他
4、
サタンより、試みられる場合~マタイ4の1、他
要約しますと1,2は神様からのもの、3,4はサタンからのもの、に2分する事ができましょう。されどサタンからのものにせよ、サタン自体堕落した御使いであり、神様の支配下に生かされている存在者であり、神のみを恐れ、人を恐れぬどころか支配するこの世の神、此の世の君(第2コリ4の4、ヨハ12の31)であります。要するに邪悪な霊的存在者であり、キリスト再臨時には「火と硫黄との池に投げ入れられる」(黙20の10)存在者であります。それゆえ神はサタンの勢力をも用いて神の民イスラエルは勿論、キリスト者をも審く手段として用い給いますので、サタンからの試練の中にも、神よりのものが当然含まれるでしょう。例えば、義人ヨブの試練は、神がヨブをサタンに委ねられた結果、起きたものでした(ヨブ1の6~参照)。
旧約聖書にみられるイスラエルの民の不信への神の審きも、同様であります。
このように試練は、神よりかサタンより来ることが解かります。しかも試練は人の良心から迫るものではなく、外部よりの働きかけである事も解かって参ります。神より来る試練・悪の勢力より来る試練は渾然としていますが、神の救いのご計画の下にあって、両者の関係を探ってゆきますと、主なる神の御経綸のスケールの大きさにぶち当たります。神様は、悪の勢力=この世の勢力を用いて、むしろ審き実行され、反省と悔い改めを求め給う方なのです。
旧約時代の神は、正に「わたしのほかに神はない。私は殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない」(申32の39)と、ある通りです。新約時代の今日はどうか。申し上げるまでもなく神の独り子キリスト・イエスの御降誕に始まり、十字架・復活・贖罪・信仰による義認・新生が神の救いの業です。私共に襲い掛かる試練も、この救いの業の中での出来事であり、神からにせよ、サタンからの試練にせよ、神の聖の前に生身のまま立たされ、信仰的決断が迫られるのです。
信仰が真実であればある程,試練は大きくあります。アブラハム・ヨブ・預言者・イエス・使徒達・・・歴史上今日に至るまで、それは明らかです。
サタンの試みの中で最たるものは、イエス様が経験された荒野に於ける誘惑です(マタ4の1~11)。1、肉の試練=飢え・渇き。2、信仰の試練=神を試みる・不信仰。3、この世の試練=栄華・無価値なものを求める。を取り上げる事ができましょう。これらはいずれも、私達キリスト者にも与えられている試練です。
3、問題となるサタンについての考察。
サタンは鬼神・悪しき神と化した御使いで、真の神の支配と権威の排除に労する誘惑者の親方的な存在者。しかも三位一体より成る集団であると学び、説明をしますと、サタン・悪魔(ディアボロス)・悪鬼(デーモン)=一般に悪霊、よりなる集団と私はみています。
1.
サタン=闇の世の主権者(エペ6章)、光の天使に偽装する(Ⅱコリ11章)誘惑者・扇動者・親分。
2.
悪魔=サタンの子分で活動家、神と人との間に入り込み、神と人とを切り離すために労する者で、口が悪く・非難中傷するのを得意とする。
3.
悪鬼=悪霊は、本来神々の訳語に相当し(行17の18)、悪しき思いを起こさせる、惑わす霊・悪を、罪をもたらすもの。サタンの使者。
[注:聖書には汚れた霊、人を汚すもの、等も登場しますが、これらは不潔な汚れた放埓な生活(サタンの虜にされている事)より生じるものです。尚ベゼルブルは、悪鬼=悪霊の首でありサタンの別名(マタ10の25,12の24・27他)。本来の意味は,カナンのバール神「バアルゼブブ」よりでた呼び名(列王下1の2~)で、ユダヤ人がバール神への蔑みにより用いる。余談ですが、聖書には「聖霊・悪霊」なる語はありません。聖霊は聖なる霊(マタ1の18他)。悪霊は邪悪なる霊(行19の12~他)であって、如何なる霊に取り付かれるかによって異なるのです。例えば、キリスト教会の霊に取り付かれますと、宗教的なキリスト教徒になりましょうし、無教会の霊に取り付かれますと、エクレシアにある霊と真のキリスト信仰に導かれましょう。邪悪の霊に取り付かれますと、悪人になり、サタン化します。悪鬼に取り付かれますと、サタンからの試練として現われたり、宗教的信仰に陥るのです。宗教心、神々を敬う心=行伝17章22節は、まさに鬼神の業です。]
このようにサタンは悪魔・悪鬼を引き連れて、神の救いのご計画の前に立ちはだかり、キリストの真理の福音に目覚めぬ様に、あの手、この手をもって妨害するのです。その中の最たるものが試練なのです。それ故、試練とは激しい攻撃に晒される事なのです。これにどう肉なる私達は対応すればよいのでしょうか。神は救いのご計画を実行される義にして愛なる方ですので、人を誘惑し給うことはありません。私共の信仰を試験し、検査し給う方です。
サタンは試験=試みる事はしますが、検査=良品のみを受け入れる事はしません。何故な
ら、人を悪しき中に引きずり込む事のみをする存在者だからです。これに対して神は、試験して分類し、更に検査して合格者を救いに導かれる方です。
それ故に、キリスト者には試練があって当たり前、それがないのは正に大きな試練=救い
よりもれると言えましょう。私はよく耳にすることですが、私は神様に全てを委ねていますので、試練などはなく平安な日日そのものですと言われる方に出会いますが、これこそ主の救いからもれたクリスチャンではないでしょうか。サタンは自らの支配下に安住している方には、試練など与えないでしょう。神もまた、聖霊を汚し続けるような方には、試練を与え給わないでしょう。要するに、名目上のクリスチャンには試練らしい試練も与えられず、世俗化も激しく、神との関係よりもサタンの巧みな業に操られ、神より分離されたクリスチャンとなりかねません。試練の有無によって、その中身によってキリスト者かどうか判かると言えないでしょうか。
神は独子キリストによって絶望より希望への道を開いて下さいました。同時にサタンの誘惑に陥らないように、神は常に試練をもって私共の信仰の真実性を問い給い、信仰の活性化を求めておられるのではないでしょうか。
4、サタンに出きる事、出来ない事について。
サタンはこの世の主権者であり何でも出きるかと言えば、そうではありません。出来ない事もあるのです。そのよき事例は第2コリント13章5節より学ぶことができます。
「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければあなたがたは、にせものとして見捨てられる」とあります。
パウロは自分に信仰があるのかないのか、自ら反省=試み、自ら吟味=験せば判るはずだと教えています。神頼みにしなくても、人はキリスト者であるか否か判断できるというのです。一体どうしたらできるのでしょうか。
「反省」と訳されている語、パイラゾーは主に「試み」と訳されています。(マタ4の1・3・7他多数)。他に「ためす・試練」(マタ22の18・35、ヘブ2の18、他)などの訳もあります。原意は善いものと悪いものとを選別する意味をもつ語です。それ故、反省することは、ある基準=神の言により善悪を判別する事ですから、基準さえしっかりと弁えていれば未信者でもサタンにも出来る事です。されど、「吟味する」と訳されている語、ドキマゾーは「験す・弁える・試練・識別・調べる・・・」(第2コリ8の8、ロマ2の18、第2コリ8の2、第1テサ5の21、第1テモ3の10・・・)と、さまざまな訳語をもつ語です。原意は試験して価値あるもの・善きものと認めたものを、取り出す意味をもつ語です。それ故、パイラゾーは人であれ、サタンであれ、誰にでも出来ますが、ドキマゾーは誰にも出来ません。真に善きものをのみ弁え知る者にのみ、出来る業だからです。サタンには出来ない事柄なのです。
それ故に、パウロは自分が神に喜ばれるものであるか、神の言をもって反省しなさい。そしてキリスト信仰のみに生かされているとみなされるならば、信仰の果・御霊の実(ガラ5の22~他)を取り出して活かしなさい。このことを「もし悟らないならば、あなた方は偽物として見捨てられる」と、言うのです。パウロが私共に呼びかけている親切な教えではないでしょうか。
サタンはこの世にあって何でも出来ますが、唯一つ、ドキマゾー=キリストの福音の真理を知りつつも、それを正しい(ドキマゾー)とする事が出来ず、正しからぬ(アドキモス=アは否定の接頭語)思いに至るのです。(ロマ1の28)。全てのものを識別して(ドキマゾー)、良いものを守る事が出来ないのです(第1テサ5の21)、それに対してキリスト者は、全ての霊を信じることはしないで、神から出たものであるかどうか試す事(ドキマゾー)が出来ねばなりません(第1ヨハ4の1)。それが出来なければ、クリスチャンであるかも知れないが、神が喜び給うキリスト者とは言えないでしょう。
5. 私達に求められている事。
サタンからのものにせよ、神よりのものにせよ、私達は試練に勝利してゆかねばなりません。試練が与えられる目的は、私共を活かし、神との交わりが深くされる事にあると信じます。罪赦された罪びとの私が、神の聖前にてどう評価されるかが試されるのです。それ故に、アブラハムの如く信仰の試練に勝る試練はないと、私は学び示されています。神の約束に全信頼を寄せて霊魂を委ねゆくのみです。サタンの誘惑には、神の言をもって対応し、負けて勝つ謙虚な態度で臨む以外にはないのでは、ないでしょうか。耐え忍ぶ事を学びましょう。そして、「信仰による義を受け継ぐ者」(ヘブ11の7)となりたいものです。
6.私の体験より、なぜでは解決しない。
私は19歳の時に集団検診にて肺浸潤と診断され、2年間サナトリュームにて療養、社会復帰した者です。当時の日記を読み返しますと、「これは信仰的に摂理として受け取らねばならぬのか。神は苦学生をこうまでいじめ給うのか。いっそのこと、消えてしまいたい・・・」などの記述も見られます。要するに「なぜ」こんな目に私が会うのかという煩悶です。同時に新たな模索も始まっています。「生活態度は良心的で、学校から帰れば日記を書く程度で寝ていた。食事の方も怠けることなく栄養本位でしていた。暴飲暴食をした覚えは無い。やはり摂理と考えないとかたづけようがない。もう学業の道はこの模様ではだめだ。職工としての人生を送れというのか。ご馳走を作ろうという気も出てこない。ひとりポツリと気のむくままごそごそするのみ。一人の生活で病に倒れたものの気持ちがよく解かる。悔し涙も出る。神を知る者にすら悲しく寂しく、泣き叫びたい気持ちだ。まして一般の人は・・・。今は唯羊のごとく病に従うだけだ。これ位の事、何だ。人生80年ではないか。」と自己を慰め励ましています。
休職後20日程して療養所での生活が始まりますが、「なぜ」の原因探求は続きます。結論を先に申し上げるならば、この療養中に私は回心を経験し、その後の生涯が定まる事になり、私にはなくてはならなかった試練でした。「・・・神を愛する者。・・・に働きて、万事を益となる様にして下さる事を、私達は知っている」(ロマ8の28)とある通りです。
療養中、私は聖書を通して「なぜ」と問う事の間違いに気付かされました。なぜを連発しても。問い詰めても、愚かな罪人の考える事にすぎず、なんの解決にもならず、解決される事もありませんでした。むしろ行き詰まり暗くなるばかりでした。そうかと言ってなぜの問題から逃げ出す事も出来ませんでした。
この問題でよき事例にも遭遇しました。隣病棟の個室にいた頭脳明晰な教友であった嘉村兄弟を、私はよく訪問して語り会いました。彼は喀血を繰り返す中で「神が愛なら、なぜ私をこんな目に遭わせ給うのか理解できない、神は愛ではない」と、信仰不信に陥りながら召されてゆきました。彼もなぜを問い詰めたお一人でした。
信仰上での問題解決に当たっては、「なぜ」では 解決しないのです。それでは押し寄せてくる試練に対してどう対応すべきでしょうか。私はイエスの十字架上の言「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」の聖言にて、はっと気付かされたのです。「目から鱗」とは、こう言うことかと学びました。「なぜ」ではなく「どうして・なに故に」という言葉が大切なのだと、体験的に申し上げたいのです。なぜでは出口が閉ざされます、それを回避するためには視点を換えて、広い視野から、キリストの福音に聞くという姿勢にて、「どうして・何のために」と問う事が大切なのです。自己中心的でなく神を仰ぎ、神の視点から「何のために」神は私にこの試練を、どうしてお与えになったのかという発想の大切さです。私の場合、頭ではこの試練は摂理だと解していたのですが、信仰的理解まで至っていなかったのです。
自己中心的な問い「なぜ」から開放されますと、自ずと神を仰ぎ見て、神が描こうとなされている私への世界が見えてくるのではないでしょうか。
そして新しい世界へと導かれていくのです。すると、試練=苦難についての捉えかたも大きく変化します。私の回心の発端はここにありました。神はあらゆる手段・方法をもって~病気・艱難を与えて、私共の心の扉を叩いておられるのですが、サタンのたぶらかしに会い、消されてしまいます。特になぜと問う問い方においてはなおさらです。
ヨブ記にて、エリパズは艱難も病気も全て罪の代償であり、神の刑罰と見るべきだとの見解に立ってヨブに語りかけます。不平不満はやめ、恵みと愛に富み給う主なる神に、全てを委ねて平安を得て救いを求めよと呼びかけ、「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ、全能者の懲らしめを軽んじてはならない。彼は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる」(5の17~)と、呼びかけています。この呼びかけは真理の言ではないでしょうか。義人ヨブもまた、なぜを問い続けた一人ではなかったろうか。
新約聖書になりますと、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められる時、弱り果ててはならない。主は愛するものを訓練し、受け入れるすべての子をむち打たれるのである」(ヘブ12の5~)となっています。訓練は薫陶(エペ6の4)、義に導く(Ⅱテモ3の16)等の訳語にみられるように、原意は教育する意味を持つ語です。このように試練に遭遇する事は、霊的に目覚めるために・定かな信仰を持続させるために与えられている神の恵み・愛と受け止める事が重要です。「すべての試練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブ12の11)とある通りの事が起きるのです。
私共がいつまでも肉の心を持ち続ける限り、試練は喜びとはならず苦痛・絶望の淵におかれましょう。「なぜ」でなく「どうしうて・なに故に」と発想を転換しますと、新たな発見に導かれて試練は意義あるものとなり、希望をもって耐え忍ぶ事が出来ます。「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」(ロマ5の3~)からです。すると、「主の聖意であれば、私は生き長らえもし、あの事もこのこともしょう」(ヤコ4の15)と、積極的・能動的人生となり、与えられた生命を主にあって活かしゆくのみであります。
含蓄ある内村の言葉で終わります。
「病は癒ゆるも可なり、癒えざるも可なり。癒ゆるは今暫く此世に留まることなり。癒えざるは真にキリストの許に至ることなり。我らは終に必ずキリストの許に至るべき者なり、故に今至るも後に至るも我らにとりて多く差異ある事なし。願う、神の択み給う時に此世を逝 りて彼の懐に還らん事を。
ピリピ書1章23.24節
~全集18巻P289「強いて治療を要めず」~
☆
あしあと
▼召天者記念会
3月29日(日)先輩が眠る墓地を訪ね、桜も楽しみながら召された先輩たちの記念会をもちました。
▼
無教会青年全国集会2009
5月6~7日、名古屋・金山プラザホテルで開催されましたが、松尾晴之兄が集会からの派遣により参加しました。
▼ KY姉の旅立ちを送る会
KY姉は7月7日に召天、93歳でした。福岡聖書研究会の初代主宰者田中謙治氏の五女。故MY九大教授夫人で元ピアノ教師でしたが、謙遜で主に従順な歩みは多くの人に慕われました。「ごあいさつ」参照。
葬儀の司会・進行は秀村弦一郎。
▼ 婦人会
毎月第3水(または木)曜日に秀村宅で。毎回7~8人が集まり、聖書の学びを継続しています。
☆ 編集後記
オバマがアメリカの大統領になり、我が国でも民主党による政権交代が実現、大きな変化の1年が終わろうとしています。アメリカ単独支配から多極化へと世界の情勢が変わりつつありますが、前途に明るさは見えず、アフガンや中東など戦争の噂も絶えません。
暗闇の覆う世界ですが、真に支配しておられる方は変わらぬ愛をもって導いておられます。私たちは変わらないお方とその愛に固着して来たる1年も歩みたく願います。
今年も「福岡聖書研究会だより」をお届けできること、特にNW氏、HY氏から特別寄稿を戴きましたことを感謝したいと思います。皆様のご平安をお祈りします。(秀村)
☆
集会案内
福岡聖書研究会は1932年 (昭和7年) 以来続いている聖書中心の会であります。戦前・戦中・戦後の1998年までは創始者の田中謙治様のお宅を会場にしてきましたが、1998年4月以来主としてアクロス福岡をお借りして公開の集会として今日に至っております。
聖書は神様の御心の翻訳と言えます。神様から人類へのメッセージとして人に生きる目的や、閉塞した現代の諸問題にも答えを与えてくれます。今や日本は国も人も崩れ去ろうとしております。それは真の神様を神として敬わず、自分を神とする傲慢・越権の罪の実と言えましょう。これを救う道は神様からのメッセージ、聖書の言葉に聞く以外にはありません。
聖書の使信に真面目に耳を傾けたいと思われる方は ご遠慮なくお出でください。何の資格も経済的負担も要りません。
集会名 福岡聖書研究会
- 内村鑑三の流れを汲む無教会主義キリスト教
日 時 毎日曜日10時~12時
聖書講話 10時~11時、 感話会(お茶)11時~11時45分
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ただし会場変更の場合がありますので、出席希望の方は次にお問い合わせください。
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